僕はメロスになれない - 6/8

「……先生、だけですか?」
「あいにく弟は兄と出かけてくれるような年齢じゃないんで」

待ち合わせ場所に立っている人影はひとつであったが、実はトイレとか言わないかな~というほのかな期待は見事に裏切られた。
ひどい。ひどいぞ壱くん。オレを見捨てるなんてあんまりだ。
一松先生とプライベートで約束を取り付けたのは、弁当に好みの物を入れるという建前の元、壱くんを誘い出したかったというのに。
いやもちろんいくら建前といえ約束したからにはきちんとする。一松先生が好きな料理や食材を買って弁当に入れるつもりはあるんだ。ただ、それはそれとして、壱くんとデートしたかったなというオレのかわいい恋心をどうしてくれるんだという話だ。
壱くんとでかけたいならこんな面倒なことせず誘えばいいじゃないかって? 確かにデートに保護者つきというのはあまりときめかない。
だが、オレが壱くんとデートするにあたって大きな問題が二つある。
教師と生徒、なのだ。休日に先生と歩いている中学生、どう考えてもひっかかるだろう。中学生が集団なら、部活動か買い出しかとスルーできるがワンオンワン、二人きりなんて怪しんでくれと言わんばかりだ。オレのことも壱くんのことも知らない人間からはなんとも思われなくとも、片方を知っていれば首をかしげるはずだ。しかもこのオレは赤塚中学のスーパースター、カラ松先生がこの間誰かと歩いてたよ、で大ニュースになってしまう。
かといっていつも公園で会っている松野として向かうとしよう。薬の効果は約二時間。しかも体調によって短くなったり長くなったりするのだ。遊んでいる最中、友人がいきなり成長してスルーできるものだろうか。さすがに難しいだろう。うまくごまかせたとしても目の前にいるのはカラ松先生でありさっきまで遊んでいた友人の松野ではない。怪しまないわけがない。二時間ごとに飲めばいいって? 肉体が変化するきつい薬、しかも市販されていないものをいきなり大量に摂取するのはさすがに怖い。デカパン博士からも一回飲んだら十二時間は開けるようにと釘を刺されているのだ。さすがに冒険はできない。
だがここに一松先生を投入しよう。
オレと先生が休日一緒に居たって、先生たちプライベートでも仲がいいんだねですむ。そして隣にいる少年に気づいたとしても、弟だからで話は終わる。薬で小さくならず今のままの姿で壱くんと過ごせ、なにひとつ怪しまれない。最高じゃないか。まったく、己の才覚が恐ろしいな……。
なんだかんだ兄思いの壱くんは、きっと一緒に来てくれる。
誘った時は絶対に行かないと意地を張っていたけれど、兄二人が親しくなるように応援しようって言ったらちょっと考え込んでいたから大丈夫だろう。二人きりじゃなくて気心の知れた人間がいる方が楽なのは本当だから、口から出まかせを言っているわけでもない。本当に壱くんに来てほしいのだ。
最近毎日のように話しているのに緊張するのはおかしいって? 仕方ないだろう。だっていい人だなって思われたいんだ。カラ松先生になら弟を任せても問題ないな、って。だから一松先生の前だと、よく思われたくていつもはらはらしている。こういうのどうだろう、嫌じゃないだろうか、できたら好きになってほしい、気が合うなって思われたい。
お弁当の希望を聞くのもその一環だ。好きなメニューが入ってたらうれしいし、それを持ってきた相手にも好意を持つんじゃないかって。で、できたらそのうち家で壱くんに「カラ松先生はすばらしい人格者だ」とかおすすめしてくれないだろうか。いやもちろん下心だけじゃなく、一松先生と純粋に仲良くなりたいとも思っている。そもそも赴任当初はそう思っていたのに、一方的に距離をとっていたのは一松先生だ。オレはずっと、親しくなりたいと願っていて。
だから、まあ。このお出かけをきっかけにいい方向に走り出したらなと。
思っていたのにいきなり計画が暗礁に乗り上げてしまったわけだが、どうしてくれるんだ壱くん。

「うちの弟も都合が悪いとかで。ええと、あー、気が合いますね!」
「……そーですね」

確かにこの間誘った時は、絶対嫌だと叫んでいたけど。でも来てくれると思っていたのに。というか「一緒なんて絶対無理」はまあ思春期として家族と遊ぶのは照れくさいのかなと納得するけれど「ありえない」「おまえも無理でしょ」はひどくないか。このオレを兄として遊ぶのなんてめちゃくちゃ楽しいに決まってるじゃないか。
というか一松先生だって草葉の影で泣いてるかもしれない、弟にこんなに拒絶されるなんて。
おかしいな。壱くんはなんだかんだ一松先生のことを慕っているし、渋るとは思っていたけどもっと簡単に了解してくれると思っていた。もしかして、オレが知らないだけでプライベートの一松先生はなにかやばいことがあるんだろうか。え、そんな、いったいなにが? 歩いてると必ず絵を売りつけられるとか幸せを祈られたりとかか? それくらいならここまでいやがらない気もするけど。
お兄さんのことが嫌いなのか? と以前聞いた時には、おにいさ…ん…とのけぞりながら嫌いではないといっていたんだが。破壊力があるとかなんとかブツクサ言ってたから、もしかしたら見た目によらず一松先生は鉄拳制裁派なのかもしれない。なにかあったらげんこつ、で育ってきたから友人の前でされたら恥ずかしいとか。年齢が離れているから兄というよりもう一人の父親のようなのかもしれないな。特に今なんて本来一人暮らしの一松先生の家に転がり込んでいるらしいし。きっと頭が上がらないのだ。なるほど、その姿を見られるのが恥ずかしい、なのか。
気にすることないのにな。そういう普段見られないかわいいところを見たいからこその企画なんだし。でもそこでかっこつけたい壱くん、かわいいな。うん、どうにもオレは彼のかわいいところがぐっとくるみたいだ。年下だから子供だからかわいい、は生徒と同じだとスルーしてしまうのに、彼が格好付けたり意地をはったりするのにたまらなくなってしまう。こういうの、もしかして母性とかいうやつではないだろうか。いや母じゃないな、父性…もちょっと。兄か。兄性?

「あー……えっと、じゃあ」

さっと行って済ましちゃいましょうか。
遊ぼうという誘いはなかったことにして買い物にチェンジ、と一松先生を見てオレの口はまったく予定外の言葉を発した。

「映画、見ましょうか」
「そうですね。今からなら適当になんでもあるでしょうし」

二人でなんで、とか。目的は壱くんと親しくなるためで、一松先生はおまけで、とか。そもそも買い物だけすりゃいいのに映画とかなし、とか。わあわあ騒ぐ内心をがつんと殴って黙らせる。
だって、なあ。
だって見えてるんだ、先生の鞄から映画のチラシがどさっと。映画見たいんですなんて一言もいわず、というより約束した日から今顔を合わすまで楽しみにしてるそぶりかけらも見せず。
それでそんな、調べてきました! みたいな。オレが映画っていわなかったらどうするつもりだったんだこの人。適当になにか、ってそのチラシの束、映画館行ってのきなみ持ってきただろ。コンビニとかでで雑誌見たら公開中のざっと見られるし、ネットでもいいし、そもそもオレが他のこと提案してたら全部無駄なのに。
え、めちゃくちゃ楽しみにしてくれてたのかもしかして。
あんなに、誘われたから仕方ないみたいな空気出しといて? 日曜日忘れないでくださいねって言った時はため息とかついてたくせに?? 壱くんからも「兄貴はあまり社交的な方じゃないから」って言われてたんだぞ。今だってにこりともせず全然楽しそうじゃない。なのに。
そういえば待ち合わせ、壱くんもいるしって五分前に来たのに先生は涼しい顔で待ってた。もっと前からここで待っててくれてたんだ。
なあ持ってる鞄、かなり新しくないか? 靴もぴかぴかして新品みたいだ。きれいな紫色のニットは毛玉の一つもなく、普段のよれた白衣との差がすさまじい。
そりゃジャージにつっかけみたいな格好でくるとは思わなかったけど、でもなんかこう、気合いが入っているというかこの日のためにがんばりました感というか。それとも同僚と出かけるならこれくらいふつうなんだろうか。いかした革ジャンとクールなジーンズというオレのパーフェクトファッションの方がTPOにそぐわないとか。
いやでもやっぱり気合いが入っているよな。アイロンかけしたくないから形状記憶シャツ買ってるって言ってたの覚えてるし、ネクタイもよれてるじゃないかいつも。そんな人のプライベートがこのかっちりしつついかした服、はない。きれカジってやつだろ、これ。似合っているけど普段の言動からは想像できない。
まじまじ見ていると、なんですかと問いかけられる。すまない、見過ぎてしまったな。いくらプラスの視線でも見られている方の居心地はよくなかっただろう。

「いや、なんかいつもと違うから」

かっこよくて驚いちゃいました。
さらりと伝えるつもりが、慣れぬせいか唇でひっかかった。
いやでも本当に、オレのパーフェクトファッションと方向性は違うがよく似合っているしかっこいい。今日のためにおしゃれしてくれたのもうれしいじゃないか。

「かっ、……っこ、いい、とか」

ぶわりと音がしそうな勢いで顔が真っ赤になる。火でも噴きそうだ。照れている相手を見るともっと伝えたくなるのはなんでだろうな。愛らしいと思うからだろうか。オレの言葉に反応してくれているとリアルにわかるのがうれしいのかもしれない。

「かっこいいですよ。一松先生、今日の格好すっごい似合ってます」

いつものも悪くないけど、オレと出かけるために着てきてくれたの最高にいかしてる。
妙に心がふわふわする。浮かれる気持ちそのままに伝えれば一松先生は、顔を覆って座り込んでしまった。

「……勘弁してください……破壊力……誉めが過ぎていっそ物理……」
「ど、どうしたんですか!? 立ちくらみ? あっ、腹がすいたなら先にごはんに」
「いや、そういうんじゃないんで」
「でも先生、冷や汗がすごいですよ。しんどいならまた日をあらためて」
「全然! すっごい健康なんで!! 元気すぎて朝から十キロ走るレベルですし水風呂入っちゃうし昨日から興奮のあまり寝れないし早くつきすぎてこの辺歩き回ったからどこに猫がいるかとかすげえわかっちゃったし!!! ね!??」
「う、うん!? よくわからないが元気なのはよかったな!??」

勢いよく話されすぎて耳から全部出てしまった。とりあえず元気と言うことらしいのでよかった。あとなんか猫がどうこう聞こえたからもしかしたら猫が好きなんだろうか。そういえばネクタイの柄、謎だと思ってたけどあれ猫の足跡なんだろうか。なるほど、抽象的な丸と思っていたが口に出さなくてよかった。

「あ~、ええと、じゃあせっかくだしその猫のやつにしましょうか」

鞄からはみ出てるフライヤーを指させば、立ち上がりかけていた一松先生はおもちゃのようにびょんと飛び跳ねた。大丈夫か、ちょっと反応が勢いよすぎないかこの人。別に悪い印象はないけど、こんなに驚きまくって心臓は持つんだろうか。

「ねねねねねこのやつ!?」
「映画。調べておいてくれたんでしょう? ありがとうございます。先生も楽しみにしてくれてたのうれしいなぁ」
「たっ、楽しみとかそういうんじゃなくてあのなにをするとか決めてなかったしだからその当日適当にとか無理だからそれで」
「一緒ならなんでもいいと思ってたから具体的なこと決めてなかったの、うっかりでしたよね。なにがしたいかわからないから聞いて決めようと思ってたんですけど」

壱くんのしたいこと、好む場所、全部教えてもらおうと思っていたから決めなかったけど、確かに当日いきなり聞かれても戸惑うかもしれない。見たい映画ひとつとっても、上映時間だの上映館だのいろいろあるんだからこれは本当にオレの気遣いが足りなかった。さすが一松先生、気遣いの人なんだな。
未来の義兄に尊敬のまなざしを向ければ、そんな目で見ないでほしいと顔をそむけられる。そんな目ってどんな目だ。というかまだ汗がとまっていないんだけど大丈夫だろうか。本当に体調は問題ないのか。このまま遊んで明日ちゃんと出勤できるのか。

「……ほんと大丈夫なんで。ただ」
「ただ!?」
「あー、だからその」
「気を使わずなんでも言ってくれ! しんどいならおんぶしようか!?」
「だからそういうんじゃなくて! えー、あー……こう、いうの、あの、あんまり慣れてなくて」

真っ赤な顔の告白に、そうだろうなとしみじみうなづく。
これでめちゃくちゃ慣れてますと言われたら戸惑ってしまう。
というかわざわざ言われなくとも、ちょっと一松先生と関われば彼が人との交流に慣れてないことなどすぐわかる。人見知りは本当で、先生方と話しているのは単純に慣れで、生徒も距離が近いタイプは腰が引けている。保健室にしょっちゅう顔を出す生徒たちとはそれなりに親しく話せても、廊下で声をかけられたら肩を跳ねさせている。話しかければ答えるけれど、自分から話題をふるのは上手くない。人嫌いでも話題がないわけでもないけれど、自分から積極的に絡んでいかない。
そんな一松先生が、なにかを伝えようとしているという事実だけでぐっとくる。オレのあふれんばかりの教師パワーに感銘を受けたんだろうか。任せてくれ! 最近気づいたが、オレは母性も父性も兄性もかなりのものらしいぜ!

「……と、友達と出かけるとか、ないから」

ぎゅわん。
ありえない音が胸からした、気がした。
いやいやいや待て。違う。おかしいな? なんだか心臓が跳ね上がりすぎてねじれて腹の底におさまってしまった気配がする。下腹でどんどこ打ちすぎてなんか太鼓たたいてるみたいだ。盆踊りは時期が違うぞ。

「それでちょっと、あー、緊張、しただけ、で」

赤く染まりじわりと汗ばんでいるこめかみ。苦虫を噛み潰したみたいな顔で、視線はなにを探しているのかあらぬ方向をうろうろさまよっている。手は握ったりひらいたり、せっかくのいかしたセーターがひっぱられすぎてどんどんよれてきている。懸命に言葉を探しているのだろう、とぎれとぎれ、聞きづらい声はのどをふるわせて。

「しんどいとか、そういうんじゃなくて。あの、だからつまり、ええと」
「ともだち」
「あっ、いやその松野先生がそう思ってるかどうかわからないのにすみませんごめんなさい違うおれが勝手に、いやあんたもそう思ってくれてると、ってだからあのほら鍵とか預けるしその」

腹の中、内蔵が全部ねじれてじたばたしている気がする。落ち着け、元の場所に戻ってくれ。でないと浮き足だってなにを口走るかわからない。
顔はいつもどおりクールだろうか。声はちゃんといかしたギルティボイスに聞こえるか。一松先生が友達って言う、オレだろうか。

「うれしいぜ」

大丈夫。震える唇から飛び出したのは、いつも通りの最高のオレ。

「一松先生に友達と思ってもらえるなんて、最高の気分だ」

ねじれてねじれてねじ切れたら、元の場所に戻れない。
どうしよう。壱くん。

 

◆◆◆

 

思い返せば兆候はあったのだ。あちこちに。
なんで毎日弁当持参で突進したのか、見かけるたび話しかけたのか、マミーに断られたからといって自分で弁当を作ってまで保健室に押し掛けたのか。
壱くんのことを聞く、壱くんとの仲を後押ししてもらう。そんなことを言いながらちっとも壱くんの知識は増えていない。壱くんの好きな食べ物も、テレビ番組も、マンガも、ゲームも、服装も。
松野として壱くんに聞けばわかるから、と一松先生には何一つ聞かず。そのくせ先生が野菜から食べるんだなとか、お茶はほうじ茶派だなんてことには気づいてて。
弁当なんて作らなくてもよかったんだ。オレは元からホカ弁派で、たまにコンビニで、出前を誰かが取ると言えば便乗するくらい。なのに弁当派みたいな顔をしたのは、一松先生に食べてほしかったからだ。自分のつくった料理を。
きっかけに、と持参したマミーの弁当をうまいと誉めてくれたから次の日も持って行って。家庭の味に飢えているとうれしげに食べるからやめることができなくて。もう面倒だからこれからは自分で作りなさいよと言われ、おっかなびっくり茹でたゆで卵。固ゆで食べやすいですよねって言われて喜んだ時点で気づけよ、鈍いんじゃないかオレ。そんなところで恋愛小説の主人公っぽさを発揮しなくていいんだ。
ほうれん草のおひたしも、甘い卵焼きも、里芋の煮っ転がしも。メインの肉は前日の残りをつめたからマミー作だけど、間につめこむのはオレが四苦八苦しながら作ったおかずだって知ったら一松先生どんな顔しただろう。驚く? 笑う? すごいって感心する?
おいしい、もっと食べたいって言う?
メイン以外の細々したものばかり食べるのは、好きだからだろうか。オレの料理が口にあうのかもしれない。松野先生お肉好きでしょうし、ってメインを回してくれるのも優しい。
ああ、なんてバカだ。鈍いにもほどがある。
あの時点でめちゃくちゃに惚れてるじゃないか。一松先生のことばかり考えてるんじゃないか。
言い訳をいくつも考えて、二人きりにびびって壱くんを巻き込もうとして。
ごめんな壱くん。大好きだ。キミへの感情は今ならわかる、好意。かわいい、幸せになってほしい、大好き。愛しい生徒たちに向けるものと同じ、愛情だ。たまに誤作動を起こす心臓のせいで恋と間違えてしまったけれど、自覚した今なら似ていて否なるものだと理解できる。
キミを巻き込んだから罰が当たったんだろうか。いや、関係ない。壱くんがどう思っていようと、オレがなにをしようと、この結末は決まっていたんだ。
だって友達って思っているんだ、一松先生は。
ろくに口をきかず、遠くからにらみつけてきたりオレのこと嫌ってるみたいな態度とったり、人見知りで不器用でどうにも生きづらそうな一松先生が、オレに。一生懸命、せいいっぱい、真っ赤になって声を絞り出して必死に。
友達と遊ぶのがめったにないから緊張したって。
きっと先生、本当にオレのこと好きで友達だと思ってくれててこれからも仲良くしたいから言ってくれたんだ。だって友達と遊ぶの慣れないなんて、これまで友達の一人もいませんでしたって告白と同義だ。言いづらいだろう、ただの同僚に言うことじゃない。自分は友達がいません、って堂々と言える人間はいるだろうけれど一松先生はそうじゃない。それくらいはわかる。
なのにあんなに、オレに伝わるように言葉を選んで。
楽しみにしててくれたんだ。なにしよう映画がいいかなどれが好きかな。オレのこと考えて一生懸命。服だって靴だって、きっとこの日のためにコーディネートしたに違いない。オレもした。先生、オレもオレが一番輝くようにいかすファッションを選んだんだ。一松先生と出かけるの、本当に楽しみにしてた。先生の好きな料理を弁当につめようと思ったのは嘘じゃない。おいしいって言ってほしかった。言われなくても、もりもり食べる姿を見たかったんだ。
好きだと気づいたとたんに失恋なんてスピード解決にもほどがある。
ああ、鈍かったなぁ。もしかしてオレがもっと早く気づいていれば、気持ちを自覚していれば違っていたんだろうか。
いや、どちらにしろとれる手段はかわらない。きっとオレは親しくなろうと接点を増やしただろうし、弁当を持参しなくても一松先生の顔を見たくて保健室に通っただろう。警戒する猫のような姿にだってかわいいと思い、一緒に出かけようとなんとか理由を付けて誘い、友情を抱かれ友達だと言われるのだ。

「……どうしよう」

決まっている。これからも昨日までと同じように、一松先生のよき友達として振る舞うのだ。別になにも特別なことをしなくていい。無自覚の恋情を抱いていても先生には友情として伝わっていたのだ、下手に意識してあれこれする方が怪しいだろう。
当初の目的のままだ。壱くんと知り合うもっと前、一松先生と初めて顔を合わせた時に願っていた未来にきたのだ。同僚と飲みに行ったり、教育論を戦わせたり、親しくなってプライベートでも遊べたりできたら最高だなって思ってたじゃないか。同い年で共通点もあって、これはきっと縁があるんだ仲良くなれたらうれしいなって。一松先生と友達になるのは、願ってもないことだ。
一松先生は友達として悪い相手じゃない。
ちょっと動きが独特でたまに早口すぎて聞き取れないけれど、思慮深く優しい誠実な人だ。話していても楽しいし、オレがぼんやりしていてもほうっておいてくれる気の長いところもある。さすが兄弟、壱くんと一緒にいるときの空気感が近い。
だから全然、かなしむことはないのだ。そりゃいきなりの失恋はショックだが、一松先生がオレのことを友達だと思ってくれていたのはうれしいし、遅かれ早かれこの結末は決まっていたのだから。
新しい最高の友達をゲットした。
うれしい。
うん、これだ。これでいこう。これしかない。
元から恋人はいないのだからオレは失ったものなどない。逆に気の合うよい友人を得たんだ。よしよし、いい感じ。新しい友達と弁当を食べながら、失恋したんだとグチるのはどうだろう。おまえみたいないいやつを、って慰めてくれるだろうか。おれなら絶対ふらないんだけど相手は惜しいことをしたよなって。カラ松先生とならおれがつきあいたいくらいですよ、とか。
ぐ、とのどの奥から飛び出しそうになった。声が。
バカか。なんだそれありえないだろうバカ。自分の想像がありえなさすぎてきつい。ひどい。
おれなら絶対ふらないとかない。だってふられた。いいやつをってなんだ。いいやつだから友達って思ってくれてるんだ。友達だから恋心なんてなかったことにするんだ。バカ。考えなし。そもそも一松先生はオレのこと松野先生って呼ぶんだ。みんな名前で呼ぶのに。松野先生だと二人ともそうだから名前で、って暗黙の了解なのに一松先生だけかたくなに。一線ひいて。
想像の中の一松先生がもう一松先生じゃない。先生はそんなこと言わない。カラ松先生って。呼ばない。カラ松って。呼んでくれてもいいのに。
ひどい。バカ。バカバカバカ。呼べよ。名前で呼んでくれたっていいじゃないか。壱くんはカラ松先生って言ってたぞ。弟にできて兄にできないってなんだ。兄は見本にならなきゃなんだぞ。カラ松先生って呼んでくれてもいいじゃないか、友達なら。
そうだよ、友達ならそれくらいかなえてくれてもいい。別に呼び捨てでもいい。すごく親しい気がする。オレだって一松って、呼べたら。呼んでいいなら。
二人分というには大きい包みをぎゅっと持ち直す。あれで一松先生、見た目よりずっと食べるからお重がちょうどいいんだ。口の中にわしわしつめていくの見るのがうれしくて、ついつい量が増えてきて。

「……今日はやめておこう」

明日からはちゃんとする。友達として、同僚として、いかしたクールガイ松野カラ松は生まれ変わる。
だけど今日だけはだめだ。一松先生が一番好きだと言っていた手羽先がたっぷり入っている今日の弁当は、一緒に食べられる気がしない。昨日の楽しかったこと、うれしかったことがすべて、うっかり自覚してしまった恋心にさらわれ悲しみで塗りつぶされてしまう。
別に約束をしているわけでもなし、大丈夫だろう。明日楽しみにしていてくださいねと言ってもない。少し首を傾げても、仕事が忙しいのかなとか書類が残ってるのかなと思ってくれるはずだ。
幸いにも手羽先はオレも大好きだ。からあげを愛してはいるがマミーは手羽先だって最高においしい。二人分の弁当は多すぎるかもしれないが、たまにはいいだろう。食べ放題に行ったらこれくらい食べるんだから。
弁当の量の多さに言及されたくなくて一人こっそり食べた弁当は、どうにも箸が進まなかった。恋心で胸がいっぱい、とかそういう詩的なたとえ話ではない。手羽先とご飯は文句なくおいしい。問題は副菜だ。具体的に言えば、小松菜と卵の炒めたのだの筑前煮だの卵焼きだのだ。
まずい。
固かったり生焼けだったりじょりっとしたり、食べられないことはないが正直食べたくない。見た目がさほど問題ないから予想しなかったが、味が濃かったり薄かったりと素直にまずい。

「え、嘘だろ……」

マミーが作った佃煮はおいしい。手羽先も。ご飯は炊いてあるのをつめてきた。他は、自作だ。一松先生がもりもり食べていた、好きなんだろうかと思っていた副菜。
なにも特別なことはしていない。今日もいつも通りに作って。
もしかして、いつも、この味だったのか。
おいしいですと口にわしわし放り込んで、しっかり噛んでいた姿を思い出す。お茶で流し込んだりしていなかった。ちゃんと食べて。カラ松にはメインばかり進めて、自分はこんな。食べられないことはないけれど、おいしいとはまるで言えないものを。
一松先生の味覚が独特なんじゃない。カラ松と好みは近い。だって初めてマミーの弁当を食べた時、顔を輝かせていたんだ。
膝の上の弁当は半分も減ってない。
一人だからじゃない。全然箸が進まない。こんな、味のものを。毎日あんなに。

「……ひどいな」

気づくのは悲しいことばかりだ。
恋心だって、一松先生の優しさだって、カラ松に向けられる思いやりだって。
知ってももっと好きになってしまうだけなのに。
もう失恋してしまっているのに。

「ひどい味だ。ちっとも飲み込めない」

むりやり飲み込んだ卵焼きは、焦げていたのかひどく苦かった。