そこらの不幸を全部肩代わりして背負ってます、と言わんばかりに真っ青な顔色の弟が目の前で正座をしだしてすでに五分。土下座で謝り続けるのをなんとか止めただけで疲労したカラ松には、上手い会話など思いつけなかった。こういうときこそ小粋なトークで場を和ませ一松の心をほぐしてやれればいいのに。きっとイかす男ならそれくらいできるはずだ。
「……あの」
「おう! なんだ? なんでも気軽に言ってくれ」
「なんでさっきの今でそんなに明るくしてくれるの」
言うに事欠いてそれか。
確かに無理強いされて泣いてしまったのはカラ松が悪い。男らしくない。オザキならきっと、ニヒルに笑って「オイタはダメだぜ子猫ちゃん」なんて諭してくれるはずだ。いくら怖かったといえ泣くのは卑怯だった。
けれど無理矢理してきた当人が訊くことでもないよな、と思うのはカラ松がおかしいだろうか。一松もわりとデリカシーないところある。
「なんでと言われても、すんだことだし」
いつまでも泣いていても話は進まない。一松とセックスしたくないのはカラ松の身勝手であり、当初はする方向で話を進めていたのだから一松が乗り気であったのはおかしいことではない。そりゃいきなりこられたのは驚いたし、いつの間にか一松が男役をすることになっていたのは戸惑った。だけど一方的に悪者にするのは違うだろう。
この場合、記憶を取り戻すための別の方法がないか考えるか、なぜセックスしたくないのか一松に説明すべきだ。どれほど言いづらくとも。それが誠実さというものであるし、カラ松は弟にはできる限り正直にいたいと考えている。秘密にしたいのはパチンコで勝った時くらいだ。
「っ、すんで、ない」
すでに反省を終えていたカラ松がさらりと答えると、一松はぐわりと目を剥いて震える声を絞り出した。
膝の上に置いた拳も震えている。ぎゅうと唇をかみしめ、ひゅ、と息を吸ってから。まるでなにか重大な告白でも行うかのように。
「カラ松、好きです」
真っ白な顔。震える身体。よれた声はけれどまっすぐ飛んでつきんとカラ松に突き刺さった。
「ごめん、あんたが別の誰か好きになったかもって思って。イヤで。おれの、おれの恋人だったのに。あんたおれのなのに」
なにを。
一松はなにを言っている。
「思い出したら恋人に戻れるから。だから。あんたが今おれを好きじゃなくても、他のやつ好きでも、思い出したら」
「え、いや……一松、もしかして記憶が」
「ないよ。ずっとない。あんたのことやっぱり知らない。でもイヤなんだよ、カラ松はおれのじゃないとイヤなんだ」
記憶のない一松はカラ松にそういった目を向けていないのではなかったか。
好きなのはあくまでも兄弟愛で。親愛で。恋愛感情がないと思っていたから思い出さないことがカラ松は怖くて。
「でも無理矢理はなかった。ごめん。……好きなやつ、泣かすのは最低だった」
「……その言い方だとまるで一松がオレのこと好きみたいに聞こえるぞ」
「そう言ってますけど」
「え」
まさかそんな都合のいいこと。
階下で兄弟が騒いでいたことは知っている。にぎやかな声が二階まで響いてきていたから。もしかしてなにか賭けてでもいるのか。カラ松をからかって遊ぶつもりで。
それくらいのひどいことは平気でする、と理性は正しく兄弟をつかんでいるのにカラ松の本能は反旗を翻す。そうじゃない、そうじゃない。震える声ににじむ色、じっと見つめてくるまなざし、必死に紡がれる言葉。一松から伝わる感情が、まとう空気が、ここで疑えば終わりだと警鐘を鳴らす。
「好きだ」
目の前の、知らない男が告げてくる好意。
兄弟愛じゃない、記憶にない、カラ松が共に過ごした二十数年を知らない他人。同じ顔で似た名前で兄弟だと認めたけれど納得しきれていない男が、兄弟の居心地の良さと空気感と親愛の情を込めてまだなおいっそうの積み上げをしてくる。
「あんたのことが好きだ。恋人だったからじゃなくて、出会って数日だけど今ここにいるカラ松が。だから」
一松からの好意で溺れてしまいそう。
「だから、思い出すとかそういうの置いといて、あの、おれのこと。……前向きに考えてみてくれませんか、ね」
ダメだ。もうダメだ。
目の前の男がかわいすぎてカラ松には耐えられない。
だってじわじわと汗をかいて緊張で震えて言葉遣いも常より若干丁寧で。精一杯好意を持ってもらおうとしているのがあからさますぎてかわいい。なんてへたくそな示し方。好きだから無理矢理しようとして、泣かれてへこんで、言い訳ももしかして兄弟に後押しされたのだろうか。階下で騒いでいたのはこれか。不器用で重苦しくてまるで上手くない、クールじゃないイケてないイかしてない、でも一松だ。
一松が、自分自身の言葉で必死に。人見知りで卑屈で前に立つことが苦手で、いつだってクズを自任している彼が言葉を紡いで。
「オレも」
もういい。カラ松は我慢したし、がんばったし、だからもういいだろう。要は仲の悪い演技をやめればいいのだ。空気を悪くするのをやめればいいのだ。からかい? そんなもの笑いとばしてやれる。だからもう、この手をとってもいいだろう。
二人が恋人同士であるということをカミングアウトするのは事後承諾にしよう。一松は照れ屋だからきっと怒るし。
「オレも、好きだ」
勝手にこの後のシミュレーションを始めながらカラ松は一松に手を伸ばした。
恋人であった一松じゃない。今目の前の一松が。自分のものであった温もりを惜しんだわけじゃなく、必死にカラ松を求めてくれている未だ知らない体温を。
「カラ松」
ぐしゃりと顔を歪めた一松の目からほろりと涙がこぼれ落ちた。ああこれはくる。喜びであると知っているからうれしく受け止めているけれど、イヤだと拒まれこうして泣かれては心も抉られる。
いつかのおかえしでキスで止めてやりたかったけれど、今は違う場所に口づけを贈らなければいけないため、カラ松はそっと優しく親指で拭った。
「かっこいい顔が台無しだぞ」
「あんた同じ顔のくせに。ナルシスト」
「おまえだからさ」
一松の顔だからよりかっこよく見える。そう伝えたつもりであったが、急に真っ赤になった一松は違う意味にとったらしかった。
別にそれでもいいからカラ松は否定しない。
「お、え、あ、おれだから、好きに、なったわけ。同じ顔だから、じゃなくて」
確かにカラ松は自分のことが好きだがつきあいたいかと言われればちょっと考える。ニートだし養ってくれそうにないし別にキスもセックスもしたくないし。同じ顔でニートで養ってもらうのは無理だろう一松とは、けれどおつきあいしたいのだ。
これが愛でなくてなんだというのか。
「好きだよ、愛してるよカラ松」
どちらからともなく近づく唇。
もうカラ松はおそれない。記憶が戻らないかもしれない、なんておびえない。だってここにはこんなにも愛がある。二人の間にあることを確かめ合わなくともいいくらいに確信できる。
今、一松が一生懸命伝えてくれたから。自分の精一杯をさらけ出してくれたから。
過去の自分だけじゃない。ここに、今いるカラ松が好きだと記憶のない一松が告げてくれたから。
ところでこれはセックスの合図だろうか。もちろんもう記憶がどうこうなんて不安ないので拒むつもりはないし、というかカラ松としてもいけいけどんどんなのだが。どちらがどうか、はもう少し話し合いたい気もするけれどどうしてもと言われるならまあ受け身でもいい。できたら松野家ではなくラブホがいいなと思うけれど、これ流される空気だろうか。初めてはここじゃちょっと、とか言っちゃうのは空気読めない感じだろうか。おまえ初めてでもないくせに、とか思われちゃうか。いやそもそも一松が処女でない可能性だってあるのだけれど。
キスをしたことがないからこれがお誘いかどうかわからない。
新たに生まれた悩みで頭がいっぱいであったカラ松は、一松もまたいっぱいいっぱいであることに気づかなかった。告白してキスして、その後は。どこまでいっちゃっていいのそもそもキスもしていいのするよねしていいよねここまで近づいたら!
ふれる、少し湿った柔らかい感触。自分のものでない、初めての。好きな人の。
瞬間、堰を切ったように目の前の男の思い出があふれた。
◆◆◆
待って。
待ってこれなに。ちょっとどうしよう。ねえこれ。おい。
だらだらと滝のように汗をかきながら一松は至近距離にある二つ上の兄の顔をガン見した。目をあわせる勇気はなくてそろりと視線を下げると、妙につやつやとした唇が目に入り死にそうになる。
あれに今一松は口をつけた。ちょっと湿って見えるのはもしかして一松の唾液とかついちゃったからか。いやそんな最初から舌いれたりなんてことしてないするわけないけど、かさついてるのもどうかなって直前ちょっと自分の舐めちゃったりなんかしてて、べちょっとしてたとか思われてたらどうしようごめんなさいでもおまえみたいに手入れしてないからかさかさで。
違う。論点はそこではなく。
「……お、ぼえて、るか?」
一松と同じくらい真っ赤になってぶるぶる震えているカラ松が、なんとかひねり出しましたと言わんばかりの声で問いかける。
覚えている。目の前の、カラ松の記憶がなかった自分のことを一松はしっかりと覚えている。いっそ忘れていればよかったのに。
きっとおれたちつきあっていた。
きりっとしてなにを口走っているのか。願望か。そんなの全然まったくまるでない。夢マボロシだ。
恋人だった、とかない。おつきあいなんて事実皆無。一松とカラ松は正真正銘、見事なまでに清らかな兄弟である。
あの予想していた自分を殺してやりたい。違う。おまえを殺しておれも死ぬ。羞恥で死ぬ。恋人だったのだと信じてやりとりしたもろもろの記憶が全力で一松を殺しにかかってくる。
手つないでみたり、一緒に猫かまったり、さわりあいっことかなんだおまえ羨ましすぎて血尿がでそうだ。尻に指いれちゃったとかなんでおまえあの後風呂はいっちゃうわけちょっとはこのおれにもお裾分けしようとか思わないかな。
「いちまつ」
そうだ、こんなちょっと幼い声で呼びかけられていて。一松など生まれてこの方あんな呼ばれ方したことない。いつでもクソ兄貴ぶって年上風吹かせて、同い年のくせに。
「いちまつ、なあ」
つい、と膝の上についたままだった腕を引かれる。
あまりのことに意識を飛ばしかけていた一松がぱちんと瞬きをするも、目の前の幻は消えない。赤く頬を染め涙で潤んだ目でじっと見つめてくるカラ松、なんて想像上の生き物ではなかったのか。いや、この五日ほどはちょくちょく見た。あの一松の眼球をえぐり取ってやりたい。
カラ松はあぐらをかいていたから正座の一松より頭の位置が低い。目線も。つまりは意図せず上目遣いで、常は一松の姿勢の悪さからめったに遭遇できない状況で。
「オレも思い出したんだ。二人そろって忘れてたんだ、それって」
さっき、キスした。
くるくるとよく動くこの唇にキスをした。一松が、カラ松に。キスを。
「デカパン博士の薬の効力は」
好きな相手を忘れる。
思い出すには再度恋に落ちて、愛を確かめ合う。
「待って! ちょっと待って!! ダメだちょっとあの、ごめん仕切り直し!!!」
がばりと立ち上がった一松に驚いたのか、カラ松は目を丸く見開いて硬直している。あ、その顔かわいい。じゃなくて。
「だっておかしいでしょ、なんでおれ達記憶戻ってるの。セ、んんっ、セックス、してない、じゃん」
「ああ、それは確かに」
「あの時博士、思い出すには」
セックス、とは言っていない。叫んだのは十四松で、そんな感じダスって。同じことを思い出したのだろうカラ松が、こほんと小さく咳払いした。
「……愛を確かめあえた、んじゃないかな……オレ達」
キスで。
なんだそれどこのプリンセスだ。キスで生き返ったり眠りから覚めたりに並んでしまうのか一松とカラ松は。
愛とか。そんなもの、目に見えないあるかどうかわからない、でも記憶が戻ったということはつまり今この瞬間は確実にここに。
ダメだ。
「っ、ダメ。仕切り直させて、お願い」
だって一松はなにもしていない。
記憶のある、カラ松と二十数年を共に過ごした兄弟の一松はなにも。
高校時代に急に仲が悪くなった。これはつきあいだしたことを隠す演技では? ってどこのお花畑の考えた案だ、バカか。おれだ。一松だ。バカだ。単にカラ松に性的興奮を覚えて気まずい一松が態度を悪化させて、カラ松が戸惑っていただけだ。特別に好き、なんてふわふわした気持ちだと信じていたら兄とセックスしている夢見て夢精したのだ。救われない。
それまでは仲がよかったから? そりゃそうだ。大好きだ。ずっとずっと大好きで、気もあって、一緒にいることが楽しくて。そんな兄を一番裏切っているのが自分とか潔癖な十代には耐えられなかったんだよお察しください。
隣で寝るふとした時に近くにいる、それで仲が悪いのはおかしい。そうだねおかしいね一松が。少しでも傍にいたくて、でも好きだとばれてはいけないと必死で隠すために声を荒げて。
自分が推理した内容があまりに希望的観測に満ちていていっそ泣きたくなる。そうだよ。そういう人生をたどりたかったよ。カラ松を傷つけることなく、全部演技で本当はラブラブの恋人同士ですなんて最高じゃないか。
だけどそのために一松はなにもしていない。
記憶のない一松ができたことさえなにひとつ。
「仕切り直し? なにを」
「あの、だから、おれたちの記憶が戻ったってことは」
一松とカラ松の間に愛があったということだ。
そもそも、記憶を失っていたということは一松だけでなくカラ松も、一松のことを好きだったということで。
改めて自覚すればめまいがする。頭から湯気でもでているのではないだろうか。
「うん。だから両思いってことだろ」
「それ! を待って、ほしい、というか」
「なんでだ?」
きょとりと首を傾げる仕草がかわいい。幼女か。これまでもこんなにかわいかったのだろうかこの兄は。記憶を取り戻して以来、どうにも以前よりずっと、飛び抜けてかわいらしく見えて仕方ない。
今だって許されるなら腕の中に閉じこめて飴与えて頬ずりしてお返事の時はちゅーでしてね、ハイはほっぺでイイエはおでこね、うれしいときは口にちゅーだよお約束ね、とかやりたい。誰だ許さないなんて言ってるやつは。一松だ。
なんでだ。カラ松と同じ疑問を脳内で繰り返す。
そう、どうして。なにかよくわからないけれどうまいこと両思いだとわかって、キスもさっきして、カラ松は満更でもなさそうで、デカパン博士の薬のおかげでどっきりとか勘違いを疑うこともない。両手をあげて万々歳の今このとき、どうして一松は仕切り直しなんて叫んでしまったのか。
やったーラッキー、と転がり落ちてきた幸運を拾えばいいではないか。おつきあいしちゃえばいいではないか。
ふざけんなボケ。クソ。死ね。死ね甘ったれのおれ。
「……甘く見ないでほしいんだけど、おれ、引くくらいあんたのことすっげぇ大好きなわけ」
気づいて以来もう十年以上のつきあいだ。正直、一人に向けるには重すぎるし面倒すぎる感情だという自覚はある。
「それがさ、おれはなにもしてないのに棚ぼたラッキーでいきなりあんたが手に入るとか、そういうのは信じきれないっていうか」
「おまえから告白してくれたぞ」
「あれ、おれだけどおれじゃないし」
あんなぽっと出の数日と一緒にしないでほしい。そもそも出会って数日でカラ松に惚れるとかちょろすぎるだろう。もうちょっと葛藤とかなにか。そもそもあんなに気軽に兄を押し倒しちんこをまさぐれる男など自分だと一松は思いたくない。どれほどああいうことをしたくてできなかったことか。うらやましい。
「……じゃあおまえもしたらどうだ?」
「は?」
「尻につっこむのはちょっとまだ勇気がでないけど、さわりっこなら別に全然かまわないし」
「……声にでてましたかねぇ」
「ああ、うらやましいんだろ?」
お兄ちゃん神かよ。
しかもつっこむのはまだ、とかそれって最終的にはつっこませてくれるってことですかね。一松のイチモツをカラ松お兄ちゃんの秘密のポッケにインしていいってことですかね。ね。ね。
なぜかじりじりと後退りだしたカラ松をじっと見つめると、そそそそのうちな! とうわずった声が返された。
おいお兄ちゃん神だわ。マジ神だったわ。唯一神じゃん称えるしかない。
薬をひっかぶっただけの一松にこんなラッキーが山ほど降ってきて。……だから。
「仕切り直しをお願いします」
きれいに土下座をきめるとなぜだと焦った声が頭の上から降ってきた。そっと背中にそえられる手が温かい。泣きそう。
「あんたが好きなんだ、ずっとずっとずっと好きだった」
ずっとおかしいと自覚していた。だって兄弟だ。生まれてこの方一緒にいた、イヤなところも汚いところも全部見てきて全部知ってる六つ子の兄。好きになる理由がわからなくて、仲のいい兄弟だから親しみを勘違いしているのかと距離をとった。笑いかけてくれるのがうれしくて、だから好意を抱くのかとひどい態度をとった。兄貴風を吹かすか泣き顔しか見せてくれなくなって、やっとこれで兄弟愛しか持たないだろうと思ったのに好意は育つばかりで、最近ようやくこれは一松の問題でしかないと自覚できたのに。カラ松がどんな態度をとろうと勝手にこちらが好きになっただけなのだ。
まだそこなのに、これからなのに。
「だから、こんな風に手にはいるのだけはイヤだ。ちゃんとおれに努力させて」
好きだから、その感情に向き合いたい。なにかしたい。対価を払わねば我慢できない。なにひとつしていない一松がひょいと手に入れるなんて、一松自身が誰より絶対に許せない。
カラ松ボーイズとしておまえがそんな男とつきあうのは認められない。
なんかカラ松も好きって言ってるし~、あんま自覚ないまま告ってたっぽいし~、ラッキーつきあおうぜ明日セックスする~?
殺せ。おれの神にさわるな近寄るな目にはいるな死ね自分のへそ噛んで死ね。
「……わかった」
精一杯の一松の言葉はきちんとカラ松に届いたようだった。
よかった。そうだ、こうして話し合えば理解し得るのだ。これまでもこうすればよかった。そしてこれからも。
「じゃあオレががんばって一松を落とすな!」
「なにひとつわかってねえ!!」
きりりとした顔でなにを言い放っているのだ目の前のバカは。
おまえはじっと待ってろこちらが努力すると言っているのだ一松は。
「だってなぜかはわからんが一松はオレとまだつきあえないんだろ」
「さっきからおれ説明してたよね」
「でもオレはおまえとつきあいたい。せっかく両思いなんだから」
「それは、まあ、わからなくもないけど」
「まだ、ってことはいずれはつきあう気あるんだろ。仕切り直し? したいんだよな」
「そう。そこまでわかっててなんで」
「で、それどれくらいかかるんだ?」
無邪気に問われて一松は貧乏揺すりをぴたりと止めた。
どれくらい。一松がカラ松の愛を得てもよいと一松自身が認められたら。それはいつだ。いったいなにをしてどんな試練を乗り越えたら一松はカラ松の恋人である自分を認めてやることができる。
「……あんたにふさわしい男になる、までくらい……?」
いや目の前の男はそれほどすごいか? 所詮松野家の六つ子、クズでニートの世間で言うところの底辺だ。ちょっと優しくて気のいいところがあるといえ、さほどの高物件というわけではない。
一松さえも疑問をいだく期間はカラ松も理解できなかったらしい。確かにオレはギルトガイだが、などといういつもの寝言が始まってしまった。よくわからない時にすぐ自分の決め台詞(らしい。バカにつける薬はないものだと一松は納得している)を口にするのはカラ松の悪い癖だと思う。そういうところもかわいいけれど。いやかわいいをそんなに安売りしてはいけないだろう。でもかわいい。決め台詞を一生懸命考えてるカラ松かわいいだろ、ノートに候補をあげてはかっこいい響きとか難しい言葉とかで選ぶんだぞ。うん、それはかわいい。問答無用で場内一致のかわいいの固まりです。おめでとうございます。
「いちまつ」
思考の迷路に陥っていた一松は、だから反応が遅れた。
「好きだ。オレのことを考えてくれる優しさが好きだ。努力してくれるところが好きだ。一生懸命になってくれるところが好きだ。ちゃんとオレに向き合ってくれるおまえの誠実さを愛している」
ああダメだ。
だから一松は弱いのだ。愚直なまでのカラ松のまっすぐさはいつだって一松を簡単に貫いてしまう。
「オレと恋人になってほしい」
かっこいい告白までカラ松にとられてしまった。一松は土下座からのしどろもどろでかっこわるいものであったのに、ずるい。ひどい。しんどい。こんなにかわいくてかっこいいくせに幼女とか恋人になりたいに決まってるだろ、当たり前だろ、バカか。バカ。好きだ。
一松がぐらぐらに揺れていることがわかったのだろう。とんでもない爆弾を落としてきた悪魔、その名をカラ松という。
「一松相手なら、彼女役でいいぞ」
でも優しくしてくれな、あの時けっこう怖かったから。
へにゃりと眉を下げ頬を真っ赤にしてそのくせどうしようもなく幸せだ、みたいな顔で笑うとか。なんだそれ。おい。なんだ。なんで一松はつきあわないとかやせ我慢している? 誰の得になるんだ。もういいんじゃないかな。これつきあうって言ってキスとかしちゃってもいいんじゃないかな。そんであわよくばその先、夢にまで見たあれこれにオッケーでてるのは。
だから。
そんな甘っちょろい男と、大切で大事でずっとずっとずっと好きだったカラ松がつきあうのは許さないって。一松は。
獣の咆哮もかくやと言わんばかりの声を上げながら、一松は逃走した。戦略的撤退だ。敵が強すぎる。なんとか時間を稼いで立て直さなくては。
背後から追いかけてくる気配はとんでもなく楽しそうだ。たまに明るい呼びかけまでかけられる。
「いちまつ~、愛してるぜぇ~」
「うるっさいクソ松っ、おまえ開き直るにしても限度があるぞ!」
「ブラザー達は知ってて一松がそれをイヤじゃないなら、オレにおまえへの愛を後ろめたく思う理由はないからな。いつだって愛はすばらしいものだぜぇ」
「うっざ」
一松は兄弟で最も身軽だ。走る早さはチョロ松だし人外の動きといえば十四松であるが、身の軽さでいうなら一松の名があがる。猫をかまいによく行くから路地裏にも詳しい。逆にカラ松は、体力はあるが瞬発力に欠けあまりあちこちの道に入り込んだりしない。
それなのに巻くこともできず、たまに会話までできる程度の早さでしか逃げていないということが答であるということを、双方理解している。必死に走るフリをする一松も、笑顔で追いかけるカラ松も。
記憶のあるフリ、仲の悪いフリ、つきあえないと逃げるフリ。
デカパン博士の薬のような破壊力のあるものでなくていい、もっと些細なきっかけでいいからなにか。一松の意地を折るなにか。
きっとあとひと押しあればそれで。
「いちまつっ、これ以上逃げたら泣くからな!」
「え」
「泣くぞ! ふられた~って大泣きするからなオレは」
「っ、そういうのはかっこわるいからしないはず」
「泣く」
「オザキっぽくないし」
「泣く」
「カラ松ガールズもがっかりするかも」
「泣く」
「ええと、あの」
「泣くから」
「カラ松」
「好きな人泣かすのはダメだった、って反省してたのがオレの好きな人だ」
どうしようもなく同じくらいバカで意味のない、カラ松の脅迫が「なにか」だった。
だって両思いだ。好きなんだ。ここで逃してどうする。勝負どころはわきまえている。
泣くことなんて格好悪くもなんともない。本当にほしいものを逃す間抜けさに比べたら、どんなことでも。
「一松」
立ち止まり、泣くぞと繰り返すカラ松。
成人男性がそんなことを言っても単なる冗談でしかない。破壊力もなにもない。一松以外にはまったく機能しない脅し文句。
一歩、カラ松に近づいて。半歩下がる。上を見て、下を見て、ため息をついて。助けを求めるようにあたりを見回しても人っ子一人いない。猫さえも。そういう道を選んだのは無意識なのか、愕然とした顔を隠しもせずもう一度ため息。ぱん、と頬をひとつ打ったのが覚悟だったのだろうか。
ゆっくり一歩ずつ、一松はカラ松に近づいた。さん、に、いち。向かい合わせ、手を伸ばせば届く距離に立って、くっと姿勢を正したから急に目線が同じになって妙な感じがする。
くすぐったくて、胸がほわほわと暖かくて、どうしようもなく口角が上がる。
カラ松のものだった恋人の一松、なんていなかった。仲の悪いフリをする恋人同士、なんて存在しない。
だけど好きな人は、ずっといた。
そしてこれからは。
「はじめまして、恋人です」