その日のカラ松といえば、ものすごくツいていた。
普段は足を棒にし靴底をすり減らしまくっても手に入らない新規顧客が二組もとれたし、気分によって怒鳴り方を変える研究をしているとしか思えない上司はウイルス性の胃腸炎だとかで休んでいたし、娘が作文にパパ大好きお仕事がんばってと書いてくれたのだと同僚が張り切りカラ松の分の書類まで手伝ってくれた。おかげで定時とは言えないが一般的な勤め人の帰宅時間に電車に揺られることができた。これがラッシュだ。新入社員時代に数週間ほど味わったような気もするが、気づけば始発で帰宅や泊まり込みが常態化していたためとても新鮮な気分である。押しつぶされる圧力さえ天使の羽のようではないか。うん、なかなか巨大なエンジェルだぜ。
この実感から伺える通り、カラ松の勤務先はなかなかのブラック企業であった。残業ゼロ、明るくアットホームな会社です、は残業代ゼロ、夜中まで明るく数少ない同僚と助け合わねばどうにもならない会社です、だ。明るくと言っても照明とエアコンは20時で電源が入らなくなるため、パソコンの画面と三徹目以降の同僚達が乾いた笑いを振りまいて明るいのだが。
そんな毎日を送るカラ松にとって、今日この日は神様からのご褒美かと思うほどにすばらしくついていた一日だった。努力が実を結んだ、わけではない。なんせ常と変わったことはなにひとつしていないのだ。仕事に関してもっと前向きに試行錯誤すべきだと、怠惰と責めるなら責めればいい。カラ松だって入社三ヶ月まではそう考えていた。しかし高卒で入社して以来すでに干支が一周した現在、そのようなフレッシュな前向きさはとっくの昔に消えてしまった。忙しさは心意気をも殺す。
「あっちだ」
「畜生、すばしっこいな!」
神様はその怠惰さを憎んだのだろうか。
ツキにツいていたカラ松の一日の終わりは、平穏という日本語から遠くかけ離れてしまった。
電車を降りるまではすばらしい一日であった。帰り道、コンビニで飲めぬ酒でも買ってみようかと思うくらいに。祝杯はやはりシャンパンだろ、ビンゴォ~? 庶民の味方であるコンビニにはカラ松のお目当てはなかったが、からあげくんとフランクフルト両方を買うという富豪っぷりを発揮しご機嫌に歩いていたのだ。
雲行きが怪しくなったのは店の灯りが遠くなってから。月見をしながらふらふら歩いていたカラ松の前に立ちふさがった、いかにもチンピラといった格好の若者二人が無遠慮に肩をつかんできた時だ。
こいつか、そうじゃねえの写真に似てるし、ちょっと薄汚れてねえ?こんなもんでしょドブネズミ野郎が。
おいおいボーイズ、君たちおしゃべりに夢中で他人の進路妨害をしてしまっているぞ。そう注意しようとしたのは今日がすばらしい一日であったため気力が残っていたためだ。常なら無言で避けている。
おそらくそれが最善であった。意味が分からなくても理不尽でも災いは勝手にカラ松に降ってくる。そこに理由などない。上司や取引先の機嫌ひとつでそれまでの努力が無に帰すことなどしょっちゅうであるし、そこにカラ松が歩いていたからというだけで難癖などいくらでもつけられる。しかし今日のカラ松は口を開いてしまった。即逃亡ではなく、対話の道を選んでしまった。
ほんの数秒。それがチンピラに有利に働いてしまったのは否めない。
力任せにひっつかまれる左肩。唐突にふるわれる暴力。あからさまに痛めつけることだけを目的としたそれは、カラ松の腹を正確に狙った。手慣れた行動に、昔流行ったおやじ狩りというやつかと頭の片隅で考える。いやまだおやじとかそんな年齢じゃないし。ぴっちぴちの三十路だし。
ろくな抵抗もできず崩れ落ちるカラ松に、容赦なく降ってくる嘲りの言葉と笑い声。いけない。この十二年で鍛えた危機察知能力が浮かれてすっかり機能していなかった。三十六計逃げるに如かず、だ。とにかく身を隠し時間を稼げば、本当にカラ松が悪いこと以外は別の不幸な犠牲者に移行する。実際は他人の不幸をひっかぶることの方が多いカラ松であるが、だからこそその理屈をよくよく知っていた。
油断しきったチンピラ二人程度から逃れることは簡単だった。少し腹や肩が痛いが一晩眠れば問題ないだろう。予想外だったのは、チンピラが諦めず追ってきたことだ。
金目当てではなかった。気晴らしならばこうも追いかけてはこないはず。反抗しなかったから、生意気なボコボコにしてやるぜなんてこともないだろう。ではカラ松本人に原因があるパターンだろうか。十代の頃は少々おいたをしたこともあったので、カラ松が記憶していなくともお礼参りだなんだと巻き込まれることはあった。しかしここ数年はそんなこともなくなっていたし、そもそもごく平和に暮らしている。
口汚く罵りながら追ってくるから、家に逃げ込むこともできない。一応鍵はかかるが、若者が本気を出して蹴り上げれば簡単に開いてしまいそうなドアなのだ、カラ松の城は。特に貴重品もないため気にしていなかったが、こういった時は少々困る。せっかく一般的な時間に帰宅し、豪華に肉パーティーと洒落込むつもりであったのに。温かかったからあげくんもフランクフルトも、すでに熱を失っている。これ以上のタイムロスは避けたい。
こっちだ、と急に騒々しくなった方向を確認すればチンピラの人数がやけに増えていた。増援を呼ぶなんて聞いてない。これはますますおかしい。ちょっとその辺のサラリーマンに絡もう、にしては大仰すぎないだろうか。二人ならば隙をつけばなんとかなるだろうと楽観的に構えていたカラ松は、ごくりと唾液を飲み込んだ。さすがにあの人数はまずい。逃げることさえ難しいんじゃないだろうか。
結果を言うなら、やはり圧倒的な人数差は越えられない壁であった。
逃げたため援軍を呼ばなければいけなかったのが怒りを呼んだか、先程は狙われなかった顔や手足も執拗に痛めつけられる。囲まれ、作業のように踏まれ蹴りつけられたまに持ち上げられては殴り落とされる。理由もなにも告げることなくカラ松をなぶり続けるチンピラ達は、すでに足下に転がる人間になど興味を持たずゲームの話で盛り上がっていた。蹴りつけることだけは忘れずに。
なんでだ、どうしてだ。頭の中を疑問がひたすら渦巻くも、それがわかってどうなると言うんだとしたり顔でもう一人のカラ松が問いかける。たとえカラ松が原因であるとしても、人数をそろえこのような暴力を振るう奴らの理屈が果たして正当だろうか。そもそも世界はラブアンドピース。イかす男はそう簡単に暴力を振るわないものだ、オザキのように歌の力で訴える、それがイかすだろぉ? カラ松の主張はけして彼らに理解されないし伝わらない。
ああ、今日はツいている一日だったのに、最後の最後でケチがついてしまった。
チンピラ達から漂うだれた気配。すでに転がっているカラ松のことなど気にも止めず、電話などしている。今なら逃げられるだろうか、とちらりと考えるもまるで力の入らない手足にカラ松はそっと目を閉じた。気を失ったフリをしている方がましだろう。このまま捨て置いてくれれば、明日朝一に病院へ駆け込んで昼過ぎにはなんとか出社できるから。
ずれこむ仕事の算段をたてだしたカラ松の耳に飛び込んできた、鈍い音。なにか大きな物同士がぶつかったようなぼすんという音と、叫び声。一斉に尖る空気。閉じていても瞼の裏がカッと白く焼けて、光が顔に当たったのだとわかった。
罵声。重い音。何かがどこかにぶつかったのか、派手に響く高い音と重低音。悲鳴。足音。ばたばたと逃げていく複数の。
目を閉じたままのカラ松は、そっと息を詰めた。まだだ。まだわからない。おそらくチンピラ達は周囲にいない。なにが起こったのか定かではないが、とりあえず逃げていってしまった。そこまではいい。ただ、チンピラが逃げる原因がカラ松にとってプラスであるかどうかはまだわからない。だって善意の第三者が呼んだおまわりさんなら、まず声をかけるのだ。それくらい、何回も経験したカラ松はちゃんと覚えている。
「おい、目ぇ開けろ。気失ってねえのはわかってんだよ」
だから、降ってきたけだるそうな声に逆らってはいけないことも理解していた。
最初に目に入ってきたのはぴかぴかに磨かれた白い革靴。毎日磨いてるのかな、マメだな。同じく白いスラックスに白いジャケット、紫色のシャツにネクタイだなんてどこで購入したんだろう。カラ松の趣味とは少し違うけれど、こういう自分のスタイルがある格好は嫌いじゃない。
雲の切れ間、月明かりで見えた顔はおかしなくらいカラ松に似ている。
「……へえ、鏡みたいだな」
同じことを思ったんだろう。すがめた目を少し見開いた男はひゅうと口笛を吹いた。それを合図に、背後に控えていた男達がさっとカラ松を抱え上げる。
「あ、の」
「質問は後だ。俺はこんな場所でのんきにおしゃべりする趣味はないんでね」
すぱりとカラ松の声を切り捨てた男は、もう用はないとばかりに身を翻し背後の車に乗り込んだ。でかい、黒い、とりあえず高そう。縁のないカラ松にもわかる、あれはとにかく高価な車だ。ハンドルの位置が違ったりするやつだ。もしかして乗ってしまうのだろうか、人生初の外車に。ひそかに心ときめかせたカラ松は、その後ろに止めてあった白い国産車に放り込まれた。両隣に先程まで支えてくれていた黒スーツが鎮座する。
「……あの」
「説明はドンがされます」
木で鼻をくくったような返答のみで、黒スーツはカラ松にちらとも目をやらない。右を見ても左を見ても、運転席も同じ態度で突破口がない。
「どん、さんっていうのはさっきの、あの、白いスーツの人ですか」
こくり。根負けしたように肯いた左隣の男に感謝の意を伝え、カラ松はそっと身体の力を抜いた。
あの人は何者なのか、なぜカラ松を車に乗せたのか、チンピラ達を追い払ったのは黒スーツ達だろうけれど、わざわざ車を止めてでてくるほどの大騒ぎではなかった。なにもかもがわからない。けれどカラ松にとって、理由がわからない不幸にみまわれることも理不尽な行為にさらされることもすでに慣れたことだったので、今回もさらりと流した。考えてもわからない、聞いても理由は返ってこない。普通だ。いつもだ。
だけど今回、白いスーツの男はカラ松を助け、車に乗せ、説明をすると告げた。これはかなりの高待遇ではないか。
やはり今日はツいていた。安堵のあまり強烈な睡魔におそわれたカラ松は、そのまま身を任せた。
◆◆◆
「名前は」
「松野カラ松です」
「家族」
「いません」
「恋人」
「いません」
「仕事」
「会社員です。あ、これ」
就職時の面接を思い出すな、とのんきに構えていたカラ松は胸ポケットからそそくさと名刺を出し両手で差し出した。
「ご用命の際は私の名前をだしてくださったら、精一杯がんばらせていただきますので」
どの仕事も均等にがんばるべきだろうと入社すぐのカラ松は首を傾げたものだが、皆特別扱いが好きなのだと学んでからは挨拶のように口から飛び出す。ちなみに特別扱いは別にしない。カラ松の社内での権力があれば話は違うだろうが、まったくないヒラなので口出しなど言語道断だからだ。そちらさんががんばるっておっしゃいましたよね、とねちねち文句を言われる材料でしかないが、癖で名刺と共に差し出してしまうのだ。
少し目を見開いた目の前の白スーツの男は、鼻で笑って名刺を投げ捨てた。
「俺がおまえと取引するとでも?」
「あっ、いや、つい癖で……申し訳ありません」
三人は腰掛けられそうな大きなソファのど真ん中に深々と座った男は、もう一度鼻を鳴らした。鼻炎か?
「謝るな。同じ顔で胸くそ悪い」
「すっ、すみませ、あ」
「何度も同じことを言わせるな」
「申し訳ご、いや、あの……ハイ」
謝るなと言うならば、せめて座らせてくれればいいのにとカラ松は恨みがましく考えた。白スーツの両脇に一人ずつ、背後に一人、ドアの前に一人、カラ松の右隣にも一人。ボディガードをはべらせカラ松を目の前に立たせるこの映像を知っている。尋問とかするシーンだ。スパイ映画なんかでよく見た、悪いボスが小市民にひどい言いがかりなんかつけて黒スーツに殴る蹴るさせるあれ。こんなシチュエーション、委縮するに決まっているではないか。なんせ白スーツの膝に猫がいれば完璧だ。
「ふぅん……おまえ仕事できないだろ」
残念ながらこれは映画ではなくカラ松を助けてくれるヒーローもいないので、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
「ああ当たってる? なんでわかるって、そりゃ俺がシャチョーならおまえみたいに察しの悪いマヌケは雇いたくないからだよ」
「恥ずかしながら。さすが、ご慧眼の持ち主ですね」
「へえ、言い返さないんだ」
「その通りですから」
模範解答を返しているのに、どうしてか目の前の男は苛立ちを募らせている。なぜかがカラ松にはわからない。一定の仕事はできる。作業も早い。人当たりも悪くないし体力もある、嫌われにくい個性がさほど強くない外見。それなのに万年平社員で甘んじているのはこれが原因だ。
カラ松は人の感情を察することがことのほか苦手である。
一般的な会話は問題ない。同僚としてつきあう程度なら気持ちのいい男。だが、もう少し深く察して欲しい、もう少し裏を読んでそちらから提案して欲しい、がことごとく通じない。裏を読めない。営業としては致命的に、相手の要望を汲めない。一定までしか。
今もそうだ。男が苛立っていることはわかる。けれどその原因がわからない。カラ松は問われるまま、きちんと答えていたはずだ。シティホテルの一室で、最低限の手当のみで立たされたまま答える義理もない会話を交わしているというのに。
「っ、バカらしい。俺が言いたいことは一つだ。おまえは明日から俺が雇う、これは決定事項だから覆らない。ただし質問は許そう」
いきなりの展開に、カラ松は理解が追いつかずぽかんと口を開いた。
「や、雇う? あなたが??」
「そうだ。ただし俺もそう暇なわけじゃない。質問がないなら今日はこれでお開きにするが」
「待ってください! お、いや私はすでに勤め人でして、弊社は副業を禁止しているので」
「誰が副業と言った? メインだ。もちろん今の会社は辞めてくれ」
「は、いや、あの、それは」
「給料は基本給プラス手当、食事つき。出張もあるが交通費は全額こちらから支給するし公共交通機関他タクシーを使ってもいい。変則的な時間のシフト制になるが、事前の申請で多少の融通は利く。ちなみに、まったくアットホームでも楽しくもない職場だがおまえはそういうことを望んでいるか?」
つらつらと並べ立てられる条件に、カラ松は目を白黒させることしかできない。
手当ってなにか資格が必要なんじゃないか、食事って飲食店ということだろうか、でも出張でおまけにタクシーを使ってもいいだって? 後から領収書を渡してもこれはムリですと突っぱねられ自腹になるのではないのか。変則的でシフト制ということは二十四時間体制の会社なんだろうか。
というか、つまり、なんだ。
「ひ、引き抜き……?」
仕事ができないだろうとこき下ろした相手を?
「そう問われると語弊があるな。ただしおまえしかできない仕事だよ」
だから条件がいい、わかるな?
カラ松の心が揺れているのがわかるのだろう、途端機嫌のよくなった白スーツはにやにやと笑いながら付け加えた。
「ああ、業務中は制服になるな。貸し出しだから金の心配はしなくていい。当面は仕事を覚えてもらうために勉強ということになるが、会場はここだ」
「は」
「ここ。この部屋がおまえのオフィスになる」
足音のしない毛の長い絨毯、大きなソファ、ドアが二つ以上あるうえこの部屋にベッドがないということは、寝室が別ということだ。カラ松が泊まったことがあるホテルではついぞ経験したことのない仕様。
「食事はルームサービスを好きなだけ」
高級なホテルのルームサービス!
「部屋の物は酒でも煙草でも好きにしていい」
「……業務内容を、教えていただいても?」
「社外秘だから入社してからになるな」
あまりの高待遇におずおず問いかければ、逃がさないとばかりににやにや笑いが深まる。こんな動物アニメかなにかにいなかっただろうか。たしか、笑ってすぐ消えてしまう猫の。主人公に助言したり、ひっかき回したりする愉快犯。
「ただひとつ忠告するなら、おまえはすでに元の会社には戻れない。この申し出を蹴った場合、晴れて自由の身になるな、無職という」
バカなという思いとありえるかもしれないという思いが交互によぎる。やめさせて、で一会社員をやめさせられるものかという一般常識と、取引先を怒らせたからと自主退職に追い込まれた先輩の記憶。あれは先輩のせいではなく間が悪かっただけなのに、取引先にいい顔をするためだけにひとつ席が空いたのだ。カラ松の勤務する会社はそういう社風だ。
余裕綽々でカラ松の返事を待っている男。白でそろえたスーツ、白い革靴、キラキラと光るカフス。あきらかに金を持っている。ただ助けた男をこうも勧誘するなんておかしい。けれど、この申し出は本当らしいと唐松の勘が訴える。断ったら無職が決定してしまう、と。
就職活動だけは二度としたくない。それくらいならどれほどブラックであっても雇ってくれる会社にしがみつきたい。
「よろしくお願いします!」
きれいに九十度のお辞儀を決めてみせれば、きひっと歯の隙間から押し出したような声が聞こえた。あれ笑い声だったら結構引く。
「当面はとにかく太れ」
「え」
もしかしてダイエット広告のビフォーアフターだったのだろうか。あれは痩せた写真を先に写しその後太って過去の写真と偽る、と聞いたことが。
また理解が追いつかないカラ松を今度は待たず、白スーツは腰を上げた。一斉に続く黒スーツに阻まれてのばした手は届かない。
「あのっ、それって」
無人になった部屋の中、かちんと金属音が響く。
部屋のドアの鍵は、外から閉められていた。
◆◆◆
ぐ、と伸びをしたカラ松をちらりと確認した黒スーツが追加の本を机に置く。話しかけるのは迷惑になると聞いているため会釈だけして、カラ松は置かれた本に手を伸ばした。
カラ松が白スーツの男に雇われてからすでに二ヶ月が経過しているが、いまだに業務内容がわからない。
朝八時に朝食が運ばれてくるため間に合うように起き、イタリア語の勉強。昼も十二時には昼食が運ばれてくるため取り損なうこともなく、勉強に飽きればこれで運動しろとばかりに室内に運び込まれたルームランナーでひたすら有酸素運動。夕食は十九時、その後は自由時間。そのうえ十時と十五時に甘い物を出されたときは、いったいオレをどうしたいんだとつい黒スーツに叫んでしまった。いや、しかしこれはなんだ。どう考えても優雅な坊ちゃま(十代)の生活みたいじゃないか。カラ松は生まれてこの方こんな生活をしたことがない。
ひとつひとつに混乱するカラ松に、必ず室内に二人いる黒スーツはなにひとつ答をくれない。ドンにお聞きください、ドンがご説明されます。さすがに三日もすればカラ松も、「ドン」が親切な人の名前でなくボス的な意味合いの呼び名であると理解した。あれだ、マフィアのドン、とかそういう。日本なら若頭とかだろうに、外国かぶれなのだろうか。
説明してくれるはずのドンは、カラ松をホテルに軟禁して一週間後に現れた。たまりにたまった疑問をぶつけてものらりくらりいとはぐらかされる。せめてこれだけは、となぜ部屋の鍵を外からかけるのか問いつめれば、出かける前には鍵をかけるだろう、と笑われる。カラ松のいる部屋はドンのものであり、彼がいない時間は鍵をかけるのが当然だと言われれば肯くしかない。いくら説明にしっくりこなくとも、金を払っているのは目の前の男なのだから仕方ない。
なぜイタリア語ばかり勉強させられるのか。これはイタリア人相手の職場なんだろうと納得した。クローゼットの中のものはすべて制服だと言われたが豪快すぎないだろうか。そもそもカラ松は身一つでここに連れてこられたため室内の物を使うしかない。勤務時間外も制服を着てもいいものかと黒スーツに問うてもはっきりした返答は得られない。文句を言われるまではいいだろうと、最近は開き直って好みのテイストの服を選んでいる。カラ松の部屋はどうなっているのかだけは、聞く前にドンから答があった。あの冗談みたいな部屋は解約しておいたぞ、中の物はすべてゴミに出していいと業者を呼んだ。これはあんまりでは、と思いはしたがすでに親切な人ではないと悟っていたので文句は口にしなかった。正直、捨てられて困るものも持っていなかった。学生の頃であればこだわりのパーフェクトファッションやギター、趣味のいろいろがあったのだが、社会人になってまるでふれる時間がなくなり手放しておいてよかった。あれらを勝手に捨てられていたら喧嘩を売るしかない。カラ松もアンダーグラウンドな職業の方に喧嘩などけして売りたくはない。そもそも関わり合いたくもないが、こればかりは今更どうしようもないので考えないことにする。
「なんなんだろうな」
ぽつりと言葉にしてみるとますます奇妙に思えてくる。
なんだ。この状況はなんなんだ。
ホテルに閉じこもり、週に二度ほどのドンの訪れをひたすら待つ毎日。黒スーツ以外の人間と顔すらあわさず、その黒スーツさえおしゃべりどころか名乗ることすら推奨されていない。親しくなると査定に響く、と言われれば元会社員として遠慮するしかない。
山ほどの疑問に答えてくれるはずのドンはのらりくらりとはぐらかすばかりで、どれほど今日こそはとカラ松が決意していてもワインのボトルを開けられてしまえばダメだった。今日も馬車馬のように働いてほんの少しの休憩にのどを潤すことさえ許されないなんて、神は我を見放したのか。そう嘆かれてはどうぞと言うしかないではないか。もともとドンの借りている部屋で、その室内にあるワインなのだから。口車に乗せられ一口だけなら、とつい誘惑に負けるのはカラ松のせいではあるが、ドンの口がめっぽううまいのも一役買っているに違いない。
規則正しい生活、きれいに洗濯された服、適度な運動。どんどん健康に戻っていくカラ松。
いったいなんのために彼はこんなことをするのだろう。たとえば家族であれば、兄弟であれば、こういう対応をするだろうか。疲れ果て痩せた家族を心配し、強引に休暇をとらせてあれこれ身の回りの世話を焼く。これはありえる話なんじゃないだろうか。生まれてこの方血縁を持ったことのないカラ松は、ほんの少しの憧れと諦めで想像する。そして同じ頭でありえないと判断をくだす。夢見がちな自分にそっと笑みを向ける。
兄弟かもしれない、とは最初に思いついた。健康を取り戻しだしたカラ松とドンは、ひどく似ていたから。
薄い眉とバカにしたように細められた目、ぎざついた歯。ひとつひとつを見比べれば違いが見つかっても、ぱっと見た瞬間の似ようは血縁だとあからさまに主張していて。想像は、兄弟はいないというドンの言葉であっさりと否定された。親の顔などもう忘れた、兄弟なんていない、誰も。金が欲しけりゃイタリアの路地裏でかっぱらいをしていた。大きくなれば、もっといろいろ。おまえはえらいね。違っていて、えらいね。ふわふわとした口調で甘ったるい声で、焦点をカラ松にあわせることさえできないほど酔っていた夜。彼自身の口からこぼれた過去はカラ松と兄弟ではという可能性を吹き飛ばした。物心つかない子供をわざわざばらばらにし、外国に連れて行く必要性がない。そもそもパスポートがなければ飛行機には乗れない。ではドンはイタリアで生まれたということだ。日本のカラ松と兄弟の可能性は限りなく低い。
次に、ハーレクイン小説のようだなと思いついた。エレベーターや学校や、どう考えてもいるのがおかしいところに現れる石油王や大金持ちの社長がなんの取り柄もない平凡な主人公を全身全霊で求める玉の輿。たいてい主人公は囲われ、嫉妬から行動を抑制されたりするのだ。女性心理を知ればもてるのでは、と図書館に通い詰めた知識がうなりをあげる。なるほど、確かにカラ松の現状は性別さえ違えばわりと当てはまっている。問題は、ドンはカラ松にそういったことを求めていないということだ。そりゃそうだ。なんせカラ松は麗しいレディではない。
では、とどれほど考えても他に思いつくことがない。しかし、いったいどこの誰が、単なる親切心で成人男性を一人養ってくれるのか。三食おやつ昼寝(できてしまうのだこれが)つき、ふかふかのベッドに清潔な洋服、掃除も洗濯も委託業者にお任せ。なんだこの生活は。何度でも繰り返す。なんなんだこれは。
三日で慣れ、十日目あたりから罪悪感が湧き、一ヶ月もする頃には受け入れていた。それでも解消されない疑問だけは消えない。
兄弟じゃない、カラ松が欲しい訳じゃない、では。
夜が更けてからふらりと訪れ、酒を飲んではソファでうとうとする男の求めていることはなんだ。彼が答えたいことしか与えられないと悟ってからは質問責めは諦めた。向かい合わせで酒を飲み、ぽつりぽつりと身のない話をする。楽しかったこと、好きなこと、怖かったこと、悲しかったこと。彼の人生において何一つ役立たない、いらない情報。聞いていたり聞いていなかったり、適当に流されたりひどく親身に受け取られたり。その時だけは黒スーツ達が部屋の外に移動するから、ドンが眠ってしまうとようやっとカラ松は一人になれる。
「本当に、なんなんだろうな」
彼の求めていることが知りたい。
雇うと言われた。けれど未だに業務内容がわからない。いきなり首を切られないようにと必死で与えられた課題はこなしているけれど、それだけでこの高待遇なんてありえない。その程度なら仕事ができないと罵られ続けたカラ松だってわかるのだ。
ではなにをすれば。いったいなにをがんばれば、ソファに埋まりふにゃふにゃと笑っている男の役に立てるのか。
このまま、彼と向かい合わせでずっと語り合えるのか。
「・・・・・・訊いたら教えてくれよ、せめて」
カラ松はそのためならどれだけでも努力できるだろうに。
ベッドから薄い毛布を持ってきてそっとかける。だいぶ太った今なら彼を抱えてベッドまで動かせるだろうが、揺れで起きてしまってはかわいそうだ。人相の悪さを助長する目の下の隈は睡眠で消えるのは実証済みだ。せめて目元の印象がかわれば少しはとっつきやすくなるだろう。裏社会の人間には不利かもしれないが、その方がイかしてるとカラ松は思うので気にしない。男が裏社会の人間かどうかすらわからないのだ。おそらくそうだろうと確信しているけれど。訊いても答が返らないなら、カラ松の好きにするしかない。
だから、この部屋でドンが眠ってしまった夜はカラ松は眠らない。
彼の眠りを守りたいから、ずっと黙って静かに夜空をみる。
なにをしていいかわからないから、したいことをする。できることは精一杯しているつもりなので、後はカラ松の勝手だ。そう開き直れたのは二ヶ月目に突入してから。目の前で酔っぱらいが寝るようになって六回目だった。
◆◆◆
『あれが影武者か。確かにそっくりじゃないか、すごいな! よく見つけたもんだ』
カラ松の疑問に終止符が打たれたのはホテル暮らしも七十日を越えた頃であった。
見慣れない黒スーツの男がぺらぺらともう一方に話す。そういえば今日は覚えのない顔ばかりだ。親しくならぬよう気をつけていてもしょっちゅう顔を合わす相手は覚えてしまうもので、カラ松はぱちんとまばたきをした。彼らにも声をかけてはいけないのだろう、おそらく。
『仕事中に無駄口叩いたら後が怖いぜ。ドンの恐ろしさを知っているだろう?』
『違いない。命はせいぜい大事にしないとな』
彼らはカラ松がイタリア語がわからないと考えていたのだろうか。あまりの暇さに着々と勉強を進めたカラ松は、すでに一般的な会話に支障はないまでに成長していた。そろそろ試用期間も終わる。役に立つところをアピールしてなんとか雇ってもらわなければならないから必死だ。
ここはひとつイタリア語で会話に混ざり、ドンに報告してもらうべきかと脳の半分で考える。もう半分は、先程飛び込んできた単語について。
影武者。
なるほど、納得した。なんでこんな酔狂なと考えていたけれどそれならば理解できる。慈善事業などではない。裏社会の人間であるドンにとって、顔や背格好の似た同年齢の男というものは使い勝手がいいのだろう。そういえば当初、家族や恋人の有無を問われたっけ。仕事もやめ二ヶ月以上外に出てもいない。もしかして、心配して探してくれる友人の存在を探られていたのだろうか。就職してから数年で友人とは疎遠になってしまったカラ松だが、通常ひとりふたりはいるものだろうし。
すとんときれいに解答がはまる。
これが正しい。模範解答だ。これ以外はないだろうという満点の答。ボディガードであろう黒スーツ達まで言ったではないか、そっくりだと。痩せこけた頬に肉がつき適度な運動や食事、睡眠でとりもどした健康的な肉体。ひたすらたたき込まれたイタリア語。親しい人間を作らないよう黒スーツの顔ぶれは定期的に変更されていた。
よかった。やっと理由がわかったカラ松に訪れたのは、ひたすらの安堵であった。これならわかる。理解できる。安心してこの状況を受け入れることができる。
あの人の役に立てる。
彼を守り、代わりになり、いつか命を奪われる。そのために生かされたのだ。よかった。カラ松の顔がドンにとても似ていて、よかった。話し方も、酔った姿も、葉巻の吸い方も、気の抜けた笑顔も。全部見ていた。覚えている。きっとまねできる。いつ見られなくなるかわからないからじっくり観察しておいてよかった。
これでいつお払い箱にされるかとおびえなくていい。ずっと、傍にいることができる。