はじめまして恋人ですか - 8/9

七日目。
このままではいけないとカラ松は、露骨に避ける一松をとっつかまえることにした。話し合いが必要だ。
一松と仲良い兄弟のままでいるため、家の空気を悪くしないために記憶を取り戻さないことを選んだというのに、現状雰囲気は大変に気まずい。兄弟間のもめ事にはあまり首をつっこまないチョロ松にすら「おまえがバカすぎるから言うけどバカの考え休むに似たりって言ってさ、つまり考えるだけムダってことなんだけどわかる? さっさと仲直りしろよ」と背中を押されたこともあり、どうにかしなければいけないとカラ松は無理矢理自身を奮い立たせた。ところであんまりバカって人に言わない方がいいと思うぞチョロ松。カラ松は気にしないけど本当のバカには効くからな。
ついこの間、カラ松が「兄弟として仲良くしたい」と告げ恋人的なふれあいを拒んだ時だ。あの時から一松は真っ青な顔で何かを考え込み、おどろおどろしい空気をまとっている。辛気くさいよ闇松兄さん、と叫ぶトド松の意見は兄弟の総意であるが、原因はおそらくカラ松なのであまり糾弾するわけにもいかない。
なにが違うのだろう。カラ松と一松は実際とてもうまくやっていた。問題のあの日まで、少々スキンシップ過多といえ親しい兄弟として仲良くやれていたはずだ。トド松がいい感じだと評すほどに。あのままの日々を守るために記憶をあきらめたというのに、これでは本末転倒である。なんのために恋人の一松を手に入れないことにしたのか。
話があると呼び止めれば、一松は観念したとばかりに重いため息をついた。こんな反応をされるのは初めてで戸惑いしかない。一松はもうカラ松と話すことさえイヤになってしまったのだろうか。記憶を取り戻さないままがいいと言ったから? 兄弟にばれても気にしないから?
繊細な一松にはつらい展開になるのに、彼に一言も相談せず決めてしまったから怒っているのかもしれない。確かに過去つきあっていた、強く想いあっていたとばれるのは恥ずかしいかもしれない。カラ松にとっては誇るべき過去でも、一松にはそうでないのだろう。さみしいけれどそれは仕方ない。どれほど愛していても忘れてしまっているのだから。

「なんなの。おれ今、余裕ないから。あんまり二人きりでいたくないんだよね」

つっけんどんな態度に思わず涙がにじみそうになって、あわてて瞬きでごまかす。情けないところを見られてこれ以上イヤがられたくはない。

「すまない、手短にすますから少し時間をくれないか」

似たような会話を記憶がないとお互い確認しあったときもしたのに、あの時とまるで違う。戸惑いと警戒と好奇心で占められていた一松の視線は、拒絶と諦めと苛立ちばかりをカラ松に伝えてくる。

「……そ、うごオナニーを、しよう」

勝手に小さくなる声を内心叱りつけながらカラ松はなんとか言い切った。
一松はどんな顔をしているのだろう。あきれ果てた? うんざり? できれば驚きくらいでとどめてほしい。
だってこれしか思いつかない。カラ松と一松の関係がよかった時にしていて今はしていないこと、なんて。二人密かに話し合っていたためか思い返せば距離が近かった。常に体のどこかがふれあっていた。身を隠すように路地裏で、兄弟のいない隙をみて二階のソファで、布団に隠れて見えないのをいいことに布団でこっそり手をつないだ。体の近さが心の距離であると断言はできないが、少なくとも今よりずっと近かったのだ。一松と。
ふれあって彼と以前の関係に戻れるならカラ松はどれだけでもふれる。だってあの温もりはカラ松のもので、目の前に立っている弟はカラ松の恋人で。
今は違う、まだ諦められる、忘れてしまったのだから手を離せる。
けれどそれは親しい弟が手に入る予定だったからだ。いい感じだ、とトド松がうれしげに告げるほど良好な関係の一松がいないなら、カラ松はなんのために恋人でなく弟を選んだのだ。家の空気は現在最悪の状態だというのに。

「……は? なに?」
「相互オナニー、しよう。前にしたみたいな」
「なん、なんで」

一松の目に軽蔑の色が浮かんでいたらと思うと視線をあげることもできない。怖い。
いきなりオナニーとか言い出す兄はどうだろう。おそ松がそんなこと言ってきたらカラ松は即殴る。とりあえず意識を失わせてから熱を計ってやるつもりはあるが、絶対に正気でないはずだからまず鉄拳制裁は避けられない。問いかけてくれる一松は本当に優しい。ありがとう。好きだ。
ぎゅうと握りしめた拳を見たまま口を開かないカラ松にじれたのか、一松はあんたさぁと再度ため息をついた。やっぱり今回のも重苦しい。

「同情とかほんと最悪なんですけど。なんなの、お優しいオニーチャンは弟が悩んでたら放っておけないってやつ?」
「ちが、」
「そんでなに? 相互オナニー? 思い出しちゃうからセックスはだめだけどかわいそうだからコキあいくらいはしてあげようねって!?」

どんどん大きくなる声に思わず顔を上げると、唇の端をぐいと歪めた一松の不器用な笑みが目に入った。ぎざついた歯がかちかちと鳴る。震える頬をばちんと骨っぽい手が打った。

「ほんっとあんたって」

おれのことバカにしてるよね。
きゅうと細められた目はひどく乾いていたのに、どうしようもなく泣いているようにカラ松には見えた。

 

 

痛い。
早くイけとばかりにカラ松の陰茎を擦る手は乱雑で機械的だ。無理矢理つっこまれた指は痛いばかりで、乾いた指先と爪が内蔵を傷つける。

「ほら、そんなつらそうな顔してるんだからやめとけば。イヤだって一言いったらやめてあげるけど」
「い、やじゃないっ」
「……あっそ。どこまでやせ我慢もつんだろーね」

嘲るような声に必死で返せば一転、つまらないと言わんばかりに一松のテンションが下がる。
なにがいけなかったのだろう。どこで間違えたのだろう。やっぱりわからない。カラ松はただ、一松と親しくつきあいたかっただけだ。兄弟と楽しく暮らしたかっただけだ。
恋人であることを隠すために険悪なフリをする。それをやめるなら恋人をやめるか隠すことをやめるかのどちらかしかない。兄弟に恋人であったことをばらすことだけはありえないと一松が拒否したから、選べる道はひとつだけになった。
仕方ない。少しさみしいけれどまだ大丈夫、諦められる。カラ松ならば耐えられるからかいも一松には恐怖でしかないのだろう。そもそも恋人であった記憶を戻すにはセックスが必要で、一松はそれも無理なのかもしれない。さわることはできても入れられることは無理、なんてよくある話だ。
そうだ。あの時わなわなと震えて、青い顔で、一松は問うていたじゃないか。
好きなの、と。
カラ松が自分を好きになってしまうことを、恋愛感情を抱くことを恐れているのだ一松は。勘の鋭い彼は、気づいてしまったのかもしれない。カラ松は赤く染まる顔を隠せなかった。見られないようにとっさに逃げたけれど、きっと見られてしまっていたのだ。
兄からの恋愛感情なんて、兄弟愛しかない一松には負担だろう。いくら彼がカラ松の恋人であったと言っても、それはあくまで記憶があった過去の話だ。一松がカラ松のことを好きであった過去は、記憶は、好きだからこそ失われた。今は仲のよい弟で、カラ松もそういう関係を望んで、だから。なのに。

「いちま、つ……なんで」

ひどいことをされているのはカラ松だ。
親しい接触をとれば先日までの二人に戻れるのではと起死回生の覚悟で誘ったオナニーだったのに、一方的にカラ松だけ服を脱がされ乱暴に暴かれている。
怒っている。いらだっている。それはひしひしと伝わるけれど、ではなにがこうも一松を怒りに駆り立てているのかがわからない。カラ松にはわからない。
だっておまえが誘って、あの時は楽しそうで、二人でひっついて暖かくてふわふわして気持ちよくて。あの日と今と、なにが違うのか。あの日だって記憶のない兄弟だった。今日だって記憶のない兄弟だ。あいかわらず。それなのに。
ひどい。横暴で乱雑で思いやりのかけらもない。ただただ一松の憤りをぶつけられて、それなのにカラ松が少しでも痛がれば「おれのことイヤだからでしょ」なんて手を引くのだ。おまえが好きだから、気まずい関係がイヤだからここにいるのに。こんな一方的な暴力に耐えているのに、尻に指までつっこまれているのに。
それなのにどうしてそんな、自分だけが傷ついてるみたいな。今にも泣きそうな顔をするのだ。カラ松が傷ついていないとでも思っているのか。

「なんでそんな、かお」
「顔? なに、余裕だね」

ぎゅうと股間を握りしめられあまりの痛みに硬直する。同じ男ならつらさも知っているだろうに容赦がない。
身を縮めてぶるぶる震えるカラ松に舌打ちをして、一松はやっと尻から指を抜いた。
ようやく責め苦が終わると安堵の息をついたカラ松の足がひっつかまれがばりと持ち上げられる。ぐらりと揺れた視界に自身をしごく一松の姿が入った。

「え、なに、なん。え?」
「もう挿れっから」
「え、ちょ、待ていちまつっ、え、セックスはしないって」
「うん相互オナニーって言ってたね。でもあんた尻いじくらせたじゃんおれに。同意でしょ」
「ちがっ、おまえがオナニーだって。ちんこ入れなきゃセックスじゃないって」
「そーだよ」

カラ松だけが服を脱ぐことを強要されたときも、尻に手を伸ばされたときも、あんたの望んだ相互オナニーでしょどっちも気持ちよくなるやつなんでしょと強気に出られて肯いた。男の体を一方的にさわるだけで一松は大丈夫なのかと疑問に思ったけれど、苛立ちを隠さないふれ方に、怒りを発散するためなのだと理解して。拒まず受け入れて我慢して、一松だってきっとわかってくれる。一時の怒りを吐き出し冷静になればカラ松の主張を理解し納得してくれる。これは単なる行き違いで、話し合えばなんだと笑いあえることで、またすぐにこの間までの仲のいい兄弟に。
セックスをしてしまえば記憶が戻る。
恋人に、戻る。

「だからちんこ挿れるつってんの。あんた弟とセックスしちゃうね」

本当に?

「ねえカラ松、思い出してよ」

すがるような一松の声。なにを思い出せと言うのか。一松のことを、恋人であった記憶を、愛し愛された過去をなかったことにするなと、そう。
どうして。
だって必要ないだろう。今の一松はカラ松を好きではないし、カラ松を恋人にする方がリスクが高い。兄弟にはからかわれ世間一般にはそれなりに指さされる人生だ。愛のためならカラ松はさほど気にしないが、一松は違う。彼はもっと世間体や家族からの目を気にするタイプと聞いている。

「おれのこと思い出して」

そもそもデカパン博士はなんと言っていた?
忘れた相手と愛を確かめ合うこと、だ。つまりセックス、愛の行為。だけどただセックスすれば、つっこめばよいと言ったわけではない。愛がなければそれは単なる運動で、記憶なんて戻らないのでは。
今の一松にカラ松への愛はあるのか。
ふと思いついた疑問は瞬く間にカラ松の心を黒く塗りつぶす。
カラ松への愛、なんて。出会って未だ十日ちょっと。そんな相手に記憶を取り戻すほどの力のある愛を抱くなんて、期待しすぎではないだろうか。おとぎ話ではよくあるけれど、あれはあくまでファンタジーだ。キスして生き返ったり髪の毛で塔から出入りしたり人魚に足が生えたりする、夢の国のお話。現実世界をいきるカラ松と一松にとって、今、目の前の男にそんな強い感情を抱いているかなんて。

「カラ松」

いやだ。こわい。

「いっ、いちまつ! やめ、いやだ、やだ、いや」

適当に指をつっこまれてぐちぐち動かしただけの尻の穴にあんなものつっこまれるのは当然怖いし、そもそもなにも入っていない今でもじくじく痛むし、逃げようにも同じ体型の男に上からのしかかられ股間を人質よろしく掴まれているから動けないし、すがるように優しい口調のくせにカラ松をのぞき込む一松の目はぎらぎら光ってとても怖い。言動を一致させてほしい。
なにより、思い出せないことが怖い。
だってつまりそれは二人の間に確かめ合う愛がないということだ。一松がカラ松を好きじゃないということが確定してしまう。
確かに好きあっていたんだろう、だってお互いのことを忘れてしまっている。そこまでは確実で、でもその後。どうして一松がまたカラ松のことを好きになったなんて思えるのか。
カラ松は自身が異性の心を奪うギルトガイであることを重々承知しているが、同性に関しては考えてみたこともなかったし、そもそも兄弟からそういうふうに思われるなんてただの一度も。異性へのセックスアピールがあっても同性はまた違うだろう。カラ松は女性からもてる男にひがみこそすれ好意など別に持たないのだから。そう、好意をもつならもっと、人見知りで繊細で優しくて動物の中でも特に猫が好きだったりして、たまに甘えてくるのがかわいくて骨っぽい手が格好良くて体温が気持ちよくていつまでもひっついていたいような。あくまでも例えであるが、まあそういう相手になら好意を持つ。ただ女性受けしなさそうということだけはわかる。ニートの出不精だし。
つまりカラ松は、羨まれるならまだしも好かれる可能性は低いのだ。

「やだ、いやだいちまつ。いや。いやだ」

目の当たりにしたくない。
確認しなければそれは「ある」と信じていられる。
セックスしたら記憶が戻る、と思いこんでいられる。一松はカラ松が好きなのだ、と。恋人になるほどに。
夢を見たままぼんやりと、兄弟としてぬるい温度の水の中をたゆたう様につかず離れずで生きて。
いつかちゃんと一松が恋人をつれてくる頃には、こんな気持ちも恋人であったという過去も風化してしまっているだろう。かわいい弟の幸せをめいっぱい喜んで、兄弟の居心地のいい空気のまま楽しく笑いあって。
そんな優しい世界にいさせてほしい。

「こわい」

抱えきれなかった感情が目からぼろりと落ちていくと同時に、カラ松を拘束していた一松の手が離れた。ずる、と畳の上をなにかが這う音がする。
ずる、ずずず、ずず、ずる。すー、ずず、すすー、ぱたん。
無音。ほたりと畳に落ちた水音が聞こえるほどの静寂。ふすまを閉める音がした後、階段を下りる足音は聞こえなかった。一松は身軽ではあるが、松野家の歴史ある階段はどれほど熟練の泥棒であっても音をたてず上り下りするのは難しい代物だ。
投げ出されていた服を身につける。こうして一人身支度をするのは二度目だけれど、あまり楽しいものではないなとしみじみ考えてカラ松はそっとふすまに目をやった。
きっといる。いやだと口にすればきちんとやめた弟は、廊下で反省しているに違いない。もしかしたら泣いているかもしれない。ぱ、とカラ松から手を離した瞬間の顔は見ていない。声も聞いてない。でも、ずっと泣きそうな顔をしていた。カラ松の上に押しかかって好き放題しながら、迷子の子供のように不安げな顔をして。
気にするなと一声かけてやれば安心するだろうか。
おれは大丈夫だと、驚いたからイヤだってつい言ったけれど本当は違う、イヤじゃないよおまえとセックスするよ、と。
だけどそれだけは言いたくないからカラ松は黙ったままふすまににじり寄った。ずりずりと似たような音がする。
背中を預けるとほんの少しふすまががたついた。廊下からはうんともすんとも聞こえない。
セックスしたくない。おまえとセックスしたくないんだ一松。だって確かめ合う愛がないなんてつきつけられたら、カラ松はきっと泣いてしまう。
記憶が戻らなければ愛もない、わかりやすすぎる事実は時に人を傷つける。一松がカラ松を好きじゃないとはっきり提示されることだけは避けたいのだ。泣いてしまうのは格好悪い。せっかくいい兄弟としていられるのに、情けない兄だと嫌われたら踏んだり蹴ったりじゃないか。なにもさわらず、ふわっとしておけばそれでいい。一松はカラ松を好きかもしれない、セックスをすれば記憶が戻る。そういうおとぎ話を信じてそっと毎日を過ごさせてほしい。
一度自分のものだった彼を諦めるのだ。欲しい、と思ったけれど手を離すのだ。じゃあそれくらいのわがまま聞いてくれてもいいだろう神様か誰か、そういったポジションの人。ああ人じゃないな。神様仏様、ええとなんだろう。
だからカラ松はけして声を出さない。一松に優しい言葉をかけない。
ふすま越しでは体温などかけらも感じられない。きっと廊下に一松はいるのに、存在は階段を下りる足音がしなかったからなんてあやふやなもので。これも同じだ。セックスすれば記憶が戻る、と同じ。本当かどうかなんてわからない。でも確かめなければそう信じ込んでいられる。
カラ松は絶対に一松とセックスなんてしない。

 

◆◆◆

 

「泣かせるって最低だよね」

トド松からの言葉であればいくらでも反論できたしチョロ松の発言であればそんなこと言ったってと拗ね混じりに言い訳したしおそ松が口にしていればあんたが言うことかよとたてつけた。

「俺、好きな子にはずーっと笑っててほしーんだよね」
「うっす」
「兄さんは?」
「大変もっともなお話だと思います」

ただ十四松からだけは、あまりの言葉の正当性と重みにまっすぐ受け止めるしかない。
バランスボールに乗った十四松の前に自主的に正座をしている一松の背後、松野家の居間では残る三人が大っぴらにこそこそ話をしている。少しは声を潜めろ。一松の悪口はいないところでお願いします心が痛い。

「なんなの、なんのドM儀式なの今度は」
「それがさ~、どうも一松が十四松怒らせたらしくって」
「えっ、なにそれバカじゃん。十四松兄さん怒らせたとかあきらかに一松兄さんが悪いやつでしょ」
「なにしたの一松。ヒジリサワショウノスケコレクション勝手に売っぱらったとか?」
「あれあんまり高くで売れねえよ」
「やったことあんのかよ救えねえな、おまえほんとに長男かよ」

ヒジリサワショウノスケを売った、あたりでぴくりと反応した十四松の気がなんとか逸れないかと祈ってみたがムダであった。きりりとした表情を再度作り上げた十四松は、じゃあさと一松をしっかり見つめる。普段はあまり目の合うことのない弟の慣れない顔に、丸い背がぴんと伸びる。

「なんでカラ松兄さん泣いてるの」

あ~、という背後からの低い声がたいそう腹立たしい。ムダに揃っているのがまたムカつきポイントだ。
別に一松とカラ松は本当に仲が悪いわけではない。つきあっていることを隠すために仲の悪いフリをしていて、だから記憶のない今もその延長で演技をしていただけで。許されるならずっと一緒にいたいし、歌うカラ松の傍でうちわを振りたいし、一緒に買い物とか行きたいし、猫かまい路地裏ツアーなんていつだって企画するし、ちょっとした毎日の小さな出来事を楽しそうに話すカラ松の顔をずっと見ていたい。男らしく節ばった固い手にふれたいし、少し高めの体温にずっと寄り添っていたいし、兄弟で一番長いまつげにふれてみたい。そういう延長上でできればセックスしたいしだから恋人に戻りたい。もう今ならカミングアウトもなんでもする。ちょっと気恥ずかしいからってなんで隠すとかした過去の一松。バカか。おまえがそんなややこしいことをするから現在こういうことになって、カラ松に振られたみたいに。
自分の考えに傷をえぐられ、一松はぐっと涙をこらえた。カラ松にめった差しにやられた怪我は治る前に踏みつけ蹴られ、最終的に火炙りされた。
泣いてイヤがられた。
イヤならやめろと言えばやめる、とうそぶいていた数日前の己に言いたい。本当に拒まれたら死ぬほどつらいからそんな強がるなよ、拒否られない今を素直に喜べよ、と。
実際、死ぬと思った。違う、死ね。いやだ、こわい。ひたすら繰り返しぼろぼろと涙をこぼすカラ松を目の前に、一松は、彼にこんな顔をさせるやつは死ねと呪ったのだ。自分だ。カラ松を泣かせたのは一松だ。
でも、だって恋人だったのだ。高校時代から換算するならもう数年来の、お互いのことを忘れてしまうほどに強く思い合っている恋人。
カラ松が一松の恋人だった、のだ。
それなのに手を離すから。記憶が戻らなくていい、兄弟のままでなんてそんなことを言って。別に好きな相手ができたなんてこと許せない。
セックスしてしまえば思い出す。
今少し他の相手にぐらついていたって思い出せばこっちのものだ。浮気は許さないけれど今回だけは仕方ないと認める。だから思い出して。一松のことを思い出して。恋人だということを思い出せば、今ちょっと弟とセックスして戸惑っているかもしれないけれど恋人に戻るんだから問題ない。思い出しさえすればカラ松は一松のものになる。
今少しつらくても、全部大丈夫。
そのはずだったのに。

「最近いい感じだったのにねー」
「カラ松だって肩の力抜けてさ、やっとかって感じだったくせに」
「ここでスマートに押せないのが闇松兄さんだよね」
「おっ、恋愛のプロみたいなこと言うねえ童貞の星トド松くん!」
「うるっさいよ! おそ松兄さんは黙ってて」

口々に好き勝手なことを言う外野をじとりと睨めば焦点のあった十四松の目が真ん前に飛び出てくる。知らず飛び出た猫耳を両手で押さえつければ、バランスボールから飛んで降りてきた十四松はちょっと皆黙っててねと特大の釘をさした。どうした。何事がおこっている。
同じく戸惑っている兄弟とアイコンタクトをとろうにも、黄色のつなぎに邪魔されて視線をあわすことができない。
一松の記憶では十四松と最も仲のよいのは自分となっていたが、カラ松だったのだろうか。トド松が我こそはと言わんばかりに偉そうにカラ松について話すからてっきり一番仲がよかったのは末っ子だと思っていたが、違ったのか。いやそれにしても十四松は、こうも兄弟間の関係に口をだすタイプではないはずで。

「兄さん俺はね、兄さんたちがなにしてても別にいいんだよ。すっげー仲良しなの知らないフリするのもぜんぜんへーき。兄さんたちが楽しいならいいよ。やきうもしてくれるしね!」

でもね、と長い袖を振り回さない十四松が座ったまま落ち着いて言葉を続ける。

「泣かせちゃうのは違うと思う。好きな人はね、笑ってるのが一番だよ」

きれいごとを、なんて言えない。一松は知っている。兄弟はわかっている。これが十四松の本心で、いつかの彼女に対して示した全力の誠意だと。
彼女を笑顔にするためだけに、十四松がどれほどがんばったか。

「いや、あの、な、かせたのは別に今回ばかりではないと言いますか」
「でも今回はいつもと違うよね」

ぼそぼそと設定に基づいて言い訳をする一松をぴしゃりと叩きのめし、どこまで把握しているのか、十四松は再度バランスボールの上に戻った。

「だから一松兄さんも笑ってるのがいいよ」
「へ」

唐突に名を呼ばれ一松はきょとんと顔を上げた。カラ松の話をしていたのではなかったか、今は。
十四松、と問おうと口を開いた隙を狙ったかのように強引に拍手が割り込んでくる。ほらおまえらも、と急かす声は先ほどから空気を読む気もない長男のものだ。パチパチとまばらな音と共に奇妙に明るい声でおそ松はばっさり空気を変えた。

「十四松センセイのすばらしいお話でした~! ほら、感動したな? ぐっときただろ一松!」
「うぇ?」
「よっしゃそーだろそーだろ、なんせ目の焦点あわせてまでがんばったんだからな! これで思うところがないならちょっとそれは薄情ってもんだよな、わかるわかる」
「な、え、おそ松兄さん」
「だからもうわかるだろ一松。おまえが今なにをするのか」

ぐいと肩を抱き込まれ背中を強い力で叩かれる。まるで勢いをつけるかのように。踏み切れない一松の背を押すかのように。

「おまえはわかってるんだよ、ちゃんと」

ちゃんと。わかっているのか、一松は?
どの一松が。記憶のある、兄弟がよく見知っている一松か。それとも今この場の、好きな人をすっかり忘れてしまった一松か。

「ずっり、なにそれ手出すの厳禁って最初に言ってたのおまえのくせに」
「そーだよ助言オッケーならもっとさっさと解決したからボクの勝ちだったのに」
「へへ~ん、これは七日に賭けたお兄ちゃんの一人勝ちじゃね!?」
「俺は今日に賭けたよ!」
「十四松兄さん!?」
「おっまえ真面目な顔して口出すと思ったら」
「さっすが十四松。手段選ばないねぇ」

わからない。だって忘れてしまった。
カラ松がどうしたら笑って、なにを言えば喜んで、一松になにを望んでいるのか。きっと記憶のある一松は知っていたそれらが今の一松にはわからない。
知っているのはこの数日だけ。同じ顔で似たような身長と体格で、そこそこクズだけどお人好しのバカ。歌が好きで手先が器用で男らしい男に憧れている、兄弟のことが大好きな愛すべき兄。
一松とはまるで違う表情をしてまっすぐ伸びた背筋で楽しげに笑う、なにをしていても幸せそうに生きている男。節の目立つ大きめの手、指先の皮膚は固い。傍らにいるだけで暖かい、もっと近くにいたい、どうしようもない。元恋人。
泣かせてしまった。
イヤだと。あの弟大好き兄弟を愛してると言ってはばからない、大抵のことは笑って許すカラ松に泣いてイヤがられた。
そんな一松がいったいなにをすればいいというのか。賭けていたらしい兄弟はどこで勝負しているのか知らないが、他人事にすぎる。できるだろ、ってそんなだって一松には一松のペースがあるのに。

「あー! もう、ほんっと闇松兄さんめんどくさい! そんなんでよく告白したよね!?」
「え」
「一生ぐずぐず片思いこじらせてカラ松兄さんにまぐれで恋人でもできた日にはこの世の終わりって感じでさめざめ泣くと思ってたんだけど」
「あ」
「それは俺も思ってた。兄弟だし男同士だし、って絶対ムダに悩むと予想してたんだけど」
「だよねだよね~。まあ勇気を出したのは認めないでもないし? だからこうやって励ましてるわけじゃん」

ちょっと待って。一松はこの急展開についていけていない。
告白、とは誰が誰に。この場合、一松がカラ松に、とトド松は主張しているのか。チョロ松の予想ってなんだ。ムダに悩むって、そりゃ普通は悩むだろう、実の兄相手とか。一松の場合はすでに高校生の自分が思う存分悩んだであろうことと、もう恋人として長いんだからいいじゃんというラッキーでスルーしたわけだが。あとここまでの会話でどこに励まされるところがあっただろうか。意見の相違、とかそういうレベルですらない。十四松に叱られ諭されただけで(これは感謝している)他は好き勝手に話していただけである。
誰か説明係。いつもはその役を担うトド松とチョロ松が揃って訳の分からないことを言うと、まるで話が理解できない。
ぐるぐると考え込む一松の肩を抱いていたおそ松はすでに飽きたのか、十四松のバランスボール芸に夢中である。おまえでいいから説明しろよ。

「え、あの、ちょっと待って」
「やーだよ、どうせあれでしょ? 僕には僕のペースがあるのに、とかそういう泣き言でしょ。こういうことは時間おいたらよけいこじれちゃうんだからさ、ほら、さっさとカラ松兄さんとこ行ってきなよ」
「ち、ちがって」
「トド松の言うとおりだよ一松。悪いこと言わないからさっさと謝ってきな。ちゃんとおまえの気持ち説明したらカラ松だってわかってくれるって」
「ちょ、背中押さないでって。わかった、行く、行くからねえちょっと待って」
「まだ二階に閉じこもってるんだからさ、ほらなんだっけ、あれ。前で踊りでも踊ったら出てくるやつじゃん」
「一松兄さん踊るの!? 俺めっちゃ演奏しよっか!!」
「すてきだね十四松兄さん、でも今はムーディーな感じ求められてるからバットはしまっとこうか」
「ねえバットで演奏ってなにすんのチョロちゃん」
「こっちにフるなよ。ほら、十四松絡まれても一人対多勢でやきうするじゃん。そういうことじゃないの」
「待ってせめておれが行くまではおれの話題のままでいて!」
「いい年してかまってちゃんとか面倒なだけだよ」

階段をぐいぐい押され上りながら、一松は最も気になっていたことを問いかけた。
記憶を失って変わった関係性をごまかしていたつもりであったが兄弟にはばれていたらしい。二人がつきあいだしたのではなく恋人でなくなったのであり告白云々は誤解であるが、確かに同時に記憶をなくしたよりもずっと信憑性のある話だ。それはもういい。どちらにせよ一松は恋人に戻れれば二人のことをばらしてしまっていいと考えている。
そうじゃなくて。そんな小さなことじゃなくて。

「カラ松泣いたってなんでおまえら知ってるの!?」

強引に迫って拒まれ死にそうになりながら大反省会を繰り広げていた一松以外、二階に上がった者はいなかったはずだ。それなのに、もしやあれを見られていたのか。カラ松を脱がせてあちこち色々さわったりみたりしていいのは一松だけなんですけど!

「うっざ。誰がホモの痴話喧嘩覗き見したいわけ」
「おまえあれだけの独り言で自覚なしとか」
「っ、うざくねーしうざいって言う方がうざいんだからなこのトッティ! あと疑ってごめんね!」

結局背中を押されたまま半分以上を上ってしまった階段。あと三段を一気に駆け上がり、一松はふすまを力任せに開いた。

 

 

ねえあれどうなるか賭ける?
ぴしゃんとふすまを開いた音だろうか、大きく響いた後静まりかえっている二階を指しトド松が半笑いで口にする。

「賭けにならないでしょ」
「だよねー」

常ならめったにない賛同の意を長男に示し、手慣れた様子でスマホになにやら打ち込んでいる姿は見慣れたもの。けれど先程、一松を煽っていた顔はあまり見ないものだった。
からかってやろうかと口を開いて、自分も似たようなものだったと吐き出す言葉をチョロ松は変える。

「まあうまくいけばいいけど」
「いくでしょ」
「いくよ~」
「いくのはわかってんだけどなぁ」

これは確かに賭けにならない。思わず吹き出したチョロ松に、笑っちゃうよねえ兄さん、と十四松が焦点のあっていない目を向ける。

「でもトド松はもっとぐちぐち言うと思ってたよ」
「は? 人聞き悪すぎなんですけど。ぐちぐちもなにも、馬に蹴られるようなことしたいわけないじゃん。そもそも相手がカラ松兄さんだよ」
「だからだよ。一松兄さんは認めない、とか言うだろおまえカラ松モンペだから」
「はぁああぁ!? べっつにモンペとかじゃないです~。あの人が情弱だから面倒見てあげてるだけだし! あと一松兄さんはこじらせすぎだから誰相手でもちょっと考えなって言うから!」
「別にそこまで悪くないでしょあいつ。ちょっとニートで卑屈でこじらせてるけど、優しいとこあるし一途だし」
「えー、チョロ松兄さんちょっと判定甘くない? にゃーちゃんの相手があんなのだったらどう思うの」
「にゃーちゃんが誰かとつきあうとかなに言ってんのトド松。ありえないから。彼女はアイドルという崇高な立場でありその身を通して僕たちファンに愛と平和と」
「ごめん軽率に例えに出したのはボクが悪かったから押さえてチョロ松兄さん」
「そもそもカラ松の立場をにゃーちゃんで例えようということがすでに絶対悪と」
「ほんっとごめんなさい許してください」

だだだだ、と何かが階段から転げ落ちるような音と怒鳴り声。待て、話を、待って。玄関のドアが二回ぴしゃりと音をたててから、ようやっと訪れた平和な静寂におそ松はぐいとのびをした。

「のど乾いた~。チョロ松ビールとって」
「昼間っから酒かよ! せめてお茶にしとけば」
「いいじゃんどうせ用もないんだし。祝杯ってことで」
「まだわかんねぇよ」
「わかるよ。カラ松どんくせえし」

けして走るのが遅いわけではないのに六人で鬼ごっこをしてはしょっちゅう鬼になっていた次男を思いだし、おそ松は吹き出した。
あの頃。おそ松とチョロ松、一松と十四松、カラ松とトド松がなんとなくコンビのようにまとめられていたというのに、自分たちもそれを違和感なく受け入れていたというのに。鬼役ばかりのカラ松の傍をうろちょろしていたのはトド松ではなく一松だった。そうだ。思い出した。おまえあの頃からか。

「一松、体力はないけどすばしこいしな。そのうち得意の路地裏にでも追いつめてひっつかまえるだろ」

素早くて身軽で気配を読むことが上手い、鬼ごっこで絶対に鬼役が回ってきそうにない一松はカラ松の次によく鬼をしていた。
本当に、三男の評す通りうちの四男は一途である。
そして鈍くさくてしょっちゅう鬼になっていた次男は、これは陰謀だとすぐ怒るくせにおまえの足が遅いんだよと指摘されればあっさり認め、じゃあ仕方ないよしきた続きだ、と走り出すような気持ちのいいバカだ。
どちらもかわいいおそ松の弟で、気の合う遊び相手だ。揃えばもっと楽しいことになるだろう。
未だああだこうだと言い合う三男と六男、我関せずと一人遊びをしている五男。どいつもこいつも我が身ばかりかわいい松野家のクズ、おそ松のかわいい分身、俺達だ。愛さないではいられない。

「な、祝杯だよ、お祝い事だよチョロ松ぅ~。特別! かっわいい弟達のこと祝ってやらなきゃじゃん。ほら、飲も飲も! あいつらの金で」
「そうだね、あいつらを祝うならあいつらの金だよね。よし、そういうことなら飲んでいいよ」
「これ一松兄さんの財布!」
「よくやった十四松!」
「カラ松はこの辺にあるはず……あったあった。あんまり持ってないな」
「なんで隠し場所知ってるのおそ松兄さん……率直に言って引いてるからね、今」
「わかっちゃうんだよなぁ、だってお兄ちゃんだから」
「それ決め台詞じゃないからね」

こりもせず二人揃って帰ってくるまでの時間を賭けながら、どの松だかがつぶやいた。

「ほんともうさっさとどうにかなって落ち着いてほしいね」

六人でひとまとめ、誰が誰でも同じ六つ子は思うことさえも同じであった。自分が口にしたかどうかあやふやで、けれどまったくの本心であったから四人はそれぞれに肯く。
わかりやすすぎる同じ顔の恋愛事情を事細かに目の前で展開されるのは、おもしろいよりもいたたまれなさが勝るのだ、実際のところ。おもしろ半分に口すら出さず背中を押したのなんて、それだけの理由。早く落ち着いてくれないとむずがゆさで座りが悪すぎる。チョロ松など燃やしすぎてケツ毛がなくなりそうだ。

「でもさっき、カラ松兄さんが一松兄さん追っかけてたよ」
「逆じゃね?」

でも足音そうだったから。十四松が言うならそうなのだろう事実に、おそ松は首をかしげトド松はため息をつきチョロ松は皆の意見を代表して発言した。

「……なにやってんのあいつら」