はじめまして恋人ですか - 6/9

三日目。

「最近いい感じだよね」

楽しそうな弟を見るのは本当に心の活力になるな、としみじみしているカラ松にトド松はにこにこと笑みを向ける。こんなに楽しげな顔は合コンでラインID全員分ゲットした、と浮かれている時くらいなのでカラ松は存分に堪能した。かわいい。

「ちょっと聞いてる? ぼんやりしないでちゃんと会話してよね」
「ああもちろん! オレが愛するブラザーの声を耳に入れないわけがないだろう? かわいい小鳥のさえずりに心を潤し」
「今翻訳係いないんだからこっちにわかるように話して」
「……一松のことを翻訳係って呼んだら怒られるぞ」

つい一昨日、いいかげんおれのこと便利に使うのやめろよこいつの通訳じゃねーんだよ、とぶちぎれたふたつ下の弟を思い出して諌めるとトド松はふんと鼻を鳴らした。ちょっと小悪魔的でいいな、今度真似しよう。

「通訳じゃなくて翻訳係って呼んであげてんだしいいでしょ。立派な仕事だよ? 猫かまうか部屋の隅の畳傷めるかしか毎日仕事のない闇松兄さんの大切なお仕事じゃん。実際助かってんだしさぁ、あんなに怒ることなくない?」

一番激しく切れられたことを恨みに思っているらしいが、実際もっとも楽しくいじくったのはトド松なのであれは仕方ないんじゃないかとカラ松は思う。そう言ってしまっては怒りがこちらにも飛び火するので口にすることはないが。

「まあ虫の居所が悪いことは誰にでもあるさ」
「そーやって流すあたりは変わらないんだけどねぇ~」

なぁにが変わったんだろうねぇ。にやにやとおそ松のような笑みを浮かべるトド松はあからさまに松野家の六つ子の顔をしていた。つまりは大変に人相が悪い。

「今おまえおそ松に似てたぞ」
「はぁっ!? やめてよボクあんな金の亡者みたいな顔してないからね!!」

この場に居ないにも関わらずさくさくディスられる長男をかばうものはもちろん居ない。居ればそもそも悪い意味での比較対象として名前がでない。弟の財布から金をとりギャンブルに費やすような男に人権はないのだ。

「ってゆーか今はそっち! 兄さん達の話だからね」

くるくると表情を変えるトド松は、今度はどこか得意気な風情をかもしだす。器用な事だな、と感心しているカラ松は己の表情筋が大変素直だと皆に認識されていることを知らない。もう少し喜怒哀楽を表現した方が親しみやすいかもしれん、だからシャイなカラ松ガールズは声をかけられないのか……というカラ松の本心は誰にも伝わらない。言葉にしないので。人の内心はかくも伝わりづらく、だからこそ秘密も守られる。一松とカラ松のそれも。

「なーんか最近仲いいでしょ。空気が違うんだよね」
「んん?」

オレとおまえは元から仲がいいよな? さらりと告げればイッタイよねぇと叫ばれる。トド松の痛がる原因がわからないカラ松は困惑の表情を浮かべるしかない。

「すまないトド松、おまえを傷つけるつもりなどオレには欠片も」
「ほらそれ! そーゆーの、一松兄さん超噛みついてたじゃん。最近ないでしょ」

ぱちんと指を鳴らされても「最近」がわからないカラ松としてはなんとかごまかすしかない。そうか、「一松」は「カラ松」のそんな些細な行動にまで噛みつかなければいけなかったか。マメだったんだな。

「おお、かっこいいなそれ。今度やってもいいか?」
「えっカラ松兄さんの琴線にふれちゃう系だった!? やばいじゃんボクもう指鳴らすのやめよ」
「え」

なぜなのか。首をかしげるカラ松にらちが明かないと思ったのか話をきりあげたかったのか、トド松はだからさぁとまとめにはいった。

「最近二人、いい感じだよねって。言っとくけど喜んでるから。四六時中噛みついてぎいぎいして空気悪くされるよりもさ、穏やか~に過ごしたいじゃん家では」

だからからかうとか文句とかじゃないから! くるりと背中を向けながら強気に言い放ったトド松の顔がそれはもうかわいかったので、カラ松はとりあえず手を振って見送った。なにか口にしたらまた痛がらせてしまうかもしれない。それは本意ではない。
そして、落ち着いて考える。
最近はいい感じ。家で穏やかに過ごしたい。空気を悪くする。
一松とカラ松の関係が変わったように感じられるのはきっと、お互いに記憶をなくしたからだ。つきあっていることを隠すために仲の悪いフリをしていたのだが、今の自分たちが考えるよりも記憶のあった自分たちは徹底していたのだろう。確かに、ほぼ確信しているとはいえぼんやりと想像しているだけのカラ松達よりももっと切実であったに違いないのだ。兄弟同士で恋人になった、なんてこと言えるはずがない。ブラザー達の器量がうんぬんの話ではない。彼らが受け入れようと受け入れまいと、なんとなく受け入れてくれそうな気配がカラ松としてはするのだが、とにかくそういうシリアスな悩みではない。
あいつらは絶対確実にどうしようもなく全力でいじってくる。確信している。
誰もいないから、と油断でもしてちょっと家でいい雰囲気にでもなったとしよう。夕食時にわざとらしく咳払いなどして、いかにもといったしたり顔で長男として一言あるんだけどねぇ~などと言いだすのだ絶対に。そう言う時ばかり協力的な他の兄弟も、大人しく見守るフリをしたりはらはら心配する役どころをこなしたりと忙しいに違いない。愛し合うのはいいけど皆のそろう家でというのはどうだろうねぇ~一松くんはどう思うかなぁ~ははぁカラ松くんとしてはそのような気持ちでぇ~へぇぇ~。
想像上のおそ松だというのに心底腹立たしい。半分殺して裏向けるしかない。一松は繊細なのだ。そのようないじり方をして心の傷になってしまったらどうする。他人を信じず家からも出ず、言葉を操らない犬猫ばかりかまうようになったら……今とそう変わらないな。いやいやいや。まあいじられることはない方がいいに決まっている。
とにかく兄弟に恋人であったという過去を伝えたくはない。今はお互い忘れてそんな気持ちは一切ない、と言いきれないからこそ余計に。
そう、二人は現在、少々潔白とは言い難い状況にある。
もちろんセックスはしていない。そんなことできるほどにまだ親しくはないし、そもそもセックスできていれば記憶も戻っているのだからこんな悩みはない。
ただ、セックスをするかもしれない。明後日に。
ぽかりと心の中に浮かんできた単語にカラ松の顔はぶわりと熱を持った。大丈夫、トド松はもう出かけてしまったし見られていない。常にクールで落ち着いたオザキのようなナイスガイだと信じている兄がいきなり真っ赤になって汗をかいていては心配してしまうだろう。なんせ優しい弟なので。
本人が聞いても怪訝そうに首を傾げられる評価はカラ松の本心だ。弟達は全員優しくかわいい。ちょっと表現が不器用だったりするけれどいつだって家族思いの素晴らしい弟達だ。おそ松は兄なので無論のぞく。あれはまあ、ごくごくたまに兄っぽいことをするけれど普段の言動でチャラどころかマイナスなので。
そう、その優しくかわいい弟のひとりである一松と。

「……思い出すため、には必要だからな」

セックスが。
本当にそのつもりなのに、声にしてみると妙に言い訳のような気がした。
失った記憶は思い出したい。その方がこれからの人生を生きやすいし兄弟からつっこまれてもなんのことだととぼけられる。二十数年を共に過ごした人間一人分の記憶が丸ごとないということは、思い出が密接に関わっているからこそ想像以上に困惑しかない。違和感はないが、それこそがおかしい。他の皆との会話で、奇妙な点がいくつも出ては必死にフォローするのも疲れてしまう。カラ松でこれだ、一松などきっともっと苦しんでいることだろう。
だから記憶を取り戻すためにカラ松と一松がセックスするのは治療であり、恋愛感情の高まりなどではない。
昨日お互いに性器をさわりあったのは、男相手なんて考えもしなかったからいざという時ムリになるんじゃないかという確認のためであったし、少々姿勢は相互オナニーっぽかったがイッてないのだからおふざけの範疇にいれてもいい。うん、構わない。そういうこともあるだろう、きっと、たぶん。
今日、一松にホテルに誘われているのはどちらの尻につっこむかの確認のためだ。セックスというならば棒を穴に入れるのだろう。男女であれば話しあうこともなく決まりきった役割分担だが、あいにくカラ松達は男同士のため入れるための穴がない。あるといえばあるが、あれは出口であって入口ではないというのがカラ松の持論である。けれど恋人であった二人はきっとしていたのであろうし、思い出すために入れなければいけないなら仕方ない。どちらがどちらに入れていたかの記憶がないのだから、調べてみるしかないという一松の主張は正しい。いくらカラ松が、かわいいから一松が抱かれていたに違いないと思っていても本当かどうかはわからないのだから。こっそり風呂でさわってみた穴はどう考えてもあんなものが入るような軟さではなかったので、やっぱりカラ松が男役だったんじゃないかと思ってはいるけれど。
調べるということはきっと同じように、ふれるのだろう。わざわざホテルでと指定し、今日がカラ松明日が一松と日を改めるということはそれなりに時間もかかるのだろう。浣腸だのローションだの昨日口にしていた物を使って、一松と。
炯々と光る目を思い出す。骨っぽく長い指と薄い手の平、歪めた唇の端からのぞくぎざついた歯。
喰われる、とつい身構えてしまった捕食者の顔。
かわいい弟、愛しているブラザー。それだけのはずだったのにどうしてか、あの瞬間だけはまるで知らない男の顔をした。
知らない。そうだカラ松は一松を知らない。
兄弟からの話は聞いた。不審に思われない程度に。お互いに情報交換はした。自分がどういった性格で兄弟間ではどのような立ち位置で、なにが好きでなにが嫌いでどんなことがあったか。観察はずっとしている。初めて顔をあわせた八日前からずっと、密かに。
でも知らない。まだわからない。今だって、一松がどこにいるのかさえカラ松は把握していない。今日、と予約されてはいるけれどそもそもどうしていいのかわからなくて、こうしてぼんやりと居間で鏡を見ていることしかできない。
けれど、知りたい。
知りたいのだ。カラ松は彼を知りたい。思い出したい。
なんせ一松とはつきあっていたのだ。自覚としては生まれてこの方おつきあいなど皆無な人生を歩んでいるというのに、カラ松は憎むべきリア充であったのだ。弟相手だけれど。しかもぎすぎすしだしたという高校時代から仲の悪いフリを始めたとするなら、おつきあい期間とてそれ以降だ。数年だ。絶対にしているだろう、セックス。
この手を知っているんだろうな、と想像してしまったのがいけなかったのかもしれない。一松はどんな顔をするんだろう、声は、態度は、なんて。興味本位でちらりと考えてしまったうかつな男がカラ松だけではなかったからこそこうも進展してしまったのか。
二人きりになればどちらともなく手をつないだ。手をふれあわすだけでなく指と指をからめあうようになっていたのはいつからだ。
肩も腕もいつの間にかひっつき、体温を分かち合うようになっていたのは何日目だ。ニートを六人も要するくせに昼間は人気のないことも多い松野家の二階で、伸ばした足がぶつかるほどひとところにぎゅうぎゅうと座りこんで。
ひどく早い心音。高い体温。どちらも自分だけのものでないと思い出し自覚してしまえばもうダメだった。だってあれは「恋人」として考えてみようと言いあう前だったじゃないか。
つきあっていたのだ。恋人、だったのだ。抱きしめた身体をカラ松は知っていたはずで、一松がどんなふうに感じて声をあげて気持ちよさそうにするか全部知っていた、はずで。カラ松の、だったのだ。
人見知りで猫のように警戒心が強くなかなか他人に心を開かない弟。その彼の、特別であったのだ。カラ松が。カラ松だけが。カラ松こそが。たった一人。
もう一度、それが欲しくなってしまったのはおかしなことだろうか。

 

 

ごつりと肩に頭をぶつけられる。これが頭突きではなく肩にすり寄って甘えられているのだと気づいたのは何日目であったか。手を持たぬ動物のマーキングのように頭を擦りつけてくる一松の髪の毛が乱れて額が出てしまっている。整えてやろうと手を伸ばせばそのまま手の平にも甘えられる。ぺたりと額と手の平が、産まれる前からこうだったんじゃないかというくらい隙間なくひっついた。

「からまつ」

小さな小さな声。呼びかけたくせに気づかれなくてもいい、と言わんばかりの。しかし残念ながらカラ松の耳はとびきりいいので一松の甘えをきれいにすくいあげてしまう。
言葉にされなかった求めに応じて恋人であった彼の背に腕を回せば、そうだと褒めるようにあごが肩にトンと当たった。
驚くほどに違和感がなかった。このぬくもりをずっと求めていたのだ、と思いこんでしまうほどに胸に抱えた一松の体温はカラ松に馴染んだ。同じことを感じていたのだろう。一松もまた、ひどく安堵したかのようなため息をついた。

 

 

つきあっていた、と予想していた。ほぼ確実だと認めていた。おそらくは高校時代から、きっと身体の関係なんかもあって。
でももし違ったら。与えられた情報で推理した結果が見落としているなにかでとんでもないどんでん返しをくらったら。カラ松と一松は兄弟で性行為なんて禁忌を犯してしまうことになる。愛してもいないのに。
そう、愛があれば。つきあっていたのなら、恋人であれば、カラ松はそんなこと気にしない。禁忌がどうした。こちとらギルトガイだ。普通じゃない、が褒め言葉になるのだ。そもそも近親相姦が禁じられているのは遺伝子上の問題があるからで、男同士ならばまったく無関係なうえにさかのぼれば大昔は兄妹で背の君だのなんだのいいあっていたんだからいいだろう別に。神様が許さないならあの時代の人間をまず叱ってくれ。話はそこからだ。
けれど。神様なんてどうでもいいし、世間体はカラ松にはあまりよくわからないけれど。
ブラザーの不幸にだけはなってはいけない、と決めている。
一松の記憶がないこと、つまりは彼のことを恋愛感情で愛していたことがばれたくないのはからかわれるからだ。恋人であっただろうことを隠していたのもきっと同じ理由だろう。けして拒絶されるからではない。松野家の六つ子は総じてクズ、どいつもこいつも自分がいっとうまともだという顔をしているバカばかり。どれほど違う顔をしても結局はオレがあいつでオレ達がオレ、自分がよければ他はどうでもいいなんて身勝手極まりない考え方だからつまり、兄弟がよければ他はどうでもいい。だってオレはあいつだ。あいつらだ。カラ松がいいならブラザーもいい、カラ松が受け入れていることはブラザー達も受け入れる。どうしてと問われても困るが六つ子はそういったものだとして育ってきたし、疑問に思われても「そう」なのだから仕方ない。そういう兄弟をカラ松は愛しているのだ。つまりは、からかうしいじるし格好のネタにするだろうけれど、受け入れられないと拒絶されることだけはない。なぜならすでにカラ松と一松が受け入れている感情で関係だから。
だから隠していたのはきっとそれだけで、からかわれたくない、だけで。それがなにより切実な願いであることは一切の容赦のない兄弟を知っているからだけど、だから仲の悪いフリをしていただろう過去のカラ松と一松になんの疑問も持たなかったのだけれど。
最近いい感じだよね、と笑うトド松。空気が悪くない、なんて。本当はそれが当たり前なのだ。実際カラ松と一松はおつきあいを開始してしまうほどに仲が良かったのだし、記憶のない今とて一松と過ごすのは楽しい。仲の悪いフリをすることが重荷に感じられるくらい、ずっと一緒に過ごしたいくらい、カラ松は一松と共にいたい。
とても気の合う兄弟。それが現在の立ち位置。
トド松がいい感じだと笑う関係。十四松も二人は仲がいいと言っていたではないか。おそ松だってチョロ松だって、兄弟間の仲がいいことに不満はないだろう。カラ松とて一松と仲良くしていいならずっとしたい。いがみ合うなんて本当は演技でもしたくない。
じゃあ、と行きつくのはたった一つ。
都合よく今の二人に恋愛感情はない。とてもとても好きだからこそ忘れてしまった。
過去の二人には無理であっただろう。お医者様でも草津の湯でも治らない不治の病だ。相手が自分を好きで、自分も相手を愛している。それなのに恋人にはなれずただひたすら耐えろなんてひどいことはカラ松には言えない。そもそも片方は己だ。そうも我慢強い性質ではない。愛に生きることを選んでしまうのは確実であろうし、だから兄弟にばらさないようにと演技していた過去の自分達を責めているわけでもない。
けれど、それは過去のことだ。現在のカラ松は一松のことを忘れている。数年間もの長い間、兄弟を欺きひたすら仲が悪い相性のあわない兄弟だと誤解させるほどの演技を貫き通したカラ松ではない。
そんなに強い恋心、抱いてない。
一松はかわいい弟だ。気も合うし、話していて楽しいし、一緒に居ると心がふわふわする。大丈夫。それは好意を抱いている相手には問答無用でなる心の変化であるし、ブラザー達のことは大好きだ。同じ。違わない。一松は気の合う弟。
そうだ。なぜ記憶を取り戻そうなんて思ったのか。いやもちろんないよりある方がいいし、兄弟に今後も記憶の件を隠し通していくのは大変だろう。けれど、同じくらい、恋人であることを隠し通していくこととて大変だったはずだ。記憶を取り戻せばすべて終了ハッピーエンド、なんてわけじゃない。ここ数日、冷や汗もかいたし不審にも思われたけれど、実際過去の思い出話などそう頻繁にするわけでもない。過去のことはどんどん忘れていくものだ。これから新しい思い出だけを積み重ねていったって、年をとってからの思い出話に不自由なんてないだろう。
思い出す必要なんて、ない。
少なくとも人見知りだという一松に無理をさせるほど、兄弟のぎすぎすした関係に心を痛めていたトド松を再度苦しめるほどの必要なんてない。
ないんだ。
どれほどカラ松があのぬくもりを再度手に入れたいと思っても、一松の特別であった己を羨んでも、愛する兄弟と天秤にかければ簡単な話である。

 

◆◆◆

 

なにやら心境の変化があったらしいな、と一松は簡単に勘付いた。
そもそもカラ松はわかりやすい。本人は仮面を被ったオレ……クールなギルトガイ! などとうそぶいているが所詮お人好しの単純バカである。好きなものを目にすれば尻尾を振るし嫌なことからはじりじり距離をとる。頭カラッポとはよく言ったもので、当人だけが自覚がないため幸せに生きているが一松があんなに周囲に感情ダダ漏れであれば恥ずかしくて生きていられない。自覚があるなら精神力が強すぎる。
記憶がない、とわかってからしばらくは同じように戸惑っていたはずだった。デカパン博士の元へ解決策を探しに行った時も、セックス……と困惑した時も、一松とカラ松の気持ちはまったく同じであったのに。
本日、急に接触を避けられている。
朝は常通りであった。昨日、ホテルへ行くと宣言したからか目があわないとか一松に向ける顔が赤みがかっているということはあったが、それくらい意識はしていただきたいので問題ない。予想の範囲内だ。多少のぎくしゃくは仲の悪い演技もあいまってまるで気にならない。
では昼か。昼食は、朝が遅かったため入らないと一松は席をはずしていたのでわからない。いつもなら猫をかまいつけるために路地裏をぶらつく時間、別のネコをかまうからねひひ、なんて早めに餌をやりに出ていたのだ。緊張から食欲がなかったなんてことはない。ない、はずだ。
一松が家を出る時いたのはカラ松とトド松、チョロ松だ。トド松曰くのダサさ極まるリュックが用意されていたのでチョロ松はすぐ外出したに違いない。ではトド松か。
カラ松がなにかに影響されるならおそ松だが、なにかを慮るならトド松だ。忘れてしまった過去を最も詳細に語り、なんなの今更こんなこと聞いてさ一松兄さんから歩み寄る気にでもなったわけ、と肩をすくめられた記憶も新しい。元相棒だからね、ってなんだ。相棒に元もクソもあるか。ボクが一番なんでもあいつのことわかってるからさ、なんて顔を隠しもしない上にカラ松も認めているらしいのが妙に腹立たしい。いや気にしてないけど。一松だって十四松と仲がいいし、相棒? だし。そうそう。
とにかく、カラ松が考えを変えるならば原因はおそらくトド松だ。かわいこぶってなにかをねだったか、相棒ぶって忠告まがいのことでもしたのか、今朝までは確かに一松が把握できていたカラ松が、まるでわからない。
まあ別に、カラ松が近づいてこないことに関して一松としてはそれになんら含むところはない。もちろんだ。そりゃあ相手は仮にも恋人で隙あらばいちゃこらちゅっちゅしてたうえに毎晩隣に寝るなんてどういうことだこれはもう夫婦か? という関係であったカラ松だ。一松が彼のことをものすごく好きだったら、もしもの話だけれど、まあ相手を忘れてしまうくらい強い好意なんてものを抱いてしまっていたら、少々傷ついたかもしれないけれど今はそんなことないから。あれは唐突に現れた初対面の兄だから。それなりに気が合うけど。バカみたいに大口開けて笑うのは悪くないと思ってるけど。きりっとしたりりしい眉毛がへにゃりと緩んでやわらかな声で名前を呼ばれたりしたら妙に不整脈とかおこるけど。なんかもうかわいいし昨日の映像思い出して抜けるし本気でつっこみたいなとか思ってるけれど、でもそれでも全然まったくまるで欠片も、思うところなんてない。ないったらない。一松はカラ松のことをそこまで特別になんて思っていないのだからそんなことはないのだ。好意はあってもこれは兄弟として。恋愛感情なんてものまだほんの少ししか持っていないから傷ついたりしない。
ただまあ、気にはなる。不思議なことは追求したい性質なのだ。なにかしらの理由があるなら聞いておきたい。傍に寄ったら意外と一松の口が臭くて幻滅したとか、朝方こっそり背中にすりよったのがひげがちくちくして痛くてばれたとか、相互オナニー中の鼻息が荒すぎて引いてるとか。

「あっれ、なにまだ顔洗ってなかったの」
「なんで。今何時だと思ってんの、おそ松兄さんより早く起きたからねおれは」
「予定のひとつもない気楽なニートがなぁんでそんな早起きしちゃうかね~。皆暇人だよね」
「昨日朝一番に飛び出してなかった?」
「新台は並ぶっしょ!」

祭りだよあれは、などと興奮しているおそ松に構っている暇など一松にはない。今はカラ松の態度が変わったことについて考えなければいけないのだ。
いやだから一松には不満などない。ないのだけれど、ほら、隣なのだ一松とカラ松はなにかと。接触は多いし近くにいるということは会話もする、気まずいままでいては今後のためにならない。だから考えるだけ。近寄った時にさりげなく一歩後ろに引かれたことに傷ついたりしていないから。本当に。なんか最近腕が挟まるな~、とか思ってないから。ガードされてる!? ってショック受けてないから。

「つーか一松もお出かけ? どこどこ、楽しいとこなら連れてってよ~」
「は? なんでそんな罰ゲームしなきゃなの。ってかどこも行かないから。いつも通り家でだらだらするよ」
「えー!? んな丁寧に歯磨いてるからぜってー女子的ななにかと会うんだと思ったのに!」
「女子的ななにかってなに」
「知らねえけどなんかこう、うれしいたのしいだいすき的な? ア・イ・シ・テ・ルのサイン的な??」
「語尾あげんな。つーかそれ怒られない? 的な、ってのの説明もわかんないし」
「だぁって最近一松くんってばとぉっても機嫌がよかったじゃ~ん。なにかあったのかなって」
「っは」
「ま、楽しいことはいいことだよね~」

勝手にまとめて背中を向けてしまったおそ松を見送りつつ、一松は歯磨きを再開する。
機嫌、は別に悪くなることなかったからそりゃいいんじゃないの。猫もかまってるし天気は悪くないしこの間松代から臨時収入を得て懐は温かい。臨時収入といってもおつかいのおだちんだからさほどの額ではないけれど、猫缶を少々高めの物にチェンジすることは可能だ。働きを誠実に判定してくれる松代は米だのトイレットペーパーだのの重くかさばる荷物だったからそこそこくれた。カラ松が重い物をほとんど持ってくれたのがどうにも腹立たしくて少しだけあちらに多く分けてやれば、ぱちぱちまばたきをした後ジュースを二本買ってきたから遠慮なく奢られた。あんたオレンジジュース好きなの。好む衣装から少し意外に思って問いかければ、ひとしきり慌てた後ふにゃふにゃと口をゆるめて「好きな人と飲む飲み物、のイメージがあって」なんて口走ってきやがったから一松はその後なんと返したのか覚えていない。とりあえずどうしようもなく恥かしかったことだけは事実だ。
そうだ。好きな人、とか言ってたくせに。一松のことを。記憶があるカラ松ではなく、今の記憶のないカラ松がそう言っていたのに。
普段あれだけうかつなくせに、いざという時の次男はなかなかに有能であった。避けられている当人である一松でなければ気づいていないだろう自然な演技力は、もっと違う場面で発揮できればニートとしてくすぶってもいないだろうに。
念入りにうがいをしてコップに息を吹き入れてみる。慣れた歯磨き粉の匂いしかしない。歯槽膿漏予防効果が高いらしい歯磨き粉は松代から松造への愛だ。唇の端にこびりついたままの白い塊を手の甲でこすり落とし、鏡の中の人相の悪い男を見る。
ぼさついた髪の毛、眠そうな半目に隈の目立つ悪人面。先程まで歯ブラシをつっこんでいた口をぱかりと開けば特徴的なギザ歯がのぞいた。
そっくり同じ顔のはずなのに、カラ松とはまるで違う顔。
一松はこんな人相の悪いあからさまに底辺のクズですと言わんばかりの落伍者とつきあいたくはない。記憶のあるカラ松は物好きであったらしい。助かることに。
今の記憶のないカラ松も、一松のことを好きだと言った。そもそも記憶を失うほどに一松のことが好きなのだ。あの男は。それなのに避けている、なんてどうして。
尻を調べあおうという提案がそんなにイヤだったのか。明日は一松の尻を提供すると告げはしたが、なるべく今日中にカラ松の尻を開発して「気持ちいいならやっぱりおまえがつっこまれてたんだよ」と煙に巻くつもりだったのがばれてしまったのか。
自問自答がやまないまま時間ばかりが過ぎる。これは問いただすしかないと一松が決意を固めるまでに要した時間は三十分。笑わば笑え、これでも最短だ。伊達にコミュ障の名をほしいままにしているわけではない。
大丈夫、相手はカラ松だ。弟大好きで信じているぜが口癖の、お人好しのバカだ。けして一松を傷つけるようなことをしない。するわけがない。
聡い一松は気づいていたけれど、弱い一松がそれを見ないことにした。カラ松が一松とのセックスを拒む理由。記憶を取り戻さなくてもいいと考える、それは。
ありえない、と蓋をしたそれが正解であった場合、一松はいったい誰を責めればいいのだろう。

 

 

「わざわざ思い出すことの利点が少ないだろ、だって」

誰だ。
カラ松が一松を傷つけない、などと言ったのは誰だ。一松だ。なぜそんなことを無邪気に信じていられた。目の前で穏やかに笑っている兄は見えない刃物を振りかざして一松を袈裟懸けに一刀両断した。

「オレ、一松とは今の関係のままでいたいんだ」

おまえは、と笑顔で促されて否定などできようか。一松とて今の関係が不満なわけではない。記憶のないことが他の兄弟にばれないように、とハラハラすることもあれどカラ松と共にピンチを乗り越えることにスリルを感じて楽しんでいたりもする。こっそり二人だけの秘密を抱えて笑いあうのは、共通の話題で盛り上がるのは正直結構楽しい。所詮ばれても笑われからかわれる程度の秘密である、というのも大きい。
だけど記憶を取り戻すことに前向きであったのは、兄弟のことを忘れたままというのも心苦しいし、なにより一松たちが恋人であったからなのでは。
恋人のことを忘れたまま過ごすのは、目の前に本人がいてお互いに相手を忘れるくらい好きあっていたならあまりに不義理だと。一松はてっきりそうカラ松が考えているのだと、同じだと。

「おまえとは気も合うし、一緒にいて楽しい。すごく仲のいい兄弟でいられると思うんだよな」

それは否定しない。一松もカラ松と過ごすことが好きだ。高校までは仲がよかったと聞くのもその通りなのだろう。

「だから」

だから。
だから恋人にまでなったんじゃないの。

「だから恋人でなくてもいいだろ」

途中までは同じであったのに、カラ松の声は一松の内心とまるで違う言葉を形作った。また。いつもそうだ。最初は同じなのに気づけば一松とカラ松はまるで違う所にいる。どうして。こんなに同じなのに。

「……皆に、ばれるんじゃ」
「そうだな。このまま過ごせば遅かれ早かれ一松の記憶がないことはばれると思う。でもまあその時はその時で」
「は!?」

兄弟に恋人であったことがばれるのがイヤで仲の悪いフリまでしていたのに、前提をすべて覆すカラ松の発言に一松は思わず目を剥いた。

「あんた正気? 大丈夫?? あいつらにばれるってどういうことかわかってんの!?」

延々からかわれいじられネタにされ、ことある毎に言及される生活など一松はごめんだ。ちょっと昼間からオナニーしていただけでシコ松だのチョロシコスキーだのと名付けられいじられまくっているチョロ松のことを忘れたのか。男なら誰でもする行為ですらあれだ。一松とカラ松がお互い好きすぎて記憶をなくしたなんて格好の餌食でしかない。
一松は兄弟のことは好きだがやつらが総じてクズなこともよくよく理解している。悪ノリといちびりと下種でできた六つ子だ。もしかしてカラ松の脳天気すぎる目には正しく映っていないのかと確認すれば、わかっているとまた笑われた。

「オレは気にしないけど、一松はやっぱり……イヤか」
「当たり前でしょ」
「そうか。そうだよなぁ」

だから素直に記憶を取り戻す行為をしようよ、までは欲望に忠実すぎて口に出せなかった。
そう。もう認める。すみませんじたばた足掻きません。
一松はカラ松と恋人に戻りたい。目の前で眉を力なく下げて笑っているバカを自分のものだと言いたい。だってあんた好きって言った。好きって。好きな人と飲むイメージ、なんてオレンジジュースを選んで。馬鹿力のくせに男にさわられてろくな抵抗もせず。あからさまに性的な誘いをかけたのに赤くなって素直に受け入れるとか、そんなのもうだめだ。一松のことが好きなのだ、カラ松は。
なのに。

「でもオレはやっぱりこのままがいいな。記憶が戻っても結局ブラザーに隠し事はするんだし、それなら今と変わらないだろ? なら一松と仲良くできる今の方がいい」
「じゃ、じゃあ」

恋人ってことをカミングアウトしちゃえば。
そうしたら兄弟もさすがに遠慮するだろうし。カラ松がおそ松にばかり相談したら堂々と文句を言えるし、トド松が相棒風を吹かしても鼻で笑ってやれる。
あんたの恋人はおれでしょ、って。カラ松はおれのだから、って。そう口にしても許される関係を得られるなら、一松は他松からのからかいなんて我慢できる。いじられても胸張ってはいはい僻みあざーっす、なんて涼しい顔でスルーしてやる。
今目の前のカラ松が望む通り、一松と仲良くしても誰もなにも言わない関係になれる。

「ちょうど今はお互いの恋心も消えているから都合もいいし」
「え」
「まだ知り合ったばかりの他人だろ、オレ達。兄弟だ恋人だって知識だけはあるけど実感ないし、一松も言ってたろ? よく知らない相手とセックスとか無理って」
「あ、うん」

あの時、あんたとなら平気って。五日目にして。出会ってたったの五日で。
というか好きって。好きって言ってたのは。恋心が消えているから、ってあんた好きって言ってたじゃん。おれのこと好きって。ねえ。ちょっと。消えて、って。え?

「だからこのまま、兄弟として仲良く暮らしていきたいんだ。恋人じゃないなら仲の悪いフリだってしなくていいだろ。オレ、おまえのことすごく好きだから」

ニュアンスが違う。

「仲良くできるのがすごくうれしい」

上段から袈裟懸け、後に鋭利な刃物でつかれぶっ倒れたところに踏みつけ蹴られ穴に落とし込まれた。なんなら土もかけられてる。どれだけ一松がMといってもこれは勘弁していただきたい。
好かれている。一松はカラ松にとても好かれている、それに間違いはない。けれど想像していたものと違う。
もしかして。
見なかったフリをしていた可能性がひょこりと芽を出す。
もしかして、あんたは。

「……うん、それはうれしいよ。おれもあんたのこと、す、きだ、し」

独り占めしたいくらいに。恋人に戻りたいくらいに。
無理矢理しぼりだした一松の声に兄弟愛しか感じなかったカラ松は、輝かんばかりの笑顔を向ける。

「ねえ、カラ松」

男同士でしかも弟となんて、なかったことにできるならリセットしたいに違いない。堂々と胸をはって世間様に顔向けできない、兄弟にも隠す、そんな関係を続けたい愚か者なんていない。
それでも好きになってしまえば単純バカなカラ松はまっすぐ突き進んでくれただろうに、こうも拒むということは。
可能性だ。まだわからない。聞いていないうちから予想でダメージを受けなくてもいい。必死に言い聞かせても一松の心は想像ですでに瀕死だ。見なかったことにしたのに、知らないフリをしたのに、ぴかぴかの笑顔のカラ松が可能性を押しつけてくる。

「もしかしてあんた、もう好きな」

相手ができたんじゃ。
最後まで問いかける前にさっと色づいた耳が答えだった。

「っ、すまん!」

くるりと背を向け逃げ去る元恋人を追う気力などない。
へたへたと崩れ落ちる一松を優しく受け止めてくれたのは、一昨日二人で座ったソファだ。手をつないで身を寄せ合って、あの時はこうなるなんて思いもしなかった。

「……うそ」

たった八日。
記憶をなくしてほんの一週間ちょっとだ。それでもう他の誰かに心を移しているなんて、惚れっぽいにもほどがある。一松はまたカラ松に恋をしたというのに。
自分のことは棚に上げて一松はひたすら呆然とした。
信じたくない。けれどあの顔は。カラ松が一松以外の人間のものになる。一松とは仲のいい兄弟で、なんて言ったその口で恋人だと違う相手を呼ぶ。好意がだだ流しの笑顔を向けて、好きだとはにかんで告げて、オレンジジュースをこっそり選んで一人照れ、戸惑ったまま押されればあちこち好き勝手にさわられたりするのだ。なんせ流されやすくてちょろかった。抵抗もろくにせず、真っ赤な顔でぽかんと口を開けて「いちまつ」と。
違う。一松のものではない名を、呼んで。
まっすぐ向けられる視線に色めいたものが混じっていたのは気のせいではなかったはずなのに。今朝までは、確かに一松を意識していたのに。
でも。
でもまださすがに、そこまで強固な気持ちではないのではないか。八日だし。
ぽこん、と投げ込まれた新説は希望的観測だけに満ちていたけれど、傷つき疲れ果てた一松はそれにすがらねば立ち上がれなかった。
だって八日だ。恋人でなくなってたったのそれだけ。もし一松以外に惹かれても、きっとまだ弱い好意でしかないだろう。ならば記憶が戻れば一松への気持ちでそんな小さな感情消えてしまうのではないだろうか。
なんせデカパン博士の太鼓判つきの、一途で強い恋心だ。思い出せば今の淡い気持ちなど風でつぶれる飛沫のようなものでしかない。
思い、出せば。
カラ松の記憶を戻す方法、それは。