こつり、と硬い音が耳に響いて一松は視線を上げた。
いかにも慣れない、といった風情の男がきょろきょろと視線を彷徨わせながら路地に入ってきている。
「ここだよ」
「一松! すまない、待たせたか?」
「別に。猫かまってたし」
不安げな表情がこちらを見つけたとたんパッと明るくなるのは悪くないな、とちらりと考えて一松はぶるりと頭を振った。そういうんじゃない。そういう、なるほどこういうところね、みたいに一々発見したくなどないのだ今のところ。
「誰にも気づかれなかった?」
「ああ、カラ松ガールズに会いに行くと言ってきたからな」
「こないだから思ってたんだけどさ、なんなのそのカラ松ガールズって」
「オレのことを憎からず思ってくれているレディ達のことだな。待っているんだがシャイだからなかなか出会えないんだ」
「あー……まあいいやそれは」
ツッコミが面倒になって一松は軽く流した。数日共に過ごしただけで、目の前で格好をつけているバカが少々面倒な男らしさを目指しているだけのお人好しだということは理解できていたので今更どうだこうだは言わない。別に一松に害はないし、わからないと言えば素っ頓狂な言葉遣いは改めてくれる。会話に不自由はない。そもそも現状の二人にそのような瑣末な事にこだわる心の余裕などなかった。
そう、余裕などない。毎日が瀕死のサバイバルである。
好きな人を忘れる薬、なんてふざけた効能の薬をひっかぶって以来五日、一松とカラ松は必死でこれまで通りを演じていた。
おもしろいことに全力で乗っかる悪ノリがひどい松野家において、お互いを忘れてしまったなんて致命的な出来事をばらせるはずがない。おまえこいつのこと好きなの? え、どんなとこ?? 同じ顔で!?
一時的に笑える出来事として消化されるならまだいい。チョロ松のシコ松呼び程度ならば許容範囲だ。
ただあいつらがそんなことで終わるはずはない。一松は兄弟をよく知っている。そして自分がもしそちら側であればどういった対応をとるのかも。
確実に映像記録に残し正月の楽しみとして毎年流し、別れた後どちらかが万が一リア充化し結婚でも決めようものなら、本人に無断で思い出ビデオとして流す。デカパン博士にももちろん友情出演をお願いして、こいつらはお互いに恋愛感情抱いちゃってたんですよ、同じ顔の兄弟大好きナルシストなんですよと世間に知らしめるくらいのことは平気でする。それくらいで破談になる縁なら最初から結ばない方がいい、くらいのことは言う。すべて大笑いしながら。
おそらく似たようなことを考えていたのだろう、お互いを忘れたことを絶対に兄弟にばらさないという一点で、一松とカラ松は深い協力関係にあった。運命共同体といっても過言ではない。自分がばれたら即座に相手のこともばらしてやろうという気持ちはお互いに満々である。
そもそもがお互いへの対応が他の兄弟と違いすぎるのが問題であった。
一松からカラ松への態度がひどいのは当然のことながら、カラ松から一松へもおかしい。兄弟への対応と同じ扱いをするだけで不審な目を向けられるなんて予想外である。
呼び名から始まり妙にきついあたり、では嫌っているのかと思いきや誰に聞いても一松がカラ松を嫌っているわけではないと言う。確かに寝る場所は隣だし、居酒屋やチビ太の店では隣に座ったりしているらしいし、そもそも嫌うようなことが思いつかない。一松としては、なかなかこの兄とは気があうなと思っているくらいなのだ、ここ数日だけではあるが。おおキャッツ、などとふにゃけた顔をさらしている男のなにを嫌えというのか。人目につかない場所で情報共有するため、といえこんな路地裏に嫌な顔一つせず来て、汚れることなど気にもせずしゃがみこんで野良猫に手を差し出している。その皮ジャン高いんじゃないのか、革靴だってピカピカに磨いてあるのにこんな埃まみれの場所でいいのか。
思っても口に出せない一松は、ポケットから煮干しを取り出して渡してやるくらいしかできない。
ああ、もう、だからこれくらいでそんな全開の笑顔を向けるな。頼むから。
ほら、こんなにいい兄貴じゃないか。そりゃちょっと兄貴ぶるのが鼻につくとか、スパンコールで輝きすぎおまえはミラーボールを目指しているのかとか、なんで自分の顔をタンクトップに印刷しちゃうのかそういうのは学生時代までで留めておけとかいろいろ言いたいことはあるけれど。でも、少なくとも胸倉つかんで恫喝するほどの罪ではない。別に一松に着ろと無理強いしてくるわけでもないし。
「ところでさ」
「まあいいやじゃないぞ、大切なことだ。一松だって未来の一松ガールズにいつどこで出会うかわからないんだから」
「その話まだ続いてたの」
「もちろんだ。だからな、一松キャッツを共に愛せるような一松ガールズが」
ぽろりと口からこぼれ出たのは願望ではない。絶対確実神に誓って違う。本当だから。違うから。ちょっとさっきからの考え事が思考の邪魔をしたというかノイズが入ったというか、もう幽霊の仕業とかでいいか。コックリさんが勝手に一松にとりついた、とかでもなんでもいい。
「あんたがいるじゃん」
とりあえずもう、一松の責任じゃないならなんでもいい。
「えっ、あっ、うん」
「あっいや、違う! そういう、あの、変な意味じゃなくて」
「うんうんうんわかってる! わかってるぞもちろん!」
いや、願望ではない。絶対違う。ただ、可能性の話として一松はずっと考えていて、それでつい。ただそれだけで。
変な意味ってなんだ。兄弟間でありえない意味ってことか。さっきの会話の流れでありえないってそれは恋愛感情とかそういう話で、でも一松とカラ松はお互いのことを忘れていて、薬の効果は好きな人を忘れることで。
「ちょ、本当にわかってるよな!? そういうんじゃないから、おれはそういうつもりじゃなくて、これまでのことから考えて冷静に!」
違う違う違う。見開かれた目がまんまるでかわいいなとか思わなかったし、じわじわと赤く染まる頬がやわらかそうだなさわりたいなとか思わなかったし、ちょっと跳ねたその声で名前を呼んでほしいとかちっともまったく全然思わなかったから!
「一松の言いたいことはわかっているつもりだ。これまでのオレ達のことだよな?」
「そう。……ちょっと不自然がすぎるんだよね」
お互いインターバルをとり、深呼吸をしてから再度向き合う。一松が構っていた猫はとっくに去ってしまっていた。またねと挨拶さえできていない。呆れず明日も来てくれたらいいのだけれど。
ふ、と息を吐いたカラ松が落ち着いた声で会話を再開させる。頭がカラッポのカラ松と揶揄されているけれど、この兄はけして頭が悪いわけではない。考えなしでも。独自のルールで物事を判断し行動するのにあまり世間の目を意識しないため、結果的にとんでもないバカなことをしたり大損をひっかぶったりしているが、頭の回転自体はいい。悪童時代は六つ子の参謀を気どっていたというのもさにあらん、納得できる。そもそもあのトド松が、そこそこ頻繁に共に出かけている時点でお察しだ。末弟は兄弟を愛しているが、だからといって己に益のない行動はとらない。ドライモンスターの名をほしいままにする彼が一緒に遊ぶくらいには、一緒に居て楽しいのだ。一松もそうだから、わかる。
たった数日共に過ごすだけでも、一松とカラ松の相性が悪くないこともお互いに悟った。
趣味や好み、考え方、食事の好き嫌いから酒の強さまで、二人はとてもよく似ていた。記憶があるフリをするための情報交換をすればするほど、気があうし共に過ごすことが心地よい。それなのに兄弟から得られる情報では、二人は水と油である。とにかくあわない。一緒にしてはいけない。
さりげなく思い出話を聞きだすためにアルバムをめくったりもしたが、中学生までは仲が良かったらしい。図書館で本なんか借りちゃってさ、小難しいの、とは長男の弁だ。
仲が悪い、と思われている二人。
ただし十四松からは、仲がいいと思われている二人。
「たぶん、おれ達、仲は悪くなかったんじゃないかと思う」
嫌う理由もない。気に入る要素は多い。
一松の言葉にカラ松も肯定を示す。
「そうだな。でも、周囲にはそう見せたかった」
「うん。高校くらいから、かな」
「そして薬はお互いに効いている、んだよな」
目をあわせる。
薄暗い路地裏で、奇妙にカラ松の目だけがピカリと光った。
初めて顔をあわせた時のようにわかりあえる。今、一松とカラ松は同じことを考えている。
「おれ達はつきあっていて」
「それをブラザー達に隠すために仲が悪いフリをしていた」
一松の脳内にあるのと同じ文章がカラ松の唇からするすると流れ出す。
「どう考えてもそうでないと納得できない」
今あの瞳孔には一松の顔が映っているのだろうか。どうしても至急に知らなければいけない気がして、一松はじりりと足をにじらせた。もう少し近くで見なければ確かめられない。
伝わったのだろう、カラ松の顔がそろりと一松の方に傾く。まだ、見えない。もう少し。
「いちまつ」
鼻先がふれあう程の距離になっても、まだ見えない。
「記憶が戻る方法、覚えているか」
吐息に紛れるほどの小声だった。囁きと共にするりと一松の指先がなにかに捕らわれる。なにか、じゃない。少し硬い皮、骨っぽい感触。カラ松の指が。
もう少しで見える。
まだ見えない。
「うん……おれ、よく知らない人とセックスとか、ちょっと無理なタイプ」
「人見知りか?」
「ぽい?」
「ああ、っぽいな」
だからたぶんあんたとは平気、と言外に込めた意思は急に顔に吹きつけてきた風にさらわれてどこかへ消えてしまった。
身軽に立ち上がったカラ松は、じゃあ、と明るく笑った。たぶん。逆光で一松からは顔が見えない。
「まずオレ達はよく知り合ってみないか? それからどうするか決めよう」
「え、いや」
「出会って五日だからな、無理だと思うおまえが正しいよ」
離れてしまったからカラ松の目は、顔は、見えない。
けれどつながれたままの指先はひどく温かくて、楽しげな口調は歌うようで、一松はどうにも反論することができなかった。
「だからまず、恋人(仮)として毎日を過ごしてみよう!」
正しいよ、と太鼓判を押されてしまっては言い募ることなんてできない。あと仮ってなんだ。なにをどうしたらいいの。どうするかってつまり最終的にセックスするのか。
戸惑う一松を置いて、カラ松はいつの間にか立ち去ってしまった。先程の猫と同じように。
猫はきっと明日また顔を見せてくれる。明日がダメでもにぼしと猫缶を貢げば、またそのうちいつか。じゃあカラ松にはなにを渡せば、まで考えて慌てて一松は頭を振った。どうせ家に帰ったら顔をあわすし、そもそも猫はかわいいから構っているのであってカラ松を構う必要はないし、近づいてくれなくていいし。
でもカラ松の目に一松の顔が映っていたかどうかだけは、なぜか無性に気になった。