目の前の男、松野カラ松と一松は、昨日デカパン博士作の薬を事故で浴びてしまった。それだけならよくあることである。しょっちゅうデカパンラボに遊びに行く十四松はなんだかんだとおもしろいけれど役に立たない薬をもらって帰ってくるし、過去には美女薬なんてものでイヤミとチビ太に騙されたこともある。松野家とデカパン博士の薬はそれなりに切っても切れない関係だ。
問題は薬の効能であった。
好きな人のこと忘れちゃう薬なんだって、兄さん達だいじょーぶ!? 悪気はないが無邪気がすぎる十四松の声に、平気だと応えるつもりで目を開いた一松の目の前にいたのは見知らぬ男だった。
想像してみてほしい。
場所は松野家の居間。時刻はもうすぐ夕食ということで兄弟もそろいだした頃。つまりは誰かの客という線は限りなく薄い。極めつけは自分たちにひどく似た顔と、カラ松おまえも大丈夫なの、と呼びかけるチョロ松の声だった。
この見知らぬ男は兄弟である、と悟った時の一松の絶望を。絶対にこいつ誰と言ってはいけない。
学生時代のテスト中よりも受験時よりもフル回転した一松の脳は、的確に状況を判断した。好きな人を忘れる薬、という十四松の言葉を無視するわけにはいかない。マジで、だの誰か忘れた人いないの、なんて案の定好きな人を探る流れになっている。ここで下手なことを口走っては絶対に後悔する。
推定兄弟を好きだった、なんて過去は絶対に隠し通さなければいけない。
決意を秘めて視線を上げれば、ちょうど向かいに座っていた男と目があった。一松と同様、薬をひっかぶって濡れた前髪から覗く瞳がぴかりと光を反射する。
その瞬間、わかりあってしまったのだ。
ほんの一瞬、欠片だけのぞいた「こいつ誰だ」という感情。
一松とまったく同じそれ。相手も気づいたのだろう、ぱちんと一度まばたきをして太い眉を情けなく下げて笑いかけてきた。
「とりあえず博士のところへ行って解毒剤かなにかないか聞いてくるか?」
「そうだね。副作用とかも怖いし」
「時間が経てば戻る、とかならいいんだが」
「あー、美女薬とかそうだったもんね。それなら楽だけど」
二人して、なるべく触れないように、それを避けて見ないようにして話を進める。
お互いを忘れてしまった。好きな人を忘れる薬、の作用で。
つまり先程彼が口にした通り、両想いであったということで。
目の前の男と、一松が。両想い。
自慢ではないが一松は、生まれてこの方誰ともつきあったことのない正真正銘の童貞である。本当に自慢ではない。悲しい話だ。
まあとにかく、自分以外の存在から特別に想われた経験がない。好き、なんて告白もちろんされたことはないし、憧れのトト子ちゃんはいるものの他の誰かに特別に好意を抱いたということもない。
ない、のだが。目の前で居心地悪げに身を揺すっている男は記憶を失うほどに一松のことが好きなのだ。そして一松も彼を、忘れてしまうほどに好きだった。
「……い、っしょに、行くか?」
「へっ!?」
「博士のところ」
「あ、ああ、うん、行く」
ひと目見たら愛おしさが溢れ出てくる、とか好きで好きでたまらない顔、とかはないのだな、と冷静に考える。まあ顔はほぼ同じだし。自分の顔に惚れるほど一松はナルシストではない。
けれど好きだったのだろう、記憶がないのだから。この男のなにが良かったのか今の一松にはさっぱりわからないけれど。まあ、悪い人間ではなさそうだなと眉を下げて笑う男の顔を見ながら一松は判断した。
少しバカっぽいけれど、サングラスとか意味がわからないけれど。嫌ではない。
兄弟として受け入れるなら、松野カラ松という男は悪い人間ではなかった。たった一晩で一松がそう判断するほどに、お人好しでバカな男というレベルで。
◆◆◆
こんなにも誰かに対して殺意を抱いたことがあっただろうか。いやない。
「愛を確かめあうことダス!」
胸を張って言いきったパンツと白衣だけという露出狂をブタ箱にぶちこんでもいいだろうか。許す。誰が許さなくとも一松は許す。
「セクロス!?」
「まあそんな感じダス」
「いえ~い当たった~!」
カラ松と連れだってデカパン博士のラボを訪れる際、責任を感じていたのかついてきた十四松が元気よく両手を振り上げる。そんな感じダスじゃねえから。十四松もいえ~いじゃないから。そもそもいえ~いってなに。そんな軽い感じでいくの。
「……え、せ、セック……いや、あの、愛をと言っても、なかなか難しいんじゃないのか博士。忘れてしまっているんだろう?」
どうしてもその単語を言いたくなかったのか、カラ松はさりげなく言葉を濁した。当事者すぎて言いたくない気持ちがわかる。一松も、同じ顔の兄とセックスとか絶対に口にしたくない。今世界中で一番、一松とカラ松がわかりあっている。
「ホエ? どうしたダスかおそ松くん」
「カラ松だ。ほら、だって好きな人のことを忘れる、んだろう。じゃあ知らない人間じゃないか。その相手と愛を、というのは」
どう考えても無理難題だ。まず知りあうところから始めなくてはいけないなんて難易度が高すぎる。
「そもそも思い出すこと前提に作ってないダス。どうしてもかなわない片想いに苦しんでる人のために作った薬ダスから、好きな人から愛されて自分ももう一度好きになった時にだけ記憶が戻るようにしたんダス」
「な、なるほど……?」
「ロマンスが足りないという指摘があったのでがんばってみたダス!」
「なるほどぉ……??」
誰だそんな無駄な指摘をしたのは。
「ところでなんでそんなこと聞くんダス? もしかして」
「いや! 別にオレ達は誰を忘れたとかまったく全然なにひとつないんだが!!」
「兄さん達あの薬かぶっちゃったんだ~。ねえねえ博士、好きな人って人間じゃないとダメなの? 猫は?」
「恋愛感情として好意を抱いている相手、ダスから猫は特殊ダスね。……いや、否定はしないダス。ワシは異種姦も温かく見守るつもりダス!」
「……ねえなんでこっち見るの。猫のこと忘れてないから!」
「い、一松……」
「カラ松! あんたまでなに!? 特定の猫のことだけ忘れたりもしてないって!!」
「いや、忘れてたらそもそも今気づいてないんじゃ……」
「だーっ! そもそもあんたを」
忘れてるんだから、まで叫ぼうとしてはっと口を閉じる。兄弟を忘れている、というのは絶対に口にしてはいけない秘密だ。たとえ十四松であったとしても聞かれるわけにはいかない。こいつに悪気はなくとも気持ちよく他松にぺろりと教えてしまうことは充分にありえる。なんせ今回の事件とてきっかけは十四松なのだから。
「あ、いや、なにもないけど! 猫はちゃんと覚えてるし、忘れてないし、そもそも誰のことも忘れてないって。誰もそういう意味で好きじゃなかったら薬は効かないんでしょ、博士」
強引がすぎる話題転換にのってくれる程度には十四松は天使だったしデカパン博士は研究バカだった。
「そうダス。そもそも効果がでるのは相当重度の好意を抱いている場合ダス。隣のクラスの誰それくんかっこいい~、程度で忘れたら大変ダスからな」
再度胸を張るデカパン博士とひゅ~すげ~と褒めそやす十四松。
確かにすごい。薬としての出来は素晴らしいしコンセプトもあっている。恋愛感情であっても軽い好意程度では効かない、なんてどうやって判別しているんだふざけるな。
つまり。
「じゅ、重度……」
茫然と繰り返すカラ松の肩を叩きたい。気持ちはわかると伝えたい。
そっくりの兄弟相手に「相当」で「重度」の好意を抱いていた、と薬に決めつけられてしまった身として労りあいたい。猛烈に。きっと今の一松をもっとも慰めてくれるのもカラ松だ。
こんなの絶対に、記憶がないとばれてはいけない。
「そーいえば兄さん、さっき珍しいね!」
いくら十四松が天使のように無邪気で悪いことなど欠片も考えない弟であるとしても、彼もまた松野家の男である。無垢である、とは言い切れない。どころかおもしろいことには積極的に加担する方だ。楽しいことと兄への義理ならば楽しい方をとる。
このデカパン博士の発言を、一言一句正確に再現しろと言われればしてくれるだろう。相当重度の好意、と言いきっている未来が見える。記憶を戻すにはセクロス! と両手を振り上げている映像なんて見てきたように正確に一松の瞼の裏に再生できる。
「ん? 珍しいってなにがだ」
「一松兄さんがカラ松兄さんのこと名前で呼んでたの、久しぶりに聞いたな~って」
忘れていることをけして悟られてはいけない、と決意を新たにしている間にまたもや爆弾がぶち込まれる。
「そ、そうだったか~?」
「うん! ねー一松兄さん」
「え、あ、そう言われればそうかもね。……まあちょっと気分転換っていうか、その、いつもおれなんて言ってたっけ」
「ん?」
「いちおう! いちおう、聞くだけ。そういうことあるだろ十四松」
「あるかな~」
「あるある。ほら十四松、飴をやろう。だから一松の質問に答えてやってくれ!」
どう考えてもおかしいやりとりに、けれど聡い十四松はのってくれた。カラ松の飴で買収された、といえるかもしれない。
「クソ松っていつもは呼ぶよ! なんかね、あんまり一緒に出かけたりしないから今日は珍しーなって俺ついてきたんだ~」
責任を感じていたわけではなかったのか。という落胆よりもなによりも、今得ておかねばいけない情報に一松は必死に喰いついた。これを逃してはいけない。
「あ~、ほら、薬のことだったからね。昨日かかったのおれと、く、クソ松、だけじゃん」
「そうそう、ふ、副作用とか心配でな!」
「失礼な! 安全安心のデカパン印ダスよ」
記憶がなくなったり女の体になったりする薬をほいほい外部に持ち出されている時点で安全でも安心でもない。ので鼻息荒く憤る露出狂博士の言葉は無視し、一松とカラ松は十四松を両脇から挟んだ。
飴でも野球でもなんでもいいから釣って、情報を得なければいけない。普通に兄弟に対する態度でいればいいだろうと昨夜から対応していた一松であるが、呼び名からして違うなど論外だ。そもそも好きな相手なのだから通常よりあたりがやわらかいならまだしも、クソ松ってなんだクソ松って。クソがでかいのか、臭いのか。そんなのが好きだったのか自分は。趣味悪すぎない?
「じゅうしま~つ、オレは基本的に兄弟にもジェントルで紳士な男だろう? もちろんこの一松にもそうであったと自負しているが、おまえの目から見てどうだった?」
ジェントルも紳士も同じだろうが、というかなんだその話し方。胸倉つかんで泣かせてやりたい。いらっとした一松の気配を察知したのか、じょ・う・ほ・う、とカラ松は口パクで伝えてくる。それくらいはわかっている、と足のひとつも蹴ってやりたかったけれどそれがいつもの自分たちかどうかわからなかったので一松はぐっとこらえた。
大変に面倒だ。
「カラ松兄さんが一松兄さんに? 紳士かどーかは知らないけどおれはしんじてるぜーってよく言ってたよ!」
「さすがオレ、兄弟を愛する男」
「そんで怒鳴られて涙目になってたー!」
「oh……おそらくそれは天からの恵みであって涙ではないと」
「からまなきゃいいのに兄さんもこりないよね、ってトッティが言ってたよ~」
なるほど、カラ松はこの調子で一松に絡んではうざいと怒鳴られていた、と。……本当になんでこれが好きだったんだ昨日までの一松よ。思わず自ら問いかけてしまうほどに一松は自分がわからなくなっていた。
「おそ松兄さんも、カラ松が絡んだ時の一松はやばい、って」
「やばいってなに」
「知らなーい」
「そこが! 大事!!」
「いちまつっ、いちまつ!」
「ごめん、つい興奮しちゃって……」
つい十四松に迫っていたのを羽交い絞めにされ、正気を取り戻す。
やばいってのはいい意味なのか悪い意味なのかなんなのか。いやいい意味ってそれもなんだ。やばい(良)ってなに。なんでもかんでもやばいで済ますなんておそ松はいつからギャルのようになったのか。
そもそもやばいに良いも悪いないだろう。関わらせてはいけない、面倒事がおきる、そういう意味の。
「でもやっぱ仲いいね!」
十四松が満面の笑みで断言する。
「兄さん達は仲いいって俺ちゃんと知ってるんだ~」
「え」
「じゃそろそろ行くね! トッティがあんまり二人と一緒に居たらダメだよって言ってたから」
「え?」
それは一体どういう意味で、と問いかける前に嵐のように十四松は去り、残されたのは茫然としたままの一松とその背にひっついたままのカラ松。そしていいかげん飽きてすでになにか大層な機械をつくりだしていたデカパン博士のみであった。
「……えぇ??」