金と地位の次に人が欲しがるものはなにか。名誉だ。人によっては女であったり一松の想像もつかないものであるかもしれない。だが一松にとっては名誉であった。名声、でもいい。しかし悲しいかな、一松の職業はマフィアである。金をつかむために一番手っ取り早い道を選んだのを後悔はしていないが、ドンという地位を得た今、次に欲しいものへの道のりがいささか険しすぎる。
ファミリーをイタリアで一番巨大な組織にする、密売といえばと名を売る、教会を囲い込み印象操作をする、大規模な寄付をしてみる。思いつくことは荒唐無稽であったり莫大な金が必要であったり、まるで現実味がない。何代も続く由緒正しいファミリーであれば名も知られていただろうに、一松の継いだファミリーは先代が起こした小さなものである。せめて正規の後継であれば他ファミリーとの繋がりを期待できたかもしれないが、父親を背後から撃った妾の子と連携してくれるような豪気な男はどこにもいないらしい。名ばかりか。情けない。
小さなファミリー。周囲からは信頼できない男として侮られながら、一松は欲しいもののために必死に働いた。まずは金。金がなければなにもできない。金を稼ぐために、己のルーツも外見も利用して市場の新規開拓に励んだ。そして地位。裏切り者、親殺しと唾を吐きかけてきた周囲のファミリー達を崩壊させ乗っ取り丸飲みする。下に見ていた男に下克上されその身を守る兵隊になるしかないのだ。ざまあみろ。一松の名前すら覚える価値がないと聞かなかった男がドンと呼ぶ。一松が命じれば死ぬ。これが地位だ。権力だ。
自らの努力で求めているものを手にした一松は、その夜ことのほか機嫌がよかった。
一松が働きかけ開拓した日本という市場はイタリアンマフィアの手はほとんど伸びておらず、マフィアに代わる極道とやらは様々なものに縛られ身動きがとれない。横からすいと手を伸ばしマーケットに食い込むことは至極簡単であった。これでまた金が手に入る。金を手にし、上手く使うことで地位も揺るぎないものになるうえ、この地にはイタリアの噂話など届かない。表向きの適当な会社を経営し慈善活動を行うことも、恐ろしいマフィアとして名を馳せることも可能だろう。
だからだ。とても機嫌がよかった。あとは、そう、月。
美しい月が冴え冴えと下界を照らしていたから、彼の顔がよく見えた。
一松の同業者であろう男達に追われるみすぼらしいスーツの男。安っぽい型くずれしたジャケットにしわくちゃのシャツ、ゆるんだネクタイ。惨めで弱々しくて情けない、敗者の証のような服。それに包まれているのは一松と瓜二つの顔であった。
「なんだあれは」
思わず母に教わった日本語を口にし、慌てて咳払いでごまかす。車内にいるのはイタリアの一松子飼いの部下ではない。日本にて友好の証として贈られた日本人だ。独り言はすべて通じてしまう。
案の定、耳にしていた運転手が気を利かせて、鬼が多勢のおにごっこに車を近づけた。別段興味はなかったが、少しくらいのぞいて見せないと気が悪い。こういう妙に察しのいいところが一松には苛立ちを運ぶ。ぼくにはぼくのペースがあるのに、勝手に先走らないでほしい。それを袖にするには一松の権力はまだ足りない。やはりもっと努力しなくては。
近くで見た男の顔は、やはり一松とよく似ていた。ひどく痩せているために頬はこけ、身体も薄く貧相だ。だがもう少し太り適度な運動でもさせれば、よほど親しくない限り見間違えるだろうほどには。
しかしそんなことよりなにより一松を引きつけたのは、男の目であった。
黒い瞳に月明かりがひらりと入り、星がまたたく。胸を突くような強烈な感謝の意。目は口ほどにものを言う、はこの地の諺であったか。確かにその通り、男の目はひたすらに一松への感謝に溢れていた。
なんの混ざり物もない、純粋な、ただそれだけの。美しい清水のまだ上澄み、作りたてのジェラートの一口目、オーダースーツに腕を通すあの一瞬。一松を高揚させがむしゃらに努力する気にさせる、麻薬のようなそれ。
男の目に溢れる感情を、もっと。
「・・・・・・へえ、鏡みたいだな」
金は大切だ。大抵のことは金がかなえてくれる。そして金があると地位も得やすい。地位があれば金だけで難しいこともどうにかできる。そう一松は信じているし、実際のところそうなのだ。
だから男を一人手に入れようとしても、可能だ。それくらいの金と地位は得ている。お誂え向けに男に身内はないらしい。もしかしたらこれは一松への粋なプレゼントかもしれない。そう考え笑ってしまうほど、その夜の一松は機嫌がよかった。
◆◆◆
かつん、とペンを置いた音にびくりとしたボディガードを睨みつければ視線を逸らされる。あれは使えない、リース先に戻そうと決めため息をつくも気が晴れるわけでもない。貸し出された人間は役立たず、連れてきた部下は少数のため各自用を言いつけこの場にはいない。ちょっとしたことがすっと通じない状況は、思っていた以上にストレスが溜まる。しかし命じたのは一松であるため誰をなじるわけにもいかない。
こんな時いつもなら、カラ松の元へ行っていた。
月夜に拾ったみすぼらしい男は、松野カラ松と名乗った。少し自分と似た名に、顔だけじゃないとおもしろく思ったのを覚えている。家族も恋人も持たず仕事に打ち込む日々など生きている意味がない、と生粋のイタリア人なら考えるだろうが似たような毎日を送っていた一松は少々親近感すら抱いた。やはり半分とはいえ同じ国の人間だからだろうか。
雇うといえばきょとりとした目で、そのくせ期待に満ちた色をのぞかせる。条件を付け加えるたびきらきらと光る瞳、なんていい人なんだろうという感謝のまなざし。
これだ。一松の求めていたもの。
名誉ではないけれど、名声とも違うけれど、あなたがいてよかったうれしいというダイレクトな感謝。慈善事業で得られるかもしれない、得られないかもしれない、とても遠い未来に大量の金を使い買う感情。
ただ一人の男を飼うだけで、一松にだけ向けられるこの目が手に入る。
食事を、住む場所を、衣服を与えた。とんでもない感謝が降り注いだ。暇だろうと時間つぶしを与えた。イタリア語を学ばせたのは、感謝の言葉を祖国の言葉で聞いてみたかったからだ。予想通り、たどたどしいお礼の言葉は拾って七日目に聞いた。まるでなってない発音に、笑いをかみ殺すのが大変だった。酒を初めて与えたのは十日目だ。酔えばたがが外れ、もっとストレートな感情が出るかと期待したのだ。実際はすぐに酔いつぶれたカラ松をベッドに運んでやる羽目におちいったのだが。
一松以外との接触を避けさせたのは、独り占めするためだ。あの圧倒的な感謝、よろこび、まるで救世主でも見るかのようなまなざし。あれを向けられるのは一松だけでいい。カラ松を飼い、金を出しているのは一松なのだから、他の男に向けていいはずがない。もったいない。
感謝以外のまなざしも心地よいと知ったのはいつだったろう。会話相手が一松しかいないためか、部屋を訪れればいつでもとんでもなくうれしそうに出迎えてくれた。尾を振る犬のようだと揶揄しつつ、浮かれなかったわけじゃない。一松はずっと、生き物を飼ってみたかった。柔らかで温かい、一松に寄り添ってくれるなにか。必ず殺されるからけして手に入れなかったけれど、するりとすり寄る猫や駆け寄ってくる大きな犬が欲しかった。一緒にベッドに入ればどれほど安眠できただろう。あの夜もあの夜も、必死に目を閉じ夜明けを待ったすべての夜に温かいなにかがいてくれたら。
酔いつぶれたフリをしてソファに横たわった一松を置いて、行かなかった。
カラ松は毛布をかけ足下に座るだけで、部屋を出ていかなかった。
室内にボディガードはいなかった。部屋の鍵は開いていた。外に男が立っているといっても、ドンが大変だとでも騒げばカラ松から目は離れる。なんせこれは何の役にも立たない男。無駄飯食いで、ドンの気まぐれだ。そんな男のことに、一松の様子がおかしい状況で目を配ることはない。
逃げられたのに、逃げなかった。温かい毛布をかけ、ただ体温を分け与えるように傍に座った。
きっとカラ松の目は今、感謝の念で光ってはいまい。よろこびでも尊敬でもない。これまで一松に向けてくれていた感情ではない。
けれどとても心地よかった。
ずっと憧れていた、猫や犬のいる生活はきっとこういうものだろうと心安らかに一松は意識をとぎれさせる。
それから何度同じことを繰り返しても、カラ松はやはり同じ行動をとる。それに一松はいつのまにか、ひどく安心するようになっていた。
違和感を抱いたのは最近だ。
滞在日数も六十日を過ぎ、目処が立ったためイタリアへ戻る準備を進めているここ数日。
生活は変わらず、軟禁されているというのに気にもとめずのんきに過ごしているらしい。ボディガード兼見張りには話しかけず、ひたすらイタリア語と運動、ボードゲームやカードのようなちょっとした娯楽。一松が訪れても嫌な顔をするわけでもおびえるわけでもない。これまで同様、心底うれしげに迎え会話し眠る一松の傍にいる。
驚かせてやろうと「イタリアへ帰る。おまえも行くんだ」と告げた時、驚愕より納得の色が強かった顔だろうか。イタリアでの勤務が初出勤になるな、と笑った声だろうか。相変わらずぴかぴかと一松への感謝が光る目。すごいな、ありがたいな、助かるな、さすがだな。純粋な好意ばかりのまなざしは何一つ変わっていないのに、一松はそのためだけにカラ松を飼っているのだから気にする必要などないのに。
どうしてか苛立ちが収まらない。カラ松のなにかに納得がいかない。わからないのに、だからこそ、この感情をどう処理すべきか混乱する。
いいのか、と問うた時にあまりにあっさり肯かれたからだろうか。いきなりホテルに拉致監禁され、仕事は勝手に辞めさせられ、次はイタリアへ連れて行かれる。普通少しは戸惑ったりすべきではないのか。「だってオレが断れる話じゃないんだろう? 転勤族だと思えば別にそういうもんだし」確かにカラ松が断れることではない。一松が決めたのだから粛々と実行される話で、彼の態度は誉められこそすれ諫めるようなものではない。
納得できない。なにかがひっかかる。苛立つ。だけどそれをカラ松にぶつけるのは間違っている。彼の態度は正しく、怒りをぶつける隙などない。
一松は能力主義だ。どんな家柄でも、血筋でも、元敵でも、能力があれば使うしなければ捨てる。見逃しも甘えも口出しも許さない。生まれながらになにを持っていても、関係ない。与えた業務をやりとげる人間でさえあればいい。つまりカラ松は十分な成果を上げている。この苛立ちは一松が処理すべきもので、彼にあたるのも問いつめるのも違う。そんなことをしてしまえば、これまでの一松を否定してしまう。いっさいこちらを認めなかったクソゴミ野郎共と同じモノに成り下がってしまう。
だからあの部屋に行くことができない。
彼の顔を見ればきっと問うてしまうだろう。苛立ちを隠せないだろう。なぜ、と。なぜ受け入れる。なぜ拒否しない。なぜ戸惑いすらしない。なぜ。
なぜ、なにも訊かない。
『・・・・・・は、お笑い草だな』
訊いて欲しかったのか。
ほろりとこぼれ落ちた本音に一松は脱力した。だらりと背もたれに身を預けるも、今度はボディガードはこちらをちらとも見なかった。学習するらしい。
自分語りは嫌いだった。自慢話につきものの身のない歓声は虫酸が走るし、過去を口にすれば哀れまれる。これまでもこれからも、一松のものをどうして他人に分け与えなければならない。たとえ話ひとつであろうと、メリットもなしに誰かにやるものなど一松は持たない。
その自分が、訊かれたがっている。
他でもないあの男。身ひとつ以外なにも持たぬ、ただただ一松に感謝の念を送るだけの生き物。食べて寝てゲームをして、そういえば最近は歌うこともあるらしいと報告にあったか、それだけの。それだけの男に、興味を持って欲しがっているのか。一松は。
小さい頃の話を聞いた。好きなもの、嫌いなもの、楽しかったこと、怖かったこと。誰も殺さず誰も裏切らず誰の頭も踏みつけない、やわらかで優しい平和な話。低い声でゆったり語られるそれは、存外子守歌に似ていた。
同じように、カラ松からも問うて欲しかった。一松に興味を持ち、この先を知りたがって欲しかった。
その理由に気づかぬフリをするには一松は慣れていなかったし、なかったことにするには経験が足りなかった。
『なんてこった、くそったれ』
金と地位の次に欲しいモノは名誉だ。そうであったのだ。そのはずなのだ。金があれば大抵のことはできる。地位があれば金だけでは難しいことも可能になる。だから一松は、身よりのない一人の男を手に入れた。それくらいはできるから。
ではその男の心を手に入れたい時はどうすればいい。
なにをすれば、あの男はこちらを向くのだ。
カラ松が姿を消したという報告を受けたのは、一松が彼への感情を認めた十日後のことであった。
◆◆◆
くぐもった音と共に目の前の鉄骨が火花を散らす。もっと派手にパンパンと鳴れば誰かが通報してくれるかもしれないのに、サイレンサーをつけているのだろう、ぽしゅんと気の抜けた音しか響かない。
いや、試験なのだから人が集まってはまずいだろうとカラ松は自分を諫めた。つい楽な方に考えてしまう。いけない。これに合格すれば晴れてドンの影武者として雇ってもらえるのだから、がんばらなくては。
音を出さないよう頬をはたくのは諦め、ぐっと拳を作ることで気合いを入れる。ここが正念場だ。今こそ試用期間のすべてを解放すべき時。
目の前には完成間近で工事中止となったビル。あちこちでむき出しになっている鉄骨が廃墟感をより強めている。電気はついていないがガラスの入っていない窓から差す月明かりでなんとか動けそう。背中にはコンクリート製の頑丈な壁。ただし門は開いたまま、追っ手は着々と迫っている。
先程ので五つ目の火花。カラ松一人に多いのか少ないのかわからないが、映画のようにドンパチするわけにもいかないということだろうか。まあ確かに銃弾もタダではあるまい。
『それで終わりか犬っころ! 腰抜けはさっさと帰ってママのおっぱいでも吸ってな』
常より少し高めの声を意識する。語尾は上がり目で歌うような罵倒。最後にあからさまに馬鹿にして鼻を鳴らしてやる。
完璧だ、とカラ松が自画自賛する前にチュインともう一度火花が散る。どうやらオッケーらしい。六発目の銃弾を拍手代わりに一目散でビルへ駆けたカラ松は、階段に足をかけながら背後をちらと確認した。三人と、一人と、一人。最後の一人は見張りとして門前に立つのだろうか、急ぎもせずふらふらと歩いている。
わあわあと騒ぐ三人と、後ろに一人。拳銃は最後尾をゆっくり歩いている男の手にしか見えない。手のひらに収まるくらい小さいのに簡単にカラ松を天国に連れて行ってくれるなんて憎いやつだ。
いや、違う。あれはドンを連れ去ってしまう憎むべき敵だ。
これは試験だけれど、実際にカラ松が業務に出る際は問答無用で命を狙われるのだ。ドンが。だからこそのボディガード、それでこその影武者。あの人の代わりに殺されることが役目。だからつまり、カラ松が元気でいればいくらでも影武者になれる。ドンを危険な場所にやる必要がなくなる。そういうことだ。なんてやりがいのある仕事。
「好きな人を守れるなんて、サイコーじゃないか」
クローゼットに入っていたものとは別に、服が届いた。仕立てのよいスーツや肌触りのいいシャツ。マフィアのドンが着ていそうな。
抱えられないほど大きな花束も、高価なワインも、色とりどりのお菓子も。どんどんと運び込まれるそれらに呆然としているカラ松に、さすがに説明がいると思ったのか「ドンからだ」と告げた黒スーツは親切なのだろう。うん、でもそれは知ってた。ここにカラ松がいると知り、なおかつこんなものを買い与えるのはドンしかいない。
ただ、なぜこんなものが運び込まれるのか、だ。その疑問も香水が届いた瞬間に溶けた。
ドンの着ていそうな服。彼の愛用している香水。とうとう始まるのだろう、影武者としての業務が。ではお菓子やワインは応援のつもりだろうか。さすがイタリアの男は贈り物まで違う。カラ松ならつい栄養ドリンクを箱で贈っているところだ。こういうことも学んでいかなくては。
息を切らしながらも階段を上る足を止めない。背後からは追いつめたと思っているのか、余裕そうに笑いながら追ってくる足音。確かにこのままでは最上階に追いつめられておしまいだ。タワーマンションというわけでもない、五階建てのビルはすでに三階まで制覇されている。
カラ松の持っている物は、白いスーツの上下と白い革靴、鮮やかな青いシャツ。胸ポケットにサングラスがあるのは、部屋でファッションショーを一人で開催中に押し込まれたからだ。まさか黒スーツがいきなり手を引いて連れ出すなんて想像もしないじゃないか。戸惑うカラ松の頭に銃口をつきつけ、敵対組織に渡そうとするなんて。
こういう世界に彼は生きているのだ。ボディガードにさえ裏切られる可能性がある、そんな毎日。そりゃ影武者の一人や二人必要だろう。ぐるぐるとひたすら混乱していたカラ松は、黒スーツに車に押し込まれ誰かと電話で話している間にやっと考えをまとめた。
なるほどこれは卒業試験か。
卒業に語弊があるならば本採用できるかどうかの就職試験。試用期間もそろそろ終わる今、影武者として使えるかどうかテストされているのだ。どれほどイタリア語が堪能でも外見が似ていても、現場で「オレは偽物だ」なんて言うようじゃ使えない。襲撃は予告されるわけもない。では合格ラインはどこだ。なにをすればテストに受かる。
『なんのつもりだ』
『おまえを連れてきゃ俺は安泰なんだ。悪いようにはしないからおとなしくしておきな』
ドンらしく口を開いてみればつらつらと言葉が返る。下っ端か。悪いようにしないと言っておとなしくする馬鹿がどこにいるのだ。どう考えても悪いようにしかされない。
新興マフィアだ、と聞いたことがある。仕事に追われるドンに、酒でも飲みながら猫を抱いてる暇そうなイメージしかなかったと口にしたとき、歴史のない小さいファミリーだからと。全力で皆でやらないとやっていけないのだと笑いながら。
ドンが中心だ。カラ松が雇われる予定のマフィアは、ドンがいないと立ちゆかない。それくらいはホテルから出なかったカラ松だってわかる。三ヶ月近く、彼だけを見ていたのだ。
そんな男を連れだして、悪いようにしないだと。もしここにいるのがカラ松でなく本物のドンであれば、いくつかの仕事が滞っているはずだ。もうとっくに悪いようにしている。
どうすればいい。なにをすれば合格になる。命を捨ててはいけない。これはあくまで試験で、本番はこれからだ。せめて三ヶ月分のホテル代と食費くらいは回収してもらわなければ、カラ松とて気持ちよく死ねない。同じ理由であまりに大きい怪我も避けるべきだろう。イタリアへ行けばすぐ業務に入れるよう、一目見てわかるような傷を作ってはいけない。
裏切りを、伝える。逃げてドンに裏切り者の存在を伝える。これはどうだろう。先程黒スーツは、電話で相手に連絡をとっていた。相手の名も呼んだ。本来、もっと気をつけるべき行動のような気がする。さらった相手が誰かなんて、ドンの前で口にするのは油断しすぎだろう。
ヒントだ。
あからさまなくらい優しい、これはヒント。ワインに酔ってはふにゃふにゃ笑う彼なら出してしまうかもしれない。もっと厳しくした方がいいぞ、と忠告するのはこのヒントでカラ松は助かっているので難しい。
試験の合格ラインは、怪我なくホテルに戻ること。ドンにさらった相手の名を告げること。これだろう。隙をついて逃げればよいのだから、社畜時代ならともかくすっかり健康体になった今ならさほど難しくはない。
そう、難しくないのだ。
『ようこそ。待ちすぎてお茶のひとつもできたんじゃないかと後悔しているところだ』
最上階、踊り場で窓を背に出迎えてやれば下卑た笑い声が響く。彼らには滑稽なピエロにしか見えないだろう、確かに。けれど勝算もなくこんな場所に入り込むほどカラ松とて愚かではない。こういったシチュエーションは学生時代によく経験しているのだ。
四階まででしか試したことはないが、おそらくいける。失敗するビジョンが見えない。なんせ今のカラ松はやる気に満ちあふれている。
「愛の力、ってやつはサイコーだ」
ぼそりと一人ごちて距離を測る。なるべく彼らがひとかたまりで、できれば一列に並んでくれるとすばらしい。必要なものは勢いと、度胸と、そして運だ。大丈夫。今夜はきれいな月がでている。ドンと出会ったあの夜のように。だからツいている。きっと成功する。
あの夜からカラ松はずっと、絶好調にツいている!
◆◆◆
目の前で起こった出来事を正しく認識できない。
一松はかかしのように突っ立ったまま、慌てて駆け寄ってくるカラ松を見た。
「ドン! もしかして制限時間もあったんですか!? 時間過ぎちゃいましたか!??」
意味の分からないことを口にしているが、もしかしたらカラ松も混乱しているのだろうか。五階なんて高さから落ちてきたらそりゃ脳味噌も揺さぶられ訳の分からないことも言うだろう。
取引中に、突然カラ松が消えたと報告がきたことがまずおかしかった。一松は仕事とプライベートをきちりと分けるタイプだ。カラ松についての報告は妙に笑いがこみあげることが多いため、常に仕事終わりの車内で受けている。なんせ本日は自作の歌を歌っていました、コップに水を入れ演奏しています、などと真面目に告げられるのだ。いい年をした大人がいったいなにをしているのか。あまりにおもしろかったのでギターを差し入れれば、いつの間にか奇妙な柄が追加されていた。デコっておきました、じゃねえよ。なにいい笑顔してるんだこんなギラギラしたギターおまえ以外持てねえよ。
ぴくりとまぶたを震わせた一松になにを見たのか、取引相手は急ににやにやと強気になった。お気に入りの子猫が行方不明のようですね、ところでうちの若いのがさきほどかわいい子猫を拾ったらしくて。使い古された手だ。一松もしょっちゅうやる。なんせ手軽で効果が高い。まさか自分に使われると予想もしていなかったけれど、端からは彼が弱みになると見られたのだ。
まったくもってその通り。おまえの予想は正しい。一松の心は落ち着きをなくし、もしカラ松を失えばと怯えおののいている。歴代の被害者たちはこんな気持ちであったのか。これは効く。これからもどんどん使っていこう。
だらしなく笑う男の眉間に一発。たったそれだけで片が付いた。なにが起こったのかわからぬままにこの世を去った取引相手は、未だ笑顔のままだ。着眼点はとてもよかった。行動力もある。きっととてもよい取引相手になれただろうに、ただ一点、一松の逆鱗の場所を見誤ったのが敗因だ。惜しいな。
戸惑う現場を掌握し、情報を集め、カラ松が逃げているであろう場所まで車を飛ばした自分をらしくないと一松は理解している。部下達が困惑していることも。けれど、こんな自分も悪くないと思ってしまうのだ。だってきっとカラ松は、一松を見ればぴかぴかの笑顔で尊敬のまなざしを向けてくる。助かった、ありがとう、さすがだ。いきなりさらわれ恐ろしかった、意味が分からなくて怖かった、そんな話をじっくり聞こう。吐き出して、落ち着いたら。そうしたら、今度は一松の話を聞いてほしい。おまえが消えてどれほど絶望したか、世界が暗くなったか、そういう話を聞いてほしい。
だからそのためにも、間に合え。
飛ばしに飛ばした車がひっそりした廃墟に着いたのは、まさにカラ松が窓から身を踊らせた瞬間だった。
白いジャケットが夜空にはためく。月の光を浴びた姿はまるで天使のようで、重力に負け地に落ちるのは羽をもがれたかのようだった。
カラ松の手は見知らぬ男の手としっかりつながれている。勢いに巻き込まれ窓から転げ落ちる男の足を別の男がひっつかむ。しかし成人男性二人分を支えきれるはずもなく、一人目と同じように窓から落ちていく足をもう一人がまたつかむ。まるでロープのようにつながった男達の先、一番下にはカラ松。四人目の男の上半身が窓から出た瞬間、痛いくらいにつないでいた手を離しブランコから飛び降りるように地についた。
「あの、怪我とかいっさいしてません! 相手の名前も覚えてますし、その・・・・・・時間、五分くらいなら大目に見ていただけると・・・・・・いや、あの、三分! 三分ならどうでしょう!?」
「え、あぁ・・・・・・怪我ないなら、うん、イイケド」
「本当ですか!? やった、合格だ!」
いったいなにを言っているのだ。三分ってなんだ、そういうヒーローが日本にはいたようないないような。未だ窓から垂れ下がり死にそうな声をあげている奴らをボコボコにする時間が三分ということだろうか。混乱する一松に、あろうことかカラ松はほろりと涙をこぼした。
「うれしい。これでずっとあなたといられる」
わからない。つかまって逃げた、それはいい。しかし五階から飛び降りるって命を無駄にしすぎじゃないかとか、妙に慣れていないかとか、そもそも制限時間だの三分だのなんの話だとか、カラ松がなにを見どうしたのかがさっぱりわからない。けれど今、そんなことは考える必要もない。
ずっとあなたといられる。そう言って涙を流す愛しい人を抱きしめずしてイタリア男を名乗れるわけがない。
いや、違う。一松がそうしたいのだ。国は関係ない。一松がただ目の前の男を抱きしめたくて、涙をとめてやりたくて、でも彼が自分を思って泣いていると思えばどうしようもなくうれしくて。
『俺のだ』
この男は一松のものだ。愛しい、かわいい、離せない。彼の感情が他に向くなんて耐えられない。感謝も、よろこびも、怒りも悲しみもすべてすべてすべて。一松にだけ向けられなければ耐えられない。
『もちろんだ、ドン』
耳の横でうれしげに弾む声。ああ、カラ松もそう望んでくれている。一松を求めてくれている。
『オレの命はあなたのものだ』
熱烈な告白に、一松の心も燃え上がる。誰も愛せない氷のような男だと言われていた。どこがだ。こんなにも指先は熱を持ち、心臓は早鐘のよう。腹の底からよろこびが唸りをあげる。
カラ松にも伝えたい。一松のこの幸せを、うれしさを、同じ熱を。彼の好みそうな気の利いた告白の言葉を探していた一松の目に、ふと飛び込んだのは明るい月の光。空にはぽかりと光る黄色。
「月が、きれいだ。カラ松」
愛している。日本ではそういう意味なんだろう?
知った時はなんの役にも立たないと打ち捨てていた記憶が、言葉にすればなんていとおしい。
耳に髪の毛がさらりとふれ、カラ松もまた空を見上げたのだとわかった。
「ああ、本当に。あなたにあった夜のようだと、さっき思っていたんだ」
「運命的だな」
おそらくはこの恋は運命。
カラ松は一松のためにあの夜現れたのだ。
「・・・・・・こういう夜は、ツキがあるんだ」
今夜もサイコーにラッキーだった。にこにこと笑顔のままするりと身体を離したカラ松は、追う一松の手を不思議そうに見てからすっとお辞儀をした。
『これからよろしくお願いします』
わざわざイタリア語で告げる律儀さがかわいい。そのくせ態度は日本式で大和撫子なところがそそる。お辞儀なんて挨拶なんて、他人行儀であるし恋人として接したい一松にはじらされているようにしか思えないけれど、それはそれで大変によろしい。
笑うカラ松にときめきで心臓を痛めながら、一松はさりげなく腰を抱いて車にエスコートした。ほんのり香る自分の愛用している香水がたまらない。自分色に染めたいのがあからさますぎるかと迷ったけれど、やはりプレゼントに香水を選んでよかった。
お互いの認識の齟齬から対応を間違い混乱におちいるのは、イタリアに飛んでから十日目のことである。