「薔薇は好き?」
ピカピカ光る革靴はおろしたてのようで、地面など一度も歩いたことがないように見えた。薔薇園なのに不思議だな、と今更の疑問を抱く。
声を出す気力もないこちらに気づかぬのか、気にも留めていないのか。声の主はもう一度同じことを問うた。
「おまえは薔薇が好きか?」
夜風に紛れ消えゆく声。好きだと答えればなにか変わるのだろうか。例えば家に賊など押しかけず、父も母もメイドの皆も飼っていた猫も、明日もこれまで通り笑っておはようと言う、なんて。まさか。
「覚えておくといい。恋人には薔薇を贈るものさ。おまえももう少し大きくなればわかるよ」
この花は愛の証さ。だから好きなんだ。
先程までの惨劇がまるで夢であったかのようなのんきな言い草。子守唄のような緩やかな声。
とろりと瞼が落ちる。もう応えるだけの気力がない。でも、最後に聞いたのがこの声で良かった。よくわからない問いかけで毒気が抜かれたのか、穏やかな気分でこの生を終わらせられる。
ありがとう。さよなら。バイバイ。
「そうか、よかった」
力の抜けた首の動きが肯定のように見えたのだろうか。
違う、と否定することもできない。もう声が出ない。でもまあ構わないだろう。どうせこのまま死んでしまうのだから。
◆◆◆
ぱちんと目を開けば天国にいた。
白くてサラサラしたシーツ、軽くてふかふかした布団、跳ねれば跳ねるだけ楽しくなるベッド。身を包むのはシーツと同じ白の、だけどもっと分厚いもこもこした……これはなんだろう、ガウンと呼ぶのだろうか。ボタンやファスナーではなく、同じ素材がベルトのようについている。
「ああ目が覚めたの、非常食」
音もなく開いたドアから顔を出したのは、なかなかに個性的なルックスの持ち主だった。長靴と身体全体を覆うような長いエプロン。確か肉屋がこんな格好をしていなかっただろうか。肉を切り分けるから服を汚さぬように、と。そう思いつけば両手の皿も一気に恐ろしいものになった。あそこに乗るのはつまり、ということなのか。ヒジョウショク、は非常食なのかやっぱり。
それにしても顔の白いマスクは一体何だ。喉を守るためなら口元だけのもっと穏やかなものがあるだろうし、返り血を気にするにしてもごつすぎる。目と、あとはポツポツ開いた穴しかないそれは、顔全体の防御力を上げてはいるがこの部屋には似あわない、まで考えてからもう一度ぐるりと周囲を見回す。
「……どこだここ」
「おれの家」
「えっ」
「まあおれのって言うか、留守を任されてるだけですけどね。で、昨日見回りしてたら、おまえがぶっ倒れてたんだけど」
倒れていた。なぜ。そもそもこんな立派なお屋敷(だろう、この部屋だけ見てもそれくらいわかる)に来る用事など思いつかない。
「ぱっと見空き家に見えるから、肝試しに来る馬鹿は結構いるけど」
肝試し、だったのか? 友達と? 思い出そうにもひっかかりのひとつもなく、首をひねっていればマスクマンからもう一つの案。
「あとはコソ泥かな。金目の物があればラッキー、って売り飛ばすつもりで」
きゅうと心臓が妙なきしみ方をした。
まさかそれか。ビンゴなのか。寝起きで記憶があやふやなため自覚がなかったが、どうやら自分はこの屋敷に盗みを働こうとしていたらしい。
それがなぜベッドに寝ていたのだろう。
「まあなんでもいいけど。起きたならこれ」
マスクマンがベッド横のテーブルに置いた皿からは、ひどく魅力的な匂いがした。おまえの首を乗せるぞという脅しじゃなかったのか。
つい飛びつきそうになって、慌てて身を引く。
「……手、見せて。うん。口も開けて。……ぼろぼろだね、おまえの歯」
「は?」
「そんなので食べられるの」
「大丈夫だ! なんの問題もない!! です!」
食事を与えてもらえそうだとわかれば、どれだけでも猫をかぶろう。丁寧な言葉だってちゃんと使える、まかせてくれ。
いつもなら手に持てる分だけ抱えてすぐ逃げるが、今はなぜか身体が重い。知らぬうちに怪我でもしていただろうか。よくわからないがベッドに寝ているということは、すぐ叩きだされることはない。たぶん。あせってボロを出して食事抜きにされるくらいなら、少しくらい我慢する。できる。
しかし口の中がなんだというのだろう。歯がぼろぼろ、とは。皆と変わらないはずだけど。
手渡された皿に直接口をつけたのを見たくせに、マスクマンはなにも言わず手にスプーンを握らせた。行儀が悪いと怒っているのか気にしていないのかわからない。なにも言わないから構わないのだろうか。マスクのせいで表情が読めないから、いまいち探れない。できれば目の前のスープを飲み込むまでは怒らないでいてくれるとありがたいのだけれど。
取り上げられる前に、とパンを口に詰め込めばマスクマンは音もなく立ち上がった。
「食べ終わったら、寝る前にうがいだけはちゃんとするように。水差しはここだから」
「んぐっ、う」
「口の中に詰め込みすぎるからそうなるんだよ。誰も取らないから落ち着いて食べな」
誰も盗らないって、なんでだ。
聞こうにも口の中がいっぱいで、声のひとつも出せやしない。慌てるこちらを気にもせず、マスクマンはドアから出て行ってしまう。え、なんで。本当になんで。どういうこと。これからどうしたらいいんだ。この天国みたいなベッドでまた寝ていていいってことだろうか。
コソ泥の可能性が高い自分が?
「おやすみカラ松、また明日」
ドアを閉め、足音が遠ざかる。鍵を閉めた音がしていない。
聞き慣れぬ名で呼びかけたマスクマンは、部屋の鍵をかけなかった。コソ泥を野放しにするなんて、不用心にも程がある。いや肝試しの可能性もあるけれど……ないとは言えない、けど。でも。金目の物はないから気にしない、ということだろうか。
というかカラ松とは誰だ。自分のことだろうか。いや彼は最初に非常食と呼んだ気がする。非常食? マスクマンの食事か?? 食べるつもりならますますこの状況がわからない。コソ泥でも非常食でもどちらにしろ、ふかふかのベッドの上に転がし部屋に鍵さえかけない理由はなんだ!?
◆◆◆
真っ白に洗いあげられたバスローブに腕を通し、たくさんのナイフやフォークが並べられた席に着く。
今のカラ松はこれがすべて食事の時に使うものだと知っているが、最初は訳がわからなかった。食事などフォーク一本あれば事足りる、なくとも手があれば何の問題もない。そう思っていたし、実は今も考えは変わらない。でも、ジェイソンがこうして並べてくれているから使おうと思うのだ。きちんと。
「美味しそうだな! いただきます」
一人きりの食卓だけど、別に無言で食べなければいけないわけじゃない。実際、なにも言わないより美味しそうと言った方が美味しい気がする。食べ物が腹を膨らませるだけじゃなく美味しいと言えるものだってことを、ここに来て初めて知った。
少し硬くなってしまったパンと冷めたスープ、ソースのかかった肉はなんという名前だったか。図書室に行けば料理の本もあるだろうからわかるけれど、調べてまで知りたいわけじゃない。ここにジェイソンがいれば会話のきっかけになっただろうか。いや、もっと聞きたいことは他にたくさんあるから、料理の名前なんてどうでもいい。
ねえ、昼間にいないのは働いているから? なにをしているの? どこで働いているの? どうしてマスクをしたままなの? こんなに広い屋敷にメイドの一人もいないのはなぜ?
「今日は図書館で昨日の続きの本を読んで、昼食は外で食べようかな。このパンに肉をはさんで持って行けばピクニックみたいだろ。木陰で昼寝して……ああそうだ、オブジェの続きも作らなきゃ。楽しみにしててくれって言ったからな」
つらつらとあげる予定は、昨日とさほど変わらない。一昨日も。たぶんその前だって。
屋敷に盗みに入ったコソ泥をなぜか拾うことにしたらしい変わり者のこの館の主人は、ジェイソンと名乗った。ホラー映画の登場人物らしいけれど、あいにくカラ松は見たことがないのでよくわからない。怖がらせるつもりだったのか、首をかしげるこちらに肩をすくめた彼は、少しがっかりしているように見えた。マスクで顔が隠れているけれど、動作が正直なので慣れればそれなりにわかりやすい。
「ジェイソンが帰ってきたら一緒に夕食だ」
呼び捨てで構わない、と言われた当初カラ松はもちろん拒否した。たとえ同い年でも、こんなお屋敷の住人を呼び捨てなんてできない。そしてジェイソンはどう見てもカラ松より年上だ。顔はわからないけれど、身長が違う。大人の体格をし、こんな立派な屋敷に一人で暮らす彼を呼び捨てるなどできるわけがない。
断るカラ松を説得したのは肉だった。いや仕方ない、わかってほしい。焼きたての肉のすばらしい匂いを知っているだろうか。あれに逆らえる人間がいたら顔を見せてほしい。食欲に負けただけだって? その通りだ。でもそもそも、負けてなにが悪いのか。悪くない。だってなにも悪いことはおこらない。ジェイソンは希望が通るしカラ松は美味しいお肉を食べられる。なら、呼び捨てできるならこれをあげようと言われた皿に飛びついたカラ松は悪くない。そうだろう?
たぶん暇なのだろうな、と思っていた。
人気のない森の奥、ひっそりたたずむ洋館と薔薇ばかりの庭。家事は外注しているのだろうか。メイドの一人もおらず、彼がすることといえば庭いじりくらい。昼間は姿が見えないから仕事だろう。こんなに立派な屋敷に、ただ寝に帰ってくるだけの毎日。
迷い込んできたカラ松は、そりゃいい娯楽だろう。灯のともった部屋に帰り、とりとめのない会話をする相手。これまでの人生には存在しなかっただろう暮らしの人間。
金持ちというのは暇つぶしにも金をかけるのだなぁ、としみじみ驚く。カラ松が暇をつぶすなら、蟻の行列の邪魔をするか橋の上で次に通りがかるのは男女どちらか当てるゲームをするだろう。つぶす暇など持ったことがないけれど。
拾われた初日、どうしていいかわからずベッドのシーツを借りて部屋のすみっこで寝た。出て行く前に少しだけ、と台所の隅に落ちていたかびたパンを懐に入れ、自分の服を探していたカラ松に与えられたのはげんこつ。せいぜい涙目になるくらいの、軽い痛み。朝食はこっち、覚えて。腕を引かれ連れて行かれた食堂にはずらりと並んだナイフとフォーク。なみなみと注がれたトマトジュース。前に座りいちいちどれを使うのか教えるマスクマンの声に苛立ちはなく、カラ松は目を白黒させた。なんだこれ。どういうことだ。パンは噛みごたえがあったしスープは少し冷めていた。黄色いオムレツにはチーズが入っていて、添えられたソーセージは食べたことがないくらいジューシー。わからないけれど、とにかく全部腹に詰め込んだ。
朝起きたら部屋に置いてあるバスローブ(と呼ぶらしい。ガウンじゃなかった)を着る。足元がすかすかして変な感じだけれど、他に服もないから仕方ない。食堂に向かい用意してある朝食をとり、うろうろと時間をつぶして夕方に現れるジェイソンと夕食を共にし寝る。何回かそういう日を過ごし、怪訝そうな顔をしたジェイソンに風呂に入っているのか問われ首を振って以来、そこにシャワーが加わった。
三度泡で流してやっと泡立った髪を丁寧に乾かされ、櫛を入れる。まるで結婚式の前みたいに全身ピカピカにみがきあげられ、これから毎日こうするようにと申しつけられた時も。昼食をとっていなかった事がわかり口に勢いよくリンゴを突っ込まれた時も。歯磨きのチェックをすると言われ、あまりにおまえがひどいからと仕上げ磨きがお約束になった時も。
なにも知らない子供の面倒をみる、そういう遊びなんだろうなと思っていた。カラ松には楽しさがわからないが、そういう遊びをする大人がいることは知っている。路地裏仲間にも、きれいな服を着て車に乗せられていく者がいた。何人か戻って来て、何人かは戻らない。人形遊びの金のかかるバージョンだろう。なるほど、どうりで着てみたいなぁと呟いていたクールな皮ジャンや、いかしたきらめく靴を与えられるわけだ。外に出ない方がいい、そう言われるまでもなく着せ替えごっこの自覚があるカラ松はきちんと屋敷から出なかった。人形は勝手に動いてはいけないのだ。そのうち飽きるだろうから、それまでカラ松も全力でこの生活を楽しまなくては。
違うのかもしれない、と思い出したのは字を教わってから。
昼間にすることがない、と訴えるカラ松を図書室に放り込んだジェイソンに読めないと言えば、少し戸惑った気配がした。確かにカラ松くらいの年齢なら学校に通っているものだから、読めないわけがないと思ったのだろう。だけどまあ、どこにだって家庭の事情というものはある。カラ松は学校に通っていないし、それでなんとかなっていたのだからそういうものなのだ。
屋敷の掃除でも申しつけられるのだと思っていれば、ジェイソンはなぜか紙にペンを走らせた。読めないと言ったのに。口を尖らせるカラ松の目の前についと紙を突きつけて。
「カラ松」
そう、彼が。
「おまえの名前だよ」
名前。白い紙の上、なにがどうなっているのかわからぬ線。これがカラ松の。
夜、帰って来て夕食を一緒にとる。歯磨きのチェックをされ、仕上げ磨きがすんでから始まる文字の勉強。
カラ松は覚えがいい方じゃない。別に字なんて読めなくてもそれなりに生きていけるし、たぶん靴磨きならジェイソンよりずっと上手だ。歯なんてブラシでこする意味がわからない。食べカスが残ってるのはいいことじゃないか。腹が減った時に口の中に味があるんだろう。ひもじさが少しでもマシになる。
だけど歯がだんだん白くなり、本になにが書いてあるかわかるようになり、黒くなく爪が割れてもいないやわらかな指先になった頃。ふと、違うんじゃないかと思った。
この人は人形で遊んでいるのではないんじゃないか。
その日にしたこと、おもしろかったこと、びっくりしたこと、たぶん彼にはなんの影響もないつまらないこと。マスクの奥の目は興味深そうにまたたき、よかったねと告げられる声はひどく穏やか。
たまたま昼に食べようと思っていたリンゴが多すぎて、だから余って。この間見た本に作り方が載っていたんだ。材料があって、時間もあって、おもしろそう。それだけ。別にどうしても食べないといけないものじゃないから気にしないでくれ。生まれて初めて作ったアップルパイはあまり美味しくなくて、カラ松はひどくがっかりした。礼を言われるたび居心地悪そうにする家主に、少しでも感謝を伝えたかっただけなのに。けれどジェイソンは、悪くないと言ってすべて食べた。次は生焼けじゃないのにしてよ、と言って。
任せろと胸を張ったのは、そうしないとしゃがみこんで泣いてしまいそうだったからだ。こんな、身元も怪しい子供の作ったものを食べてしまうなんて。次を約束してくれるだなんて。リンゴの季節になったら山ほど焼こう。練習して練習して、絶対に一番美味しい物を食べてもらおう。
日の光は苦手なんだと言うから、太陽を摸したマスクを作った。本人が太陽になってしまえばきっと大丈夫。苦手なんて吹っ飛んでしまう。それにマスクを被るのが好きなら、色々種類があれば楽しいだろうと思ったのだ。気分によって使い分けるなんておしゃれじゃないか。絶対よろこぶだろうと勢い込んで渡したマスクは、なぜか使われず壁にかけられてしまった。落ち着かないから使わない、らしい。すっかりオブジェ扱いだが、部屋に太陽が出ているようで、これはこれでなかなかいいとカラ松は満足している。
おまえの眉毛はりりしいね。髪を洗いながら呟いていたから、カラ松の顔は気に入ってくれているはずだ。ならばと服の胸元に自分の似顔絵を描き贈れば、あまりの感動に声も出ないようだった。本当はエプロンの胸元の方が目立っていいだろうと思ったのだが、ごわついた生地のため描きにくかったのだ。けれどジェイソンが望むなら、と手を上げれば一枚だけで十分と断られてしまった。量より質、たった一つの特別なオンリーワンということだろうか。カラ松の顔が描かれたシャツは、着古さず、大切に保管されている。
腹を満たすだけではない美味しい食事、いつだって洗いたてのきれいな服、ふかふかのベッド。役立たないうるさい意味のない子供の声を、言葉を、行動を。いらないと投げ捨てない、拒まない、受け容れて次の約束をする。これは本当に遊びだろうか。たかが退屈しのぎにこうも手間と金をつぎ込むだろうか。なんでこの人はこんなにも。
答は図書室の本が教えてくれた。
さらってきたお姫様を喜ばせたくていくつも贈り物をつみあげるドラゴン。敬愛する主の妻を忘れられず忠誠を捧げる騎士。手に手を取って逃げる少年少女。気を引きたくてわざと悪口を言う子供。
あなたへ。そう手渡される物にはいつだって恋と共に。
そりゃそうだ。どこの誰がなんとも思っていない相手に物をやるのだ。時間をつかうのだ。好きだから、好きになってほしいから、だから渡すのだ。そんな当たり前のことに気づかないなんて、自覚はなかったがカラ松も混乱していたのだろう。この生活に。
ジェイソンからカラ松に与えられるあれもこれも、すべては愛ゆえ。好かれている。彼はカラ松に恋をしている。だからこそこんなにも。
気づけば納得しかなかった。なるほど、好きな子に家で待っていてほしい、そういう発想か。夕食には必ず帰ってくるのも一緒に過ごす時間をとりたいからだな、はっは~ん謎はすべて解けたぜ。
一目惚れだろうか。倒れているカラ松を見、とたん恋に落ちたジェイソンはベッドに運びこのまま手元に置こうと画策したのか。なんて情熱的! まるで運命じゃないか。
いや、もしかしたら以前からの知りあいかもしれない。カラ松に覚えはないが、屋敷の中を探索中、迷い込んだ豪華な部屋に幼い子供の写真があったのだ。そこに誰かいる、といわんばかりの不自然なスペースと隣で笑う幼い子供。黒髪に黒い瞳、目も鼻も今の自分と似ている気がする。あれがもし自分なら、ジェイソンは。
森の奥、薔薇に囲まれた屋敷にひっそり住まう、日光が苦手な男。誰かがいるだろうスペースの空いた写真。カラ松はもう知っている。日の光と十字架が苦手で、薔薇を好み、写真に写らぬ存在のことを。図書室に不自然なほど多い、吸血鬼についての本。そういうことなのだろう。気づけばすべてのピースがピタリと合う。
「今日はどう話をもっていこうかな」
気づいてから、毎日はひどく楽しい。これまでだってそれなりに楽しく生きてきたけれど、段違いだ。誰かに愛されるというのはすごい。しかもジェイソンが、だなんて。
今でもこんなに楽しいのだから、ジェイソンが自覚してくれたらもっと楽しいに違いない。
そう。おそらくジェイソンは、自分の気持ちに気づいていない。どう考えてもカラ松に恋しているというのに、まるで保護者のような顔でこちらに接してくるのだから、どうにもやきもきする。おやすみと頭を撫でた後、がばっときてもいいのだ。愛おしそうに見つめていた薔薇を、おまえにやる分はないよなんて笑わずキミのために育てたと捧げてくれていいのだ。カラ松、キミがいなくちゃおれの毎日はなりたたない、いつまでだって傍にいてほしい。そう愛をささやいて跪くなら、カラ松だって本で読んだようにうまくやれる。たくさん読んだのだ。大丈夫。だってきっと、そうしてほしいからあの部屋にはたくさんの恋愛の本があるのだ。吸血鬼についての本が多いのと同じ理由で。
ああ、早く気づけばいいのに。カラ松の体調には細やかに注意するジェイソンは、自分のことにはめっぽう鈍い。だからここはひとつ、カラ松が協力せねばいけないのだろう。
オレのことが好きだろう。そう告げても意地をはって知らぬフリをするに違いない。立派な大人のくせにまったく世話が焼ける。照れ屋で不器用だからうまく愛情表現ができない、なんてこうして傍にいる人間しかわからない。つまりはカラ松しかいないのだから諦めればいいのに。
「たとえ話はこの間したし、無人島に二人取り残されたら~は今と変わらないでしょって言われたし」
指折り数えるその数が楽しい。ジェイソンとさほど役立たない単なる話をした回数。もしカラ松が女だったらどうする、でかけるならどこに行く、世界か恋人かどちらを守る。どんな話の流れだって、どう聞いてもカラ松のことが好きだとわかるのに、まったくジェイソンは頑固だ。
◆◆◆
なにかが割れたような音に、カラ松は首をかしげた。風で木の枝でも飛ばされてきただろうか。それとも鍵を忘れたジェイソンが、気づいてもらおうと窓を叩いているとか?
想像がなかなかにホラーになってしまい、カラ松は音の方に向かいつつクスリと笑った。本人の家だというのに不審極まりないマスクのせいで誤解されるジェイソン、なんてかわいいんだろう。顔を見られるのが恥ずかしいなら、もう少し違うマスクにすればいいのに。本当に彼は照れ屋だ。
「今日は早かったんだなジェイソン、夕食に」
「生きてたのか!!?」
唐突な声に、びくりと身がすくむ。
窓枠の下に散らばるガラス。汗をだらだら流した男が、まるで知り合いに接するようにカラ松に話しかける。
「おまえとっくに死んだとばかり……へえ、うまくやったみたいじゃないか」
頭の先から爪先まで順にたどるねばつく視線。ぞわぞわする。すがるようにバスローブの胸元を握りしめれば、男はにやにやと手を差し出してきた。
「逃げるなよ。こっちにおいで」
ガタン。窓にねじこまれる身体。
「大丈夫、なにもしねえって。たらふく食わせてもらってたんだな、髪も爪もピカピカじゃねえか。別におまえの取り分を全部よこせって言ってんじゃねえよ」
じわじわと近づく声。もう腰まで屋敷の中に入ってきている。外から。怖い。嫌だ。なに、なんで。誰。取り分ってなんの話だ。
「……っ、ジェ」
「おっと叫ぶなよ。誰か呼んでみろ、駆けつける前におまえくらい一刺しだ」
月明かりに鈍く光るナイフ。犬のような呼吸音はカラ松のものだった。どうして。これはなに、どういうことだ。穏やかで優しい夢の世界、腹いっぱいの食事と温かいベッドにカラ松を愛している人間。それを壊すなんて、そんなの。
「やだやだやだ??!! あ?!!!」
「おい黙れ! おい!!」
「嫌だダメだ絶対やだやだやだうわぁっ!!! あーーーっ!!!」
取り分なんてない。ジェイソンはカラ松のだ。全部。全部カラ松の。
それを奪うなら。
口を覆う固い手の平。泥の味がする。知っている。腹を蹴り飛ばされるのが久々すぎて、力を入れるのを忘れてしまった。やわい爪が剥がれる。ああ、せっかくすこし形が整ってきていたのに。クリームを塗るジェイソンが、満足そうに頷いていた指先。手伝いのひとつもさせてくれないから、薔薇の棘など刺さったことがない。
「わかったぞ、おまえも化物の仲間になったんだな!? そうだよおかしいと思ったんだ、こんな廃墟でそんな格好でいられるわけがない。そうか、そうだ、この化物! 街に来る前に俺が」
ジェイソン。
あなたに殺されるならよかったのに。
振りかざされるナイフ。せめてもの抵抗とばかりに目を閉じる。おまえなんて入れてやらない。この美しい、薔薇に囲まれた屋敷の中にはカラ松とジェイソンの二人しかいない、いらないのだ。他の人間など。
覚悟した痛みはいつまでたってもこない。
「っ、嘘だ、おまえどこから……っ」
「人の家で大騒ぎするのやめてくれない。迷惑なんだよね」
「化物! なん、なんで死なない、化物め!!!」
「別に化物でもなんでもいいから早く出てってくれない、人殺しの泥棒」
ぽたりと絨毯に赤いしみができたのを見たとたん、男はどたばたと逃げ出した。
あちこちにぶつかる音。騒々しい。ここに来て以来聞いていないけれど、これまでのカラ松の生活はああだった。怒声や罵声、そんなものに囲まれて生きていたのだ。ああ、すっかり忘れてしまっていた。
「……ジェイソン」
「怪我は……してるのかよ。避けろよな、ちょっとは」
荒い口調のくせに、カラ松に触れる手はとんでもなく優しい。殴られた目が腫れてきたのだろうか、視界が狭くなって見づらい。
「ジェイソン、なあジェイソンどうして」
ごめんなさい。謝っても受け入れてもらえない気がして、それでも伝えるのは迷惑になりそうで、だからなにを言えばいいのかわからない。
カラ松がここに来たから。逃げなかったから。捕まってしまったから。
だから彼の腹には今ナイフが突き立っている。
「ダメだ、なあダメ。死なないで。オレのこと好きなら死んじゃダメだ、ジェイソン、なあ」
アップルパイまだ一回しか食べてくれてない。悪くないって言ったじゃないか。次はもっと上手なのを出すから。生焼けじゃないの。これから何回も一緒に食べよう、なあ、リンゴのおいしい季節になったら絶対。
太陽が苦手なくらいなんだよ。いいよ昼間じゃなくて。だからピクニックに行こう。お弁当もデザートも用意して、二人で夜通し出かけよう。花は咲いてないけど、景色はあまり見えないけど、ずっと話していればいいじゃないか。バスローブは歩きにくいから、前に買ってくれたいかした服を着て行くよ。ジェイソンはオレの顔を描いたシャツを着て、太陽のマスクを被るんだ。特別だ。なあ。
「非常食って言ったじゃないか。まだオレのこと食べてない、全然食べてない」
なんで。
なんでオレなんかかばったの。
どうしてあなたが刺されてるの。
ジェイソン。
「死なないでくれ。嫌だ。あなたのいない世界に生きるのは嫌だ。……愛してるんだ、ジェイソン」
だから言ってほしかった。
好きになってほしかった。愛を告げてほしかった。恋しているのだと思ってほしかった。
生きて、共に過ごせればそれだけで。
「本当に?」
むくりと起き上った男からは、死相が消えている。
「え」
「愛してるって本当? おれのことを? おまえが?」
「は、え、うん」
「じゃあ食べてもいい? 栄養になってくれる? おれたちの」
「ま、まかせろ! もちろんじゃないか」
想いが通じたと顔を輝かせた少年は聞き流してしまった。彼の言葉を。一度たりとも嘘いつわりを告げたことのない、思い人のそれを。
おれたちの、に自分が含まれていないなど思いつきもせず。