「っ、うううぅ、う~」
「ああほら唇かんだらあかんて。血ぃでるで」
精を吐きだした後の脱力感でだらりともたれかかると、石垣はそろりと御堂筋の唇に指をはわせた。血など一滴もでていないことをわざわざ確認するなんてご苦労なことだ。今裂けなくても、どうせ通学途中で裂けてしまう。こんなもの冬の風物詩みたいなものなのに。
「御堂筋リップは?」
「ふぁ? あるかいなそんなもん」
「乾燥するやろ、口。俺のでよかったら貸したるし」
「いらん」
きっぱり拒否すると何が楽しいのか石垣はまた笑う。後輩に偉ぶられて嬉しそうなんてこの男はマゾだろうか。今とて、御堂筋に一方的に呼び出されて自慰の手伝いをさせられて。受験生のくせに。
「なあ御堂筋、足りた?」
「石垣くんは他人にわかりやすい文つくるん心掛けぇや」
受験生やろ。腰に回ってくる腕をはたき落とすと、今度は下から顔をのぞきこんでくる。上目づかいとかなんのつもりや、十八にもなって。いっこもかわいない。
「でもな、ほら」
ぎゅむ。
本気でひとつもかわいくない男が無造作にひっつかんだのは、猫の尻尾だった。
「消えてへんから、まだ足りんのかも?」
もっぺんやったる、なんて爽やかに笑う石垣は笑顔の使いどころを間違っているし、そもそもなぜなくなっていないのか御堂筋はひたすら混乱した。
「なっ……出したら治るんちゃうんか、ッ」
「なんでやろな~。もっかいしたら大丈夫ちゃう?」
あっけらかんとした石垣の声に、こいつ殺すと思ってしまった御堂筋は悪くない。
◆◆◆
自分に猫の耳と尻尾が生えていることに気づいてもさほど動揺しなかったのは、以前に石垣が犬耳と尻尾を生やしたことがあるからだ。頭がむずがゆいな、と手をやって気づいたのだからさほど時間も経っていないだろう。石垣は学校で生やしていたから、自室にいた御堂筋は幸運といっていい。なんせこの症状を治すのは、外では問題がある。
耳をひっぱると痛い。自力ではろくに動かせもしないくせに感覚だけはあるなんてうんざりする。あの時の石垣は尻尾をぶんぶん振っていたけれど、どこに力を入れていたんだろう。
――御堂筋
常よりかすれて低い声。吐く息はひどく熱くて、首筋に唇が触れればそこから融けると思った。御堂筋の、薄い腹とごつごつした手にこすりつけられた異物。行動すべてが受け入れられない気持ち悪さで、それなのに尻尾だけが平和に揺れて。
「……ッ」
知らぬ間に携帯を手にしていた自分に気づいて、御堂筋はあわてて手を振った。
石垣に連絡なんてしなくていい。要は出してしまえばいいのだ。石垣だってそうだった。射精してしまえばなぜか治る、意味のわからない奇病なのだから。
ジャージと下着をずり下げ、布団の上に座る。事務的に手を動かすが、そもそも特にしたいとも思っていないのだから陰茎はなかなか力を持たない。これまで必要としなかったから持っていなかったが、雑誌の一冊でも置いておくべきだろうか。部室に置いてある誰のものかわからない数冊の写真集が頭をよぎる。興味本位にのぞいてみた時には特になにも感じなかったけれど、自室で一人ならまた違うのかもしれない。
あの時彼も、御堂筋が現れなければきっとあれらを使って。
石垣のことが頭によぎったとたん、かっと顔が熱くなってびくりと震える。おかしい。なぜ顔を赤らめなければならない。くち、と水音がするから余計に御堂筋は追いつめられる。
「ちゃう……そんなん、関係ない」
言い聞かせるように声を出してみれば、予想よりも上ずっていたからもっと動揺する。
くちくちと粘着質な水音は増えるばかりで、手の中の陰茎は先程が嘘のように固く張りつめだしている。熱い。あの時の、石垣のもののように。
――みどう、すじ
幾度も噛まれた肩。痛みに震えるたび舌がなだめるように噛み跡をたどった。名前を呼んで、噛みついて、また呼んで。やめろと何度も言ったのに、イヤだったのに。
「ちゃ、う……ッ、イヤや、イヤ、やめっ」
息が上がる。腰に溜まった熱がぐわりと揺れる。手が止まらない。ぐちぐち響く水音。違う、ダメだ、なんでもいいから女の子。ダメ、イヤや、あかん、あんなのを思いだしてなんて。
着ていたシャツは必死で水洗いしてから洗濯に出した。制服だから捨てるわけにいかなくて、けれどそのまま洗ってもらうなんて言語道断で。学ランとズボンはファブリーズにがんばってもらったけれど、耐えられなくて雨に濡れたと言い訳してクリーニングに出してもらった。
もうあの日の残滓はなにひとつない。御堂筋と石垣の記憶以外は。
「あー……最悪や」
自身に裏切られた御堂筋はねばつく手をティッシュで拭いながら溜め息をこぼした。
あんなイレギュラー、忘れてしまえばいい。石垣は普通でなかったし、巻き込まれた御堂筋も混乱していた。だから悪い夢でも見たのだと割り切り、これまで通りの関係に戻ろうとしているのに。
まっすぐなまなざしで伝えられる好意。
惚れとる、なんてあんな言葉、同性の後輩に向けるものじゃないだろう。
頭をかきむしりたくなって、さすがに手を洗ってからにしようとトイレに立った御堂筋は再度己に裏切られた。鏡に映る、黒い耳。猫の。そろりと窺った下半身には、黒い尾がだらりと垂れ下がったままだった。
◆◆◆
メールの返信が早すぎたのがまず気持ち悪い。いくら呼び出されたからといって平日の深夜にのこのこ現れるのがもうイヤだし、顔をあわせた一言目がその服かわええなよう似おとるよってどういうことだ。久屋のおばさんセレクトのTシャツとジャージはオンセンドのワゴン品で、丈があう以外に御堂筋の好みは欠片も入っていない。というかメールで伝えていたとはいえ、猫の耳に驚きさえせずにこにこしているのがうんざりする。
つまるところ御堂筋は石垣のすべてが気に入らなくて心底イヤなのだ。
「調子のんな」
「乗ってへんて。一人でやってみて消えんかったから俺呼んだんやろ? 俺の時と同じ状況にしたら、て」
「それで治らんかったんやからキミもう用なしや。もっかいとか寝言ゆーとらんとはよ帰りぃ」
性懲りもなく腰に回された手を再度叩き落とすと、同じちゃうやろ、と落ち着いた声で返される。
御堂筋に向けられる、どこまでも誠実な石垣のまなざし。部内で横暴に振舞った時に諌め、誠意を持って反論してきた時と同じ。後ろ暗いところなど欠片もない、といわんばかりのどこまでも暴力的なまっすぐさ。
まぶしい、となぜか思う。
御堂筋を一心に見つめてくる石垣に、いつまで経っても目が慣れない。ぱちんぱちんと火花が舞うから気が散るし、視線は焼きつくさんばかりの熱を持っている。だからといって文句をつけても、うれしいと笑うばかりでなにひとつ解決しない。気持ち悪い。そんなことに動揺する自分が心底。
「あの時と同じやったら、おまえが俺に擦りつけな」
今、俺がしごいたったやん。それであかんなら、今度は御堂筋が動かなあかんのちゃう。
「~~っ、キッモ!!!」
「あ、肩噛んでええで」
「なんなん。なんでそんな顔してそーゆーことゆーとんの」
「そんなことて、大事やろ。そら猫耳めっちゃかわええけど、明日っからもそれやったら心配で俺おまえから離れられんし」
「キモキモキモキッモ。ほんまなに。石垣くん本気でおかしいやろ、最近」
「口説いてんねんで? おかしいて傷つくわー」
惚れとるてゆーたやんか。少し照れたように頬をかく石垣はどこまでも爽やかで、まさかもう片方の手で御堂筋の陰茎を握り締めているなんて誰が考えるだろう。
落差が激しすぎてついていけない。
「……もうええわ。手ぇ離し」
「猫耳のまんまか?」
「ボケェ! ……試してみる、ゆーとんねんキミィの案を」
うんざりした顔を隠さずふりかえると、いそいそとシャツの前をはだける男が目に入って御堂筋は軽く後悔した。だから、なぜそううれしげに。
「……全部脱がんと、つくで」
「別にええで?」
「ええわけあるか! キミは自分で洗っとんのか!!」
「いやおかんが……あー、せやし御堂筋ちゃんと全部脱いどんのか! えらいなぁ」
「ほんまイヤやわ、ボクなんでこんなん相手にしとんにゃろ……話通じひんのめっちゃキツイ」
「おまえのそういうとこ、俺めっちゃ好きやわー」
「黙れ」
ほんの三週間前。石垣に犬の耳と尾が生えた日から始まったたわごとは、一日と間をおかず御堂筋に捧げられている。飽きもせず。
惚れとる。好きや。かわええ。馬鹿正直に好意だけを伝える言葉。誠意しかないぴかぴかした目で、あたたかい手の平で、うれしげな声で。御堂筋を追いつめて苦しめて溺死させてしまう石垣の感情。
「ええよ。おいで」
そろりと腰を動かして石垣の腹に押し付けてみる。へにゃりと力の抜けた陰茎は不格好な芋虫のようで、どうにも滑稽だった。
「肩に頭のっけた方がやりやすいんちゃうか。体重かけてええからな」
熱い手の平に触れられて腰が跳ねる。なだめるように反対の手が背中を撫でるから、御堂筋はとりあえず頭突きした。こんなことをしているのに子供扱いしてくるなんてどこの変態だ。石垣などどうなってもいいけれど、問題を起こすなら卒業してからにしてほしい。部活動自粛、なんてことになったら一生呪う。
「御堂筋」
「うるさ、い」
名前を呼ぶな。だけどなにか話していてほしい。でないと息が荒くなっていることがばれてしまう。
息継ぎが上手くいかない。石垣の手と腹に挟まれたモノに与えられる刺激がもどかしくて、勝手に腰が動く。そんなつもりはないのに、もっととねだっているように思われたらどうしよう。斜め上にポジティブなこの男は平気で勘違いしそうでイヤだ。死ぬ。
「かわいいなぁ、おまえほんまに」
甘ったるい声とたわむれに動く指先。くすぐるような動きがイヤで腰を引けば、尻尾の根元をひっつかまれた。
「ピギッ」
「あん時俺の尻尾にぎっとったやろ。なるべく再現しとこな」
優しい声音。あくまで親切で、御堂筋のことを思いやっているだけの石垣。
――どないしよ
まるで迷子になった子供のような顔で、問うたのだ。目の前のこの阿呆は。どうしようもなく惚れとる、と告げた相手に。
なんやそれ。
石垣が御堂筋に好意を抱いてるなんて、そんなことは知っていた。御堂筋だけでなく、部内の誰もが疑ってもいない暗黙の了解。そもそも好きでない相手にあれほど献身的につくせるか、という話だ。確かに石垣は世話焼きな方であったというが、御堂筋に対してだけは度が過ぎている。
いっそオカンやな、と笑ったのは井原で、どっちかっちゅーたら思春期の娘もった父親でしょと返したのは山口だ。御堂筋がいないからと叩かれていた軽口。窓から聞こえてきた馬鹿馬鹿しい会話を止めなかったのは、その説がすとんと胸に落っこちたからだ。
なぜかはわからない。理由もなく石垣から向けられる好意。はねつけても邪険にしても笑顔で受けとめる彼は、確かに反抗記の娘を持て余す父親のようだ。久屋の伯父と従妹のように。石垣の中でなにがどうなって御堂筋がそんな存在になったのかはわからない。わからないけれど、わからないなりに御堂筋はその関係性を受け入れていた。うざったいとは思ってもイヤではなかったので。
だから言うたやないか。どないせんでもええ、て。このまま、意味分からんけど父親みたいに好きでいてええて。
それが。
「な、ちょっと舌見せてや」
「はぁ!? なんで」
「ええからちょっとだけ」
口を開いてしまってはただでさえ荒い息が堪えられない。だからイヤなのに、石垣はどこまでも楽しそうに御堂筋の口に指をつっこんだ。目の前がにじんで、彼がどんな表情をしているのかよく見えない。
「……やっぱり、舌がざらついとる。ここも猫になっとるよ」
「は、そんでぇ?」
「肩がざらっとしたからおかしいなぁて。……にゃあ、ゆーてみるか?」
「ッ、死ね!!!」
毛ぇ逆立てた猫みたいや。懲りもせず寝言を口にする石垣の肩に歯をたてると、また笑い声が聞こえる。猫だというならいっそ牙でも生えていればいいのに、そんな都合のいいものはないらしい。腹が立つ。御堂筋の息はこんなに上がっているのに、全身が熱くて倒れてしまいそうなのに、たかが二つ年上というだけで余裕綽々な石垣はどういうことだ。なんとか困らせてやりたい。戸惑わせて、焦らせて、からかって悪かったと謝らせなければ腹の虫がおさまらない。
「石垣、くん」
与えられて困惑する言葉。一番。
「好きやで」
ぴたり。いたずらに御堂筋の下肢に触れていた手も、尾の根元をくすぐっていた手も、まるで石垣だけ時間が止まったかのように動かなくなったことに御堂筋は満足した。
からかわれるのは好きじゃない。いつだって主導権を握っているのは御堂筋であるべきだし、石垣はそのフォローに回ればいい。エースアシストを自任するならそれくらいの気は回すべきだ。
やっと通常の思考が戻ってきた。きっと耳や尾のせいで思考もおかしくなっていたのだろう。このまま射精すればこんなおかしな現象も終わるだろう。たぶん。
「み、みど…っ、いま」
石垣の反応があまりにも、従妹に甘えられた時の伯父に似ていたから思わず吹き出す。
めっちゃほしいんやけどおかーさんもうおこづかいまえがりあかんって。あーめっちゃほしいのになぁ。ユキぜったいこれにあうおもうんよ。なぁおとーさんどうおもう? ユキ、ぜったいこれかわええよな? いっしょにかいにいってほしーなー。なー。にちようびは?
普段つんけんされてる分、たとえ小遣いほしさでもうれしいらしい。ついつい買い与える伯父に、あかんたれやわぁと呆れて笑っていた叔母の気持ちが少しだけわかった。
「石垣くぅん、なんでそんな顔しとんの」
「そんな、てどんな」
「ふっにゃふにゃやで、にやけて。キモ」
そうだ。石垣はいつだって御堂筋を少し困ったようなほほえましいような顔で見守っていて、それはあくまでも久屋の伯父と従妹の関係に似ていて、御堂筋の困惑をおもしろがって余裕な態度で笑うような男ではない。いけない。
目の前で頬を真っ赤に染めている、この存在だ。御堂筋が知っているのは。
ぐぅ、と石垣の咽が鳴った。
「みどう、すじ」
熱に浮かされたまなざし。この三週間与えられ続けた、耳に入るだけで火傷しそうな声。
違和感。
石垣が御堂筋に抱いているのは、思春期の娘を持った父親のような感情、ではなかったか。そもそも185センチの大男をつかまえて娘呼ばわりもどうかと思うが、ただの後輩にそう見える態度をとっていた石垣からしておかしいのだから仕方ない。
そうだ。おかしい。
こんな目で見るのは、声で名を呼ぶのは、触れてくるのは。おかしい。
――どうしようもないほどおまえに惚れとる
「こっの……あほ!」
「ちょ、なに」
石垣と御堂筋、二人分の陰茎をまとめて扱かれて声が裏返る。ごつごつして分厚い石垣の手の平だけでなく、腰まで揺すり上げて刺激が与えられる。ゆるやかな刺激に慣れていた御堂筋はついていけず、石垣の首にすがってひたすら声を堪えることしかできない。
「なん、な……い、しがきく、」
「好きや。おまえが好きや。御堂筋、なぁ」
「し、っとる、て」
御堂筋も、皆も。馬鹿正直な石垣のまっすぐな好意なんて、今更告げられなくともわかっている。
「ほんまに。なぁ、好き、や。めっちゃ」
耳に唇を押しつけるようにして訴えるから、粘着質な音や荒い呼吸に邪魔されず、石垣の言葉はひたすらまっすぐ御堂筋に届く。
好きや。好きや好きや好きや。
知ってる。わかってるからちょっと黙って。声が、言葉が。ただただ御堂筋に注がれる告白が身体の内を侵食していく。押しつぶされる。息が。
「ちゃうよ。なあ、ちゃんと、ッ、違うの…わかっとるか。好き、なんよ」
詰まる。
「好き、や」
欲が吐きだされる。石垣からの好意に押し出されるように。
好意ばかりが身体中につめこまれた。むりやり。どうしよう。どうしたらいい。御堂筋の中に元からあったものはどこへ行ってしまうのか。石垣の言葉が、想いが。そればかりが降り注いで息ができない。
御堂筋より少し遅れて射精した石垣は、同じように荒い息を整えながらまたふにゃりと笑った。眉尻の下がった、情けない顔。
「……なあ、俺のこと好き、てゆーてくれたのって」
「だまされた」
「へ!?」
ちらりと見てみると、確かに生えていた尻尾は跡形もなく。なんとなくそうだろうと確認のため頭に手をやると、耳も人間の物に戻っている。
治ったのはよかった。なぜ一度出しただけでは治らなかっただとか、先程と今の違いはなんだとか、納得のいく答は得られそうにないので御堂筋はあっさり諦める。自転車以外のことに時間を使っても、いいことなどなにもない。
「ぜんっぜん父親ちゃうやんか。キッモ」
「え? ちち?? いやそら俺は父親ちゃう、ってか、え? 御堂筋??」
俺に父性的ななにかを求めてたんか、とひどく驚いている石垣はなんのつもりなのか。そういう態度をとってきたのは己のくせに。あまりに慌てている石垣に妙にいらついて、御堂筋は手近にあった服を押し付けた。
見守り系じゃなかった。どちらかというと共犯的な。こんなの。
「石垣くん、兄ちゃんやないか」
「はぁっ!!?」
距離感を間違えてしまった。どうせどこかしら猫化するなら、ひげでも生えれば間違えなかっただろうに。