人の顔色はここまで白くなるもんなんやな、とまるで知りたくなかった情報を石垣は得た。
部室の鍵はしっかりかけておいたが、鍵を持っている相手ならそりゃ開ける。テスト期間中だから誰も来ないだろうと油断をしていた石垣は、扉が開く音で初めて人影に気づいた。
「……い、しがき、くん」
常ならば興味なさ気に素通りするか、関係者以外は立ち入り禁止なんですけどぉなどと厭味ったらしく笑う御堂筋が、紙のような顔色で扉に張りついている。
「その耳、ちゅーか格好、なん、……し、しっ、ぽ」
じり。油がきれたロボットみたいな動きで、普段の尊大な態度が嘘のように御堂筋が後ずさる。扉に足を打ちつけて、もつれさせてこけた。こんなにあからさまにわかりやすく混乱して大丈夫だろうか。レースに関することなら驚くほど回る彼の頭脳は、今はまったく動いていないようだ。
確かに今の石垣の姿を見れば動揺するしかないだろう。自分でも気づいた時は叫ぼうと思った。しなかったけれど。
自分以上に驚いている人間がいると冷静になるというのは本当のようで、先程まで混乱しかしていなかった石垣はなんとか落ち着くことができた。なんでか理由はわからんけどとにかく犬耳と尻尾が生えた。うん、なんかしゃーないな。どうしようもないけどどうにかなるやろ、たぶん。
開き直った、とも言うかもしれない。
目をまんまるに見開いている御堂筋の顔が年相応にかわいらしかったので、石垣はせめて起こしてやろうと手を差し出した。
「ほら」
「……え?」
「手ぇかし。床座っとったら冷えるやろ、そろそろ」
夏までの自分たちならけしてしなかった行動。
けれど最近の、IHを終えてからの御堂筋はほんの少し角が取れて親しみやすくなっていた。おそらく本人に自覚はないが。
しかし、それならば先輩として思いっきりかわいがりたいのが石垣だったから、引退してもなんだかんだと理由をつけては御堂筋に構いつけ、それなりの関係は築いた自信があった。
その自信はピギィと鳴きながら怯える御堂筋の姿にこっぱみじんにされたが。
「え、そんな? 俺そんな怖い? おまえがそこまで動揺してまうほど!?」
先程石垣自身で確かめた姿は、どう考えても不自然でおかしかったが恐ろしいというほどではなかった気がする。確かにありえない姿ではあるし動揺するかもしれないが、コスプレ的なものだと思えば。犬耳カチューシャとかあるし。ちょっと勝手に動いたりするけど。尻尾が。
「なん、……や、ええと、キミィそんな趣味が」
相変わらず扉に背中をひっつけながら、御堂筋が必死に口を開く。
普段は自分にまっすぐ向けられる視線があちらこちらにそらされていることに少し不快感を抱きながら、石垣はとりあえず否定した。
「ちゃうから!」
趣味じゃないし特技でもない。というか、なんでか犬耳と尻尾が生えてたとか普通に大問題なのでいっそ一緒に考えてほしい。御堂筋は頭がいいのでなんとか解決策を探ってほしい。考えることに飽いていた石垣は、心中こっそり御堂筋に全てを投げた。
「いや別にボクは個人の嗜好にまでは口ださんっちゅーかなんで部室ですんねん家でひそかに楽しんでろボケェとは思うとるけども」
「御堂筋、ちょ、ちゃうから。趣味ちゃうから!」
「ほななんなん。なんで脱いでんの。意味わからん」
「着替えとったんやん! 人を露出狂みたいに言わんで!! 制服やと尻尾が痛いからジャージにやな」
「ああうんしっぽしっぽうんそうやねしっぽ。なんで尻にしっぽとかつき刺してんのこの人いややなにこれ趣味か」
「さしとらん!! 生えとんねんて!!!」
「うんわかったわかったわかったから。わかったしちょおなんで近づいてくんの」
「おまえが逃げるからやろ」
「逃げてへん!」
壁際をずるずる逃げる御堂筋の腕を掴まえると、またピッと鳴かれる。掴んだ腕の予想外の細さと涙目に、そういえば十五歳だったと石垣は改めて認識した。
確かに背は高い。肩幅もある。もう数年すればきれいに筋肉のついた自転車に乗るための身体になるんだろう。けれど今は。
十センチ以上も低い男の両腕で挟みこめる薄い身体に、石垣は眉をひそめた。
学ランの襟をきちりと留めているにも関わらず、御堂筋の首がおかしいくらい目につく。サイズが大き目だから、と納得しかけて、けれど肩幅は合っているとがしりと掴んでみる。
「……御堂筋、おまえちゃんと食うてるか?」
あまりに薄くて思わず問いかけると、あきれ果てたように溜め息をつかれた。それだけで嬉しい、なんてどうして思ってしまうのか。
「なんなんキミィ……おかしな格好してるか思たらいきなりボクの食生活か」
「せやかて」
ぐい、と襟もとに指をつっこんだのは正直ないな、と石垣は後から考えた。けれどその時は、焦っていた御堂筋が面白かったからまた見たいなとか、襟から手つっこんだら驚くかなとか、触ってみたいなとか。
そう、きっと、動揺しきっていた御堂筋がいつも通りに戻ったから安心して。あんまりな誤解をした彼への軽いいたずら心で。
「ピギッ」
指先に感じるぽこりと浮き出た喉仏。どくどくと打つ脈。薄い耳朶。坊主だったはずなのに、いつの間にか髪の毛が指をつっこめるくらい伸びている。
「……体温、高いんやなぁ御堂筋。意外に」
カラーのホックが外れたから、もう片方の手も添えた。
耳元で音がする。石垣を煽るように。どくどくとせわしない音は御堂筋の首筋から感じられる動きと同じだった。
「い、し」
「それになんや、ええ匂いする」
記憶を探ってもでてこないのに、きっと知っている。ひどく惹きつけられる匂いに、石垣はするりと鼻を寄せた。
ひゅっと息をのむ音と、急に力の入った肩。頬に感じる熱。えらくせわしない音。
「……ん?」
おかしくないだろうか。
さっきまで石垣は座り込んだ御堂筋の目の前に立っていたはずだ。立たせてやろうと手を伸ばして。まあその手は御堂筋の首元につっこんでみたりもしたけれど。じゃあなぜ、今、なにかに寄り添っているかのごとく頬が熱いのか。
「い、しがきく、ん」
頭上から聞こえる御堂筋の声。その度震えて頬に触れる、熱。
「……なんでそんな、しっぽ揺れとんの……」
御堂筋の胸元に頭をつっこんでいると自覚したとたん、ぐわりと血が滾った。
◆◆◆
ふ、と空気が揺れる程度の笑い声。ほんの少し溜め息にも似た。
「もう意味わからん……めっちゃ揺れとんで、これ」
ぽすぽすぽす。軽い音は石垣の尻尾が御堂筋の手にあたる音で。音なんて聞かなくても石垣にはぶつかっている感触が伝わっていて。
「うわ、こっちも耳や。ほんまに犬耳になってもぉてるなぁ石垣くん」
何度も頬をひっつかんできた指が、頼りない程優しく耳を撫でる。耳の生え際をゆっくりたどって、少し引っ張って、ごめんねとばかりにくすぐって。
「なに拾い食いしたん」
「しとらんし。一番に考えたけど」
「考えたんかい」
「それっくらいしか原因になりそうなもんないやろ」
「呪いとか」
「誰がや」
「犬?」
「めっちゃ好きやぞはっきり言うて」
「っぽいな」
ふは、と耐えきれず吹き出した御堂筋の声がひどく幼くて、石垣は罪悪感にさいなまれた。
ばれてはいけない。なんだか今、ちょっといい感じなのだから。軽口をたたきあう先輩後輩なんて石垣が求めていた理想の形だ。たとえそれが石垣に生えた犬耳と尻尾のせいだとしても、解決法がさっぱりわからないにしても、現在のところ二人の間の空気はすごく和やかだ。もしかしたら御堂筋は犬が好きなのかもしれない。
とにかくこのまま。
けしてけして、石垣の石垣がものすごく元気になっているなんて知られてはいけない。昂りまくりでどうしようとか、秘密だ。
「石垣くぅん、これ耳も自分で動かせんの?」
「え、どうやろ。自分ではようわからんけど動いとる?」
空気を読め、俺。あれだ。男の裸とかそういうの思いだしてクールダウンや。ちゅーか目の前におるの男や。制服はだけた男。
「んー、音のする方向いてぴくぴくしとるな。無意識か」
「自覚ないなぁ。尻尾も部室くるまでは全然動かんかって気ぃつかんくらいやったし」
「今すごいぶんぶんしとるで」
「ズボンでめっちゃおさわっとったんやろか」
日焼けとは縁のない脇腹は病的に白いくせに子供体温なのかえらく温かい。声がするたびに動く腹。甘やかすように耳を撫でる固い指先。まだ未発達な身体。十五歳の、御堂筋の。
これは御堂筋翔の。
あの夏に見た、閃光のような彼の。
意識したとたん、ぶわりと背筋が泡立った。これは御堂筋の熱。石垣が感じているのは、触れているのは、どうしようもなく不器用でまっすぐで純粋な。
「あかん」
「へ?」
顔を上げれば気の抜けた声が返される。予想以上に近かったのか、慌ててのけぞった御堂筋は壁で後頭部を打った。
「いっ……なんやのいきなり」
「ええ匂いする、ゆーとったやろ。それや」
昂りが収まるわけがない。石垣が触れているのは御堂筋だ。
いつだって気にかけていた。構いたくてかわいがりたくて、何を考えているか知りたかった。少しでも笑わせたくて、気を許してほしくて、理解したくて。
自分にだけ懐いてほしい、と思いだしたのはいつだ。石垣にだけ呼び捨てが許された時、声をかけても無視されなくなった時、彼から近づいてきた時。馬鹿みたいに浮かれていたのはどうして。
「おまえ、から」
犬みたいに尻尾を振っていたよ。ずっと。
こんなふうになる前から。
「めっちゃ、ええ匂いする」
ひくり、と息をのんだ御堂筋は見てしまったのだろう。身を起こした石垣の、どうしようもない欲を。
ごめんなそんな顔させたかったんちゃう。こんなつもりなかった。なぜか生えた耳と尻尾を一緒に悩んでほしかっただけで。親しい先輩後輩みたいな空気が嬉しかっただけで。
「すまん……勘忍な」
なんて大ウソ。
◆◆◆
歯を立てるたびに強張る肩がうれしくて何度も噛んだ。優しく耳を撫でてくれた手に、薄い腹に、擦りつけては罪悪感で死にそうになる。萎えないことが、一番つらい。
「やや…ッ、ほん、まっ、や、め」
頬に感じる熱と石垣を惹きつけてやまない匂い。いつまででも嗅いでいたくて耳の後ろに鼻先をつっこんだ。
「キモいキモいキモいキモいキモい」
「うん」
「ッ、そこで、しゃべんな!」
ぎゅうと尻尾を握り締められて痛いのに、すがられているようでうれしい。御堂筋がいる、というだけで揺れる尻尾はぽすぽすと気の抜ける音ばかりたてている。
「み、どーすじ……みど、すじ」
こんな奇妙な格好になって、彼にとっては巻き込まれた事故でしかなくて。けれど自覚してしまった石垣は己の暴走を止めることができない。
たぶんずっと。
石垣が認めていなかっただけで、この感情は胸の内にひたひたと湧いていたのだ。胸から零れて、手にも、足にも、全身に巡って混ざって、もう分けることもできない。
きっとこのまま溢れ出る想いは声からまなざしから流れ出し、聡い御堂筋は気づいてするりと身をかわす。接点を減らし、関わりあいを避け、石垣の想いが枯れてしまうまで近づきもせず。
「これ、かな……なあ、犬の」
「キモいっ、から……っ、声、だすなって」
「た、まりすぎて…ッ、こんな、なったかも。た、ぶん」
自分で口にして意味がわからない。想いが溜まって、なんて。だからきっと御堂筋はもっとわからないに違いない。
見てほしくて。触れてほしくて。好意を表しても避けられたりせず、できたら笑ってくれたら、なんて。
本当に意味がわからない。どんな乙女だ。石垣は自分がそこまでロマンチストだとは思っていないし、称されたこともない。デリカシーがないとは散々言われてきたけれど。
だからこれは熱に浮かされたたわごとで。
あんまりにもいい匂いがするから。手を伸ばさずにはいられない、から。
「み、みど…ッ」
口にしたら卑怯だから言わない。どんな感情を抱いていたって、こんな真似許されるわけがない。
だから言葉にしないようにうなじに噛みついた。
◆◆◆
「……あの」
「よかったねぇ、なんや耳もしっぽものうなって」
「……みど」
「返事は」
「はいっ」
「石垣くぅんは心配ごとも消えたしスッキリしたやろしほんまよかったねぇ。それにひきかえボクは気分最悪やけどねぇ」
「あの」
「まーさーか、部室でケダモノと遭遇するとか思わへんもんなぁ普通に」
「そっ、それはほんまに申し訳ないと」
「思うよなぁ。人間なら普通そうなるよなぁ」
「……はい」
部室の床はコンクリート敷きでこの時期直接座るのはなかなかに苦痛だが、反省の意を示したい石垣はもちろん自主的に正座した。目の前でベンチに腰掛けた御堂筋の足がぷらぷらと揺れる。
理屈はさっぱりわからないが、御堂筋の腹に思いきりぶちまけた後、石垣に生えていた犬耳と尻尾は消えてしまっていた。あんなに惹きつけられた匂いもさほど感じなくなったので、あれはもしかしたら犬の嗅覚だったのかもしれない。そんなことは精液ぶっかけられた御堂筋にはどうでもいいのだが。
「……ほんまに、めっちゃしっぽ揺れとったわ」
キモ、と吐き捨てられて石垣は頭を上げることができない。
尻尾は自分でまったくコントロールできていない。どんなに反省していても、最中はものすごくうれしかったのだと尻尾でばれてしまっているんだから言い訳も無理だ。
もうばれている。石垣が言わなかった言葉なんて御堂筋はきっと全部わかっている。
それでもこれ以上負担になりたくなくて、ぐっと飲み込んだ。断るしかない想いを伝えるなんて石垣の自己満足でしかないのだから。
だから。
「いーしーがーきーくぅん」
だから。
「ボクゥ、わりと動物キライやないんよ。あほみたいにしっぽ振ってくるんもいややない」
嘘つかんからね。にやりと笑った御堂筋を茫然と見つめると、穴があきそうや、なんて軽口をたたく。
勢いに任せてひどいことをした。むりやりのしかかって、握らせて、欲をぶちまけて。確実に顔も見たくない、今後関わらないでほしいと言われるはずの。
「犬なら、まあしゃーないんちゃう」
それなのに御堂筋は、石垣を許してくれるというのか。
「みっ」
「躾が足らんにゃろ」
ずい、と目の前に手の平が差し出される。待て、だ。
「でも石垣くんは人間やもんな?」
「御堂筋」
「……ここまで」
サービス問題や。ひどく楽しそうな御堂筋の声が手の平越しに響く。犬の耳がない石垣にはもう心音は聞こえないし、いい匂いも感じられない。言葉の代わりに揺れる尻尾も消えてしまった。けれど。
飲み込んだ言葉。
尻尾が代わりに伝えた、それを。
「み、どうすじ」
伝えても、いいのか。
言葉にして形にして伝えて、二人の間に存在させてしまって構わない?
「心底、どうしようもないほどおまえに惚れとる」
「知っとるよ」
「どないしよ」
「……どないせんでも、ええよ」