恋の歌をきかせて - 1/4

真っ青なカツラはピカピカ光る照明の下、妙に目を引いた。
どこからどう見ても男のごつい身体。まるでシーツでもかぶったみたいなあれは衣装か、衣装なんだろうな、どこで売ってるんだあんな服。いやそもそもさっきから出てきてるやつらの衣装全部、二十数年を生きてきた一松の視界には入ったことのない形状をしていた。通販だろうか。
ムーディーな音楽にあわせるよう、しゃなりしゃなりとステージに歩いてくる女装の男。自分でマイクスタンドを持っているのがどうにもコミカルで、一松はつい口元を緩ませた。
かけられる声に手を上げ応えているあたり、それなりに人気なのだろう。雰囲気から予想するにジャズかなにかだろうか。まるで詳しくはないけれど、いっそその方がいいかもしれない。耳慣れぬ異国の歌の方が、なにも考えずに浸れるだろう。

むしゃくしゃした勢いのまま入った店がオカマバーであった、なんてどうしたらいいのかわからぬまま肩身狭くカウンターに座っていた一松は、ようやくほっと一息ついた。どこを見てなにをすればいいのか戸惑っているばかりだったが、これならわかる。ステージを見ていればいいのだ。よかった、これで隣に座ってくる店員に「すみません間違えましたチェンジで」などと言わなくてすむ。いつ出ればいいのか機会をうかがっていたが、このステージが終わる頃に出るならおかしくないだろう。
いつ誰が来ただの帰っただの、誰も気にしないなんて一松だってわかっている。自分はしがないブラック工場の従業員で、歩くはしから人目を惹くスターなどではない。わかっていて、それでも気にしてしまうのだ。どうしようもなく。
あいつなんかオドオドしてるな慣れてないな、来たとたん帰るとかなんだよもしかしてびびったんじゃね。そわそわして落ち着きねえなダサい野郎だ酒もろくに飲まず逃げ帰ったぜ、なんて誰も思わない。一松のことなど見てやしない。ただの初見の客でしかないこちらを注視などしていないと脳がどれほど理解していても、どうにも肉体がこちらを疑う。いやいやいやそんなこと言ってこっちがダサいことしたら指さして笑うでしょ? やらないやらないって口だけで仲間内でにやにや視線やりとりしてクスクスするでしょ?
心臓がいやな踊り方をするのを、グラスをあおって落ち着ける。違う違う。そういうのは大昔の話で、今はない。大丈夫。ほら、だって皆薄暗いこちらではなく明るいステージの方を見ている。

「やあ、今日もご機嫌かなガールズアンドボーイズ」
「ガールズなんぞいねえぞ!」

明るい声のヤジに青いカツラの男は軽く肩をすくめて流した。お約束なんですよ、と先程まで口を開かなかったバーテンダーが一松に目配せをする。

「ラメ男さんの挨拶に誰かがツッコミを入れる、までが毎回の流れになってるんです」
「……は、そっす、か」

なにも質問していないのになぜ話しかけられているのか。そんなに一松は不思議そうな顔をしていたのか。急な事にがちがちに固まったまま、ぼそぼそと返事をする頃にはバーテンダーは別の客の方を向いていた。
しかしまあ、なるほど。あの青いカツラの男は人気がある、ということなんだろう。お約束だ、と言われるほどに客席から声がかかるのだから。
ステージの上と下でやりとりをしているのをぼんやりと眺めながら、客商売も大変だなとのんきに考える。
あんな派手な化粧を塗りたくり、ひらひらとしたよくわからない衣装を着て、人前で歌うばかりかああして丁々発止のやりとりまで。下品な事やつまらぬ言葉を投げかけられても楽しく軽やかに返さねばならないのは、相当疲れるだろう。まず声を出すことから面倒な一松など、絶対につけぬ職種だ。それなのにあの男は朗々と響く低い声で楽しげに。

「……あれ」

あの、声をどこかで聞いたことがある。
低く落ち着いていて、男らしい声だ。女装した男から出てくるには少々そぐわないくらいの。そう、一松は確かにこの声を知っている。どこかで絶対に聞いた。どこだ。テレビか、ラジオか、いや最近は忙しくてどちらもろくに耳にしていない。そもそもあんな鳥のように着飾った男など一松の生息範囲にいやしない。この店に来たのだって初めてで、あんなオカマ見たことも……あれ。
叫び声をあげかけ慌てて口を押さえれば、逆流した空気で思いきりむせた。バーテンダーの大丈夫ですかなんて心のこもっていない声になんとか肯くも、まったくもってなにひとつ大丈夫ではない。死ぬ。衝撃でありとあらゆるものが飛び出しそう。
いた。
そう、一松は知っている。あの声は。いや、よくよく見ればどぎつい化粧をほどこしているが顔だってそうだ。きりりとした眉に少しだけたれ気味の目、案外低めの鼻にろくなことを言わない口。黒いスーツに身を包んだ姿しか見たことはないが、体型も似ている気がする。肩の骨がくっと張って、背筋がきれいに伸びた無駄にえらそうなあの立ち姿。
あれは一松の天敵だ。ひたすらに気に食わない格好つけでむかつく嫌な男。
そもそも今日、こんな店に入ったのもあいつのせいだ。
出会いから最悪で、顔をあわせるたび腹の立つ人間ランキング一位を更新し続けるあれに今日も今日とて苛立ち、勢いにまかせとにかく酒だと飛び込んだのがこのオカマバーである。単なる居酒屋、新規開拓程度の気分でいた一松は大変なショックを受けた。だっていやそんな、今日はてばさきだーって思ってたらうどん出されたらびびるでしょ。え、あいつうどん専門店にきてなんなわけって思われたくなくて必死に格好つけてたけどでも口はもうてばさきだし! 甘辛い味求めてるのにカレーうどんでいいでしょとかないし!!

「っ、ひひ、マジかぁ」

思わず笑い声がもれた。
マジか。本気でこれは現実か。あの格好つけが。男たるものどうだこうだ班長はもっと筋肉をつけた方が云々かんぬん、ぺらぺらと男らしさを説いてきていたバカがオカマとか。
この事実をどうつきつけてやろう。偉そうな顔をして体を鍛えろだの男がどうだの言ってきたら、そうっすねあんたみたいに妙な服着るにはねオカマさん、とでも返そうか。この店の名刺と、ああそうだオカマの名前。さっきバーテンダーが言っていた気もするがなんだったか、あの名で呼んでやってもおもしろいかもしれない。そうだ、工場のやつらをひきつれて来るのもいい。客なんだからこっちは堂々と接客してもらおうじゃないか。工場でのえらそうな態度と全然違うって笑ったって、本当のことなんだから。

「じゃあ今日はこの曲からいこうか」

楽しい妄想に心弾ませていた一松の頭を現実に戻したのは、オカマ野郎の声だった。
気づいてしまえばもう勘違いもない。どう聞いてもあの腹の立つ男の声だ。いかにして恥をかかせ溜飲を下げるかと考え中の一松にとっては、ひたすら楽しい時間でしかない。あいつの歌なんてとちらりと苛立ちがよぎっても、これでからかってやれると思えば腹もたたない。
それにジャズは、聞いてもいいなと思っていたのだ。
しかし明日からを楽しみに目を閉じた一松の耳に飛び込んできたのは、ジャズではなくアイドルソングであった。なぜか。しかも微妙に古いのは誰の選曲だ。ローラースケートで踊るな跳ねるなバックのオカマ!!!

 

◆◆◆

 

ちらりと壁の時計に目をやれば、時刻は思っていたより早かった。
今日はこのまま上がれるし、給料は先日出たところだ。これからゆっくり歩いていっても閉店時間には十分間があるし、そうだ一松は今腹が減っている。あそこならば食事もとれる。たまにはホカ弁やコンビニ以外で食べても罰は当たらないだろう。
いくつも理由を上げて、足が向かう先を肯定してやる。そうでもしないと好き勝手に動く足を許せないのだから仕方ない。
こげ茶色の重いドアを開けば明るい音楽。もうショーが始まっているのか、とわかるほどにはこの店に通っているのだと自覚すればまたため息が出る。いや行きつけの店があるのは悪くない。たとえそこがオカマバーだとしても、別に誰に文句を言われる筋合いもない。
問題は、ただ。

「いらっしゃいませ。ラメ男さん、まだですよ」
「っすか、はは」

問題は、一松の目当てがあのいけすかない男の女装バージョンだとなぜか思いこまれていることだ。
親切気に教えてくれるバーテンダーにひきつった愛想笑いをしつつ、一松は内心首をかしげる。なぜだ。なぜ店に来たとたん、アレの出番を教わらなければいけないんだ。
ステージ上には緑のドレスに身を包んだチョロ美が立っていた。気だるげな姿になにをするのかと思いきや、いきなりサイリウムを振りまわしたのを見た時は目を疑ったものだ。あれをオタ芸と呼ぶのも、今の一松は知っている。
そう。知っているのだ。彼らの……いや彼女らの持ち芸、呼び名、店に通い詰めなければ知らないだろうもろもろ。なぜなら通いつめているからである。
いや違うし。それはあくまでいい店だからで。オカマバーだけどフードが充実していて酒がさほど得意ではない一松も所在なげにせずともよい、値段もそこまで高くはないから給料日前はさすがに無理でも通えないほどではない。賑やかにやりたい客はテーブル、静かに楽しみたい者はカウンターと決まっているのか無駄に絡まれたこともない。こんなにもいいことずくめで、工場から少し距離があるから知り合いの顔がまるでない。一人のんきに飯を食い少し飲んでいい気分になって帰るにはもってこいの店、通わない方がおかしいだろう。
そう、だからなんの問題もないのだ。この店にしょっちゅう来るのはある意味当然で。なにもおかしくない。誰に咎められても胸を張ってやれる。そうだ。

「やあガールズアンドボーイズ。今日の気分はどうだ?」

必死に心の中の何者かを説得していた一松の意識が、ぐぐっとステージに向かう。
お約束のやりとりをこなしている青いカツラの男。派手な化粧と低い声、ひらひらしたカーテンにしか見えない衣装。マイクスタンドを持ったまま楽しげに話している姿は、やはりどこかコミカルでつい笑みを浮かべそうになる。
どう見ても知った顔だ。やっぱり何度見ても、あの男はあいつ。どうにもこうにも腹の立つ、いけすかない取引先の男。初めて見た時からずっと、幾度確認しても同一人物にしか見えない。女装姿をからかってやろうと思っていた、そのままの。
偉そうでむかつく態度のでかい男。納期を早めたり追加注文したりとこちらに苦労ばかりかける相手に好意を抱くなんて、絶対に無理だ。相当性格がいいとか腰が低く哀れであるならあちらも会社に逆らえないのだなと同情もしようが、こちらを働きアリかなにかだと思っているような相手になにをどう思えと。腹立つ死ね、しかないではないか。
それは出会った頃から変わらない。そう、腹の立つ男で絶対に恥をかかせてやろうと決めていたのだ。次に職場で顔をあわせたら、絶対にオカマバーのことを言ってやろうと。
思って、そのままなぜか一松は今日もバーに来ている。なにも言わぬまま。
けして一松に度胸がないとか怖くて喧嘩を売れなかったわけではない。もちろん、あのいけ好かない男のバックがマフィアだという噂は知っているが、というか噂ではなく真実だと工場長と一松は知っているわけだが、だからといって怖気づいたわけでもない。ないったらない。
ただ、今日はさほどでもなかったというか、ここ最近は初期ほど嫌な男ではないというか。こう。うん。いやもちろんスカした腹の立つ男であることは変わりないのだけれど、でもまあ、個人のプライバシーを暴き笑ってやるほどではないな、とか。あるだろうそういうの。

今がマシに思えるのは、出会いが最悪すぎたせいもあるかもしれない。
仕様変更などと納期直前に言いだした取引先のため、ほぼ出ずっぱりでどうにかこうにか仕上げたその日。これでやっと布団で眠れるとふらふらになりながら帰ろうとしていた一松を、責任者と顔をあわせたいなどと呼びだしたバカがいけない。どう考えてもあちらが悪い。納品した後に顔をあわせてどうしようというんだ。終わらせたんだからとりあえず寝させろ、休みをくれ。疲れ果てた一松の愛想が悪くとも当然のことじゃないか。そもそも工場長が一番の責任者なんだからそこで話は終わらせておいてくれ。そりゃ現場のことなんて工場長にはわからないだろうけれど。
ぶっ倒れそうになりながらも、終身名誉班長として呼び出しに応じた一松を褒めこそすれ責められる筋合いはない。
だというのに、呼びだした当人はとんでもなく感じの悪い男だったのだ。あちらの急な仕様変更で納期がギリギリになったというのに、今度からはもっと余裕を持ってほしいなどとどの面下げて言いやがる。あまりのことに睨みつけてやれば、この工場の従業員は教育がなっていないとぬかしやがった。そんな相手にどの面下げて愛想よくしろというのか。以降、顔を合わせる度に嫌味を言いあう程度で収まっているのはひとえに一松の気性が穏やかだからだ。
そもそも取引先の人間がふらふら工場内を歩き回っているのがおかしい。上層部でいろいろあったらしいことも、取引相手がのきなみ叩けば埃が舞いそうな会社ばかりになったのも、どこぞの怪しげな会社の傘下に入ったらしいことも漏れ聞こえはするが、はっきりと説明を受けていない間は知らぬフリを貫き通すのが平和に生きるコツだ。一松はなにも知らない、気づいていない。カビ臭いだ暗いだとうるさいあの男がジャケットの内ポケットになにやらごつごつしたものを隠し持っているのも、これまで以上に作っている物をなにか教えてもらえないのも、アレはマフィアから派遣されてきたお目付け役だという噂も一切預かり知らぬことである。
一松が知っているのは、あのいけ好かない男の名が松野ということくらいだ。まさかの同じ名字でテンションだだ下がりである。あちらとの因縁を知らぬ同僚から親戚かと問われた時など、真剣に改名を検討した。なぜ自分の名字はあんな嫌味で格好つけの馬鹿と同じなんだ。ご先祖様を恨めばいいのか。なんで母親の姓にしなかったんだ両親。
それほどに嫌いな相手だ。
だからこそ、女装姿を笑ってやるつもりだったのに。

ステージにはスポットライト。明るい光の下、古いアイドルソングを歌う顔はひどく楽しげだ。艶やかに伸びる低音が妙にくせになる、奇妙で晴れやかな明るいショー。
きっと、関わりあいになりたくないのだ。嫌いだから。苦手だから。だから女装姿を笑ってからかってするなんてわざわざ自分からかまいにいくようなことしない。そう、そうだ。見たぞと笑えば一時はすっとするだろう。けれどその後のいざこざが面倒だ。あいつに恥をかかせ溜飲を下げることより平穏を選ぶ、そういうことだ。
からかいもせず、話題にも出さず。なにも知らぬ顔で店に通う己を一松はそう結論づけた。
穏やかで平和を好む性質なのだ、一松は。なるべく波風たてず平穏な毎日を送りたい。だから口をつぐんでいるだけで、あちらにわざわざ関わりあいに行くなんて無駄な事をしたくないだけで。うん。美味い食事を出す店に行きづらくすることもないだろうし。
それにまあ、BGMとして流すには悪くない声だとは思うので。

 

◆◆◆

 

油断した。
火をつけたばかりのタバコを消すのはもったいないし、あからさまに避けてますと言わんばかりの行動をとるのも腹が立つ。別に一松は避けていない。逃げてもない。ひたすら、この男が気に入らないだけだ。
せめて空気を読んで別の場所に行けばいいのに、缶コーヒーを買った男はそのままこの場に居座るつもりらしい。ずうずうしい。そりゃあここは休憩所でベンチもあるが、こいつなら応接室でもどこでも入りこめるだろうに。こんな、作業員がひそかに休憩をとる場に来るなんて下の者の気持ちがわからないにも程があるだろう。
引き返しては負けだ、と一松は自動販売機の横の灰皿に歩み寄った。昔から妙なところで意地を張っては損するのだ。自覚していても性分なのだからどうしようもない。二人きりの休憩室で、どちらが先に逃げだすかの我慢大会。

「……最近は」
「は!?」
「えっ」

まさか話しかけてくるとは思わなかった一松がぎょっと隣を見れば、目を丸くした男もまたこちらを見ていた。ぽかんと開いた口がどこか幼い。

「あっ、え、あー」

なんだそれ、見たことない顔だぞおい。

「えっと、はい、なんすか最近!?」
「あ、ああ、うん。最近はあまり業務きつくないのか、って」
「は? まあ、いきなりの仕様変更とか急なぶちこみとかないんでマシですけど」

どれも目の前の男からもたらされた業務だ。おまえどの面下げてそれを聞く、という気持ちを込めて睨みつければ気まずそうにごつりとした男らしい手があごを撫でる。指先に青色が見えて一松は知らずびくりと肩を揺らした。

「? どうした松野班長」
「は、いや……や、なんでもないです」

違う。男の指先についていたのは単なる青いインクだ。爪に色などついていない。
隣に立っているのはステージ上のラメ男ではなく、職場のいけ好かない男だ。照明の下、輝く青い髪もゆっくりマイクスタンドを撫でる青い爪もない、白いドレスから骨ばった肩を出したりもしていない。黒いスーツに身を包み、ごくりとコーヒーを飲み込むたびのどぼとけが動く。

「……あー、松野班長達には悪いことをした、と思ってはいるんだ。納期も仕様変更も問題ないと言われたんだが、こういうことは現場に聞くべきだった。今更だとは思うんだが、その、すまなかったな」
「は」
「どうにも言い訳じみているな。少し考えればわかることだったんだが、こちらも余裕がなかったもので……松野班長?」

手に持った缶を見つめていた視線が、すいっと上がる。
一松の顔をのぞきこむため少し首をかしげる仕草が、抱いていたイメージと違いすぎてどうしようもない。処理速度がおっつかない。
できるできますまかせてちょ、と工場長が安請け合いしたんだろう。さもありなん。そりゃあ取引先、しかもどうやらマフィアだのなんだのらしい相手にできないとは言えないだろう。それを信じて発注しただけ、なるほどなるほど。言われてみたらまあそうだなありそうだなっていうか、いやでも結局無理をしたのに変わりはないし謝られてもどうしようもないし次同じことあったらきっとまた工場長はいけるって言ってこの男はよろしくと言う。そして一松達に負担がかかる。当たり前、そうならない方がおかしい。すまなかったなんて口だけ。わかってるわかってるわかってる。
でもきっと一松も、同じことをする。目の前の男の立場なら。そして謝ったりは、しないだろう。だって気まずい。

「どうしたんだ松野班長、気分でも悪いのか? おい、火が」
「うっわ!??」
「わっ、バカ大丈夫か!?」

触れられた指先がじんじんする。なんだこれなんだこれなんだこれ。いや違う。そういうんじゃない、そういうのってなんだ、いや違う。違うって。火傷。うっかりタバコを持ったままぼんやりしていたから少し熱かっただけで、だから痛くてじんじんしているのだ。
床に落ちてしまった吸殻を拾い上げ、灰皿に押しつける。もったいない。ほとんど吸わないままに終わってしまった。

「やっぱり相当疲れがたまっているんだな。火をつけたままぼんやりしちゃ危ないぜ」
「あー、以後気をつけます」

話しかけられたため出ていくタイミングを見失ってしまう。タバコをもみ消した時点で足を動かせばよかったのに、つい灰皿の傍で立ち止まってしまった数秒前の己を呪うしかない。
もう一本火をつけようか。いやそんなことをしたら吸い終わるまでここで仲良く肩を並べておしゃべりしなければいけないんじゃないだろうか。先程謝られたせいもありこの男だけが悪いわけではないと理解はしたが、だからといってぺちゃくちゃやりたいわけじゃない。基本的に一松は、業務の指示以外声を出さない。無駄口を叩かないというより人見知りを極めてしまっただけなのだが。そんな身に、狭い休憩所で二人きりなんて荷が重い、重すぎる。いったいなにを話せばいいんだ。

「……松野班長」

ひょいと差し出されたのは缶コーヒー。

「眠気覚ましならコーヒーだって負けちゃいないぜ?」
「ふへ」
「こっちが言うことじゃないかもしれないが、もうひと頑張り頼むな!」

パチンと閉じられた目。まつ毛が長い。缶に添えられていた爪は青くはない。声は同じ。ああ、ウインクか。
黒いスーツの背中はまっすぐ伸び、足早に去っていく姿はステージ上でしゃなりしゃなりとシナをつくっていたものとはまるで違う。それでも。

「……同一人物、だよなぁ」

だからなんだと問われれば、どうということもないとしか一松には言えない。のだけれど。

 

◆◆◆

 

猫をな、と手にした携帯電話をひらめかせ隣にしゃがみこんだ存在に未だに慣れない。

「どうしてもうまく撮れないんだ。班長みたいに撮りたいんだが」

触れた腕のぬくもりに身体を引きかけ、慌てて堪える。おかしくないおかしくない。手に持った液晶画面を見せようとしているんだから距離は近くなるし腕くらいあたるし満員電車ならもっと全身他人とぎゅうぎゅうにひっつくわけだから。それでいくとこの人は顔見知りだし最近まあそこそこ話すしというかこの工場内で一番親しいと言っても過言ではないレベルなわけで、なら別にこの距離感はそこまでおかしくない。大丈夫。

「動かないとこを狙えば」
「躍動感あるのがいいんだ!」
「じゃあせめてもう少しカメラ機能のいいやつにしないと無理でしょ」
「班長のだって結構古い機種じゃないか。同じだろ」

唇を歪ませたり尖らせたりと忙しい。今は口紅をぬっていないからうっすら赤みがかっているだけの唇は、化粧をしている時より薄い気がする。

「もう餌でつるしかないんじゃないの」
「ん~……やっぱりそうだろうか」

真剣に小さな液晶画面を見る横顔は、きりりとしている分言動に落差があり過ぎる。この顔を見ていったい誰が猫の写真を撮りたいという話だと思うだろう。ヤバ目の取引の相談をしていると言った方がよほど信憑性がある。
これでまだ別の顔があるというのだから手に負えない。
スーツに包まれた肩が一松の肩に当たった。硬く骨ばった男の身体。一松はこの肩が、白いドレスをまとっていることを知っている。ごつい時計がついた手首がゆるやかにくるりと回ることも、スリットからのぞくふくらはぎが白いことも、低い声がのびやかに広がることも。
だからなんだ。
幾度も自問自答する。隣の男が女装してバーで歌っていることを知っている。それがなんだ。どうしたというのだ。本人に告げるでもなく、からかうでもなく、ただ店に通い歌を聞きそのくせ話題にはちらとも出さずこうして意味のない話をして時間をつぶす。
休憩時間にこの男を探すようになったのは。まるで約束でもしているかのように二人おちあうようになったのは。

「そういえば班長、禁煙したのか? 最近吸ってないじゃないか」
「禁煙ってほどでもないけど、まあ、猫も煙は嫌がるし」

あんたも吸わないし。
外見からは喫煙するだろうとしか思えない男は、一松の知る限りタバコを手にしたことがない。自分も控えてみて初めて気づいたが、吸っている人間は体臭からして違う。近づけば必ず煙の匂いがするのに、どれほど隣に立っても感じたことがない。
もしかして、と考えてしまったのだ。
吸わないのは喉のため、では。歌うため、なんて。あんたもしかして本当は、こんな底辺の工場で睨みを利かすより怪しげな職業でいるより、歌を。
だって一松は知っているのだ。聞いているのだ。楽しげに呼びかけられる客への声。甘やかな低音。古いアイドルソングばかり歌うのは一番受けがいいからで、本人はベタベタな恋の歌も歌いたいのも知っている。
そんな人間の隣で煙をすぱすぱ吐き出すほど一松はひどい性格ではない。そりゃあ人見知りで対人関係に難はあるが、気を遣うことくらいはできる。
そう。それなりに親しく話す取引先の男の秘密を守ろうと思うくらいには。

「班長は本当に猫が好きなんだなぁ」

いけ好かない、大嫌いな男だと思っていた。あんな感じの悪い男、オカマだとばらして大笑いしてやろうと。

「まあ、嫌いじゃないすね」

そういうことなのだ。
一松は褒められた性格ではないが、それなりに親しい、嫌いではない相手に恥をかかせるようなことをするつもりはない。それが彼の秘めたる夢かもしれないならなおさら。ほんの少しの息抜き、一時の夢。それを踏み荒らすようなこと、どうしてしようと思うだろう。相手が極悪人ならまだしも、吸わないくせに謝罪のためだけに喫煙所まで出向く男だ。律儀で不器用な、人のいい男。たとえマフィアだろうと、そんな人間を嫌うわけがない。
認めよう。
一松は隣の男に。マフィアだろうと噂されている後ろ暗い職の怪しげな男に、友情を抱いてしまった。
今日は会えるだろうかと心弾ませ工場に向かい、休憩時間にはなんとなく集合場所となった倉庫の裏手に足早に向かう。なにひとつ役立たない意味のない会話を交わし、笑いあう。多くの者が学生時代にこなしただろう経験を、今更初めて体験するなんて思いもしなかった。

「松野さんはもうちょっと動きを静かにしてりゃ猫も寄ってくんじゃないの」
「ほ、ほんとか!?」
「あと声小さくして」
「任せろ」

同じ名字だというのも親近感がわく。
今はそれなりに親しい知人、だけれどもしかしたら。もう少し親しくなったら、仕事場以外でも会ったりなんかしたら。彼と友達、なんてものになるのかもしれない。
腹の底がじわりと温かくなり、胸が痛んだ。それなのに頭はふわふわと雲がかかったようで頬は緩む。
友達。

「そうだ、今日は何時上がりだ?」
「いつも通り21時ですけど」
「シフトは18時交代だろ? あいかわらずだな、オレが言うのもなんだが」
「ほんとにね」

まるで悪いと思っていない顔でにやりと笑ったまま、一松の隣の男は口を開いた。

「予定がなかったらメシでも行かないか? 美味いカラアゲの店みつけたんだ」

ぎゅうと喉がしめつけられる。指の先に血が勢いよく流れこんだのがわかった。膝を握りしめた手が汗ばんでいる。
一松の現状になにひとつ気づかないまま、隣からとんでもない殺傷能力を持つ言葉が飛んでくる。

「班長ともっと話したいと思ってたんだ! きっと楽しいだろうなって」
「……行く」
「そうか! 楽しみだな」

一松の友達はひどくはれやかに笑った。まぶしい。