「一松、好きだぞ」
真っ赤な頬、少し震える声、潤む瞳は緊張からだろうか。はにかんで告げられる愛の言葉は嘘偽りなどかけらもなく。ああ馬鹿らしい。
「はいはい、もうカメラないから演技はいいって。そもそもおまえさっき解けたって言ってただろ」
アイドルが体当たりで様々な経験をするバラエティ番組の収録で、一松とカラ松にあてがわれたのは催眠術を学ぶこと、だった。
二十歳もとうに超えた男二人でなにをさせるのだという話だが、おそ松とトド松は虫料理にチャレンジ☆であったしチョロ松と十四松に至っては無人島で二泊三日だった。カラ松の出演する舞台の日程から長期のロケができないという理由でしかなくとも、一松はありがたく催眠術を学ぼう。虫を食べるよりずっといい。
「いや、演技は確かにしていたんだがそうじゃなくて」
「なに」
「解けたのが違うというか、あの場ではそう言うしかなくて、その」
らしくなくぼそぼそと話すカラ松の胸ぐらをひっつかんだり怒鳴ったりしなくなったあたり、少しは成長したなと一松はひっそり自分をほめた。もちろん怒鳴らないのが当然だと理解はしている。けれど、以前はいらだちを我慢することなく八つ当たりでカラ松にひどい態度をとっていたのだから、こうして待っていられるのは確かな成長なのだ。
兄さんえらいね、と勝手に脳内の十四松にほめてもらっていると、やっと言いたいことがまとまったのか下を向いていたカラ松の顔がぱっと上がった。ぱちん、とスイッチの入る音がする。一松の耳にだけ響くそれは、カラ松の目に光が灯ったときの合図だ。
何かを決めたとき。もう譲るつもりのないとき。
ニートを満喫していたむつごが物珍しさからなぜかアイドルに祭り上げられた時も、ぴかぴかに目を光らせて言い放っていたではないかこいつは。おれはこのビッグウェーブにのるぞ。上二人がバカみたいに面白がって躊躇しなかったから、一松達もつい飛び込んだのだ。何の因果か性にあったのか、アイドルを仕事としてもう数年が経つ。
「催眠術に、かかったんだ」
「ああさっきね。一緒にロケしてたし知ってるって」
学ぼう、と銘打ちながらもメインは二人に催眠術をかける内容だった。確かに視聴者としてはその方がおもしろいだろう。ベタに『目の前の相手が恋人だと思いこむ』という催眠をかけられた二人にどんなテロップがつけられるのか、目に浮かぶようだ。
テレビ的には、弟かわいいブラザー愛してるぜなカラ松より、ツンデレ呼ばわりされている(されているのだ! 世も末だ)一松がめろめろになる姿を求められていたのだろう。わかる。そりゃ見たいだろう。だけどそれは無理。絶対に無理。
実際、どれだけ好きでもこの態度なのだ。今更催眠術にかかったからといって、カラ松への態度を変えられるわけがない。
そりゃ少しは考えてみなかったかと問われれば、考えた。十四松のように素直に好意を表せたら、トド松のようにかわいらしく甘えられたら。催眠術にかかることによって、恋人という名目で一松の中にある愛情をカラ松に示してやれたら。それが兄弟愛でなくともきっと涙を流して喜ぶに違いない。なんせ弟というものに弱いのだからあの兄は。
けれど同じくらい恐れた。一松は催眠術にかかったことはない。どうせインチキだ、気の迷いだと思っているけれど、しょせんテレビだから適当にやっているはずだろうけれど。でも絶対ということはない。男が絶世の美女になる薬があるのだ、目の前の人間を恋人だと思いこむ催眠術があってもおかしくはない。そして、そんな術をかけられてしまった一松はいったいどうなるのだろうか。やっと諦められたカラ松への思いを捨てる必要のないものだと拾い上げ、そして。恋人なんて、思いこんだら。カラ松が、恋人としてこちらを見てくれたら。
少しの期待と恐怖、かかるわけがないという強がり。そろりと目を開いて飛び込んできた兄の顔はあいかわらず一松とよく似ていて、まるで違った。マジでかかってんの今これ、と首を傾げる一松にスタッフの「ああ~」という声なき声が聞こえる。しまったここはかかったフリをするところだった、と気づいてももう遅い。だからバラエティは苦手なのだ、求められている状態に気づいてもそうできるわけじゃないから。いっそすべて台本があればその通りにするのに。これでカラ松もかかっていなければやり直しだろうか、とちらりと伺えばさっと視線をそらされる。
息を止めたら顔が赤くなるし苦しいと涙目にもなるだろ、だから告白シーンなんかの前はわりと便利だぞ。以前この目の前の兄から聞いたお役立ち技が即座に脳内に飛び出してくる。少しくらい夢見させろよちくしょう優秀すぎないかなおれの脳味噌。なるほど、つまりそういうことだ。かからない一松とかかったカラ松、皮肉屋と素直、対照的でいいユニットなんじゃないですかアクア。そのうち俳優業にシフトチェンジしたいと願っているだろうカラ松の演技はなかなかで、催眠術ロケは平和に終わったはずだった。
「最後に解いてもらっただろ? あれからが演技だ」
「は?」
「オレ達つきあってるんだ、実は」
催眠術のせいだってわかってるんだけどなぁ。そう言って笑うカラ松はひどくあっけらかんと言い放った。
「申し訳ないが耐えてくれ。催眠術が解けるまでだけだから」
「え?」
「違うと理解はしてるんだ。だが、おまえとつきあっているのも本当のはずで、恋人なのに二人きりの時さえいちゃつけないのはおかしいだろ。好きって言いたいし手つなぎたいしひっついて癒されたいじゃないか!」
オレは恋人に毎日愛の言葉をささやくタイプなんだ、と胸をはるのは確かにカラ松だ。一松の兄であって恋人であったことはない。
「すまない、オレも混乱してるんだ。ただの兄弟のはずなのに、恋人だって確信もある。そんな記憶ないはずなのに、感情はおまえのこと好きで好きでたまらないんだ。まあ川のせせらぎだと思って聞き流してくれればいいから」
なにが川のせせらぎだ、おまえからの好きなんて激流だろ。というか本当にかかっていたのかどれだけ単純なんだ、っていやそこじゃなく。そうじゃなく。
「……解けるって、いつ」
「わからないな!」
気にしてくれるなんて一松は優しいな、好きだ。するりと付け足される言葉に一松は都度殺される。
弟として、ブラザーだから。いつだってカラ松の好意は一松のやわい心臓を突き刺し続けてきた。無慈悲に。傷ついてぼろぼろのそれを拾い上げて手当するのもまたカラ松だったけれど。その度、こんなやつのことは好きじゃない嫌いだ寄るなさわるなあっち行け、と必死で抵抗してきた十代後半。苦しいしんどいおまえのせいだ、と八つ当たりした二十代前半。やっと最近、穏やかに受け止めることができるようになったのに。この兄の中の絶対の特別、兄弟であるということは災厄であり福音でもある。なんせなにをしてもカラ松は一松を嫌わない。好きでいる。なにをしても、しなくとも。兄弟である、という一点だけで。
そう、一松は諦めていたのだ。やっと諦められたのだ。カラ松からの好意に一喜一憂することをやめ、彼になにかを期待することをやめ。それでやっと、それなりに仲のいい兄弟になれたのに。こうしてグループ内でユニットを組む際、心配されない程度に。
なのに今更。
「なにそれ、おまえ単純にも程があるよ」
催眠術で、なんて。一松がどれほど苦しんでも吐いても嘆いても消えなかった感情を、なりたいと願い夢見て切望した関係を。おまえが。カラ松が。
催眠術なんてそんなものでこうも簡単に。
恋人、だと。
「そうだな。一松には迷惑をかけるけど」
「……別に、仕事に影響しなきゃ、いい」
「ああ! それはちゃんとする。変な噂になってもいけないし、なるべく二人の時だけにするから」
変な、噂なのだ。二人が恋人だというのは。変な、ありえない、おかしい。兄弟以上はない。わかっている、カラ松に他意はない。だからこそ一松は常に傷つけられてきたのだから、そんなことは十分理解しているのだ。
カラ松は無邪気で無慈悲で身勝手だ。生まれてこの方、ずっと知ってる。
「好きだって、言ってもいいか。おまえのことを恋人だと思っていて、構わないだろうか」
「やめろって言っても催眠術が解けないとどうしようもないんでしょ。おまえが自力でやめられるならともかく」
好きでいることをやめられると思っているのか。バカめ。カラ松は本当に考えが足りない。
自分ではどうにもできないから、一松はこんなにも苦しい。それすらも知らないのだ。恋になんて落ちたことがないから。あんなに恋愛ドラマに出ているくせに、一松以外の誰かとばかり恋をしているくせに。
「ありがとう! 一松は本当に、オレの自慢のブラザーでラバーだな。大好きだ!」
ずっと欲しかったブラザー以外の呼び名は、まるでうれしくなかった。
◆◆◆
覆水は盆に返らないし一度つけた折り目はどれだけ伸ばしてもまっすぐには戻らない、焼け木杭に火はつくし水で濡れた本はやっぱりしわしわ。つまりそういうこと。
「一松!」
楽屋に入ったとたん尾を振る犬のようなカラ松に突撃され、一松の背はドアに押しつけられた。
「いてっ」
「すまん! うれしくて勢い余ってしまって」
常はきりりと力強く上がっている眉は下がり、申し訳なさげに弱い口調のくせ手は一松の腕をつかんだまま離さない。片時も離れたくないと主張していることに、本人は気づいているのだろうか。
催眠術が解けていない、と告白されてから一週間、カラ松は常にこの状態だ。ことあるごとに好きだと口にし、一松の傍にいたがる。二人の時だけ、という約束の通り人目があれば以前のように装うくせに、目にだけはきらきらと一松への感情を乗せてくる。
勘弁してほしい。
一松は正直、他人からの好意に慣れていない。アイドルをやっていてなんの寝言だと思うだろう、自分でもそう思う。それでも、二十数年積み重ねてきたものは重い。
人見知りで、内弁慶で、兄弟が大好きなくせに素直になれない天の邪鬼。メンバーカラーは紫で、歌よりダンスが得意で、猫が好き。ファンが応援してくれているそれは確かに一松で、本当の自分を見て欲しいとかそんなことも別に思っていない。今ここにいる一松を、きちんと応援されているのだろう。生放送で脱糞騒動を起こしたときもファンレターはきたし。そういうイッチも応援してる、と書かれていたし。さすがに、イッチの真似をして外でしようとしたけど恥ずかしくて無理でした、というラジオ投稿にはやめてよバカじゃんと返答したけど。でもまあ、等身大の自分、というやつでやっていけているのだ、すばらしい。
けれど、ダメだ。それでも慣れない。好意を向けられている、知っている。だけどそれがなんだ。どうしようもない本音を言おう。一松自身が一番、己を愚かでバカで救いようがないと思っている。だから許してほしい。
ファンが束になってこれまで向けてきてくれた好意よりも、カラ松からの方が破壊力が高い。
なんだそれ。本当に、どういうことだ。お金も時間も手間もかけて、チケットを買ってグッズを買って雑誌を買って、ファンレターを出してブログを書いてラジオをチェックして、CMに出ればその商品をまた買って。そんな献身的な何百人何千人よりも、今横でへらへら笑っている兄が特別だというのか。催眠術なんかで抱いた紛い物の愛情が、勝つというのか。
勝ってしまうのだ。つらい。
だってずっと飢えていた。水をたっぷり含んだスポンジに水滴を落としてもさほど吸わないけれど、からからに乾いた砂はすぐさま吸収してしまうだろう。カラ松からの恋愛感情での好意は、つまり一松にとってそういうもので。だから。
「今日はもう終わりか? オレは雑誌のインタビューだったんだが今回は別々なんだな。せっかくのグループ内ユニットなんだからもっと一緒の仕事があればいいのにな」
二人きりになれば隣に座り、なんだかんだと話しかけてくることにはさすがに慣れた。これまでより距離が近くて、一緒がいいなとしょっちゅう口にされることには未だ慣れない。本人はかっこいいと信じて突き進んでいたが兄弟受けは悪かった、装飾過多な舞台じみた口調がひどく減ったことは、慣れたくない。
恋人にはそうするんだ、と見せつけられたくない。これ以上一松の知らない顔を見せないでほしい。こんな顔をするんだ、こんな態度をとるんだ、好きな相手には。知る度に、これまで一松には一度たりともされなかった事実を噛みしめて死にたくなる。
好きだと言われているのにずっと振られ続けているみたいだ。
「そうだ、さっきスタッフさんから差し入れを……一松?」
惨めで泣きそう。
自覚していた、理解していた、諦めていた。カラ松は一松を恋愛感情で好きになったことはない。どれほど想っても伝わらない。そういうものだ、あたりまえだと思いこんで押し込めて過去のものにしていた感情が、ほんの一滴の水で、好意で息を吹き返す。
好きだぞ、と告げる声に乗る羞恥に。肩が触れる距離の温もりに。見つめる視線の強さに。名を呼んだ時の彼の笑顔に。
カラ松から好かれている。恋心を抱かれている。そう自覚する度、一松の欲が息を吹き返す。諦めたはずなのに、捨てたと思っていたのに、そんなことさえまともにできない。
「どうしたんだ一松、なにかつらいことがあったのか? イヤな撮影だったか??」
カラ松の肉厚の手がうろうろとさまよって、一松の背にそっと添えられた。ゆっくりゆっくり撫でられる背中。大丈夫大丈夫。まるで歌のように口ずさまれる気休めの言葉。
おまえなんかになにがわかる。そう胸ぐらをつかめたのは数年前の一松。
近づかないでくれ。ぴしゃりとこの温かな手をはねのけられたのは学生時代の一松。
なにひとつ大丈夫じゃない。カラ松は一松がなにを思っているのか、つらいのかなんて欠片もわかっていない。それでも拒めないのが、傍にいてほしいのが、現在の一松だ。
だってカラ松がいないと息もできない。そんな自分を知ってしまった。近づくなとうそぶき本気に取られたらどうしよう。胸ぐらなんてつかんで嫌われてしまったら明日から生きていけない。
兄弟からの攻撃でとんでもない怪我を負ったくせに責任さえ負わせてくれなかった、関わることさえ許されなかったあの日を思い出すだけで息が止まる。あの日まで、一松の世界は盤石であった。自分がいればそれだけでいいのだ、兄弟は好きだけれどあくまでも添え物、影響などされるはずもない。そうである、と信じ切っていた。怠惰に。一緒に立っているつもりだった、関わり合っているはずだった、カラ松も一松からなにかしらの影響は受けているだろう。同じように。そう身勝手に思いこんでいた。なんの根拠もなく。まさか立ち入らせてさえもらえなかった、なんて。カラ松の世界に、人生に、一松は欠片も関係がないのだ。
あの絶望を知ったから、もう二度とあんなことはできない。カラ松は簡単にすべてを置いて行ってしまえる。だって大切じゃないから。もちろん兄弟を大切にしてはいる、そういう意味じゃない。ただ、なにもできないのだ。カラ松に影響を与えることがない。できない。一松がこんなにも揺さぶられ苦しみ嘆いているのはカラ松のせいなのに、彼はいっさいそうならないのだ。
そのカラ松が、今はいない。隣に座り背を撫でてくれているのは、心の柔らかい場所を一松にも開け放ってくれているカラ松だ。
催眠術で。
催眠術、なんかのせいで。
一松と恋人だと思いこみ、偽物の感情に基づいて好きだ好きだとさえずる鳥。
ああ、おまえ恋人には弱音も吐くんだな。兄弟には言わなくても。恋人には。恋人、という名がつけばどこの馬の骨にでも。
「……イヤなことは、ないよ」
「そうか? じゃあいいんだが……なにかあったらちゃんと相談してくれよ」
「うん」
「アクアは二人のユニットだからな、おまえの兄として……いや」
捨ててしまったはずの欲が、どんどん肥大化する。
あとで絶対に苦しむのに。つらいのに。最後に泣くのは一松だ。そんなのわかりきっているくせに、期待する己の弱さいじましさが嫌いだ。吐きそう。
「……恋人として、力になりたいんだ。ほら、好きな人は笑っていてくれるとうれしいからな」
ごめんな勝手なことを言って。へにゃりと気の抜けた笑顔を向けるカラ松は一松の兄であると強固に主張していた過去の彼ではない。ずっと一松の求めていた、欲しかったそれで。でも。それでも。
「好きだよ」
ぱちん、とまばたきをするカラ松の、瞼に覆われる前の目はどんな色をしていただろう。
「今のおまえは、好きだよ」
嘘。いや、嘘じゃない。でも違う。今のカラ松も好きだけれど苦しい。前のカラ松が大好きで泣きたい。
どうしたらいい。助けてくれ。
一松のことを好き、だということに罪悪感を抱かないでほしい。無駄に堂々と胸を張って生きてるおまえが好きなんだ。そんなおまえに好かれたら、と夢想していたんだ。謝りながら好きだよと言ってほしかったわけじゃない。一松への気持ちを後ろめたいものにしないで。
思っていることは何一つ伝えられない。
どうカラ松に言えばわかってもらえるのかがわからない。
「……催眠術のせいとはいえ、オレに好きだって言われるの、イヤじゃないのか」
「イヤならさっさとやめさせてるし。……前も言ったでしょ、別に仕事にさしつかえなきゃいいって」
「オレと恋人で、いいのか」
「だってそうなんでしょ、おまえの中では。こんな底辺のゴミとで気の毒だけど」
兄のカラ松なら絶対に「一松はゴミじゃない」と言う。けれど隣でなにかを考え込んでいるカラ松は一松の自嘲を否定しない。
一松を好きだと言うカラ松は、普段の仰々しい言葉遣いをしない。兄貴ぶらない、クソ顔をしない、一松になにかを意見しない。ただただ優しくして甘やかして好きだと笑う。それすら許されないとでもいうようにおずおずと、ごめんと謝りながら好きだと告げる。
ねえそれどこの誰相手にしたことあるの。おまえのしゃべり方面倒だからやめろよって言われたの。クソ顔むかつくって、俺に逆らうなって言われたの。ねえ。そうじゃなきゃ一体どこで学んだの。恋人ならこうする、好きな相手にはこうする。そんなこと誰から。
これまでの、兄としてのカラ松と違う顔を見せられるたび一松は死にそうになる。憤りで。クソでバカで独りよがりのどうしようもない男だけれど、でもそれがこいつで。そういうのをかっこいいと思いこんで一直線にがんばったのがアレで。それを全部殺してしまっていったいなにが得られるというのか。そんなのカラ松の抜け殻だろう。
そんな相手を好きになるのか、おまえは。
バカ野郎、なんでそんなやつを。おまえの良さなどなにひとつ理解しない、そんなやつらよりずっとおれの方が。おれの方が。ずっと。
飛び出しそうな言葉をぐっとかみ殺す。そんなこと言ってどうなるのだ。どうせこいつはわけもわからず困ってサングラスをかけるかとんちんかんな発言をするだけだ。一松の兄だという立場を崩さずに。
……違う。今なら、違う。
ささやいたのは天使か悪魔か。いや、一松だ。諦めきれずうじうじと腐りきった感情を抱えていた、捨てられなかった、一松が。
「そういえばさ、混乱するって言ってたの治ったの」
「混乱?」
「つきあってないって事実と恋人だって認識がどっちもあるから混乱するって言ってたろ、前に」
「あ、あぁ~、今のところ問題ない」
「頭痛いとかいきなり記憶がとぶとかそういうのは」
「ないぞ。どうしたんだ一松、急に心配性になって」
愛おしいとまっすぐ伝えてくるやわらかなまなざし。これは兄のものか恋人だからか。
わからない。
全部わからないけれど、でも、ここにある。手を伸ばせば届く。どうしても捨てられなかったそれに。
「……本当にしよう」
聞こえていただろうにカラ松は、ゆっくり首をかしげた。
言葉にしてしまうのは恐ろしい。言い切ってしまえばもうごまかすことも煙に巻くこともできない。でも。それでも。
「今のままでいい、別にむりやり元に戻らなくても。……混乱するくらいなら、もうおれと本当に恋人になればいいんじゃないの」
なにもよくない。
一松とカラ松は兄弟で、家族で、催眠術さえしっかりかかりきらないほどにそれ以外の認識がない。恋人だと思いこんでいるのに、それが偽りだとも理解できているなんてひどい。どういうことだ。せめて本気で思いこんでほしかった。騙されたかった。騙されてほしかった。だってあんなに愛おしげに見つめるのに、弟には向けたことのない顔をするのに、なのに嘘だとわかってると口にするのだ。まっすぐに。
おまえの恋人だと心底思いこむ隙のひとつもない。
どこかの誰かに成り代わることさえできやしない。
「最近のおまえなら、別にいい」
もう疲れてしまったのだ、一松は。
諦め、捨て、静かに朽ちていくだけのはずの呪いのような感情をむりやり拾い上げられることに。
カラ松が恋人に対してとる態度が、これまで見たことないものばかりだという事実に。
希望などかけらもないと思い知らされ続けながら、恋人に対する好意を与え続けられることに。
疲れ切ってしまった一松は、もう耐えられない。催眠術の解けたカラ松が、いずれできるだろう恋人に同じことをするのだと知っているから無理だ。この世に神などいるものか。知らなければ耐えられただろうに、一松は体感している。目の前の兄が、どれほどいじらしく恋人にあわせるか。好意を隠さず笑うのか。はにかみながら愛をささやくのか。すべて知っている、のに。
自分以外の誰かにそうするのだと。
理解してしまっているから、もうダメだった。
「本当に恋人になればおまえの混乱もなくなるし、二人の時だけだから仕事にも影響ないし、いいことずくめでしょ」
恋人がいる状態であれば、クズのわりにマジメなところのあるこの兄は他に目を向けない。とんでもないわがままドブス相手でさえ、頼られれば嫌と言えず結婚まで突き進みそうになった考えなしだ。ましてや弟相手に、浮気なんて格好の悪いことしやしないだろう。
「いいよ解かなくて。このままでいいって」
あるかもしれない幸せを握りつぶす行為だと知っている。
いつかの未来を裏切る言葉だと、理解している。
それでももう一松は疲れ切っていたから。がんばってがんばってがんばって諦めて、捨てて、穏やかに兄弟を続ける気力なんてどこにもない。おまえにはもったいない相手じゃん、そう笑ってやるつもりだったのに。
知らなければ、できたのに。
「……いいのか?」
「いいよ」
「今のオレは好みなのか?」
「あ~、うん……悪くないんじゃない」
一松の知らぬ顔をする、というだけだ。好きな相手に、恋人に向ける顔。見たくて、無理で、諦めて。兄としての顔しかいらないわけじゃない。これがおまえだというならすべて欲しいに決まってる。
他の誰への顔であっても、一松へのものではなくとも。それでも。
カラ松であればいいのだ。これまで与えられていた姿でないといけないなんて、けしてない。おまえがいい。おまえだけが。思いこみの紛い物でつくりあげられた恋人であっても。
おまえならなんでもいいんだ。これからずっとおれのものなら。少なくとも恋人である間は一松だけを見てくれるんだから。
「……そうか、わかった! じゃあ改めて、これからよろしく頼むぜハニー」