恋の歌をきかせて - 3/4

落ち着かない。
新品だから糊がききすぎていて襟元はこすれて痛いしジャケットのせいで肩がこる。ネクタイなんて違いがわからないから店員のオススメを買ったけれど、もしかしてダサいとか思われていたらどうしよう。なんせ目の前の男は、常にスーツを着こなしおしゃれにはうるさいと言わんばかりの顔をしている。

「班長さん、こんな店知ってたんだな」

言外に意外だと伝えてくるのも当然だろう。一松こそ、テーブルにろうそくたてられるような店に入る己を一番信じられない。これは夢じゃないだろうか。こんな、クリスマスにリア充がデートするような店に予約まで入れて来るなんて、一年前なら笑い飛ばして終了だ。

「ひひ、そりゃまあ、それなりに大人ですんで」

あんたが好きそうだから、とは言えずにうろうろと視線を彷徨わせる。
常と似た黒いスーツはだけどいつもより男の足を長く見せたし、中にあわせたシャツは光沢のある青で珍しく胸元を開いている。鎖骨の上で揺れる金色が、オレンジの照明をきらりとはねかえした。
よし、やっぱり正解。半信半疑だったが雑誌の特集を信じて良かった。大事な話をしたい時はこう、なんてなぜ普段使いの居酒屋ではいけないのか高級店になにがあるんだと首をひねったが、彼を目の前にすれば納得できた。
きれいに伸びた背筋、ゆっくりろうそくを見てから窓の外に向ける目元のまつ毛は意外と長い。大仰な動作も格好つけた言葉遣いもしないととたん人形めく容姿は、化粧映えするのだろう。どちらの顔も知っている一松は、ただきれいだなとしかわからないのだけれど。
基本的に一松は、友達というものがわからない。職場の人間となら食堂で席が近ければ話したり、煙草を吸いながら進捗確認をしたりとどうすればいいのかわかる。だが、友達は。学生時代は、共に帰宅したり勉強したりだろうと経験はないもののわかる。寄り道なんかもするんだろう。見たことだけはあるから、知っている。けれど社会人になってから、もっと親しくなりたい友人とどう距離を詰めていいのかがわからない。

最初の一歩は松野さんが詰めてくれた。その後も、一松の仕事終わりに顔を合わせることがあれば、どちらともなく最初に赴いた居酒屋ののれんをくぐって。
松野さんと過ごすのは楽しい。後から思い出せないようなくだらないことを話して、心が浮き立つ程度の酒を飲んで、店のメニューを順番に制覇しようなんてバカな事を企んで笑いあって。こういうのが友達なんだろう。たぶん、友達と松野さんも思ってくれている。初めての友達に、一松の心はひどく浮き立つ。これからも共に過ごしたい。もし彼が工場の担当を外れても、連絡をとりあいたい。プライベートでもっと会いたい。
だからこそ、彼の秘密を知っていることを黙っているのが申し訳なくなった。
わざとじゃない。その時は最善だと思って行動したのだが、それでも嘘は嘘だ。松野さんがラメ男さんとして歌っていることに、驚きこそすれ嫌悪感などない。いや、知った当初は嫌がらせのネタにしてやろうと考えていたけれど、数回通ううちに普通にファンになっていたのだ。彼の歌声の。
そして今では、ラメ男さんとしての歌声だけではなく松野カラ松さんとしての彼にも好意を持っている。率直に言うなら、今後も親しい友人としてずっとおつきあい願いたい。勤務先の顔見知りではなく、単なる知人の一人ではなく。
行き慣れない高級店に予約をとったのも、自分が奢ると言い張ったのも、彼の秘密を知っていると告白するためだ。
普段の居酒屋では謝罪の気持ちに足りない気がした。今まで黙っていた気まずさもあるし、なにより最初はバカにするつもりだったのだ。松野さんはそんなこと気にしないと言うだろうが、誰より一松が気にする。
ラメ男さんの姿の松野さんも普段の松野さんも、いつだって楽しそうだ。一松の知る彼は常に晴れきった夏空のような清々とした雰囲気で、その彼をおとしめるようなことを考えた己を簡単な謝罪で許してやる気はさらさらない。からりと笑う目の前の彼の顔を曇らせるような人間、友達ならば許せるわけがないだろう。そういうことだ。

「……あの、ここの肉のコース、人気で」
「そうなのか! 楽しみだな」

休み時間にこっそり事務方のパソコンで検索した努力は無駄ではなかった。せっかくだから喜んでほしくて、雑誌のデート特集の相手を誘う注意点を読みこんだ甲斐もある。なんせ一松の目的は今日だけではない。秘密の告白と謝罪からの、今後も円満におつきあいいただくための最初の第一歩。

「松野さん肉好きって言ってたから」

よかった、と胸を撫でおろせば向かいからひぅっと妙な声が聞こえた。

「しゃ、しゃっくりだ! すまない、気にしないでくれ」
「え、はぁ、お大事に……?」

相手の好きな店に誘うのは成功した。次はなんだったか、そう、楽しい話題だ。おそらく松野さんは許してくれるだろうが、もしものことがある。料理をすべて食べてから謝罪の方があちらとていいだろう。だからまずは相手を楽しませる、小粋なトーク。
これは本来の一松が最も苦手なものだ。トークだけならまだしも小粋などとつけくわえられれば勢い余って尻を出すしかない。だが松野さん相手においてだけは、今、一松の舌は絶好調である。共通の話題で明るく楽しい気分になれるもの、つまりラメ男さんの話をふればいい。プラスの話題をしておくことによって、二人が同一人物だと知っていると告げた時にも、悪感情はないと理解してもらいやすくなるだろう。

「歌が」
「っ、おう」
「すごくうまくて、あの、好きで」

プラスの言葉。プラスの言葉。

「んん~? ああ、松野班長いい声してるもんな」
「? ……や、ちが、おれじゃなくて」
「謙遜することはない。いい声だと思うぞ、本当に」

相手を褒めるつもりがなぜか一松が褒められている。畜生、なんてスマートさだ。さすが本場の男、かっこいい。けれどいつものように流されるわけにはいかない。ここが踏ん張りどころなのだ。
プラスの言葉。小粋なトーク。

「らっ、ラメ男さんの……っ」

まずい、と思ったのは名前が口からこぼれ出た後だった。
いつも心の中でそう呼んでいたから自然に、いや今のは話題転換だと思ってもらえるのでは、違うまだ松野さんがラメ男さんだって知ってる話をしていない食事終わってない、あメインきたすげえ匂いめっちゃうまそう、じゃなくてつまりええとだから。

「……歌、ごえ、がですね……あの、いいな、と」

皿、テーブル、膝の上についた自分の手。じわじわと視界が狭まって己の世界が閉じていく。
そういえば初めて名前を声にした。心の中では幾度も声援を送っていたけれど、ステージ上の彼女に花を捧げたいと妄想していたけれど、考えてみれば言葉を交わしたのはただ一度。なぜかナイト様と呼んでくれたあの時だけだ。
よくよく考えてみろ松野一松。前に座っている人だってそうじゃないか。そりゃ工場で顔をあわせればそれなりに親しく話してくれる。仕事終わりにたまに食事に行く。でもそんなこと、コミュ障じゃない普通の人間からしたらよくあることなんじゃないのか。だいいちこの人なんか人懐っこいし。マフィアだつってんのに雰囲気がいかつくないから怖がられたりも特にしてないし。一松以外ともそれなりなコミュニケーションをとっているのも知っている、し。
あまりに己にとって特別だったからついこうも張りきってしまったが、どう考えてもこれは引かれるやつでは。
気を遣って来てくれただけで内心気持ち悪がられてたり、とか。あるあるある、バカか。なんだおれは。もっと親しくなりたいあっちも友達と思ってくれてるとかなんだ、なにをふわふわしてるんだ無理に決まってるだろ夢みがちにも程があるぞうっわ引いた。今自分自身に一番引いた。ないわ~、ない。ありえない。これ明日工場行ったら笑い者になってるやつじゃね? さすがにちょっとな、って他の工員と松野さんが苦笑いしてるやつだわ。けってーい。
ぎゅうぎゅうと心臓がしめつけられる。痛い。膝が冷たいのはなんだ、手汗か。動かない。舌が。なにかフォローを。うまく立ち回る、こう、ほら。

「松野班長は歌が好きなのか?」

ふ、と手の力が抜けた。

「オレの歌声もなかなかイカシてるって評判なんだぜ。工場でカラ松☆グレイトワンマンショーを開くのも慰問になっていいかもしれないな」

うまいぞ、と口いっぱいにほおばりながら意味のわからないことを言う。なんだこれゆるキャラか?

「……うまいんすか」
「うん、この肉汁がジューシーでたまらないよな。やっぱり母なる大地は違うぜ」

ステーキに母なる大地はおそらく関係ないし今一松が問うたのは味の感想ではない。そもそも話の流れがおかしい。察して流してくれたのかもしれない、と思うには肉をほおばる顔がのんきすぎる。これなにひとつ難しいことを考えていない顔じゃねえ? そもそもおれの話聞いてた? 料理に夢中になりすぎて耳には入れても理解してないんじゃ??

「あんたの歌がうまいのは知ってますし……あのっ」
「んん~?」
「歌がうまいのももちろんなんですけどっ、いつもきれいにしてるしなんか楽しそうでキラキラしてていい匂いするしもうなんかあの、そういうのが」

どう見ても男で、どぎつい化粧も布をひっかけたようにしか見えない服も真っ青なカツラも、どれもこれも妙で意味がわからなかった。なんとか我慢できるのは歌声だけだ、なんて上から目線で思いきりバカにするつもりで。
気持ち悪いんじゃなかった。あまりにきらめいて眩しくて、ステージの上で楽しげに笑うこの人が見えていなかっただけだ。見えなくてわからなかった。目が慣れた今ならわかる。見える。鮮やかできれいで華やかな、青い蝶のような人。あんたをバカになんてできやしない。あんなにキラキラしているのに、美しいのに。
どう言えば伝わるだろう。一松にはすでに傷つけるつもりなどないと。ステージで歌う姿をただ見ていたい、常のあんたと親しくなりたい、そこには好意しかないのだけれど、同一人物だと知っていると口にした時に彼を傷つけない言い方ができているだろうか。
一番最初に傷つけることを考えてしまったから、今どうすればいいのかがわからない。
こんなに好意を抱くなら最初から親しく接したかった。それならきっと、あそこのバーで歌ってるのあんたでしょ今度歌聞かせてよ、なんて言えたのに。応援してるよあんたの歌声好きだよこんな歌も聞きたいな。いくらでも言いたいことはある。だけどなにをどこまで言葉にしていいのかわからない。気持ち悪がられたらどうしよう。

「そういうの、が、……いいなぁと」

趣味に全力で取り組んでいるのがいい。
女装をバカにせず、ステージを盛り上げ楽しんでいるところも好きだ。
伝わっただろうか。一松の言いたいことは、通じただろうか。あんたの趣味に対する態度が好きだ、あんたの歌声は素晴らしい、あんたの女装をバカにする気なんてないとてもきれいだ。そう、伝わっていたらいい。

「……班長は」

松野さんは少し目を見開いてから、じわじわと口角を上げた。あ、目じりに少ししわがよった。

「ラメ男さん、が好きなんだな」

え。いや嫌いじゃないっていうか嫌う理由がないしまあどちらかと言えば好きというかでもそういうんじゃなくていやいやそういうのってどういうのだこの場合の好きっていうのはつまりあの。
ぱちんとよこされるウインク。頭に上った血がすっと冷えた。なるほど、つまりこれは。

「オレとキミの二人だけの秘密にしておこうか」
「……うっす」

もしかしたらまずいのかもしれない。最近忘れかけていたけれどこの人はマフィアだ。そんな人がたとえプライベートの趣味であろうと女装してる、なんてのは周囲に舐められたりするんだろう。一松はけしてそうは思わないけれど、女々しいだの女男だのと面倒な絡みをする者もいるのかもしれない。
ラメ男さん、が好きなら彼女がいなくなるようなことはしない方がいい。今のはおそらくそういうことだろう。
彼と彼女が同一人物なのは秘密。一松と松野さん、二人だけの。

「……ああ、でも班長が話をしたくなったときは、いつでも聞こう」
「おれの話なんて、全然おもしろくないですけど」
「そうなのか? キミと話すの、オレはとても楽しいが……気が合うのかもしれないな」
「っ、じゃあ、その……また、話します。たぶん」

あんたの歌声が低くすべらかで耳に優しいのも、真っ青に塗られた爪が宝石みたいなのも、楽しげに鳴る高いかかとの靴のことも。マフィアらしくないあんたのあれこれ、全部とてもきれいだって。
二人きりの時なら伝えていいなら、松野さんではなくラメ男さんへの言葉として贈っていいなら。
目の前の相手へではないならなんとか言葉にできそうな気がした。二人だけの秘密も、相手へのエールも。これはもしかしてかなり親しい友達と言えるのでは? 彼の秘密を知ることを許され、プライベートにも立ち入っている。これはもう親友と呼んでもいい関係かもしれない。
一松はとんでもなく浮かれた。
これまでの人生で一度たりとも得られなかった、憧れてほしくて手に入らないから酸っぱいブドウ扱いしていた親友ができたかもしれない。これで浮かれないわけがない。仕方ない。けれど。
あまりにうれしくて、うっかり失念していたのだ。松野さんとラメ男さんが同一人物だと知っていることを告げていない、と。気づいていたのに知らぬふりをしていた謝罪をするつもりだったことを。なんとなくふんわりと伝わっている雰囲気であったため、己の混乱に気をとられ言葉にするのを忘れていた。
うっかりと。

 

◆◆◆

 

つらつらと語りつくした悪女伝説をそりゃすごいっすねで流され、カラ松は肩を落とした。
どうしよう。なんて罪な事をしてしまったんだ。なんとかしてやりたいとこうして軌道修正を試みるも、失敗ばかりかさんでしまい正直なところそろそろ打つ手がない。

「あ、そろそろおれ行きます」

ころころと手のうちで転がしていた空缶をひょいと回収され、捨てられる。別に構わないと言うのについでだからと笑われるのは何度目だろう。
タバコを吸わないなら、と日当たりのいい工場の裏手に招かれた頃からだろうか。それとももっと前であったか。

「今日はラメ男さんの歌聞きに行けるんで」

ひひ、と頬をひきつらせる不器用なものだけれど、確実に笑顔だとわかる表情。顔を歪めているだけかと思っていたそれが、繰り返されるうちに笑っているように見えてきたのはカラ松の目が慣れたからではない。班長の表情筋が発達したのだ。最近の松野班長は機嫌がいいと噂になっているのだから、気のせいではない。

「そうか。ええと……楽しんできてくれ、な」
「もちろんっす」

先程まで延々ラメ男の悪行を語っていた口で楽しんでこいとはどういうことか。そう思いはするものの、どう言葉をかけていいかわからないからありきたりなことしか言えない。
あっさり肯いて去る背中を眺めながら、カラ松はもう一度、深いため息をついた。

「……どうしたものかな」

松野班長が、自分の女装姿であるラメ男に好意を抱いているのは知っていた。確かにファビュラスでマーベラスなラメ男に惚れてしまうのは仕方ない。せめて、傷にならぬよう穏やかにふってやれればいいのにと気にかけてはいたのだ。カラ松は松野班長のことをそれなりに気に入っていたから。
ただ、予想外だったのは班長のはまり具合だ。
カラ松は当初、店でのお気に入りとしての好意だと見積もっていた。耐性のない班長は勢いよくはまってしまったが、しばらくすれば夢から覚めるだろう。楽しいことはいくらでもある。他のことに気をとられれば、通っていた店の嬢がどこかに移動したって少し寂しいくらいで終わる。班長が飽きた頃にやめればいい、それくらいの期間ならラメ男として歌っているのもやぶさかではない。

茹であがったタコのようだった顔を思い出す。きれいでキラキラしていて、と語る彼は初恋を知ったティーンそのもので、どう見ても夜の店の人間を相手にしたものじゃない。大切にそうっととりだされた宝物、松野班長の一番やわらかいところにずっと入っていただろうふわふわしたなにか。
あれを無遠慮につまみあげたりするようなこと、どうしてできる。
だってあんな。いつだって苦虫をかみつぶした顔で目の下に隈をつくった人相の悪い男。愛想が悪いどころかぴくりとも表情を動かさない、たまに動くのは嫌味ばかりの歪んだ口。そんな男が。真っ赤な顔で汗をしたたらせ幼い子供のようなつたない言葉を。きれい、キラキラ、いい匂い。バカか? バカだ。なんだおまえ、そんな、あんな。もう。
もう、ダメだった。
タバコ最近吸わないんだな、と問えば吸わない人からは臭いらしいすから、なんて。おれまだ臭いですか、とか。喉にはタバコ良くないんですよね、煙だけでもよくないって聞いて、なんて。
無精ひげのないあごに最近納期が厳しいのはないんだなとからかえば、清潔感大事って聞いたんでなんて返ってきて。
日当たりのいい、猫が集まる工場裏。タバコの煙はなく、手を温める缶コーヒーと身ぎれいにし表情豊かになった恋する男はいる。
ダメなんだ。だってラメ男はいない。仕事もすんで、本当はもうとっくに消えているはずの人間。今あの店にラメ男がいるのは、カラ松が勝手にやっているだけ。工場の管理だけの今なら時間もある、ステージの上でスポットライトをあび歌うのは楽しい、これは趣味だ。問題ない。ただ、ひとたび別の仕事が入れば話が変わる。こうして趣味にさく時間なんてなくなる。そう、ターゲット捕獲のためラメ男になったように、またどこかに潜入したり探したりしなければならない。
いつかラメ男は消える。それは明日かもしれないし半年後かもしれない。入れこんだ嬢が失踪しては心の傷になるだろうな、という心配が今では懐かしい。松野班長のあの入れ込み具合からして、気力がなくなるならまだしも必死に探しだしそうな勢いだ。
困る。もちろん彼に友情を抱いている身として悲しんでほしくないと思う。だがそれ以上に、素人が周りをうろちょろしていては命の保障ができない。カラ松はここにいるのだから、幻の相手を探して死んだりしないでほしいのだ。
だからこそなんとかラメ男に幻滅し心離れてくれまいかと、金にがめついビッチで貞操観念のかけらもなく素顔は鬼瓦のようなわがままブス、という方向性で進めているのにまったく動きがない。班長のフィルターが分厚すぎて、まったく恋心が消える気配がない。

「これだから一途だの初恋だのはやっかいなんだ」

あいかわらず、店ではカウンターにぽつりと座りひたすらこちらを見ているだけ。アピールもプレゼントも声援も、なにもしないくせに用意しているのだけは知っているのだ。なんせカラ松には話すから!
青が好きなのかなと思って花屋に行ったら青いバラは売ってなかった、きっと似合うと思うのに。
キラキラした首に巻く布見つけたんだけどなにもない日に渡されたら引くよね、そういうの受け付ける日とかあったらいいのに。
食いもんだったら気軽に受け取ってもらえると思いますか、ねえ。
ぽわぽわと相談の体を成したひとりごとを延々聞かせ、あれはやめておけというカラ松の忠告にはひどくせつなげに顔を歪める。松野さんは嫌ですか、こういうの。そんなこと問われれば人を思う気持ちは自由さと笑うしかないじゃないかこちらとしては。だってステキだろう。大切だ。ラブアンドピースで世界は回っているんだから愛の伝道師松野カラ松がそれを否定なんてできるはずがない。
いいんじゃないかと答えれば、はにかむから悪い。
あの人が、あの人に、あの人は。褒めてうっとりして夢みがちに語って、あれはいないのに。いつかどころかもう、今すぐにでも、カラ松がそう決めればとたん消えてしまう儚いつくりものだというのに。
ラメ男がなにをしてくれたというのだ。歌って、ただそれだけ。女性の格好をしていただけ。松野班長と話したのも、飲みに行ったのも、コーヒーを奢られたのもカラ松だ。ナイト様と呼ばれたいのならいつだって呼んでやる。青いバラなんて絶対カラ松の方が似合うのに。それなのに。

「……本当に、やっかいだ」

なんで自分じゃないんだ、なんて。
班長がカラ松にくれたものなんてのど飴くらいだ。バカ。なんだおまえ、失礼なやつだ。本当に。
歌なんていくらだって歌ってやるのに、聞く人はいない。

 

◆◆◆

 

腹が痛い。
簡素なドアを前に、一松はそろりと周囲を見渡した。狭い路地裏、ゴミ箱、そこからあふれたゴミ袋、圧迫感のある壁にはできていらい開いたことなどなさそうな窓が一つ。トイレどころか出入り口は目の前のドアしかない。けれどここは店の裏口で、つまり客である一松がここから入るわけにはいかず、というかこんなの出待ちではないのか。え、まずい、これ出待ち? ファンがアイドルとかにきゃーきゃーして止められたり迷惑そうな顔されるやつ? 嫌な顔されちゃう?
ざっと血の気が引くが、ここに呼びだされたのがそもそも店からだったと思いだしなんとか尻を出すのをこらえる。
常と変わらず店に来た一松を迎えたのは、ラメ男ちゃんお別れショーで。今日で最後なんですよ、告げるバーテンダーの声に肯けたのは覚悟をしていたからだ。
歌は松野さんの趣味だ。だからきっと、ここにずっとはいないだろうと一松とて理解していた。ラメ男としてこの店でやっていくなら本業にするだろう、けれど彼は工場で一松と顔をあわせ黒いスーツでびしりと決めている。松野さんはマフィアの道を選んでいる。つい忘れてしまいそうになるけれど、工場で作っているあれやこれを大量に買い付けていくのは彼の属する『会社』だ。
一松の反応が思っていたものと違ったんだろう。少し首をかしげながらバーテンダーはもうひとつ爆弾を落とした。

「あら、来てたならノックなりなんなりしてちょーだい。さ、入って入ってナイト様」

なにひとつ覚悟は決まっていないのに唐突にドアは開いた。
真っ青に塗られた爪がひらりと踊り、一松の腕をひっつかんで室内に引きこむ。まぎれもない男の力は、そのまま小さなソファに一松をつっこんだ。

「ふふ、びっくりした? 伝言ちゃんとつたわってなかったのかなってドキドキしてたのよ」
「は、いえ、あの……おれも驚きました」

閉店したら裏口まで会いに来てね、なんて伝言絶対にからかわれているのだと思っていた。ラメ男さんからと渡されたメッセージカードはだけど確かに松野さんの字で、あっけにとられている一松にバーテンダーの方が同情し行くべきだと背を押す始末。お客さん前にラメ男さんのステージ邪魔したヤツに喧嘩売ったでしょ、あれのお礼じゃないです? 相当うれしかったみたいですし。喧嘩を売った記憶はないがショーの邪魔をしないでほしいと割り込んだことはある。礼を言われナイト様などと尻がかゆくなる名前で呼ばれたが、あれは終わった話ではなかったか。今日が最後だからもう一度礼を、ということだろうか律儀に。
二人腰かければぎゅうぎゅうだろう小さいソファに塗装がはげた低いテーブル、壁際に古ぼけた三面鏡、コートかけにいくつもかかっているのは衣装だろう、ショーで見たことがある。一度だけ入った舞台袖は裏口とつながっていたのか。おちつかなげに視線を彷徨わせる一松がおもしろかったのか、喉の奥を震わせるように笑う笑い方は松野さんと同じだった。

「そんなに珍しいものがある?」
「いや、そういうわけじゃ……って!!?」
「なに?」
「ちょ、あの、なん」
「疲れたから座りたいし、他に椅子ないじゃない? それにこれ、二人がけよ?」

当然といった顔で隣に座られ飛び上がった一松を、どこから見てもからかっている以外の何者でもない顔でラメ男さんが見る。いやいやいや、そうですけど。二人がけですけど。でもどう考えても狭いっていうか肩が、つーか太ももとかあたるし、あのなんかその色々あれこれ見えそうだし近すぎるしだからええと。

「まあカップル用だから狭く感じるのも当然なんだけど」

いちゃいちゃするならこれくらいがいいわよね、と笑いかけられ発火しなかった一松を誰か褒めてほしい。松野さんおれがんばりました。ラメ男さんあたたかいし茶目っ気あるしきらきらの笑顔だしカップル用とかいちゃいちゃとか殺傷能力がすごい。これで無事に明日出社したら褒めてください。
攻撃してきているのも松野さんであるのだが、すでにオーバーヒートぎみの一松にはよくわからなかった。
ラメオサン キラキラ マツノサン ホメテ
なにをどう褒めるのかすらわからないが、とにかくどうしようもなくえらかった。一松はがんばったのだ、なにかしらを。
脚の付け根から膝まで、ぴたりとひっつく。布越しに感じる温もりはステージ上でぴかぴか光っていたあの白い脚だ。

「ナイト様、あのね」

下を向いたままの一松の顔をのぞきこむ、美しく装われた顔。長いまつげ、赤い唇、女性のものよりずっと装飾過多なそれは、けれどとんでもなく妖艶に見えた。
松野さんの顔だ。
ラメ男さんではない。ステージの上にいたのは確かにこの店の歌姫であるラメ男であったのに、今一松の目に映るのはどうしてか親友の彼で。

「今日でお別れなの」

赤い唇が告げた言葉は、彼のものだった。

「え」
「このお店をやめてね、次は決まってないんだけど……わざわざお別れショーまでしてくれるなんてびっくりしちゃう」

ラメ男さんはいつかいなくなると覚悟を決めていた。仕方ないと理解していた。
それは、松野さんとは会えると思い込んでいたからだ。
違う。彼も、いつでも消えてしまえるのだ。一松の前から。工場に行けば会える、わけじゃない。頻繁に食事に行って、休憩時間の度話して、好きなもの嫌いなものうれしいこと驚いたこと、彼のことは工場中で一番詳しいと自負していたけれどそれでも。
一松は知らない。彼がどういった組織に属しているのか。工場に顔を出す以外にどんな仕事をしているのか。どこに住みなにをして誰と……暮らしているのか。
携帯電話の番号は知っている。だけどそんなもの、買い換えてしまえば終わりだ。あとはなにを知っている。なにも知らない。知りたくてずっと一緒にいたくて私的に親しくなりたくて、一松なりにがんばったつもりだ。友達と呼んで構わないと思えるくらいにはなったと思っていた、のに。
松野さんがお別れだと決めれば簡単に消えてしまえる。今更自覚した事実は、一松の背筋をひどく震わせた。

「お別れ……あのっ、おれ」

あんたのことがもっと知りたいです。そう続けるはずだった唇は青い爪がそっと縫い止めた。

「言わないでね。聞きたくないから」

なんで。
あまりの言葉にとどめられた言葉が形にならぬまま消えていく。
あなたのことが知りたい、もっと親しくなりたい。それは望んではいけないのか。聞きたくないと、拒まれてしまう願いなのか。松野さん。
ねえ、あんたと友達だって思いこんじゃってたんだけどこっちは。なのに今更。

「っ、おれはあんたが」
「言うなって言ってるだろ!!」

叩きつけられる青いカツラ。膝で脚を押さえこみのどぼとけにそえられたのは硬い指先。ぎらぎらと一松を睨みつける目は出会った当初のひどく感じの悪い男の。
ぐいと手の甲で口紅を拭ったマフィアは、バカにしたように鼻で笑って言い放った。

「ラメ男はオレなんだよ、残念ながらな」