燃やすなら神の家

神の家の門はすべての者に開かれている。それは罪深き咎人であろうと変わりはない。
「そうは言っても多すぎやしないかい」
「懺悔することがなくならないんだろうよ」
「そりゃそうだ。まったく神父様もお人好しがすぎる、あんな男までか弱き羊扱いしなくてもいいだろうに」
月に一度か二度懺悔に訪れる、歓迎されない男の名をこの近辺で知らぬ者はいない。恐怖と嫌悪でのみ形作られるそれを口にすることは、ついぞないけれど。
あんな悪党でも神父様にとっちゃかわいいお身内だからね、とお約束の言葉でまとめて立ち上がる頃にはまるで違う話題に移っていた。ぴいぴいと口煩く鳴くだけの鳥かと思いきや、なかなかどうして情報伝達がしっかりしている。今更口止めなどしても無駄なんだろうと理解しつつ、噂の主は悪魔の証と呼ばれるぎざついた歯をかちりと鳴らした。
恐れ、厭われることは仕事のうちだ。類が彼に及ばなければそれでいい。
「ああ、こんなところにいたのか、ドン」
日差しを背に穏やかに笑う敬虔な神の僕。詰まった襟に長い袖、愛し子を淫らな欲から守るかのような黒いキャソックは、当人がまるでその気がないため役立たない。なんて愚かしい。神をあざ笑えば、神父は微笑みかけられたと勘違いしてうれしげに頬をゆるめる。
「今日は告解はいいのか? 部屋は空いているぞ」
「あんたに懺悔するようなの、おれ以外いないでしょ。今なら空いてるみたいな言い方するけどさ」
「確かに皆あまり告解には来られないが……教会でなくとも、許しを得るのに場所は関係ないさ」
神への告白がなにより大切なのだと、誰より場所に囚われた男が胸を張る。神の家で暮らしこの腕にはけして落ちてこぬくせに。この場に足を運ばねば顔さえ見せぬ薄情者が、得意げに笑って。
ついと腕を引けば素直に寄り添う身体。見られると口先だけで文句を告げても、許すことしか知らない手は拒むことなく肩に置かれる。だから調子に乗ってしまうのだ、皆。
「……名前で呼んでよ、神父様。今のおれはファミリーの頭じゃなく一介の哀れな羊なんだから」
子供っぽく唇をとがらせ甘えてやれば、弾んだ声で仕方ないなと言葉ばかり。まったく困ったものだ。人を甘やかす性質といえ限度があるだろう。己だからこうも甘やかす、と思いこむには不要な物を見過ぎてしまって夢さえ見られない。まったく不自由なことだ。
「一松、告解ならあちらで」
名を呼ばれる、ただそれだけでこんなにも胸が焦がれるのは目の前の兄だけだ。祈る声で賛美歌を歌い上げる喉で許すと受け入れる口で、宥めるように。まるでミサじゃないか。なんせ神父の肩には普段は使用しないストラまでかかっている。
「いいでしょ、ここでも神様は聞いてくれるんだから。あんた流に言うなら」
唇を寄せればそっと身をよじられる。そのくせ腕の中から逃れることはしないから、一松は未だ夢から醒められない。
この手を離さず、共に生き暮らし過ごしてゆく。お互いを慈しみ愛し笑いあう毎日。誰も殺さず陥れず破滅させぬ日々。一松はなにをしようか。謀略と脅迫が得意だけれど、きっと不要であろうから慣れぬ穏やかな日を送るために他のことを考えよう。考えることは嫌いじゃない。あとはそう、計算も。おまえと二人暮らしゆくためならば、この背に乗った物などすべてすべてすべて捨て去ってしまえるのに。
お互いにこの生き方を選んだ時点から諦めるしかなかった未来。まるでおままごとだ。神が奇跡でも起こす以外ありえないそれは、腕の中の男が敬虔な神の僕であるからこそ叶わない。
「さすがに神様だってデバガメはしないでしょ」
教会の裏手の小さな庭を訪れる物好きなど一松以外にいやしない。しかも鬱蒼と茂った草陰だなんて、どこの誰が見つけてくれるのだ。住人である神父の家庭菜園しかないではないか。
「ああ、でも声は聞こえるから気をつけて。小道の噂話は控えめにした方がいいっておしゃべり雀達には伝えておいてやりなよ」
「雀……? っ、い、ちまつ! だからここじゃなくっ」
「誰にも見られない壁におおわれた懺悔室がいいって? どっちにしろ神様には見られてるんでしょ、今更気にすることないよ」
きつい襟元を弛め指をはわせば、大仰に背がそる。咎め立てる言葉は形だけで、声は甘く溶けた空気を一松の耳に届ける役割しかしない。ほら、どれほど閉じ込め禁じ囲い込んでも、こうもたやすく神の手から零れ堕ちる。瞬間だけなら。
かわいい、いとしい、愛している。悪魔呼ばわりされるマフィアのドンにはありえないような甘ったるい声が、彼に向けてだけは出るのが他人事のようで笑えて仕方ない。
いや、いっそ悪魔らしいのか。実の兄相手などと恐ろしい禁忌を。
「ねえ神父様、おれの罪を聞いてよ。いつもみたいに許してよ、カラ松」
「……教会で、なら」
お約束の台詞をはきだせばいつも通り、偽ることを知らぬ身体はくたりと一松に預けられた。神の家の元、という一線だけは越えることなく。
おまえを生きたままここから引きずり出すにはどうしたらいいんだろう。いっそ死体ならばいくらでも墓を掘り返しに行くのに。ロミオとジュリエットごっこをしようと誘えば芝居好きなおまえは頷くだろうか。それとも不謹慎だと諫めるだろうか。
生まれてこの方敵対したことなどないはずなのに、どうして結ばれないのかなんて簡単な話だ。一松とカラ松はロミオでもジュリエットでもない。

 

 

体の線を確かめるよう、厚い布越しにゆるゆるなで上げられる。外だと戸惑ったりせずいっそ流されてしまえばよかった。先程襟元に滑り込ませた指先はどうしようもなく欲情を伝えてきたというのに、今ゆったりと動く手からは穏やかな情愛しかない。
焦らしているわけでもないだろうにこうもカラ松の欲を煽るのは、相手が一松だからだ。
腰から脇腹を通り肩、二の腕からゆっくり手首までたどり今度はうなじ。背骨を数えるかのように慎重に背筋をさすり、いたずらのひとつもすればいいのに真面目な顔をしてただひたすら確認していく。確かに以前怪我を負った際、ばれないだろうと黙っていたことはある。ただ最近は黙っていたことなどないというのに、一松は神経質なまでに確かめる。カラ松の顔が痛みで歪まないか、違和感はないか。ひたすらじっと見つめながら、ゆっくり体中をなでさする。
「……大丈夫だろ?」
裸になれと命じればいいのだ。怪我がないか確認する、そのために見せろと。この地域一帯を取り仕切るマフィアのトップである一松にはそれだけの権力があるし、そもそもカラ松は彼の兄だ。心配だから見せてくれと家族に請われればけして拒絶などしない。
それなのに、告解の名を借りてカラ松に会いに来てはひたすらこんなことを。もっと違うことをすればいいのに。最初から。
「わからないよ」
嘘だ。一松はすべてわかっている。カラ松に今回も怪我などないことも、彼の手が動く度びくびくと震える身体を持て余していることも、この後なにを告げるかも。
すべてわかっていて、一松は待っている。
「一松」
「言ってくれなきゃわからないよ、おれは」
神様じゃないからね。鼻の頭にしわを寄せ、吐き捨てるように口にする弟の心境はカラ松にはわからない。おまえほど頭が良くないんだオレは。だからちゃんと言ってほしい。待っていないで。
「……一松、この間……背中を、打って」
毎回この瞬間が一番緊張する。自らの手で戒めを破るかのように服をはだけ、触れてほしいと誘うことは問題じゃない。慣れている。ただ弟に、一松に軽蔑のまなざしを向けられるのではと思うだけで心臓が止まってしまいそう。
前回は大丈夫だった。だからといって今日も大丈夫なんて誰が約束してくれるのだ。
「少し違和感があるから、見てほしい」
「ふぅん。服の上からは問題なさそうだったけど?」
「……頼む」
耳が熱い。頬も熱い。罪を告白するためだけの小さな薄暗い部屋で、少年時代自ら望んでまとったキャソックを脱ぎ捨てる。いつも通りだ。常と同じ、変わらない。どれほど言い聞かせようとも、肩にかけたままのストラが羞恥を煽る。普段肩に直接触れることなんてないのだ、仕方ない。
カラ松が望んだ行為だ。この姿も、現状も。ただひたすら、淫らな行いのために肌をさらし触れられるのを待っている。
「これしてるの、珍しいね。ミサでもあったの?」
わざとらしい問いかけ。知っているくせに。ミサの日程どころか、カラ松の代わり映えしない毎日を部下に逐一報告させ把握しているくせに。歯噛みしても結局答えてしまうから、一松もすっとぼけて聞くことをやめないのだ。わかっているけれど。
「……今日は、ない日だ」
「だよね。じゃあなんの予定も入ってないのにストラなんて掛けてるの、なんで? 理由、教えてよ」
「趣味が悪いぞ」
「いいじゃん、ねえ。おれが懺悔するんだからおまえもしてよ」
それでは告解といえない。罪を告白しあっては誰が許しをくれるのか。けれどカラ松の口は、本人の意思を裏切り一松の望みのまま動いてしまう。
「おまえが、好きだって言ってたから……前に」
神様のモノを奪ってる感じがゾクゾクする、なんて冒涜的な言葉で。どんな服装をしていてもカラ松は神の僕だと決まりきっている。ならば一松が喜ぶ姿でいよう、とつい考えてしまったのは罪に数えられてしまうだろうか。数えられてしまうだろう。きっと。
どれほどの罪を犯せば神父でいられなくなるだろう。
「っ、最高だね神父様。おれのために装って、おれが好きそうだからって裸になってもこれ外さないの」
大当たり。すっごくイヤらしくてとんでもなくそそるよ。
喰い殺さんと言わんばかりにぎらついたまなざしで、そのくせ行動はひどく紳士的。胸元から引っ張り出したハンカチを固い木の椅子に敷いた一松は、ストラにそっと口づけてから身を引いた。
一脚のみの椅子。罪を告白するための、愚かなる羊のための場。許すと告げる神父はけして座らぬそこに敷かれたハンカチ。傍には跪いた真っ白い羊。
「どうぞ?」
おまえが堕ちてきて。座ったら合意。
「ありがとう」
黒いキャソックは脱ぎ散らかしたまま、肩にストラだけを掛けたカラ松は迷わず座る。神父は座らぬその椅子に。罪を告白する咎人が座るべきその場所に。
今更こんなことで試さなくてもいいのに、本当に弟は真面目で真摯でかわいい。カラ松をかいかぶっている。
愛しているよ。家族への優しい感情はもちろん、それ以外のすべてでも。カラ松の心を動かすのは、行動を決めるのは、常に目の前で跪く弟ただ一人だというのに。
腰かけたとたん、ようやく伸びてきた腕にカラ松は安堵の息をついた。今日も大丈夫だった。まだ。一松はカラ松のことをきちんと求めてくれている。情欲を持って、接してくれる。
「一松は怪我していないか?」
「……あんた今そういうこと言うの」
それは脱いでっておねだり?
小首を傾げられ慌てて頭を振れば、スーツ越しの振動で笑われていることがわかる。失敗した。せっかくその気になっていたのに、隠微な空気は爽やかな陽気と共に散ってしまった。今日の一松はどこか上の空だからだろうか、簡単に健全な方向へ走ってしまう。
欲情して、求めて、焦れて。罪だと知った上で受け入れて。カラ松に手を伸ばすことを諦めないでほしい。
一松が同じくらい想ってくれなくては、カラ松も救われない。せめて共に煉獄で踊ってくれる程度の甲斐性をくれ。煉獄が無理ならここでいい。天国と地獄の境にあるなら、ここだって似たようなものだろう。神へ許しを請い、死者を送り出す境の場所。罪を燃やす炎で炙られ続けるカラ松はまだ生きている。罪は未だ燃え尽きない。誰からの許しも得られない。
「なあ、罪の告白も受け付けているぞ。なんせ今は告解の時間だ」
仕切り直しとばかりに頭を抱え耳たぶに音を立てて口づければ、乾いた空気がとたん切り替わる。スイッチを入れることだけは上手くなっただろう。なんせ二十年だ。待って。待ち続けて。
「オレはいつだって準備できてるぞ。あとは一松、おまえの告白待ちだ」
人は常に罪を犯している。自覚があろうとなかろうと、ただ生きているだけで。だから祈るのだ。許しを請うのだ。神はそれをすべて許したもうから。
だからこれから罪を犯しても、最後に許すと告げれば問題はない。カラ松はただ聞き、神の言葉を、慈悲を代弁するだけだ。
「……あんた本当に神父に向いてるね、カラ松」
かみつくような口づけは一松の情熱の証。腰に添えられた掌の熱も、頬に触れる見た目より柔らかな髪の毛も。兄弟で、子を成さない無為な行為を、神の僕たるカラ松と。
「聞き上手だ」
カラ松は神父になど向いていない。聞き上手だなんて、こんなに求めている言葉ひとつさえ形にできないというのに。それなのに一片の曇りもない目でそんなことを言う一松は相変わらず夢見がちだ。これでいてマフィアのドンは上手くやっているというのだから世の中はわからない。
一松。
敬虔な神の僕は弟の欲を煽るために式服を利用したりしない。
「おまえほどじゃない、さ」
きっと本当はおまえの方が向いていた。神を信仰することを疑ったこともない弟。優しく誠実で真面目な一松はきっと素晴らしい神父になっただろう。皆から愛され、カラ松だけのものにはならない。
「まあね。おれは向いてるよ」
勘違いしたのだろう、暗い目をする弟の誤解をカラ松は解かない。
一松がマフィアに向いているなんて本人以外の誰が信じていようか。生来の生真面目さで上手くやってはいるが、本質は厭っているのを悟られていないと考えているのだから腕の中の羊は尊く愚かしい。
カラ松は告げない。孤独に生き光の道を歩んでいる兄にすがることだけが救いだと信じ込む一松を解放する言葉など、けして。
「……昨日も殺した。先週も。きっと明日も誰かを殺す。おれの考えた計画でファミリーの邪魔をする奴らを殺す」
「そうか」
「みんな殺す。殺してやる。……おまえに色目使った野郎も、おまえの肩を無遠慮につかんだ野郎も、おまえに感謝された野郎も」
「うん」
「みんなみんなみんな殺してやる。おれのだ。カラ松、なあ。おれのだろ、おまえはおれのだろ」
どれほど肯いても一松は信じない。カラ松が神の忠実なる僕だと思いこんでいるから、けして己のものにはならないと決めつけている。
力任せに暴いても、快楽で縛っても、稚く泣きすがっても。常にカラ松が同じ反応を返すから、まるでこちらを見なくなってしまった。一人で吐き出し、また一人で納得する。今とてこんなにも抱きしめているのに、彼が望むから羞恥をこらえこんな姿で。欲情されたいなどという愚かしい願いだけで、ストリップまがいのことまでしてしまえるのに。
いつだって同じ反応なのはどうしてか、なんて。過去から現在まで同じ感情だからだ。変わらぬ気持ち故だ。
「一松。一松、許すよ」
カラ松の管理する教会には、誰も告解に来ない。
ミサには来る。ちょっとした愚痴やおしゃべり、お裾分けなんかにも。自慢じゃないが愛想は悪くないし、ご近所づきあいは得意な方だ。うまく溶け込んで仲良く過ごしている。
ただ告解にだけ来ない。そんなもの、マフィアのドン専用だと知られているからだ。厭われ恐れられている男がいつ何時現れるかわからないのに、誰が落ち着いて罪を告白などできるだろう。なおかつ人を幾人も殺しているその男は、神父と関わるすべての人間を憎々しげににらみつけるというのに。
カラ松が許すと告げられるのは、もう一松にだけ。囲い込んで威嚇してそうしたのは一松だというのに、まだ疑うその浅はかさ。信じたいのに信じられないと嘆き、熱い手で触れ、ひたすら見つめる。告解だなんて、罪を告白するなんて。ああなんて愚かしい理由づけだ。
二人の間の罪はいつでも同じ形をしている。こんなにもあからさまに。
「許すよ、一松」
確かにあるこの感情も、告解と称して密かに行うこの行為も、すべてを。
それは神父だからでなくただひたすらおまえを愛しているからだ、と伝える術がカラ松にはない。
なぜなら一松はそれを信じないから。信じてはいけないから。神を信じていないカラ松のことを一松は認めないから。神様のモノでないと手も出せないなんて趣味が悪い。
おまえが一言、オレだけを選んでとねだればいつでも最初からそうだよと口づけてやれるのに。許しではなく、告解でもない、愛の行為として。この罪の名を言葉にできるのに。
告白してくれなければ罪として形にさえできない。許すと認めることも。煉獄で燃やすことさえ。一松。
「……許すから」
だからお願い。待つのは嫌いじゃないけれど、このままではカラ松のものだけが違う形になってしまいそう。オレ達の罪の形は同じだったはずなのに、今でもきっとそうなのに、炎で炙られ歪んだそれを一松は手に取ってくれるだろうか。わかってくれるだろうか。
過去、確かに二人の間に在ったものだと。

 

 

荒い息づかいとかすかな水音、衣擦れ。
小窓から時折響く鳥の鳴き声が警告のようで、おかしくてならない。まったく神も無駄なことをするものだ。
「い、ちまつ?」
とろりと溶けた声、涙でうっすら膜の張った瞳。一松以外の誰がこんな神父を知っているのか。もし今でも存在するならば、この世の果てまで追いつめて神の身許に送ってやろう。これまでの奴らと同じように。
集中しろと咎めるように鼻先をすりつけるかわいい仕草に、ときめくより先にどこで覚えたのかと勘ぐるのだから業が深い。仕方ない。一松もカラ松も、そういう風に育つしかなかった。
「いちまつ」
「なんでもないよ」
「……この道を選んだオレを、許さなくていいぞ」
罪を口にすべき一松が何も告げないから、代わりに兄が口を開く。白いスーツのマフィアでなく、黒いキャソックの神父が懺悔する。
「おまえに茨の道を歩ませるオレを、おまえは」
親のない拾い子達に選択は平等に与えられた。育ての親の跡を継ぎ神父になるか、それ以外か。カラ松が率先して神父を選んだわけじゃない。彼にそれ以外の道を選んでほしくなくて、一松が先に逃げたのだ。
学も金も親もない子供の行く末など決まりきっている。一松はそれを見たくなかっただけだ。そのためなら、たとえ兄が神だけのものになろうと我慢できた。自分以外の人間のものでないのなら耐えようと考えていた。
実際うまく分かれたと思う。向いていたのだろう、一松はこうしてファミリーのトップに立ったし、カラ松は皆から愛される穏やかな生活を享受している。
「おまえだけは、許してくれるな」
睦言としては不穏すぎるそれを、穏やかに微笑みながら兄は告げる。許すも許さないも一松の心持ちひとつだ。その選択に口を出す権利など誰にもない。たとえおまえでも。
「いやだね」
「一松」
「許すだなんだって、そういうのはあんたに任せてるんだよ神父様。おれにできるのは殺すか陥れるか」
人殺しと厭われるのは当然だから構わない。蛇蝎のごとく嫌われるのも。そんな些末なことを気にしていては生きてなどいけなかった。人生において大切な物は他にある。そう、たとえば目の前で嬌声を必死で堪え震えている兄を揺すりあげるとか。びくりと跳ねる肩と丸くなる背。普段は凛と伸びた背筋がくたりと力を抜き、額を擦りつけてくるのがたまらない。頬がゆるむ。すがって。神様じゃなく、おれに。今だけは。
この道を選んだのは一松だ。カラ松が神のモノになることを唯々諾々と受け入れた。仕方ないと言い訳し心を殺して見ないフリをした。生きていくためにそれしか選べなかったから。当時はそうするしかなかったから。
神のモノ、にもう少し別の要素が入っていることなんて知らなかった。神のモノを平等に分け合う神の代理人達なんて。知らなかった。知らなかったけれど、でも、いるだろうちょっと冷静に考えれば。それくらいわかる程度の頭は一松にだってあった。ただ見ないフリをしただけだ。そうして兄を置いて逃げた。
二人で逃げるよりずっとかしこい道だ。生存率がもっとも高い。今考えても上出来な選択だった。これ以外の道ならば早々にゲームオーバーしていた。わかっている。この将来しかなかった。現状が最適だ。理解している。
ただ認めたくないだけだ。甘える仕草と奉仕だけがひどく上達した兄を。祈りの言葉より先に覚えたのが精液の味だなんて笑い話にもならない。そのくせ当の本人はこんなにも清らかに神の敬虔な僕として生きている。それしか選べなかったといえ、頭の中でいったいどんな化学変化が起こりこうなってしまったのか。
神父とマフィアといっても、上手くやっていけている。現状が最良。これ以上はない。以下ならいくらでも。のんきな脳味噌の兄はこれまで同様穏やかに暮らすだろうし、一松はたまの息抜きに告解と称して教会に通う。これでいいだろう。考え得る限り最高に平和な世界だ。これ以上はない。望めない。どれほど考えてもそうなのだ。
「カラ松」
それなのに、一松の我が儘な口は持ち主を裏切って声を発した。
止めてくれ。聞かないで。許さないでくれ。絶対にダメだとわかっているのに、夢でしかないと理解しているのに、諦めの悪い性質だからどうしても最後にひと足掻きしてしまう。意味など無いのに。
「……なあ、おれがあんたを許す許さないよりもさあ」
おまえのラインは神とそれ以外だろう。知っているんだ。
だから絶対に頷かない。おれを弟以上に特別にしたとしても、それ以外の中で一番においたとしても、神には絶対に勝てない。カラ松のすべては神のもので、だからけしてこの提案に頷きはしない。玉砕などまるで好みではないというのになぜこの口は動くのをやめないのか。
「おれを許さなくていいから、だから」
これは告解ではない。
神への罪の告白ではない。
「……もしもの話だ。実行なんてしない、夢の話。行動には移さないから心配しないで」
おまえへの愛を告げる言葉。
「信じないでね」
だから許すなんて言わないで。神様への言葉にしないで。どうかあなたひとりだけのものにして。
お願い。
保険を目いっぱいかけて、目くらましをして、言葉で惑わせて。それでも恐ろしくてならない。兄は一体どんな表情で聞いているのだろう。なんと、答えるだろう。告げたくなどない。意味のない、結果のわかった勝負など無意味だ。それなのに。それでも。
「……いっそあんたに縁付くものすべてを焼き払ってしまいたいよ、カラ松」
そうしたら一松ただ一人のものになるだろうか。なってくれるだろうか。
夢のような話だ。絵空事。ただし言葉にしてしまったからほんの少し色がついた。真顔でこちらをのぞき込む兄の瞳の色だ。願わくば常のように穏やかに笑ってくれ。
形をとった一松の歪な願いは、確かにカラ松の耳に届いた。聞き流してくれればいいのに、こんな時だけ察しのいい兄はなかったことにしてくれない。
「いいぞ」
「……ほんとに」
「ああ、燃やしてしまおう」
「あのさ、捏造と計略が得意で嘘にまみれた男らしいんだよね、おれ」
白いスーツに身を包んだ真っ黒な男。計算高くて卑怯でずる賢い、けして他人を信用しない冷たい人間。本当にそんな男ならばよかった。そうしたらきっと、こんなにも震えない。恐怖で。
「でも、たぶん……今は、ちょっと無理……」
「んん?」
「いつもみたいに適当言ってたら、たぶんあんたのこと殺しちゃう」
一時の激情で事を起こすなど愚かだと知っている。それでも今回だけは我慢できない。誰をも信じぬ狡猾なマフィアのドンである一松はいない。ここにいるのはみっともない程に願う哀れな男だ。真実であれ、と。
腕の中の男が頷いた、その事実を覆さないでくれとひたすらにすがることしかできない。
愛しているのだ。言葉にすることさえできなかった幼い頃から。
殺したくはない。けれど拒まれたら確実に殺してしまう。失う。こんなにも温かなおまえを。
「一松」
「なに」
「っ、おまえが言ったんだろう、一松。今はドンじゃなく一介の羊だと」
ただの言葉遊びをとんでもなく優しい声音で告げたのは、一松の兄で、けれどどこまでも神の僕であった。哀しいかな、人は誰しもこうは誠実ではありえない。
「だからいいんだ。なんでも、いいんだ。おまえの望みは、オレと同じだから」
汗ばんだ額。赤らむ頬。一松を受け入れたままの下肢は恥じらうようにもじもじと動き、その度ゆらりとストラも揺れる。カラ松が神父であるという証明のように。
「賭だ、一松。燃えてしまうならそれまでなんだ」
煉獄では。ぽつりと零された言葉は一松の耳には残らない。
罪がすべて燃えてしまうのならば、では残ったものは。天国と地獄の境、ごうごうと燃えたぎる炎の中にあるものはいったいなんだ。
「なにもかも燃やして、そうして残ったものは」
青みがかっているはずのカラ松の瞳が、幻の炎を映してか紫がかって見えた。違う。違う、これは一松。目の前で楽しげにすべてを捨て去る計画を立てるのはけして優しい神父ではない。敬虔な神の僕では。こんな恐ろしいことを告げるのは悪魔と忌み嫌われる一松としか考えられない。では自分は。膝に乗り腕の中で身をよじっていた男が一松となったのなら、彼を囲い込み神にも渡さぬと必死にすがりついていた者は。
誰だ。
「一松」
いちまつ。
「大丈夫だ。煉獄で罪はすべて浄化される。燃え残ったものは、だから許されたということだ」
「……許された」
「ああ。もし、なにかしらが残ればそれは」
カラ松であった男が穏やかに語る。一松のように見えた男は今はもうまるで恐ろしくない。
「それは、存在していてもかまわないものだ」
だから大丈夫だ一松。甘ったるい声が鼓膜を震わせ毛羽だった心をじんわり暖める。大丈夫。なんの根拠もないと誰より知っているというのに、どうしようもなく信じたくなる無責任な言葉。カラ松。二人の道が違えてから始終使うようになったことくらい、一松とて気づいている。それまで口癖のようであった「信じている」はまるで忘れ去ったように言いやしない。
なんせ彼が信じるのは神だけであるからして。
「ねえ……おれのこと信じてる? カラ松」
神様ではない、一介の男を。一松でもなくカラ松でもない、もうすぐマフィアのドンですらなくなるただの男を。
「信じてくれる?」
愛してくれる?

 

「おまえだけを信じてるぜ」

 

◆◆◆

 

火が点かない、と苛立たしげにこぼした声に振り向かれてもらすかと思った。誰もいないと思っていたのに、いつの間にか皮ジャンにサングラスの男が興味津々でこちらを見ている。さほどごつくはないけどやめてほしい。怖い。カツアゲされても渡す金はない。
「ヤキイモ! だろ、それ。ニホンゴをベンキョウしたときホンにあったぞ」
「あ、いやその、焼き芋じゃなくてたんに燃やすだけなんすけど」
ビンゴ~、じゃねえよ。なんだよ外人とかもっとムリ。片言の日本語に腰は引けまくっているというのに、まるで気にしない男は陽気に話しかけてくる。
「でもそれ、なにかかいてあるが。いいのか?」
「あー、うん。手紙。もういらないからいいのいいの」
もう一度ライターを近づける。少し炎が大きくなって、また消えてしまう。
「っあーむかつく! んだよ、紙なんだから簡単に燃えろよな」
一枚ずつなら簡単かもしれないが、束になっている紙の山をばらす手間などかけたくもない。いっそガソリンでもぶっかければ早いだろうか。湿っているから余計に、じっとり固まり火も受け付けない。
苛立つ気分を逆撫でするように、隣に立った男が楽しげに笑う。人の失敗を見て笑うとかなってない。なんて気の悪い男だろう。
「……すまない、キミをわらったんじゃなくて」
言い訳めいた言葉にかぶるように、呼び声が響く。とたん、男のまとう空気が華やかなものになった。ははぁ、なるほど、そういう? どう聞いても低い男の声だったけど、まあ外国人だしこっちには関係ないし。
「アイテしてくれてありがと。じゃあ」
似たような背格好の男に駆けよって行く背中は、とんでもなく浮かれている。相手もなにも、一方的に話しかけてきただけなんですけどねそっちが。ため息で気持ちを切り替え、もう一度紙の束を燃やそうとした時なぜか。
「いいわすれていた! カミはよく燃えるだろう?」
「へ」
「それでもノコるものは、ヒツヨウってことじゃないか?」
息せき切って引きかえして来て言うのがそれ? ぴっかぴかの目で? この手の中の、誰宛かもわからない頭のおかしい手紙が。
「必要、って」
こんな、空虚な愛の言葉ばかりが並んだ手紙が必要とか。誰に。
「もやすならカミノイエがオススメだ! なんせよくもえる。でもきっと、それでもノコるんじゃないか? それは」
待って。言い逃げせずに意味を説明してほしい。いや、いらない。燃やすなら紙って、そりゃそうだろう。必要なんてまさか。
男の声がまるで宣託のように脳内に響く。バカバカしい。燃えてしまえよ、俺以外に捧げる愛の言葉なんてすべて。
遠ざかる二つの影はまるで溶接されたようにひっついていた。