ばらばらで小さくて役立たない、そのまま置いておいたらゴミにしかならないそんな端切れ。
お願いされた通り集めてみたはいいものの、これはさすがにダメなんじゃないかとおずおず差し出した袋をのぞきこんだカラ松さんは、たくさんありがとうレディとぴかぴかの笑顔を向けてくれた。
「こんなのどうするの? 縫い集めてパッチワークにするにもこの布なんか小さすぎるし柄もいまいちなのに」
「お、パッチワークなんて知ってるのか、リトルレディは物知りだな。確かにそうするには小さいけれど、ほら、こうして繊維に沿って割くだろ」
クナイも手裏剣もつかわないカラ松さんの指は、男らしく骨ばってはいるけれど爪は割れてなくてきれいだし肉刺もない。里の他の大人達とは違う、私と同じ手をしてる。
「紐状にして、編み込んでやれば……ほら」
目の前でしてくれたのになにが起こったのかよくわからなかった。カラ松さんがちょいちょいと指を動かすと、ムダでしかなかった端切れがきれいで可愛い組紐になる。
「すごい! ねえねえどうやったの!? わたしにもできる!??」
「もちろんさレディ、よし、好きな色の布を選んでおいで」
「はーい!」
カラ松さんはすごい。魔法の手を持ってる。忍術じゃないその魔法を、お願いすればいつでも快く教えてくれるところが一番好きだ。
里の大人達は皆忙しいし、たとえ暇があっても、忍術を教えても扱えない、将来忍びになれないわたしに構ってくれることはない。将来立派な忍びになる子供達に教えるだけでも手いっぱいだし、伝授しなければいけない知識は大量にある。任務で命を落としたりした時に、もっと教えていればと後悔しないために必死なんだよと嘆いていたのはカラ松さんの店に寄っていた誰かだった。
少し寂しいけれど、ちゃんと仕方ないってわかってる。わたしは忍びにはなれないし、きっと生涯里の外には出ない。忍びを引退した人達と同じように、カラ松さんのように、お店をしたりごはんを作ったりして生きていくのだ。だから、後回し。なにか教えてもらうのは、構ってもらえるのは、ちゃんと順番の最後に並ぶし忍びの子が来たら前に入ってもいいよって言う。ちゃんと。
「とてもきれいにできたな! レディは手先が器用だ」
でもアカデミーの先生じゃないカラ松さんは、誰のお父さんでもないカラ松さんは、たった一人でお店をやっているカラ松さんだけは。
わたしを後回しにしないし構ってくれる、そしていつでもとても楽しそうに笑顔を向けてくれるから。
「……あのね、誰にもないしょにするって約束できる?」
だからわたしは秘密を教えてあげた。
仲のいい女の子同士で分けあう、ほろほろの砂糖菓子みたいな甘い秘密。大切なわたしの恋の話。騒々しい月夜に浮かんだ猫のお面のあの人のこと。
紫色の布ばかり選んで組紐を作ろうと奮闘するわたしにカラ松さんは、ほんのり苦笑して珍しいことを言った。いつもならなんでもいいなって背中を押してくれるのに。
「レディにはもう少し違うタイプの方がお勧めだけどな」
もしかしたらカラ松さんの名前を出さなかったから拗ねていたのかもしれない。
◆◆◆
里には基本的に装飾品が少ない。
もちろん髪留や櫛、紅なんかがないわけじゃない。くの一なんかは女性としての魅力を武器にして情報を得たりするお仕事もあるから、化粧も衣装も忍びとしてきちんと学んでいる。
ただそれはあくまでお仕事の一環で、常の自分を華やかに彩ることはめったにない。匂いをさせては気づかれるから香水はダメ、目立つから爪に色をのせるのもいけない、髪留をどれほど華美なものにしてもいざという時はすべて取り去らなければいけない。
それでも工夫したい女心からか、カラ松さんの組紐はわたしと同じくらいの女の子達にとても人気が出た。
自分の好きな色を選んで組み合わせられるオリジナリティもそうだけど、好きな子の好きな色やトレードマークになってる色を使うのが、さりげない主張でいいって噂になって。自分で使うんじゃなく、好きな人にあげるのが告白とかおつきあいの証みたいな使い方もされて。
元は端切れだから誰でも手に入りやすいのもよかったみたい。新しい布なんかは行商人が来なければなかなか手に入らないから、生活に密着してるのが勝因だろうってカラ松さんの末の弟さんが話しているのを聞いた。
兄さん結構もうけたんじゃない? って聞かれてたけど、全然なことをわたしは知ってる。なんせカラ松さんたらつくり方を訊かれたら誰にでも簡単に教えちゃって。そんなことしたら買いにくるわけないじゃないって思うし実際そうなんだけど、でも自分の手でつくりたいって気持ちもわかるしなあって笑ってるんだからカラ松さんはのんきだ。
でもなんだかんだ、カラ松さんの作った物の方がどこかすっきりしていてきれいだから、こだわりのある子以外はそれなりに買いにもきてるみたい。
私は里の誰よりも早く教わって、一番に組紐を髪に編み込んでいたから、おしゃれに敏感な子たちから一目おかれて結構いい気分になれた。アカデミーに通っていない、将来忍びになれないことが確定している私にはなかなかない経験だったからとてもうれしかった。
いつもは、可哀そうだねって視線が多い。これは大人から。
同じくらいの子たちからは、あの子はなんで、って不思議そうなまなざし。どうしてあの子は忍術の勉強しないで毎日ふらふら遊んでるの、どうしてあの子はお母さんに怒られないでいつまでも遊んでていいの。
答は簡単。
七年前の、ここら一帯を襲った大地震。里の中心部は運よく倒壊もまぬがれ、火災なんかの二次災害は起こらなかったからあんなことなかったみたいな顔をしてるけど。わたしが住んでいた家はなくなってしまったし、お母さんもお父さんも炎にまかれて見えなくなってしまったし、わたしは歩けるけれど走れなくなってしまった。細かい作業も苦手。とてもとても時間がかかるの。忍びとして生きていくことは絶対にできないと、四才にして決まってしまっているからアカデミーには通えない。
カラ松さんも、同じだって言っていた。
昔は忍びだったんだぞ、って笑いながらこっそり教えてくれたのはきっとわたしが仲間だから。わたしよりも怪我がひどくて、歩くときには杖がいる。背中も怪我をして、そのせいでチャクラも練れなくなったから本当に一緒だよって。年をとり引退してからお店をする大人が多いから、本当に忍びのしの字もわからないまま大きくなるわたしはここでも少数派だ。そのわたしに、一緒だって。いざって時になにもできないわたしと一緒って言ってくれる、優しいカラ松さん。なんでも教えてくれる、笑ってくれる、いつでも構ってくれるカラ松さん。
なのにどうして教えてくれなかったの。
わたしちゃんと教えたのに。
「……なに、あんた最近はこんなのつくってんの」
「一松! 久しぶりだな、元気にしてたか!?」
少し曲がった背中と黒ずくめの忍び装束、肩には入れ墨。愛らしい猫のお面は麻の紐で腰にひっかかっていた。
どうして教えてくれなかったの。
なんでそんな風に笑うの。
あの人が好きなの。暗部の猫のお面の人。
七年前、あの人が助けてくれたからわたし生きてるの。
あの人にこの組紐をあげたいの。
あの日からずっと考えている。どうしてカラ松さんはわたしにあの人のことを教えてくれなかったのか。
最初は暗部の人だからかなって思った。小さい子たちは単にすごいんだってことしか知らないけど、わたしくらい大きくなればあの人たちが単なるエリートってわけじゃないってちゃんと知ってる。ターゲットを殺したり、抜け忍を追ったり、あまりおおっぴらに表で言えないお仕事をしている人たち。すごいって褒めそやすけど、自分の子供がなるって決めたらちょっと戸惑う感じの。自分の子供が結婚相手に連れてきたりしたら反対しちゃう感じの。暗部はそういう集まりだから、カラ松さんもそういうことかなって。らしくないなって。
次に、年齢が離れてるからかなって予想した。わたしは十一才で、カラ松さんがたまにリトルレディって呼んじゃうくらいには小さくて、あの人はもっとずっと大人の男の人だから。でも恋に年齢は関係ないし、男の人はいつまでも少年の心を持ってるって聞くから中身はお似合いなんじゃないかなって。わたしが大きくなれば今の年の差なんて小さいことになっちゃうのに。
最後に、あの人のことなにも知らなさすぎるからだろうって。これはけっこう正解に近いと思うの。恋に恋する子供だと侮って、口だけでうんうん肯定してきちんと話を聞いてもないの。カラ松さんはそんなことこれまでしなかったけど、慣れない話題にそうしちゃったのかなって。ほら、全然浮いた話ないから。彼女とか見たことないもの。いつも、日当たりのいい店の外で椅子に座ってなにか作っているの。通りがかった人と少し雑談して、笑いあって、それでバイバイ。わたしが一番の仲良しなの。
あの人は「いちまつ」というらしい。
あの人はカラ松さんのこと「あんた」って呼ぶくらい仲がいい。
あの人はわたしがカラ松さんのところにいる時は姿を現さない。
偶然見かけてつい興奮して問い詰めてから、カラ松さんはわたしがあの人の話題を出すと困った顔をするし、あの人はちっとも遊びに来ない。椅子がもう一脚出てたり使った後のお湯呑が置いてあったりと気配はあちこちにあるのに、どうしても顔をあわせることができない。
「……自信なくしちゃう」
「どうしたんだレディ」
「ねえ、カラ松さんは年下ってどう思う? えーと、十才とか二十才とかそれくらい」
「……レディの中でオレがいくつなのかわからないけど、さすがに二十才下は幼児だからな?」
せっせと組紐を編みながらカラ松さんは楽しそうに笑った。
「ものの例えよ、例え! ねえ、年下は恋愛対象に入らない?」
カラ松さんと同じくらいの年に見えた「いちまつ」さんを思い出す。どうかな、難しいかな。あとちょっと待ってくれたらステキな大人の女の人になれるんだけど。
ねえあなたのことなにも知らなかったけど、名前もこの間知って、年もなんとなくしかわからなくて、そもそも話したこともないしきっとわたしのことなんてあなたは知らないんだけど。
でもあの大地震の日、あなたが必死にわたしを掘り出してくれたのを知ってるの。土砂に埋もれたわたしを見つけてくれたのはあなただけなの。抱き上げてくれた時に雨が降ってきたと思ったけれど、きれいな月夜だった。するりと顔をかくしたお面は夜店で売れ残っていた橙色のへんな青いメガネをかけた猫で、全身がひどく痛かったのに妙におかしくて笑っちゃったのを覚えてる。
きっとそれだけって言うだろうけど、でも七年抱えてきた記憶なの。たったこれだけ、交流なんてしたこともない、遠目で見かけては口を開いて、でもどう声をかけていいかわからないまま会釈して。
「大好きなの」
あの人のことが。
いちまつ、って名前を声に出しちゃったらそのままときめきで倒れちゃいそうなくらい。
「きっと本気にされてないけど」
自分で言葉にしてそのあまりの正当さに傷ついた。そうだ。きっとあの人は本気にさえしていない。そもそもわたしが好きだってこともきっと知らない。わたしのことを、知らない。
ぐずりと虚勢が崩れてしまう。情けない。ここでならわたしはいっぱしのレディでいられるのに。背中をピンと伸ばして温かいお茶を飲んで、たまに金平糖なんかも出てきたりして。大切にされるステキな女の子扱いしてくれるカラ松さんの前なのに、いつものように楽しげに笑えない。
ぎゅうと握りしめたこぶしを、カラ松さんの手が撫でる。忍びの手じゃない大人の手が、そろりそろりと撫でてくれる。
「……本気にしてるよ」
「うそ。適当なこと言って慰めなくていいから」
「レディ、キミはとてもきれいな花の蕾だ。今でもとても美しいし魅力に溢れてるうえに、これから咲いてもっともっと魅力的になる」
「今じゃないとダメなの。だって、あの人が待っててくれるかわからないの。大人になってどれだけきれいになれても、その時あの人が他の誰かのものだったら意味ないの」
「……あいつじゃないとダメ?」
それはとても小さな声だった。とても幼い響きだった。
「いつだって怖いなって思ってる。きれいな女の人も、優しい女の人も、こうして長年想い続けている可憐なレディもいる。あいつの周りにはステキな人がたくさんいて」
目の前で確かにカラ松さんの口は動いていて、だけど聞いたことのない口調だった。快活で明るくてたまに格好つけたことを言う、安心できる大人の人。そんなカラ松さんしかわたしは知らないのに。
「優しいやつなんだ、役立たずになった兄のために暗部入りまでして。人を傷つけたりなんて誰より嫌いだったくせに、兄弟にそんなつらいことさせたくないって立候補して。誰でもいいって、六人の中で誰でもいいから一人って話だったのに。オレが行くって約束してた、のに」
つるりつるりと滑りだす言葉。
これは誰の懺悔だろう。
「六人で一人だから役立てたのに。あいつ一人で全部背負ってしんどくないわけないのに。オレのせいなのに、なにも言わずに行ってしまって。オレなんか気にかけて。そんな優しいやつなのに、弟なのに、オレは」
ぱん、となにかが破裂したような音がして一瞬目を逸らした隙に、わたしの目の前に座っているのは猫になっていた。
正確に言うなら、カラ松さんが猫のお面をかぶらされている。
突然のことに目を白黒させているわたしと、なにが起こったかわかっていないカラ松さんの気を瞬時に引きよせたのは、隣から響いた声だった。
「黙って」
あの人だ。
風にあおられたのか乱れた髪の毛、不機嫌そうに細められた目、仕事道具であろう猫のお面は今はカラ松さんの顔にかかっている。
「え、あ、いちま」
「あんたなに言ってんの。ばっかじゃないの。誰の話だよその自己犠牲に満ち溢れた男、聖人かよ。ほんっと頭カラッポだなあいかわらず」
はじめましてとかあの時はありがとうございましたとか。話す機会がもしあればあれを言おうこれを言おうとずっと妄想していた。なるべく高めのやわらかい声で、かわいく見てもらえるようにちょっと上目づかいで。だってこれが切欠で恋に落ちるかもしれないし! 可能性は無限大だし!!
でもわたしが想像していたよりも現実は非情だった。いちまつさんはまったくこちらを見ない。視界に入れてない。そもそもわたしがカラ松さんと会話してたのに、完全な無視からの参加ってどういうこと。
「いやでも」
「でもじゃねーよ、だいいちあんたの怪我だって事故だろ。責任感じることないし、おれはこの仕事性にあってるし別にあんたがそんな顔することないよ」
お面をはずそうとするカラ松さんと、顔に押しつけたまま横に揺らしたり目の部分を覆って見えなくしているいちまつさん。わたしは一体なにを見させられてるんだろう。これいちまつさん、絶対遊んでるよね。口元がぐにゃりとゆがんで尖った歯がちらちら見える。
なんなの。二人は仲良し、わかりました。カラ松さんがいちまつさんの兄? 初耳だけどいい、了解。いちまつさんは優しい、知ってる。カラ松さんが怪我をしたから代わりにいちまつさんが暗部に入った。なるほどなるほど、で、だから?
カラ松さんの懺悔と二人の会話から推察された過去と、わたしの目の前で繰り広げられてる光景がどうにもイコールで結ばれない。六人で一人、ということはきっと兄弟が六人いたんだろう。カラ松さんといちまつさんもじっくり見れば似ている。よく似た兄弟、それは忍びとしては強みだ。一人だと偽って同時にいろんな場所に出入りでき、アリバイ作りには事欠かない。きっとそのための、六人の中でなら誰でもいい、の暗部への誘いだったんだろう。そしてだからこそ、一人で抜けてしまった自分への負い目がカラ松さんにあるし、暗部に入ったいちまつさんに申し訳ないと思ってる。
ここまではなんとか理解した。がんばりましたわたし。でも待ってほしい。カラ松さんの気持ちはわかったし納得する。わたしだって兄弟がそうなったら悲しいんじゃないかな、いないから想像だけど。でも。でもそれならさっきの。
「あんたじゃないと嫌だよ」
こうしてからかい甲斐があるのはあんたの反応が一番だよ。
そっけない口調で平坦な声で何気ない素振りで、それでいてなんて表情でそんなこと言うのこの人。カラ松さんには見えないように目の部分は手で覆って、だからって油断しすぎだ。ねえひどい。あなた知ってるくせに。わたしがここにいるって知ってるくせに。
わたしがあなたを好きって知ってるくせに。
◆◆◆
なにも知らないけど好きになった。助けてくれたからって簡単に恋に落ちた。
今、ちょっとだけ知ったあの人のことはまだまだ大好き。だって好きな相手にこんな泣きそうな顔して笑うの、うれしそうにしてるの、反則。ひどい。
「はじめまして、わたし、あなたに助けられた者です」
だからちゃんと宣戦布告。伝えようと思っていたことをきちんと伝えて、七年間の感情を整理して。
「カラ松さんとずーっと親しくしてもらってます。わたしのこと、今でもきれいな蕾だけど咲いたらもっともっときれいな花みたいだって言ってくれるし、わたしもそうなるつもりです」
なにひとつ関心を持ってなかった目が、ちらりとわたしに向いた。苛立ちからか舌打ちが聞こえる。想像していたより紳士じゃない、でも一途でかわいい。
ちゃんと挨拶をとか舌打ちは失礼だなんて諌めるカラ松さんは未だになにも見えていないからわかっていない。ねえ、でもわたしたぶんわかってるの。ちゃんと聞いてたから、考えたから、わかったの。わたしカラ松さんが考えてるよりもっとカラ松さんのこともちゃんと好きだから。
本気にしたから教えてくれなかったんでしょ。どれだけ年齢が離れていても、接点がなくても、それでも同性で兄弟で足手まといの自分より有利だって思ってるから怖いんでしょ。
うれしかった。わたしをちゃんと脅威だって、子供の戯言だって片づけないでライバルだって思ってくれたのうれしかったから塩を送ってあげる。明日からは本気だすけど、今日だけ。今だけ。
「ところであなたは?」
優しい目で見るのね、愛おしさでとろけるみたいな顔するのね、直接触れないその手はどうしようもなくやわらかく動くのね。そのくせ聞かせる声は興味なんてまるでないと言わんばかりだし、口調は兄弟に対するものでしかない。きれいな花をガラスケースに入れて大切に大切に抱え込んでいるみたい。でもダメ。やっぱり男の人っていつまでも子供なんじゃないの? ねえ知ってる? カラ松さんはお花じゃないの。
「わたしはこれからもずっとカラ松さんと仲良くしてもらう予定の、ハナと言います」
あなた達の恋は花じゃないの。
だから実をなさなくてもいいの。不毛でいいの。
恋に理由はいらないし、相手は自分でも選べないの。
「へー。おれは一松、こいつの」
「一松さん」
「っ、なに」
おとうと、というだろう言葉を遮ればびくりと身を引かれた。警戒した猫みたい。かわいい。
「一松さんも名前で呼んでください。ね、ハイ」
「は? 意味わかんない」
「名前呼ばれたらうれしくないですか? わたしはうれしいですけど。ね、カラ松さん」
「え? あ? そ、うか、すまないレディ、オレはキミを」
「レディっていうのカラ松さんしか呼ばないからそれはそれで気に入ってますよ」
ねえ名前を呼ばれたらって思うだけで泣きたくなるくらいうれしかったりするの。全然脈なしだってこんなにも目の前で見せつけられてるのに。わたしだって恋に落ちる相手を選べるならもっと叶いそうな人が良かった。
同性で兄弟っていうものすごく高いハードルの人と、そういうの全部抱えてそれでも相手のことが好きな人と、どっちが恋の相手として手ごわいかなカラ松さん。わたし初めての恋はこんなに難攻不落な予定じゃなかった。もっとこう、手作りの組紐を喜んでくれてお揃いでつけてみたりする、そんな。
「ねえ」
押さえつけていた力が緩んだのか、やっとお面から逃れられたカラ松さんが荒い息をついた。
「カラ松」
驚きからか目を見開いた一松さんは今までで一番カラ松さんに似て見えた。ああでも残念、今はカラ松さんがいつものカラ松さんの顔じゃない。お面をとろうともがいていたせいか整えられた髪の毛は乱れて、息がしづらかったのか呼吸が荒い。でもじわじわ赤く染まる頬もかみしめられた唇もほろりとこぼれ落ちた涙も、全部全部一松さんのせいだから安心してほしい。
「え、なに、なんで」
「すまん、ほら、久しぶりに呼ばれた、から。名前」
「は、え、なにそれ。そんなんで」
そんなことで泣いちゃうくらいうれしいの。それが恋なの。ねえたった十一年しか生きてないわたしだって知ってるの。
泣いた相手にどうしていいかわからないくらいときめくの。それも恋なの。ねえわたし齢よっつにして知ったの。
あなたたちの間にあるのはまぎれもなく恋なの。それでいいの。いいのよ。
ひゅっと息をのんだ一松さんがお面の影に恋する相手をひっぱりこんだ。
力だけは強いんだぞと笑っていたカラ松さんは逆らうことなくひっぱりこまれた。
橙色の猫に青と紫の組紐はなかなか似合っていて、わたしは今日だけ特別に立ち上がる。
今日はライバルへのエールだから。明日からは容赦しないから覚悟してほしい。敵に塩を送るような真似、もう二度としないんだから。
「ハナ、ちゃん。ありがと」
だからおざなりなお礼の言葉なんて背中で受け取っちゃう。返事がわりにひらひらと手を振ったけれどどうせ見てないんでしょ、知ってる。猫のお面に隠れてできることなんてたかが知れてるんだから、飽きるまで何度でもすればいいじゃない。
名前を呼ばれたくらいで泣いちゃうくらいうれしいのが恋なの。
わたしだって好きな人の好きな色で組紐を編んで贈ってみたりする、そういう恋を次はするから。
わたしの花が咲く頃にはきっと。