歌を覚えたカナリア

あまりのあっけなさに驚いた。
一通りチェックして、まるで他人の手に慣れていないことを改めて実感する。口ではたいそうなことを言っていたのに、やはり予想通り初物か。これならそれなりに使えるだろう。
気を失ってしまった子供から身を離し、一松は部屋を出た。入れ替わりに入っていく部下達に指示を与える必要はない。なんせこういった行動には慣れている。
けしてこちらを見ない、よく教育されたフロントにちらりと視線を走らせロビーを抜ければエントランスにはリムジン。こうだからこの国では仕事も趣味も捗るというものだ。乗り込めば、シートに数枚の書類。

「秘書の方からです。見ていただければわかると」

なにをどう聞かされているのか、一松の顔を見るのも恐ろしいと言わんばかりに前ばかり向いたままの運転手は、震える声で説明する。確かに、自国のものでなくとも犯罪者などと関わりあいになるのは嫌だろう。わかるとも、もちろん。
存分に趣味を楽しんだ一松の機嫌はなかなかに良かった。見知らぬ運転手に同情してやれる程度には。だからこそ、声もかけずに書類に目を落とす。かすかな安堵のため息に吹き出しそうになるが我慢だ。それにしても詰めが甘いな、この運転手。あの子供もとても甘かった。もしかしたらこれは国民性なのだろうか。この国に来て出会う誰も彼も、一様に間抜けで都合のよい夢ばかり見る甘ちゃんだ。こんなにふわふわして生きていけるなど、どれほど平和ボケした国なんだ。
そう、なんせあの子供は甘ったれだった。
たいした実力もないくせに分不相応な夢を見、そのくせろくな努力もしてやいない。あいつばっかりずるい、そう言外ににじませながらあいつにはかなわないと口にする。逃げ道だけは確保して、己の卑怯な様からはかたくなに目をそらして。
自分を甘やかす都合のいい夢ばかり見ては、その通りにならない現実をくさす愚かな子供。
まるで実のない一松の言葉に顔を輝かせ、懐く姿は滑稽でしかない。父親のようだと告げられた時はいっそ拍手喝采でもしようかと思った。なるほど父親。一方的に搾取し幻の愛情でつなぎ止めこちらを便利な道具としてしか見ない、という意味で確かに一松は彼の『父親』になるつもりだ。
そしてこれから、彼にはそういう『父親』がたくさんできるだろう。もちろん一松は協力を惜しまない。生まれる場所を間違い羽ばたくことのできない子供を、より必要とされる場所へ導いてやる。それこそが一松の、実益を兼ねた趣味なのだから。

 

 

問題が起きたのは国に戻ってしばらくしてから。

「ボス、今度は養子にしたいと申し入れが」
「またかよくそったれ!!!」

部下を問いつめても意味がないことは、すでに数回繰り返しているため嫌でも理解していた。
足音荒く部屋へ向かうが、カーペットが音をすべて吸い取ってしまい怒りは空回りする。高級なのも考え物だ。これが木やコンクリートであれば、一松の怒りがどれほどか足音で高らかに知らしめただろうに。

「このクソ野郎今度はなにしやがった!」
「ああ、おはようドン。どうした、ご機嫌ななめだな」

どうしたもこうしたもない。さては朝食に嫌いなものがでたんだろう、などと腹の立つ顔を向けてくるおまえが原因だ。ぶち殺してやりたい。だができない。するわけにいかない。だからこそよけいにむかついて仕方ない。

「今度は養子だとよ。ったく、どんな魔法を使ったんだ」
「……魔法だなんて案外かわいい発想するんだな」
「殺すぞクソが」

殺さないくせに、と笑う顔が腹立たしい。八つ裂きにしてやりたい。けれど目の前の男が言うように、今となっては殺すことさえできやしない。
日本には戻れない、ここでたくさんの『父親』達のかわいい子供になるしか生きていく術はない。そう理解させられたかわいそうな子供は、当初こそ逃げようとしたもののすぐに諦めた。ものを知らぬ哀れな雛鳥が暴れたり自ら命を絶ったりするのはよくあることだ。それに比べればおまえはなかなかかしこい、そう褒めてやったくらいだあの頃の一松は。
彼が最初に太い客を捕まえた時など、特別にワインを支給してやった。困惑した顔を隠さぬ子供に無理矢理グラスを持たせ、この調子でやれと激励もして。
一松は非道な経営者ではない。懲罰より賞与を、善き労働者には適切な恩賞を。感情のままに動き恨みなどかってしまっては、いつ背後から刺されるかわからない。それくらいなら賞賛すべき時はきちんと褒め、いざという時周囲が盾になってくれるよう動くべきだ。だからこそ末端も末端、闇オークションでは売れず客の無聊を肉体で慰めることしかできぬ無能であっても、成果を上げれば賞賛してやらねば。
甘ったれた哀れな小鳥。あの頃であれば殺せた。
あの子供を売ってくれと問い合わせが来た時は、ワインの他にそれに合うチーズもつけてやった。前回のことを覚えていたのか、さほど戸惑わずうれしげにワインを飲む子供を、学習能力が高いのだと思ったものだ。親バカか。今ならわかる。これはたんに考えなしで図太いだけだ。
もうさほどかわいそうではなかった子供。それでもあの時ならまだ殺せたのに。
売るならば一番いいタイミングで。そう欲をかいたのがいけなかったのか。闇オークションで売れなかった子供だ、申し入れがあった時点で売り払ってしまえばよかった。それでも十分利益はあったというのに、もっと値をつりあげられるのではと売り渋ってしまった。
おそらくあそこが分岐点。一松が下手を打ったのだ。ああわかっている。わかっているとも。だからこそ、この憤りを誰にもぶつけられずひたすら苛立っているのだ。
一般受けしない分、はまる相手はとことんはまる。出し惜しみされるとより価値が高い気がする。そんな簡単なことに、一松も組織の皆もまるで気づかなかった。だって考えてもみてほしい。そこらで気まぐれに拾った石コロがマニアの間では評価が高くとんでもない値段をつけられた、となれば。これはもう、あちこちにいい顔をして値段をつり上げもっとも高い値の相手に売るしかないじゃないか。
その予定であった。
目の前の男は、一番高い値を出した趣味の悪い爺の元へ売られる予定であったというのに。

「なあドン、話すならせっかくだから一緒にブレックファーストと洒落込もうじゃないか。どうせまだ食べてないんだろう?」

返事をする前に備え付けの電話で指示を出す姿は、どう見てもこの部屋の主だ。無理矢理連れてこられたなにもわからぬ子供ではない。
朝食に嫌いなものがでたのか、と問うたことも忘れ勝手に二人分を用意させるこのふてぶてしさと言ったら!

「今日はオムレツだそうだ! 楽しみだな」
「……おまえこの間、ハムエッグがこの世の至高とか言ってなかったっけ」
「もちろんハムとエッグのハーモニーも最高だ! ハムの塩気を優しく包み込むエッグの包容力……別々でも美味しいそれがひとつに合わさったそのすばらしさ!」

大仰な物言いは放っておけばなぜかどんどん進化している。一松さんと殊勝にこちらを呼んでいた時は、こんな男だと思いもしなかった。

「……そういえばドンはどちらかと言うと白身似だな?」
「地獄へ旅立ちたいならストレートにそう願えよ」
「えっ、ダメだったか? 白いスーツばかり着てるから好きなんだと思ってたんだが」

たとえ白が好きでも白身に似ていると言われたい人間はいないだろう。しかも今の言い方ではどう考えても白身と黄身を比べている。唐突に己の主人を卵のどちらかに振り分ける人間がいる、なんてありえないと笑うだろうか。そうか、おまえは幸せな人生を生きたんだな、できればそのままこれに出会わないことを祈ってるよ。すでに出会い、懐かれてしまった者はご愁傷様。意味の分からない言動に頭を痛める仲間なら少しは紹介できるだろう。たとえばここに。

「んなこたどうでもいいんだよ。……養子の話があったぞ、おい、どんな手を使った」
「ようし? 誰のだ?」
「ハゲで背の低い赤ら顔のおっさんだよ。何回か接客してるはずだぞ」

個人情報の保護、という名目で子供達には父親達の名を明かしていない。客とて名乗るわけもない。これまではそれでなんの問題もなかったというのに、面倒なことだ。日付もおぼろげな生活をしている子供達には外見の特徴を伝えるしかない。こればかりは部下に任せては、客の耳に入った場合一松がその部下を処分しなくてはいけなくなる。特徴を口にすればそれが悪口になるなど、どんな罰ゲームだ。そんなことでここまで育てたファミリーの者を失えるほど、組織の人員に余裕はない。

「んん~……もしかして、湖畔の騎士のことだろうか」
「は?」
「そういえば、今度一緒にピクニックに行こうと誘われたんで、特定の父親と出かけるのは禁止されているって断ったんだ。じゃあ父親が一人なら大丈夫かと聞かれたんで、そうだなって」
「っはぁ!?」
「あっ、すまない違ったか!? いやちゃんと断ったんだ、断ったんだぞ! そうだなって言うのもほら、そうかもしれないな~みたいなニュアンスで!」

頭が痛い。
突然の養子話の原因がつかめそうではあるが、これ以上つっこんで聞くことを一松の精神が拒否している。なんだ湖畔の騎士って。どう贔屓目に見ても饅頭の妖精かなにかだろう、あのハゲちび爺が。

 

 

妙にマニア受けする石コロに化けた男は、周囲におかしな雰囲気をまき散らす。
最初はギターだった。
楽器というのは珍しいが、客が気に入った子供相手に甘い物やちょっとしたおもちゃを手渡すことはそれなりにある。機嫌良く仕事をする方がいいだろうと取り上げずにいたのが悪かったのか、いつの間にか男の周りにはよくわからない物が増えていた。
サングラスがいくつか。ドクロ模様の趣味の悪い服。そういえば露出過多なよくわからない格好をしていた気もするが、なぜ客達がことごとくそういった物をこれに渡すのかがわからない。本人は「やはりオレにはパーフェクトファッションが似合うという神の意志だろうか……」などとわけのわからないことを口走っていた。おとなしいからとドラッグは与えていなかったはずなのに、誰かに質の悪いものを飲まされたんだろうか。
まあ客が減っているわけでもなし、と見過ごしていれば次は買い取り希望。幾人かから問い合わせがあったから一番高値の客を選んで、と様子をみていればなぜか一松が男を囲い込んで離さないと噂が立った。とんでもない。一度たりともあれを惜しんだことはないし、なんなら格安でいいから誰か引き取ってほしい。甘く愚かな子供はなぜか意味の分からない事を口走る男と成り果て、一松の思いもよらぬことばかりを巻き起こす。おかしい。弱々しく歌うことしか知らぬカナリアはどこへ飛んで逃げたというのか。
大仰な言葉遣いは腹立たしいし妙に格好つけた顔はうざったい。未だにこちらの言葉が話せないから詳しい話を聞くには日本語の分かる者を用意しなければいけないし、内容によっては一松が直々に動かねばいけない。
腹立たしい。それだけで殺せる間に殺してしまえば良かった。今となっては、殺してしまえば一松の立場が危うくなる。

「いや本当に、ピクニックはオレもどうかなってちゃんと断ったんだ、うん。これがオザキのライブなら心が揺れたが、それはありえないし」
「オザキ? ライブってことはミュージシャンか!?」
「え、あ、大丈夫だちゃんとダメって覚えてる! 行かない! 誰か一人を特別扱いしてはいけない、だろ。ちゃんと覚えてるから安心してくれ」

まるで安心できない。
この男が嘘をついていると思っているわけではない。今、一松の目の前で殊勝な顔をしているこの時は、確かにどこにも行かないつもりなのだ。本心から。ただそれが三歩どころか動くはしから忘れてしまうだけで。
どこの誰相手でも気持ちよく取引を行うため、『子供』に『父親』を選ばせてはいけない。これらはあくまでも商品なのだから、持ち主である一松が選んだ先に向かうしかない。それを徹底するため、どの『父親』に特別だと誘われてものってはいけない。情を手段にする程度には商売相手は皆慣れているし、一松の集めた子供達はそういった感情に飢えている者が多いから余計に。
誰だかのライブであれば心が揺れる、などと浮かれたことを口走る男にも重々言い聞かせてあるはずなのにこれだ。だからこそ油断できない。禁じただけでこれが動かずいられるならどれほど楽であったことか。

「ちっ、てめぇが行きたいつった所はそれなりに連れてってやってるだろうが。我慢しろ、それくらい」
「あ、ああ! あちこち連れ出してくれてドンには本当に感謝してるんだ」

一緒に出かけると楽しいしな。するりと付け加えられて息が詰まる。もしかしてこのクソ野郎は、この調子で他の客達に一松のことを話しているのだろうか。
ありえない、と否定するにはのんきに笑っている男は色々としでかしすぎている。『父親』に別の『父親』の話はしない方がいい、妙なプライドでひどくされてしまうから、というのは子供達同士の生活の知恵らしい。それをこちらに気軽に話してしまう程軽い口の男は、当然閨でも他の男の話をするだろう。己の過去も、どうしてここに居るのかも、今の暮らしもすべて。ならば妙な噂も納得いく。根も葉もないバカバカしいものであっても、センセーショナルであればあるほど噂はおもしろい。これまで大した弱味を見せなかった一松が異国の男を囲い込んでいる、というのはそれはもういい酒のアテだろう。それが事実でなかろうと知ったことではない。そう見えなくもない、それだけでいい。

「……っあ゛~、おまえさっさと死なねえかな、こっちとは無関係に自然死とかで」
「ホワイ!? 唐突に怖いことを願わないでくれ」

彼はアーティスト志望だったとか、どうりでいい声をしている。そうにこやかに話しかけられた一松の心境を誰でもいい、答えろ。ただし場所はパーティー、出席者はマフィアとそうでない者が半々とする。
ただでさえ腹の探り合いは気を張るというのに、まるで予想外のところから飛んでくる流れ弾まで打ちかえすなど心労で腹でもくだしそうだ。煌々と照るシャンデリアの下、アーティスト志望だった彼とは誰のことか必死で脳内を検索し卒ない会話を続けるなどという偉業、達成したくはなかった。まさか何回か構っただけの男娼のことを話題に出すなんて思いもしないだろう、普通。具合が良かっただのなんだのという下ネタですらない。孫にでも向けるような好意を隠さぬ視線で、やわらかな口調で。
否定されないのがいいのかもしれないね。そう口にしたのは誰であったか。
これはそんな善き生き物ではない。ただひたすら、なにもかもどうでもいいから覚えていない。それだけだ。
数回、こののんきな男の話題を振られた一松は忘れるわけにいかなくなった。組織の者としては覚えていても、どこから連れてきたかなにをしていたのかなんて頭に入れたこともなかったのに。話をあわすためには必要な知識だ。わかってはいても、当人がまるでなにもかも覚えていないくせにどうして、とむなしく思うのも仕方ないだろう。
音楽と己を飾るいくつかのもの。それ以外はすべて彼にとって等しく興味がなく、だからこそ聞き流し、それが否定せず受け入れるなんてプラスの方向に勘違いされた。このバカバカしいお祭り騒ぎはそれだけのことだ。
買い取りたい、養子に、傍に置いておきたい。
ただただ己の金も権力も気にせず笑い話してくれる、それだけの人形が欲しい時があるのだろう。おそらく。一松には未だ想像もつかない。だが、なにひとつ自分に影響されぬ、一人勝手に楽しく過ごしている人間がいるのは悪くないかもしれない、とは考える。ごくたまに。
それにしても、なにも覚えず、こちらに興味を持たず、世話をしてやればそれなりに芸もするがすぐに忘れる。ペットでももっと情があろうに、これがいいと言う人間が複数いるのだからこの世はわからない。せめてこちらを特別扱いするくらいの脳は必要だろう、愛でるには。

「……まあいい、養子だなんてとんでもないこと言いだした理由はわかった」
「んん? あまりないのか、こう、オレ達のような人間を養子にするのは」
「当たり前だろ、よっぽど気に入ったって買い取って手元に置くのがせいぜいだ。たとえ格好だけでも養子契約なんぞ結んじまえば、財産分与だなんだかんだと面倒事しかおこらない」

そもそも年若く幼い子供だからこそ楽しい、という趣味の客も多いのだ。成長してしまえば単なる厄介者、こうして構いたい時だけ遊びに来る方がよほど気楽だ。
それなのに、首をかしげている男はいったい何を吹きこまれたのか。確かに見た目は十代の少年に見えるから、飽きられなければ数年はかわいがられるだろう。だがどうあがいても十年。それ以上など夢物語もいいところだ。まさかこの考えなしは、そんなことさえ思いつきもしないのか。

「じゃあ今、オレはドンとだけ契約している、ということか?」
「あ? あー、ここで働くって書類は書いただろ」

ドラッグで馬鹿になった頭をがくがく振って、震える文字でサインした書類はある。あくまでも仕事の斡旋、雇用契約も結んでいますとどこからつっこまれても胸を張るための方便だ。なにせ昨今は力押しでは上手く事が回らない。先回りして法の抜け道をいくつも探してからでなくては安心して業務も行えないなんて、まったく世知辛い世の中だ。マフィアとはなんと生きづらい商売だ。

「特別な父親も、ドン?」
「は?」
「最初の時言ってただろ、パーパだよって。これからたくさんの父親ができるって」

記憶にはないが、哀れな子供を堕とす時にしょっちゅう告げているからきっとこの男にも言ったのだろう。
ああ、これもまた詰るのだろうか。騙していたなんてひどい、信じていたのに、おまえなど悪魔だ。そう言われても、一松は常に本人が決断するまで待ってやっている。もうなにもいらない、そう願うのはいつだって哀れな子供達だ。
だが、一松が聞き慣れている言葉は続かなかった。

「でも『父親』達の誰かを特別扱いしてはいけない、誰かと出かけたり名前を覚えたりもいけない。そう注意されてるだろ、オレ」
「ああ、もちろん」

そうだ。客達が必要以上にいがみ合わぬよう、競争心は煽れど嫉妬心は適度に。石コロのまがいものの価値を高めるための、もったいぶった戦法。

「でもドンとは出かけたことあるだろ。名前も知ってるし、父親の皆よりずっと特別じゃないか。だから」
「あ?」
「ドンが特別な『父親』なんだって思って。……すごくうれしい。なあ、パーパ」

ぐるり。
突如世界がひっくり返った。
暗転。いや幕を引け。おかしい。脚本がいつからか変わっている。

「ミュージカル、連れていってくれたの楽しかったな。ゾウが芸するのもおもしろかった。今度は一緒に美術館とか行ってみたいんだ、ほら、室内なら部下の人達も護衛しやすいだろうし」

違う。違うんだ。連れだしたのは、特定の客の誘いに乗らぬよう。それくらいなら自分が連れて見せてやれば甘言に乗らないだろうと、金の卵を産むガチョウを逃さぬための必要な措置で。
よかった、などと動くな口。おまえのリアクションを見るのは悪くなかった、なんて考えていない。思っていない。美術館くらいなら今度の展示に興味があるから時間が合えば、なんて。

「っ、バカバカしい。おれに媚売ってもおまえの待遇は変わんねえぞ」

ざっくり切り捨てる。なにを言っても男の未来は『父親』達次第。今更一松に尾を振っても仕方ない。理解できるだろう? 理解しろ。悲しげに目を伏せ恐怖で震えろ。
どれほど願っても、絶望とは無縁の顔をした男はまた意味のわからないことを口走る。

「まだダメなのか」

ダメ?
いったいなにがどうダメなのだ。
一松は突拍子もないことが苦手だ。こればかりは生来の気質だからどうにもならないが、だからこそ事前にしつこいくらい下調べしあらゆるルートを想定し計画をたてる。蜘蛛の巣に例えられた時は、なかなか上手い事を言うと感心したものだ。
そして目の前の男は、なぜか一松の想定外の現象ばかり引き起こす。当人にそのつもりはないから止めることもできない。今もまた、なぜこんな会話になったのかが理解できない。なにを間違えた。どこを選びそこねた。
メイドの運んできた朝食をテーブルに並べ、満面の笑みを浮かべている理由が思いつかない。

「なあ、オレが最初に連れてこられた部屋、ここじゃなかったんだ」

それは荷が増えたからと、客が無理やり連れ出すことができないように一松の屋敷に。

「しょっちゅうドンが顔を出して、あちこち連れ歩いて、こうしてたまに食事も一緒にとって」

客達の話を聞くためで、外につられて誰かを特別扱いしないようにで、これのために時間をとれるほど暇ではないからせめて食事しながらと。
説明できる。すべて理由がある。あるのだ。

「自分の屋敷に囲い込んだ、って思われない方がおかしいだろ」
「ち、が……違うっ、おれはそんなつもりじゃ」
「そんなつもりだっただろう? なあ、だって誰よりあんたが特別な『父親』として振舞いだしたんだ。自主的に」

違う。
なにひとつ、違う。違わない。
だって説明が。ちゃんと。どうしようもない理由が。すべてにきちんと。
なにも聞かず疑わず笑って受け入れる、そんな人形はいらない。だけど、勝手に幸せそうに生きている姿なら見ているのもいいかもしれない、そう思ったことはある。
目の前、オムレツをほおばりながら身勝手に、一松に愛されているのだと決めつけてきた男のような。
己だけを見て欲しいとさえずっていたかわいそうな小鳥はもういない。
ここにいるのは、必要とされていると身勝手に信じることに決めてしまったふてぶてしい男。あと数年で商品価値はなくなり、捨てられることが決まっているはずの。

「気づいたのさ。日本であのままファンに愛されるのも悪くなかったけれど、それよりもっと」

甘ったれた夢見がち。努力もせずに欲しい欲しいと鳴くばかりで、いつしか歌うことも忘れてしまったあわれな子供。
あの頃となにが違う。なにも違わない。同じように、今でもこれは甘ったれて夢ばかり見ているし怠惰に生きているクソ野郎だ。それなのに。

「たった一人からの『特別』がオレの心の檻を溶かし、解き放ってくれたのさぁ!」

だからこれからもオレの『父親』でいてくれよ、特別な。
パーパがアモーレと聞こえたのは耳がおかしいと信じたい。そのとんでもなく甘ったるい声でまたラブソングを聞いてみたいと思ってしまった脳も、銃を突きつけられた時のように打つ心臓も、己の意思を裏切って動こうとする両腕も。

 

 

ああ、特別なら名前を呼んでもいいんだったよな?

「一松」

それはまるで聞いたことのない響きをしていた。けして一松の名には込められぬはずの、まるでそう、愛情のような。手に入ることのない、おぼろげでふわふわとした実感のない。
ダメだ。いけない。助けてくれ。
舌を切り取らねば意思に反してこれはきっと男の名を形作る。忘れきっていた、覚えなおさねば完全に消えてしまっていただろう響き。以前発していた時にはまるで意味のなかったそれがどうしようもなく。

愛でるには、こちらを特別扱いしてくる程度の脳は必要だ。
そう、一松だけを特別にするのなら。そうしたら。そういった者ならもしかしたら。