やさしい悪魔 - 2/2

違和感を抱いたのはいつだろう。

「松野ォ、せんせが日直さがしてたぞー」
「わかった!」

呼びかけられた時か。ふと隣に視線をやって、誰もいないことに首をかしげた時か。ふらりと校舎裏へ足を向け、何をしにきたか戸惑った時か。こんなところになにがある、足元に目をやっても猫の一匹すらいない。

「……オレ、の前って本田だったよな?」
「あ? そーだよ、昨日日直してたじゃん」

ホンダ、からのマツノ、ムカイ。名簿順はなにひとつおかしくない。クラスメイトを順番に並べていって、全員の顔と名前が一致することを確認してからもう一度カラ松は首をかしげた。

「もう一人、いなかったか。オレとおまえの間に」
「は? そーゆーオカルトやめろよおもしろくねえよ」
「いやなんか、怖い感じじゃなくてうれしいっていうかほわほわするというか」
「やっべ。おい松野がなんか怖いこと言いだしてるんだけどー!」
「受験だな。受験のストレスがとうとうおまえの脳を……惜しい男を失くしたな……」
「え、松野やべえの? いつもじゃね?」
「フッ、オレの脳を選ぶとはストレスとやらもなかなかの慧眼の持ち主……」
「ちげーから。悪の手先的なやつじゃねえから」
「松野通常運営じゃーん。なんだよライバル減ったかと思ったのに」

わいわいと騒ぐクラスメイトと笑いあいながら、どうしてかチクチクと胸が痛む。
これが普通で、日常で、繰り返し。毎日学校に通って、まだ遠い未来のような高校受験のために勉強して、夏が天王山だなんて言われても実感なんて湧かないと愚痴りあって、たまに引退したバスケ部に顔を出して。普通の中学三年生の過ごし方。もうすぐ夏休みなのに夏期講習でうまってる、なんて嘆きはついこの間。

「……うん、あれ? オレ、受験するはずだった、か?」
「どした松野。判定そんな悪かったわけ?」
「Bだった」
「俺よかいいじゃん! Cだったんですけどー」

おかしい。おかしくない。なにがおかしい? 希望高校の判定はそんなによくないけれどまだ夏休み前だからなんとかなるだろう。夏期講習も申し込んであるし家で一松のスパルタ授業を受ければどうにでも。
家で。
だれの。

「いちまつ?」
「あ?」
「そうだよ一松! ほら、猫背で歯がぎざぎざしてて頭よくてちょっと人見知りの、松野一松!」

悪魔の松野とそうじゃない松野。いつからかつけられていた不愉快な呼び名。頭のいい松野とギルトガイの松野、と呼んでくれというと誰より隣に立つ親友が嫌そうな顔をした。
一松だ。一松がいない。

「よくわかんねーけどそれ松野の従兄じゃん。いちまついちまつ、ってしょっちゅー騒いでるしいいかげん覚えたっつーの」
「え」
「ああ一緒に暮らしてる? もーわかったっておまえがその従兄の兄ちゃん大好きなことは」

笑いあう友人達の輪に入れない。
今、なにを。目の前の彼らはなにを。
カラ松が一緒に暮らしている従兄の一松。誰だそれは。
誰だ。
バイトをしていない、バスケ部を途中で辞めていない、高校受験をする、松野カラ松とは誰だ。
松野一松と親友の松野カラ松、新聞配達のバイトをしていて中卒で就職予定でついこの間新しい父親と妹が増えた、松野カラ松はどこに。
ぐるりと目が回る。脳内に一気に流れ込んできた映像に酔ってしまいそう。
一松。隣に並ぶと少し低い位置にある頭、ささやく声はひどく甘くて胸の奥を優しくくすぐる。握りしめた手。一松。なんで。生まれたばかりの小さな妹。小さい手、小さい爪、たよりない声とふわふわの身体。うれしそうな母親。ぴかぴかと光った目。二人分のゆれる影。夕日。新しい父親。もっと幸せになって、心配しないで、大丈夫だから。だから。

記憶は物理的な力をもってカラ松の頭をぶちのめした。

 

 

願い事をかなえてあげるよ

 

 

ああそうか、と納得と同時にカラ松の視界は暗くなった。ひざに硬い感触。
そうだな一松、おまえはあんなに正直に言っていたのに信じていなかったオレが悪い。いくらでも責めてくれていい。
おれは悪魔だから、と何度も告げてくれていたのに。嘘はつけない、と繰り返し。

 

◆◆◆

 

完成された家族に見えた。
それは正確ではないし、カラ松の僻み根性でしかないと自分でも思う。それでも一度そう見えてしまったものは仕方ない。けしてまぶたの裏から消えない。

仲のいい父親と母親、かわいいかわいい宝物のような娘。
大好きな母親だ。父親が死んで以来ずっと、苦労してカラ松を育ててくれた。幸せになってほしい。新しい父親は無理をしなくてもいいと言ってくれる気の優しい人だ。ゆっくり親子になろう、急にお父さんなんて難しいだろう、親戚のおじさんだと思うとかどうかな。笑ってそう例えてくれたのは優しさからでしかない。
だけど、じゃあ、親戚のおじさんとその奥さんと産まれたばかりの娘、の家庭にカラ松の居場所はない。
そんなつもりじゃない。誰もそんなこと言ってない。だけどそうだった。そう、思ってしまうといくら打ち消してもダメだった。
バイトを増やしたのはお金が欲しかったのもあるけれど、家に居場所を見つけられなかったからだ。就職しようとしたのはお金がかかる存在だと思われたくなかったからだ。お荷物になりたくない、家族に入れてほしい、そう。
でもあの日。一松とバイト先から帰る道すがら、見てしまったらもうダメだった。
夕日に照らされる三人の長い影。笑いあう夫婦。母親に抱っこされ安心しきって眠る赤ん坊。きっと黄昏泣きする妹を気分転換に散歩に連れ出して、会社帰りの父親に会ったんだろう。おかえり、とカラ松も声をかければいい。駆けよればいい。お友達? と問われたら一松を紹介して。
したらいいことはわかっているのに足が動かない。
誰も責めない、泣かない、嫌がらない、拒まない。笑顔で受け入れてくれる。知ってる。わかってる。だけど。

完成された家族だと思った。
あそこにカラ松の居場所はない。入れない。笑う母親、幸せそうな父親、眠る赤ん坊。あれはカラ松の親じゃないカラ松の家族じゃないカラ松の。
カラ松の。
はじかれてしまった。

「おれがいるよ」

強く強く握りしめられた手、そろりと腕をたどって肩、少し前のめりな首からこちらをのぞきこむように傾けられた顔。問いかけるように見やればまたぎゅうと力がこもる。

「カラ松、おれがなんでもかなえてやれる。言えよ。言ってよ」

ゆらゆらとゆれる影。カラ松に気づかず去っていく三人分。重ならない影。

「なんで」

どうしてそんな目で見てくれる。カラ松のことだけを考えている、みたいなそんなまっすぐな視線おかしい。母親だってもうしない。なのに。

「なんでそんな、一松は」

問いかけは少しだけずれて伝わった。

「悪魔だからね。おれは悪魔だから、おまえの願い事をかなえることができる」

なにか重なったんだろうか。影が。二つ並んだ影の片方に、大きな影がかかってまるで翼のようだ。黒い。

「なん、で」

どうしてカラ松のことだけを思っている、みたいな目をする。なんでおまえが大切だと言わんばかりの甘やかすような声を出す。親友なのに。親友だから。
親友だから?

「願いをかなえたら、なんでもかなったら、人間はすぐ堕落するだろ。努力なんてしない、ちょっとのことでもおれ達に願って堕ちる一方だ。そういう魂は悪魔の食糧になるんだ。神の御許になんかいけない」

願い事はないか、かなえてやると何度も聞いてくれた。
堕ちてよ、と願われたこともあった。
一松はいつだって嘘などついていなかった。

「オレが願いを言ったら、一松はかなえてくれるのか?」

親友に告げるには気恥かしいし、本気にとられたら重すぎる願い事。そっと心の内に閉じ込めた願いを告げれば、悪魔だと笑う彼はかなえてくれるんだろうか。
一松にずっと傍にいてほしい。
そんな、子供じみてるくせに独占欲を隠しもしないふざけた願い事。ずっと、がどれほど長いか想像つく程度には中学生は大人だ。それでも。
願えば、隣の彼は、手に入る。
カラ松が願えば。言葉にすれば。

「いちまつ」

おまえがいたら、いてくれたら、はじかれてしまったオレを拾ってくれたら。

「かなえてあげるよ。おまえが願えばなんでも、おれが、ちゃんとおまえが堕ちるまで。それで堕落したおまえの魂をおれが食うよ」

食べられたらカラ松は一松の一部になる。
それはいいな、と思ってうれしくなる。一松の身体の一部になったり、エネルギーになったりして彼の役にたてる。それはすごくいい未来だ。

「そうしたくて近づいたんだ。おまえの、ぴかぴかして青い光が見えて、それで」

すごくいい未来の話をしてくれているのに、幸せしかないのに、どうして一松の唇は震えているのか。

「きれいな魂ほど堕としたら美味いから、ほんとそれだけで、おまえなんてほんと食糧で、だから、なのに」

つないだ手が痛い。爪が食いこんで、でも離したくない。

「いちまつ」
「……嫌だ。やっぱりおまえの願い事なんてかなえてやらない」

 

◆◆◆

 

ぱちりと目を開くと白い天井が目に入った。

「ああ、やっと気ぃついた。おまえ貧血おこしてぶっ倒れたんだって? 夜更かししてっからだよ、クソ松」

じろりとねめつけてくる視線と強い口調、そのくせ熱を測るように額に触れる手はひどく優しい。ひどい猫背とぎざぎざした歯、眠そうな目とぼさついた整えられてない髪の毛。見慣れないスーツ姿。目の下の隈はトレードマークなんだろうか。

「保健室とか久々来たな。ほら、カバン持ってきてもらってあるから帰るぞ」
「……いちまつ、会社、は」
「おまえがぶっ倒れたって連絡きたんで慌てて抜けてきてやったんですけど」

そうだ。父親の転勤に母親と妹はついていって、カラ松は進学の関係から、小さい頃から懐いてる従兄の一松の家に同居させてもらってる。
そういう設定、だ。

「ありがとう」
「なんだよ、殊勝じゃんか」

ひひ、と片頬を歪めて笑うのも促す時に肩を軽く叩くのも変わっていない。同じ。同じだ。
カラ松と同じクラス、出席番号がひとつ前の『松野一松』の時と変わったところなんて年齢と立場だけ。一松があのまま成長したらこうなるだろう、そんな姿で。

「なあ一松、前に言ってただろ。悪魔はひとつしか嘘をつけないって」
「あー、なに厨二心にぎゅんぎゅんきちゃった?」
「じゃあこれからオレが質問することへの答って、全部本当なんだな」
「……カラ松」

前に、言ってただろ。
中学生の一松が、カラ松の親友の一松が。従兄の一松、なんて人とはそんな会話交わしていない。

「なあ、願い事かなえてあげる、って言ってくれ」

それでオレの魂を食べて。ずっと一緒にいて、死んだ後も一松の一部になれる。優しくしてくれた彼の役にたてる。こんなすばらしいことはない。
なのにどうしてそんな、泣きそうな顔をするんだ。

「おまえにかなえてほしい願い事ができた」
「なに、おまえなに言ってんの。あーあれだろ、小遣いくれとか遊園地連れてけとかそういう」
「一松」

同じ身長で、姿勢の分だけカラ松の方が少し視線が高かった。顔を横に向ければいつでも目があって、笑えば肩を叩かれて。低い声、淡々と話すくせにわりとすぐムキになる。猫が好きだと口にはしなかったけれど、ポケットにねこじゃらしを常備してたことを知っている。
一松だ。
目の前で泣きそうな顔をしている男の人は、カラ松より背も高いし従兄だなんて言ってるけどやっぱりどう見ても一松で。

慰めたくて手をとった。あの時、カラ松はとてもうれしかったから。ここにいる、独りじゃないと強く握りしめられた手から言われているようで。

「なあ、おまえオレの一松だろ?」
「っ!? は、ぁ? おれはおれのでけしておまえのおれじゃないんですけどぉぉぉ!!!??」

確認のために口にしてから、ちょっと抜けたなと思った。オレの知ってる一松、だ。
でもまあ和んだみたいだから気にしない。さっきまで泣きそうだった一松は顔を真っ赤にして怒っているし、しんみりとした空気はどこかへ飛んでいってしまった。終わりよければすべてよし、というやつだろう。

「まあそれはいいんだ。気にするとこじゃないし」
「気にしろよ! すっげえ大事なとこだろ」
「な、オレの願いをかなえてあげるって言ってくれてた一松だろ? 悪魔の」

同級生の松野一松は最初からいなかった。従兄の一松だっていない。でもいる。目の前の悪魔が、カラ松の願いをかなえてやると囁く悪魔だけがずっといた。
カラ松の傍にずっと。

「……おまえの願い事なんてかなえてやらない、って言っただろ」
「なんでだ。あんなに訊いてくれてたじゃないか」
「気が変わったの」
「堕落した魂を食べるんだろ? オレのこと堕落させるんじゃないのか」
「うるっさいな。気が変わったつってんだろ!」
「だって」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!! おまえなんてぜってー食わねえつってんだよ、わかれよ!!!!!」

ばさりと耳元で音がしたと思った瞬間、さっと光が陰った。一松の両手はカラ松とつながれているのになにが。またたく間にカラ松の身を一松ごと包み込み、黒い大きな蝙蝠の羽が世界と二人を分ける。間近で見た悪魔はやっぱり一松で、ぎざぎざとした歯はそのままに、犬歯が少しだけ伸びていた。頭からは角のようなものが二つ伸びている。

「食わない」
「なんで」
「食いたくないから」
「オレは一松に食べられたい!」
「だからそーいうことを気軽に」
「だって!」

自分の魂がどんなものかカラ松は見た事がないからわからない。ひと目で美味しいと思えるのか、それほどでもないのか、食べるためにひと手間かけようと思う程度には食欲をそそるのだろうけれど。
もしかしたらもう一松は、他に食べたい魂を見つけたのかもしれない。だからわざわざ願いをかなえて堕落させたりしないのか。カラ松の願いなんて、かなえないとだから言うのか。

「そうしたらずっと一緒だろ」

それでもいたい。
これまでカラ松の傍にいてくれた、手を握っていてくれた、あの夕焼けの中幸せな家族を見送ったカラ松と共に居てくれた、一松と。
なんでこんな設定にした。家族に拒まれたわけじゃない、時期とタイミングが悪かっただけみたいなこんな。転勤と進学のためだとかこんな優しい、カラ松のことを思いやった。

「一松とずっと一緒にいるにはどうしたらいい? な、食べてくれたら解決するだろ」

カラ松の居場所を作ってくれたおまえの傍がいい。
悪魔だというくせにひどく優しい彼ならば、さほど食欲が湧かなくともきっと食べてくれる。願えば。

「かなえてくれ。オレの願い事は」

 

 

おまえの願いをかなえてやろうか? おまえが望むならなんだってしてやるよ

 

 

言葉は途中で途切れた。願い事の続きは、悪魔が噛みついて飲み込んでしまった。

「……ひどい」

唇の端にじわりとにじんだ血はひどくしょっぱい。

「なんでもかなえてやるって言ってたのに……オレが望んだら、って言ったのに」

蝙蝠の羽なんか生やしてるくせに、頭からもなにか生えてるくせに、悪魔だと言いながらバカみたいに優しいくせに。
今この時だけこんなにもひどい。
カラ松の願いをかなえてくれない。どこかへ行ってしまう。そうだ、こちらの高校に通うから居候しているなんて設定だから、高校を卒業する頃にはさよならしてしまうんだ。なんて用意周到な。頭の良さをそんなところで使わなくてもいいじゃないか。
歪む視界にぼやける悪魔。あまりに悔しくてカラ松は両手を離してやることができない。だってどこかへ行ってしまう。手を離したらきっとカラ松を置いてどこかへ。

「傍にいて、がダメだったら他のにする。ちゃんと堕落する。だから食べて。食べてくれよ。おまえの一部にして、おまえとずっと一緒にいさせて。ねえ。ねえお願い」

いちまつ。

「――なんで、そんなに……一緒にいたいわけ」

ぐずぐずと鼻をすすりながら訴えるカラ松にかすれ声が問いかける。キシキシと鳴っているのは歯がこすれる音だろうか。

「そんなの、一松が好きだからに決まってる」

ばさばさとけたたましい音と共に降り注ぐ光。羽が上手にしまえなかったのか真っ赤な顔の悪魔。少し不器用なところがあるもんな、と一松らしさを見つけてはそのたびカラ松はうれしくなる。
つないだままの手を振りほどかないところとか、血の出た傷口を舐めてくれるところとか。悪魔はこんなにも優しい。

「おまえの願い事なんかすっげー全力でかなえてやるから!!! 覚悟しとけ!!!!!」

なにについての覚悟かがわからないながらも、カラ松は全力で肯いた。だってかなえてやるって。今、かなえてやるって。
悪魔は嘘をひとつしかつけない。
カラ松の従兄だと偽っている一松は、もう嘘をつけない。

「じゃあずっと一緒にいてくれるんだな!? ありがとう一松! いつかオレのこと美味しく食べてく」

言葉はまた悪魔の口の中に飲み込まれてしまった。
でもカラ松はもう気にしない。味見、と唇を離しもせずに囁くくらい一松は腹が減っているのだろうから、まだ願いの途中だとか行儀が悪いなんて野暮なことは言わない。
たぶんきっともっと、本当は、こういうのの前に違う言葉が先にくるんだぞ、なんて。
これからずっと、の間にいくらでも告げてもらうし伝えてやる。次から。こういうの、の前にも後にも間にも、いやってくらいに目一杯。

 

 

がんばるけどもし堕落できなかったらごめんな、と言えば、堕ちるまでいつまででも待てるよと笑われた。
カラ松の悪魔はひどく優しい。
いつまでも、を一松の命が尽きるまでと伝えてくれるほどに。嘘をつけない悪魔の手は未だカラ松とつながれたまま。