すくうまで待ってて - 5/5

両手に持っていたビールをするりと回収されたカラ松は、腕が軽くなったことにも気づかずぐるぐると考え続けていた。
途中から聞こえていた、いや聞いていた会話。俺らがうまくさぐってやるからさ、なんてのせられてあまりいいことではないと思いつつ欲に抗えなかった。一松がどう思っているのか。カラ松に好意があることはわかる。そんなことは中学生の頃から知っている。先生はいつだって優しくて、そして当時のカラ松をちゃんと好きでいてくれていた。でもその後。現在の、成長してしまったカラ松に対してがわからない。酒の勢いに乗ってならいけた。じゃあ、と何度酔わそうとしてもあれ以来一松のガードは固くて理性を飛ばしてはくれない。常ならとっくに恋人になっている距離感、最低だと嘆かれたあの日、どれほど子供っぽくふるまってもぴくりとも反応しない下半身。
あたりまえだ。カラ松の身体はとっくに成長しきっている。未だ男女の区別のつきにくかった細い肢体、ろくに生えてもいない産毛につつまれたやわい肌、薄い爪、高い声。もうカラ松が失ってしまった、先生の愛したそれら。

「ま、松野、あの、どこから聞いて」
「いや、その、せんせ」

ごまかして笑って逃げてしまいたい。おそ松がにやにやと肩を押さえつけていなければもうとっくに逃亡を果たしていただろうに、睨みつけてもまるで悪びれていないのがまた腹立たしい。せめて先生が怒って帰ってくれればと願っても、当然だろとばかりにチョロ松が一松の腕をひっつかんでいるので難しい。カラ松も腕なんて外で組んだことないのに。いいなあと思ったことがばれたのか、心底いやそうに鼻に皺を寄せられた。チョロ松が先生のことをそういう意味で好きじゃないと知っているけれど、そこまでありえないって表情をしなくてもいいんじゃないだろうか。児ポ野郎だけど罪は犯していないんだし。カラ松の好きな人なんだし。

「すまないちょっと忍者の訓練をつんだ時の影響で無意識で気配を殺してしまう癖があって、だけど大丈夫だ俺はぽんこつだしモノ覚えも悪いからちゃんと忘れられるし、ええとあの、だからせんせが俺に言いたくなかったこと聞いちゃったけど聞いてないふりちゃんとするし演技得意だしそれからあのええとああ、ぼ、勃起不全じゃなかったんだなおめでとう!」
「に、忍者!?」
「そこは忘れてくれると助かります!!!」

混乱のあまり口にしたかっこいい設定を繰り返されて、気恥かしさのあまり声を張ると先生は困惑しながらもこくこくと首を振ってくれた。優しい。隣であばら折れるとかひーひー笑いながら言ってるおそ松は先生の爪の垢でも煎じて飲んでほしい。

「せんせがちゃんと勃つっていうの安心した。いや俺が気にすることじゃないんだが、その、俺がいたからダメだったんだもんな。気がつかなくてすまない。そうだよな、ああいったことはプライベートで一人静寂と孤独の元行われるソロプレイ」
「松野」
「せんせの家が居心地良かったからついつい通いつめてしまって申し訳ない。オカズだけ渡されてなにもできないなんてつらかっただろう、俺も同じ男としてわかっていなければいけなかった。ギルトガイ……!」
「松野、ちょっと」
「ちゃんと反省したから安心してくれ。いや俺も責任を感じていたんだ、だってほらあの時、酒の勢いだからうっかり俺なんかとできちゃってせんせすごいショック受けてただろ。ちゃんと立派なペドに戻れるようにって願ってたんだ、ほんとに、うん。よかったよな」
「カラ松」

ぺらぺらと動いていた口がぴたりと動きを止める。ひゅ、と息を吸い込んだ後どうしていいかわからなくなってカラ松はついそのまま止めた。
初めて。先生の口が、カラ松の名前を。

「ごめん、たぶん誤解。いや、ええと、うん」

がりがりと頭をかく癖。これは苛立った時だ、知っている。

「もう逃げないんで松野と二人にさせて。キミらの心配してるようなことにはならない、から」
「えー、それ俺らが受け入れる筋合いない提案ってやつじゃない?」
「児ポさんはいいかげん犯罪者の自覚持ってくれません? 好意がこいつを傷つけない、なんてことないって知ってるでしょ」
「ああもう、ほんと松野いい友達持ってるね!」
「うん!? 自慢の友人だ!」

流れがわからないながらも肯けば、三人そろってため息をつかれた。なぜだ。
わかったよいいよもう諦めたよキミたちも来て、ええそうなのここでじゃないのいいのセンセ、いいつってんだからさっさとどこでも移動するならしようよそろそろ疲れてきたし。カラ松が席をはずしている間に仲良くなった三人は、ごにょごにょと相談したあとどこか悔しそうな先生を先頭に歩きだす。おそ松にひっぱられて歩くカラ松がどれほど疑問の声を投げかけても返ってくるのはちょっと待ってばかり。

「なーにヤキモチ妬いてんの、センセ報われないよねこれ」
「うるさい」
「え、マジで妬いちゃってんの!? カラ松おまえバカにも程があるんじゃね?」
「おそ松うるさい」

けたけたと笑う声が腹立たしい。ヤキモチなんて妬いてない。ただちょっと、なんというか、二人に対しての態度とカラ松への態度が違うなとか。なんでおまえらの方が昔っからの友達っぽいんだよとか。俺の方がずっと昔からせんせのこと知ってるのに、とか。
とか、とか、とか。まあヤキモチを。

「ここ」

最近あまり見ない金魚すくいの屋台の前でしゃがみこんだ先生は、ポイをかまえながらカラ松に話しかけた。

「松野、賭けしよう。この中で一番でかくて強そうで年上っぽいやつどれだと思う」
「え?」

意味がわからないながらもつい視線は言われたとおりの金魚を探す。普通は小さくて動きの遅い掬いやすいのを探すんじゃないだろうか。大きいとそれだけでポイが破れてしまうだろうに。

「俺がさ、この中で一番古株ででかくてかわいくない金魚掬うから、そうしたら俺の勝ち。ひとつお願いきいてよ」

先生の視線は下を向いたまま、宣言通りの金魚を探してうろうろしてる。おそ松とチョロ松はいつの間にか腕を離しビールを飲んでいて。
カラ松は。

「どれだけ大きくなっても、変わっても、俺がずっとずっとずっと飼うから」

あ、一番大きいのがいた。たぶんあの出目金。先生も同じのに目をつけたんだろう、同じ方向を見て。

「小さくなくていい、かわいいのが好きなんじゃない、簡単に掬えるからとかそういうんじゃなくて。なあ松野、きっとあれだよな一番でかいの」
「うん」
「あれ、俺が掬うって決めて、あいつがいいって俺が言ってるの。聞いたよね?」

カラ松は、立ったまま。
少し離れてビールを飲むこともできないし、先生の隣にしゃがむこともできない。

「うん。でもせんせ、あいつ底の方から上がってこないよ。上に来たら危ないってわかってんだよ、かしこい」

カラ松はバカだったから。あの金魚より考えなしで、白い腕の中がどうにも安心できるように見えたから軽率に飛び込んで、暴れたら簡単に破れてしまうポイだなんて思いもしなかったから。
落ちてそのまま上がってこれない。

「待つよ。あいつがいいから、俺は待つ」
「上がってくるまで?」
「うん」
「でかいから破れるんじゃないか、それ」
「じゃあもう一回チャレンジする」

破れたポイじゃ掬えない。もう一回、なんてそんな。

「それでもダメなら?」
「またする。すくえるまで、何回でも」
「あいつじゃなかったらもっと簡単に掬えるよ、せんせ。もっと小さくてかわいい子供の」
「でも僕はアレがいいんだ、カラ松」

子供が。あんな大きく育ってしまったかわいくない出目金じゃなく、もっと小さな。

「硬い男の身体で、すね毛もヒゲも生える骨ばった筋肉質の」

するりと出目金が水面に近付いた。それなのに先生のポイはぴくりとも動かない。視線はいつの間にか水面から離れ、カラ松を。

「そんなこと気にしないのに、勝手に気回してこっちの趣味作り上げて、普通の男の特徴消すとかバカみたいな努力しちゃう健気でどうしようもなくかわいいのが、さぁ」

先生が愛したカラ松。もういない、小さな子供。

「好きで好きでもうずっと初めて会った時からそいつしか見えないから、カラ松」

筋肉質な腕を隠した。日焼けしていない足はムダ毛を剃ってクリームを塗りこめて、がしりとした肩をごまかすためにパーカーをはおった。泊めてもらった朝は必死で早起きして、まず一番にヒゲをこっそり剃った。
子供にはないあれやこれ、すべて見えないように。

「俺と一緒にあのでかい金魚飼ってよ。ずっと」
「……ぜんぜんかわいくない。小さくないし、柄もきれいじゃない。なんか黒いし」
「うん」
「俺は金魚なら、もっと、あの赤いのとかそういう」
「うん」
「大きいのは掬いにくいし、ポイいっぱい買ったらお金もかかるし、金魚鉢も大きいのじゃないとだし、あと」
「うん、あとはなに?」
「……かわいくない。子供じゃ、ない」

先生。
カラ松はもう中学生じゃない。どれほど子供ぶっても、幼い素振りを見せても、どうやっても戻れない。
先生の好きでいてくれた頃のカラ松じゃない。

「あの、ですね。ここまで言ってまだわからないとかほんとおまえ洞察力とかそういうの鍛えた方がいいからね」
「昔の俺のことすごく好きでいてくれてたの知ってる。言われなかったけど」
「っ、あーそーですよ我慢のきかない大人でごめんね!」

びっと万札を屋台のおやじにつきつけた先生が、勢いのままに大量のポイを注文した。重ねて使うとか反則だし、ずっと座り込んだまま狙いの金魚以外いらないとか商売の邪魔だし、いい大人が金魚屋の前で二人いる時点で注目の的だし。ねえ先生こんなのまるで。

「子供みたいだぞ」
「いいの。オヤジ聞いてたろ、俺の一生がかかってんだから気持ちよく協力してよ」
「一生ってせんせ。大袈裟な」

先生。
勘違いしてしまう。バカだから、つい自分のいいように思いこんでしまうから、お願いだからちゃんと言って。好きなのは金魚のことだって、言って。

「カラ松」

そんな声で名前なんて呼ばないで。

「すくうまで待ってて、お願い」

 

◆◆◆

 

傷ついて泣いている幼い子供。自分が痛いからと誰でも攻撃していいのだと癇癪をおこした小さな一松。

「俺がちゃんと救うから。責任もって自分自身を掬って、許して、受け入れるから。だから傍に居て。見ててくれるって言ったでしょ」

カラ松は神様じゃないのに、彼に救ってほしいと、許してほしいと願っていた。恥を知れ。記憶の中のカラ松はどこにでもいる普通の少年で、一松を許し受け入れてくれる天使じゃない。一松を好きになって、だから笑ってくれて、一緒に居てくれて、好きだと告げてくれた。傷ついたままの一松を守るため、救うために現れたんじゃない。カラ松の意思で、好きになってくれたのだ。
神様じゃない。天使じゃない。聖母でもない。都合良く一松に与えられた許しではない。

「せんせ」

泣くのをこらえてるんだろう、ぐしゃりと歪んだ顔はぶさいくだし声はいつもより低いからいっそ怒りでもこらえているのかと怪しむレベルだし握りしめたこぶしは震えているし。

「もうおまえの先生じゃないよ」
「やだよ。俺のせんせをとらないでくれ」

ひどい男だ。きっと一松より力も強いし体格もいい、ヒゲも生えるしすね毛だって腕毛だってあるだろう。一松にひどいことをした男の人よりずっと強い、いくらでも一松を傷つけることのできる。
それなのに一松の言葉だけでこんなにも情けなく顔を歪めて、そのくせ一松の心臓をしめつけて息をとめる。

「せんせ。ずっと俺のせんせでいてくれよ」
「……おまえが俺の生徒であったことなんてなかったよ」

ほろりとこぼれ落ちたのは涙ではなくて金魚だ。何枚のポイを破られただろう。掬おうとすれば逃げられて、ひっかかったら暴れて落ちて。
それでも諦めない理由なんて、賭けなんて言いだしたのなんて、ああわかってほしいと願うのは大人の傲慢さだ。

「好きだよ。ずっと好きだった。先生なんて立場でいられたことないくらい」

好意は理由にならない。傷ついていたからといって他人を傷つけていいわけがない。カラ松の優しさにすがってはいけない。全部きちんと一松が受け入れて、納得して、まっすぐに立つ彼の目の前に立てる時が来たら。

「だから待ってて」
「いやだ待てない」

金魚が見えない。ぐいと襟首をひっつかまれてメガネがずれる。視界の揺れに思わず目を細めると、横に居たはずのカラ松の顔が正面に映った。

「六年待ったから、もういやだ」

いちまつ、こどもでもきんぎょでもないけどおれでだきょうしよ。
伝えた内容がまったく通じていないことが丸わかりの言葉をつたない声音で紡いだ唇は、どうしようもなくあどけない。愚かで考えなしの子供じみた行動。こんな公共の場で、公衆の面前で。だけど立派な成人男性が。
すくえない、すくわれない、考えなしの勢いだけで。好きだと嬉しげに告げてきた頃とまるで変わっちゃいない。

「待たないから、一緒に掬う。賭けは無効。な?」
「……救ってくれるの」
「うん。それで早く家に帰ろう」
「一緒に?」
「今日泊めてくれる約束だったじゃないか」

金魚がほしいわけじゃない、とか。一松が伝えたかったことはまったく汲みとれていないくせに、どうしてこうもピンポイントで。
握りしめていたポイをするりととられ、もう視線は金魚に向けてしまって一松の方などちらとも見ない。男同士でキスまでしたせいで遠巻きにぬるい目で見つめられているのに、そんなこと気にもしていないんだろう。一松だけが視線を感じてじわじわと頬を赤くしている。
本当にひどい。
なにも伝わっていないのに、解決していないのに、どうしてこんなに口元がゆるむのか。一松がカラ松にひどいことをした事実は消えていないし、罪悪感は容赦なく心臓をえぐってくるというのに。

「ああそうだ一松」
「ん?」
「やけぼっくいに火がついた、な?」

ばちん、と弾けたのは火花か心臓か。犯人は確実に今金魚をすくいあげた男だ。