すくうまで待ってて - 2/5

一松は生涯許されない罪を犯した。
ひとりの少年への性的虐待。あれは明らかにされていないだけで犯罪であったし、一時の気の迷いと言い訳など相手のことを少しでも思えばできるはずもない。いっそ自殺しようかと考えたこともある。けれどすぐ、それは逃げではないかと思った。自分が死んで彼が楽になるならいい。彼が喜んでくれるなら、いや、そんな前向きなことはありえない。せめて彼の苦しみがなくなるなら。
けれどこんなゴミが消えても輝かしい彼の未来になんの影響もない。それならいっそ、いつか彼が苦しいことを吐き出したい時、つらいことを紛らわせたい時、サンドバッグにでもなれたら。こんな自分でもめちゃくちゃに殴れば少しは気が晴れるかもしれないし、罵ればもっと社会の底辺がいると思えるかもしれない。彼にならなにをされても構わない。これからの一松の人生は彼のために捧げよう。
そんな風に生きてきて、これからもそうやって生きていく。それ以外の道はないはずだった。

「せんせはどっちのホテルがいい? こっちは大浴場からの景色がすごいらしいんだけどこっちだとごはんが部屋で食べられるんだ!」

それなのになぜ、被害者であるところの当時少年であったカラ松が自室でくつろいでいるのだろう。
ハーフどころか足の付根まであらわなショートパンツをはいて、一松のベッドにうつ伏せに寝転がって足をふらふらと揺らしている。ついつられて顔が揺れそうになるのを必死で堪えて、一松は声を絞り出した。

「行かない」
「なんでだ? せんせが言ったんじゃないか、今度美術部の合宿でここに行くかもしれないから下見に行くって」
「俺が言ったのは下見行くよう頼まれたけど面倒、だしそもそも正顧問が行ったらいい話でしょ。もし行くとなっても部外者連れて行くなんて論外」
「え~、そんな冷たいこと言わないでくれよせんせ」

不満です、と全身で表わしているのだろう、足がぱたぱたと布団を叩く。そのまま長くしなやかな足がぐいと伸び、足元に丸まっていた掛け布団をひっかけゆっくり曲がる。布団にのしかかられるような、体勢。仰向けになってするりと腕が迎えにいく、上からのしかかる男の背に手を回して太ももが甘えるように擦りつけられて。

「一松せんせ」

ぱちんと妄想がはじけ飛ぶ。
今自分はいったいなにを。バカな。男って。あれは一松の布団だ。
布団を抱き枕の要領で抱え込んだカラ松は、甘ったれた声で一松の名を呼ぶ。わざとらしい上目づかいにこれからわがままを言いますよといわんばかりの甘えた声。足は放り出しているくせに腕は長すぎる袖で手の甲まで覆い隠して、そのくせ前開きのパーカーのファスナーはみぞおちまでしか上げてない。水が溜まりそうなべコリとへこんだ鎖骨も、つるりとなめらかな胸元もさらけ出してどういうつもりだ。暑いのか寒いのかはっきりしてほしい。いやそうじゃないのはわかっているけれど。

「じゃあせめてデートしようぜ、デート! 旅行は諦めるから」

満面の笑みで誘いをかけるカラ松のことがわからない。

会えば絶対に拒まれると思っていた。嫌悪か、恐怖か、蔑みか。年端もいかない少年にひどいことをした。中学生のカラ松にとって恐ろしいだけの出来事だったろうに、どうして笑顔で話しかけられる。たとえあの頃はわかっていなかったとしても、もう理解できているはず。
松野先生、よかったら抜け出さないか。二人で飲もう。
こっそり話しかけられた時、復讐されるのだと思った。思いきり殴られるのもいいし、慰謝料を要求されたらきちんと払うつもりだった。おまえの望むとおりにする、サンドバッグとして使ってほしい。そう伝えられ受け入れてもらえたら、一松としては満足で。
気づいたら朝、自宅で横に裸のカラ松が寝ていたとかどういうことだ。
一松は本当に反省している。あの頃のカラ松に、松野少年にひどいことをしたと反省していたのに。それなのに、酔った勢いで手を出すなんて最低ではないか。死んでお詫びを、と思ってもそれくらいで許してもらえるほど軽い罪ではない。
中学生のおまえにひどいことをした、と詫びるつもりだったのに。謝っても許してもらえないのは当たり前で、だから彼の望むようになんでもするつもりで。そう伝えるつもりでついていったのに。それなのに。

起きた時には思い出せなかった最中の記憶が後日よみがえってきた時は本気で泣いた。酔っていたといえ一松は完全にヤる気だった。同じく酔っ払ったカラ松を適当に言いくるめてお持ち帰りし、せんせ俺もう大人なのにいいのかよぉと口を尖らせたのをかわいいと言いながら口づけていた。記憶の中の酔っ払いを殺したい。おまえは誰だ。俺だ。松野犯罪者一松だ。ちくしょう。なにが拗ねてんのそういうのもかわいいねだ。おまえいつそんな気障いこと覚えた。童貞だったくせに。
そうだ。童貞だったんだ。だって仕方ない。一松はあの子が、中学生の松野カラ松のことだけが好きで、好きで、どうしようもなく好きで。償いとかバカみたいだ。本当はずっと、単に彼の人生に関わっていたかっただけ。自分のことが傷になっていてくれたら、なんて最悪の希望を。
一目見たくて無理やり同窓会に参加した。
それだけのつもりで、彼が健やかに生きていてくれていたらいいなと。でも願わくば、ほんの少し。ほんの少しだけ。不幸でいろなんて思わない。そこまでじゃない、そこまでじゃなくて、少し。

――俺は本当に気にしてないから! な、だから死ぬとか言わないでくれせんせ。たいしたことじゃないって。別に初めてでもないし、彼氏もこの間別れたとこだから浮気とかにもならないし

一松がつけた傷があってほしい、人生に干渉したいだなんて願っていたから罰があたったのだ。本気でまったく欠片も気にされていないことがこんなにもつらい。
カラ松に恨まれて生きるつもりだった。彼のためになんでもするつもりだった。なんて甘ったれていたんだろう。あの子の人生に関わっているつもりだったんだ。関係者の顔をしたかったんだ。通りすがりですらないくせに。

 

◆◆◆

 

懐いてくる無邪気な笑顔が嫌いだった。
一松のことを欠片も疑わないまなざしに吐き気がした。
先生だいすき、と言いきれる子供のまっすぐさを傷つけてやりたいと思ったのはきっと、傷つき泣いていた幼い一松だ。

だって同じだったのに、一松には許されなかった。目の前の少年と同じ、幼く無邪気な子供であった一松は同じように黒い学生服で同じように笑って同じように過ごして、大人の男の人にひどいことをされた。
誰にも言えなかった。でもきっとこれはひどいことなんだとわかっていた。いい子だねと頭を撫でられて内緒だよと口止めされておこづかいだよとお年玉くらいでしか手に入らない額のお金を握らされた。別に殴られたり蹴られたりしたわけじゃなかった。だけどどうしようもなく痛かったしつらかった。何回か呼びだされて、どうしていいかわからなかったからちゃんと行った。一松の背が伸び声が低くなった頃、男の人からの呼び出しはなくなって残されたのはいくらかの紙幣と吐き癖、性的な視線を向けられることへの恐怖心。

大人の男の人は怖い。なにをしてくるのかわからない。大人の女の人も怖い。どうしてちかづいてくるのかわからない。

同じなのに、どうしてこの少年はつらい思いをしていないのか。理不尽だ。おかしい。大人の人が怖くないなんておかしい。僕を怖がらないなんておかしい。だってもう大人だ。大人の男だ。じゃあ怖がられないと。怖がってもらえない自分は子供なのか。子供のままじゃまたあの男の人が来る。呼ばれる。ひどいことをされる。おかしい。どうして自分だけ。おかしいことは正さなくてはいけない。
せんせ俺と同じ名字なんだぜ、ふわふわ笑う子供はあっさり一松の手に入った。小さい爪、まだ高い子供の声、やわい足の裏。手を伸ばせばつるりと落ちてきてなにもわからないまま好きだ好きだと雛鳥のように啼く。金色に光る産毛をぞろりと舐めてやればくすぐったいときゃあきゃあ笑った。
ひどく傷をつけてやりたい。生涯忘れられないくらいの痛みを与えたい。泣いてわめいて絶望したと嘆いて。信じていたのにどうしてって、自分だけなんでって、たった独りになって寂しくて苦しくて壊れてしまえ。
そのつもりだった。嫌いだから手を出した。一松と同じようにしてやりたかった。輝かしい未来を疑うことなく信じているまっすぐな目を曇らせてやることが使命だと思っていた。
思っていたんだ。
だってずるい。おまえだけずるい。無邪気に懐いて信じてると笑って毎日楽しいと生きていくなんて。一松は違うのに、どうしておまえはそうなの。おまえだけ皆をそんなに信じてるの、愛されてるの、笑ってるの。自分の知らないところで。

いつからだっただろう。笑いかけられても苛立たなくなったのは。そのくせ自分の知らないところで浮かべた笑顔は消えてしまえと念じて。
騙しているんだ、好きにさせて手ひどく傷つけるんだ。そう言い聞かせるようになったのは。
卒業したら恋人って堂々と言ってもいいかと問われた時、否定できなかった。遊びだよとせせら笑うつもりだったのに。
どうして愛情を受け取ってしまうのか。ひどいことをされていると思ってくれないのか。一松さえ気づかない間から、ずっと、こんな子供のことを好きなんだとばれているのか。
認めてしまえばとたんに彼にふれられなくなった。
子供だ。やっと声変わりした程度の、周囲から守られ育つべき子供。愛され学び成長し、輝かしい未来に歩んでいく可能性の塊。
その彼を傷つけひどいめにあわそうとしていた一松が、気づかれていなかったといえ彼からの好意にあぐらをかいていいものだろうか。好かれているのを疑ったことはない。だけどその好意は本来生まれなかったものだ。一松が無理やり芽生えさせなければ発生しなかった感情だ。
理不尽な悪意で愛しい子供を歪めた。

好きだ。認めよう。一松はひたすら懐いてくる無邪気な彼が愛しくてならない。だけどそれがどうしたというのだ。一松がどれほどの好意を抱いていたとしても、それはあの子供に手を出していいというわけじゃない。そんなもの一緒だ。あの男と。一松の手を引いた、気持ち悪い汗で濡れた手の平。あれと同じ。同じ。変わらない。
同じことをしようと思っていた。同じことをした。死んでしまえ。最低だ。気持ち悪い。吐く。死ね。死ね死ね死ね。

「せんせ、もう俺のこと好きじゃないの」
「俺が子供だからダメなのか。大人になったら恋人になってくれるの」
「せんせ」
「松野せんせ」
「好きです、せんせ」

ごめんも好きだよもなにも口にできなかった。ひたすらに彼の輝かしい未来を祈った。
願わくば気持ち悪い思い出にならないでほしかった。彼が苦しむのが嫌だから。でももし傷ついたら、犯罪者に性的虐待を受けたのだと自覚されてしまったら、なんでもしようどれだけでも償おう彼のために生きよう。死ねと言われたら死ぬ。
ごめんね死にたい愛してる。死んでしまっても愛してたい。

 

◆◆◆

 

確かにカラ松の願いならなんでも叶えるつもりではあるけれどこれはちょっと話が違う。

「デート嫌? せんせ」
「いや、あの、嫌っていうかそもそもデートって男ふたりでなに言ってんの」

そんなにぎゅうぎゅう布団を抱きしめないでほしい。匂いが移る。今晩誰がそこで寝ると思ってんの、俺だよ。そんなの興奮しないわけないでしょやめて。いややめないで。脳内では絶対に口にしてはいけない台詞がぐるぐる回るけれど一松の優秀な口はそれらをすべてシャットアウトした。ただし言いたいことも出てこない。極端がすぎる。

「男でも女でもデートでいいだろ。変なとここだわるんだなせんせ」

ふたりでおでかけはデート、ときゃっきゃと笑われても愛想笑いを返すこともできない。彼氏も彼女もいたことがあるというリア充の塊のようなカラ松の中ではそうなのかもしれないけれど、一松の中でデートといえば好きな人と出かけることだ。つまりカラ松と出かければデートなんだけれど、わあ正しいって話なんだけれど、でも。
こんな犯罪者と未来ある若者が一緒に過ごしていいわけないよね、と脳内の一松がわめくのだ。ものすごい正論を、それはもう大声で。

どうしてカラ松が懐いてくるのかわからない。酔いに任せてお持ち帰りしてぺろっと喰ってしまったまでは仕方ないとして、いやもちろん最低なんだけれどそこは置いておくとしても、その後遊びにきてなんだかんだと仲良くなってしまっている現在の状況がわからない。
正直に言うならうれしい。なんせ一松は、ひとめカラ松を見たいがためだけにほぼ無関係の同窓会にもぐりこんだ男だ。生涯彼のために生きたいと考えている。彼が望むならなんでもするつもりだ。だけど、なんというか、これが一松の都合のいい妄想やねつ造でないとは言い切れないしコミュ障で魔法使いにまでなってしまっていた一松とリア充大学生様とは価値観が違うと言われればそうなんだろうけど。
なんだかたまに、口説かれてるんじゃないかな、とかうぬぼれてしまいそうになる。今とか。

だってほら、するりと健やかに伸びた足が一松を誘うようにゆらゆら揺れる。これ家着、とトイレにでも行ったのだと思っていたカラ松が足丸出しで戻ってきた時の衝撃といったらない。さっきまでのジーンズは? は? なんでそんな太ももさらけ出してるの、なんなの日に焼けてない白いけれど健康的にひきしまってつるりとした、いや待って待って待っておかしいな男の足に視線が固定はどう考えてもおかしいな変質者だ耐えろ一松。必死にひきはがした視線で問いかけるようにカラ松を見れば、照れくさそうにえへへと笑った。えへへ。おいえへへってだからちょっと。照れるなじゃねーよ家着って言ったじゃんなんで楽ちんになれる服で照れるんだよそんなの勝負家着とかそういう、うん、待ってそういえばあんな足の付け根まで出てるってつまり下着はどんな。え。トランクスもボクサーも裾出るんじゃないの。え。
気づいてしまった一松はぎしりと体の動きを止めた。
え、パンツ。おまえパンツどんななの今。待って。さっきまでは足の衝撃でいっぱいいっぱいだったけれど揺れる足を堪能することでなんとかこの状況に慣れようとしていた一松は、新たなショックに息もつけない。

中学生のカラ松は白いブリーフだった。途中から黒のボクサーになった時、だってあんなの子供っぽいだろと拗ねていたのを覚えている。我ながら変態くさくて泣きそうだが一松の脳は大切な記憶として鍵をかけているようなのでちっとも忘れられない。忘れる気もない。再会した日に見たはずだけど、その記憶はない。裸で抱きしめていたところからしか覚えていないし、起きてからは償いと自分への嫌悪ばかりでろくにカラ松を見られなかった。
彼氏がいた、と言っていた。彼女も、とは聞いたけれどこの間までは彼氏。男。ゲイ受けのいい下着、とかつけてたんだろうか。人がいいし恋人が言うならなんてリクエストにひょいひょい答えてそうだし、望まれるままそういう、黒のブーメランとか? 一松は詳しくないけれど。全然まったく詳しくないけれど、カラ松を本気で好きだと自覚してからゲイなのかと確認するためにそういった雑誌とか見た程度だけど。つまり、ええと、だからこの目の前で揺れてる足の生えているこぶりできゅっとひきしまった尻を包んでいる布のことなんだけど。だけどだけどだけど、だから、つまりなんだ。

「あ、そうだせんせ。これどうだ」

どうあってもカラ松の下半身から思考が逸れないため、さほど興味はないけれど指さされた雑誌に無理やり視線をやる。力技でもなんでもとにかく脳内を落ちつけなければ、また後悔することになる。

「子供みこしがあるんだって。好きだろせんせ!」
「……いやほんとあの、子供勧めるのやめてほしいんだけど……」

一松をうぬぼれきらせてくれないのはこれだ。
なにをどう考えているのかさっぱりわからないけれど、カラ松はこまめに子供情報を寄こしてくる。子供服のパンフレットや洋裁の本、スタジオなんたら系の広告。何度訂正してもわかってると力強く肯くくせにまったく記憶が更新されてくれない。
確かに中学生のカラ松に手を出したのは事実なので、子供が好きなのではと思われていても仕方ない。おまえだから、カラ松以外に興味はないんだと、けれど最初に手を出した時は思ってもいなかったからそう告げるには罪悪感がひどい。傷つけるつもりで、どうでもいいから手を出しました。そんなこと言われて傷つかないわけがない。その後好きになった、なんて言われてもそれがなんだという話だ。そもそも好意があればいいという問題じゃない。
そんなこと一松が一番よく知っている。どれだけの好意があっても、身体に傷をつけなくても、相手にそんな気がないなら暴力と一緒だ。子供になんて、犯罪だ。

「せんせが子供好きでも俺は気にしないぜ?」

そうですね。対象外だと思ってるから、信じ込んでるからそうも無防備な格好で男の家にあがりこんで。おまえは男も恋愛対象なのにね。つまり俺のことなんてまったくもってまるっきり対象外なんですよね。わかる。わかります。

「うん、もうね……死にたい」
「な!? なんでせんせはすぐに死にたくなるんだ。ほら、子供みこしの他に子供盆踊りもあるぞ?」
「あまりの自分の浅ましさに死んで詫びたい」
「ええ? あの、ええと……手を出さなかったら大丈夫じゃないか? せんせが罪を犯さないよう俺がちゃんと見ておいてやるから!」

なにが見守るだけだ、ひとめ見るだけだ、彼のためならなんでもするだ。

「……見ててくれる?」
「まかせろ!」
「じゃあ、よろしくお願いします」

カラ松の人の良さを利用して縛りつけている。一松に関わっている間は気をとられて恋人なんてできないだろうとか、できても誤解されて別れてしまえばいいとか。耳触りのいい言葉で飾って偽って、一松の内心などこんなものだ。六年前からなにも変わらない。反省もなにもない。
それでもカラ松からのよくわからない好意を手放せなくて、今日も一松は偽る。
子供を好きだけれどそうじゃないと言っている、犯罪者として息をする。犯罪者のままで生きていく。