目を覚ますと、見知らぬ人々に囲まれてベッドに寝ていたことってある?
意味わかんなすぎてちょっと笑っちゃったね、俺。
ナースコールを押す誰か、よかったと笑う誰か、心配したと涙ぐむ誰か。めちゃくちゃ親しい雰囲気出してくるけど誰かわかんないな。というかこの人たちだけじゃない。親兄弟、友人、これまで会っただろう人物の顔が思いつかない。頭の中にない。
あなたたちの事がわからないと正直に伝えれば、動揺が走ったがすぐ落ち着く。なんだろう、修羅場慣れしてる? たぶんこれ記憶喪失とかそういうのだと思うんだけど、その状況に慣れてるって病院関係者とかなのかな。
人の顔どころか名前も関係性も覚えていないのに、ここは病室だろうとか怪我のひとつもないから頭を打ったのかなとか、そういうことは思いつく。日常生活は問題なく送れそうでよかったけど、都合いい記憶喪失だな。いや、箸の使い方さえ忘れちゃうような状態だといいってわけじゃないけど。人間関係と俺のこれまでだけ、まるで今生まれたかのように記憶がない。
口々に自己紹介され、自分が『あさぎりゲン』で世界を石化から救った一員だと教えられる頃にようやく医師が来た。今日はこの辺で、と帰る自称世界を救った仲間は皆年若い。へたしたら学生、いってても二十代とか。こんな若者ばかりで世界を? そもそも石化ってなんだそれ、ファンタジーにもほどがある。
医師は問診のみで去ったので、大したことはないんだろう。外傷もない。頭を打って記憶が混濁しているだけなのかもしれない。あーあ、明日の朝になればあっさり記憶が戻ってたらいいのに。
どうだろう。無理かな。いきなりなくなったなら、前振りなく戻ってきてもよくない? ありえないかな。でも、思い出さなかったらこれからの身の振り方を考えないと。
これまで俺は何をしていたんだろう。学生か、働いていたのか。記憶がなくても続けられる職だといいけど。家族だと誰も名乗らなかったということは、天涯孤独かただ遠方に居るのかどちらかかな。
考え込んでいたら、ノックも無しに白衣を着た青年が入ってきた。
そういえば個室ってことは入院費が高いのかもしれない。移れるなら大部屋にしてもらえないかな。そういうの、医師じゃなくて看護師さんの方が詳しいだろうか。
「ここは危険だ、逃げるぞ」
質問するつもりだった言葉がのどに引っかかったまま止まる。
大部屋に移動できますか、とか平和すぎてシーンに合ってない感じ?
「テメーはさらわれたんだ。説明は後でするから黙ってついて来い」
どうやら青年はこの病院の医師ではないらしい。
さらわれた。危険。逃げる。
病院の個室ではめったに聞かないだろうパワーワードに戸惑うも、白衣の青年は生真面目な表情を崩さない。
世界を救ったなんて眉唾の説明。さらわれたと主張する目の前の青年。
どちらを信じるべきだろうか。どちらも信じない方がいいだろうか。
選択するには俺に知識がなさすぎる。なにもかもがわからない。誰の事も、世界の事も、何ひとつ知らない。
なら、どちらを選んでもたいした問題じゃないかも。
どちらが怪しいのかわからないけど、もし目の前の青年の言う通りならこのまま病室に居るのはまずい。けれどいきなり現れた相手について行くのも、同じくらい危険だろう。
こんな時コインでもあれば投げて決めるのに。ふとよぎった考えに、キザだなと笑っちゃう。なに、もしかして前の俺、なんか決める時コイントスとかしてたの。趣味?
このままじっと待つか、動くか。
それならコインに聞かなくてもわかる。したい方を選べばいいんだ。
白衣の中で泳ぐ細身の身体には、さほど筋肉がついていないように見える。たぶん身長も俺より低い。この青年一人くらいなら、いざとなれば体当たりでもなんでもして逃げられるだろう。複数を相手に閉じ込められるより、とりあえず外に出る方がマシ。籠の鳥なんて息が詰まる。
「俺、記憶喪失らしくて名前もわかんないんだけど」
「あさぎりゲンだろ」
「らしいけど、違うかもしれないじゃん?」
何を言っているんだ、と怪訝そうに顔をしかめた青年はわかったと言い手を差し出した。たぶんこれ何もわかってないな。
「とりあえず出る。話はそれからだ」
◆◆◆
俺は病院で説明を受けた通り、『あさぎりゲン』らしい。
石化した世界をよみがえらせたメンバーの一員、初期から目覚め復興のため身を粉にして働いたメンタリスト。
連れてこられた単身用アパートの洗面所で覗き込んだ鏡には、頭の真ん中で白と黒にわかれた奇妙な髪型の男がうつっていた。目つきが悪い。思っていたより人相が悪くてがっかり。
ええと、世界を救った一員で有名人だから面倒事に巻き込まれた。あのまま病院に居れば人質として扱われただろう。なるほど。
そんな重要人物を助け出すのに、ひょろい青年を一人送り込むだけ? 俺がついて行くこと拒否したらどうするつもりだったんだろ。無理やりにでも抱えて連れていけるくらい、筋骨隆々な男の方がよかったんじゃないの。
何気なく疑問を口にすれば、自分たちは恋人だったので信じてくれると思っていた、と。へえ、この青年と俺が?
抱きしめられ名を呼ばれてもわからない。思い出せない。
ゲン。俺の名前らしいけど全然ピンとこない。キミにそう呼ばれてたっけ、俺。
というか、ねえ、恋人だから信じるとかそんなお花畑みたいなことを言う相手を俺は好きになるタイプだったんだ? 意外なんだけど。俺、恋愛感情で頭バカになっちゃう方なのかな。目が覚めて以来二度目のがっかり。あーあ。
野暮用を片付けてくると部屋を出ていく青年の、こちらを信じているのか考えが浅いのかわからない行動に少し考える。
俺を信じているふりをして、どういう行動をとるか観察している。
これなら理解できる。けれど病院から連れ出すのも行き当たりばったりな彼が、そんなこと考えつくだろうか。安普請の小さな部屋は、カメラを隠す場所さえない。
とりあえず室内を探索するも、玄関を入ってすぐ左手に狭いキッチン、右にユニットバス。前に進めば六畳程の部屋に敷きっぱなしの布団と小さな卓、押入と窓。どう考えても世界を救った重要人物とやらを保護する場所には向いていない。一応のぞきこんだ押入には服や扇風機が乱雑に押し込まれ、いかにも大学生の一人暮らしといった風情。これはもしやあの青年の住居では……自分の住んでる部屋にただ連れ込んだだけとか、大丈夫だろうか。
かろうじてあった小さな冷蔵庫の中にはアルコールと紙パックのお茶、冷凍庫に氷。ユニットバスに置かれた歯ブラシはひとつだけ、食器もおそらく一人分。ここに住んでいる誰かは一人暮らし、遊びに来る相手もめったにいない。少なくとも、誰かと同居はしていない。
ほとぼりが冷めるまでここで一緒に暮らそうと言っていたけれど、無理じゃないだろうか。そもそも覚めるほとぼりってなんだ。俺が病院から逃げたことなら、あちらが探すことを諦めるまでずっとここにってこと?
というか、青年の説明を信じるなら俺は誘拐されていたんだろう。ならまず行くべきは警察では。人質にされる、と言っていたのだから石化から世界を救った仲間とやらも探しているだろう。当たり前のように考えに含んでるけど石化ってなんだ、未だに謎。
いや、そもそも助けに来たということはあの青年も関係者なんだろうか。え~、職場恋愛みたいじゃん。あんまり身近なとこで探す気なかったんだけど、恋人。まあ全人類石化してたなら相手も限られてるから仕方ないか。
え、世界を救ったのに住んでるのこの部屋とか夢がなさすぎて嫌だな。別に贅を尽くせとか言わないけど、もうちょっといい暮らししててほしい。せめてお風呂とトイレは別がよくない?
つらつら考えながらゆっくり見て回っても、狭い部屋ではすることがなくなってしまった。
室内にはテレビも雑誌もない。窓を開けば小さなベランダと室外置き洗濯機。四階だから眺めがいいかと思ったけれどそれほどでもない。見下ろせば川と、向かいに似たようなアパート。青年はまだ戻らない。
野暮用ってどれくらいかかるだろう。戻った時に俺が居れば問題ないよね。
白黒の髪の毛さえ隠せば目立たないだろうと、帽子だけ拝借して玄関ドアを回す。開いた。ちょっと無警戒がすぎない? いや、それをいいことに勝手に出てく俺が言うのもなんだけど。
鍵もお金も見つからなかったし携帯電話のひとつもないので、本当に身ひとつ。さりげなく周囲を警戒しつつ目についたコンビニに入れば、入口にスポーツ新聞。一誌だけなんてここ田舎なのかな。店内の品数もそう多くない。ここに来るまでの道も、あんまり車走ってなかったもんね。
スポーツ新聞をさらっと立ち読めば、あさぎりゲン入院、なんて見出しが目に飛び込んでくる。車の事故、意識はまだ戻らない、命に別状はない。飲酒運転の車が突っ込んできたんだ、へえ不運だね。
病室で自己紹介してきた顔を思い出す。皆若く見えたけれど、俺の情報を伏せさせられる程度の権力はあるんだろうか。病院と新聞社、テレビ関係もかな? こうして新聞の一面を飾る程度に有名人で、目覚めるのを集団で待たれるほどに重要人物。その割に逃げ出すことを考慮されていない警備体制。なんせ白衣を羽織っただけの外部からの侵入者に連れ出されるレベルだ。
すっきりしない。上手くはまらないピースを無理やり押し込んでるような気がする。
そもそも恋人を名乗るあの青年も怪しい。
俺に敵意はないだろうけど、たった一人助けに来るほどの情熱も感じない。恋人だったかもしれないけれど、そこまで熱烈じゃなかったんじゃ。恋人に記憶がないと言われて動揺のひとつも見せない人間が、単身危険を顧みず? 変だよ。
いざという時逃げ出しやすい方、と彼について出ては来たけれど、このままじゃ情報を得るにも一苦労だ。なんせ時間が足りない。今のところはあの部屋に居座るつもりだから、青年に怪しまれない程度の時間に戻らないといけないの、結構な足かせだな。徒歩だと行ける場所も限られるし。
散歩のような顔をしてあちこちふらふら歩きまわる。車が少ない。店も。人も。全世界が石化して復活、と教えられたのは本当なんだろうか。嘘にしては突拍子がなさすぎるから、逆に真実味がある。いや、でも、石化って。どんなファンタジー。
記憶がないことを差し引いても、どこに行けば現状が明らかになるのか見当がつかない。
でもまあ基本は抑えるべきかな。こういう時はやっぱり警察。
なんせ俺は誘拐されていたらしいし、話に聞くに世界を救った一員らしいし? 免許の更新です、みたいな顔で警察署に入り帽子をとれば、本当に誘拐されていたならあちらから接触があるだろう。どうしてすぐ来なかったと怒られても、記憶喪失なのでと言えるのは強い。
道行く人に尋ねながら警察署にたどり着けば、見覚えのある顔が署から出ていくのが見えた。彼は病室にいた、確か『うえいよう』だ。制服を着ている。本物の警察官だったんだ。
あれ、じゃあ誘拐は? 病室で俺が目覚めたのを待っていたのが誘拐犯でないとするなら、恋人を名乗る青年がいきなり怪しくなってしまう。でも『うえいよう』が悪徳警官という可能性もあるのか。ああ、だから圧倒的に情報が足りないんだって!
顔を合わせるのはまずいかと、警察署に背を向け歩き出す。
あの時名乗られた名前。うえいよう、さいおんじうきょう、おがわゆずりは、おおきたいじゅ、こはく。後から他の皆も来るよ、と言っていた。入れ替わり立ち替わり、誰かが帰ってはまた違う誰かが来て。ガッチリ捕まえてやんぜ、という叫びを聞いた気がする。あれはうえいようだろうか。かせきも心配していた、明日には顔を出すだろうと言っていたのはこはくと名乗った少女。
親兄弟でもない、一見共通点のない同世代の若者ばかりが怪しく思えた。説明だって飲み込めない。だって全世界石化とか、しかもツバメと人類のみって基準どこだよ。で、そこから全世界目覚めさせたメンバーとか。俺が。俺が!?
何もわからないのに。覚えていないのに。
わからないけどわかるよ、自分がそんな大それたことするような人間じゃないって。ありえないって。
だから白衣の青年について行った、というのもある。あとはほら、重要人物だから人質がどうこうはおいておいても、新興宗教関係かな、とか。あなたは神の子です、みたいな。ヤバいじゃん、なんで勝手に俺のこと救世主メンバーに入れてんの。こわ。
どうしようかな。金も行くあてもない。さっきまでは恋人らしい青年のとこに行くつもりだったけど、警察関係者が居るならあちらの方がマシかもしれない。一日に何回も同じことで悩みたくないんだけど。やっぱり情報をろくに仕入れないまま判断するのはクソ。下の下の下。
考えをまとめるためにも歩き出せば、背後から名を呼ばれた。顔バレしすぎじゃない? こっちは誰の事もさっぱりだってのに。
驚きと戸惑い、混乱、そして圧倒的な喜びの混ざった声音。振り返った先に居たのは逆立った白髪に毛先だけ緑の、まるで白菜のような髪型の青年だった。
「ゲン! テメー病院抜け出してどこ行ってやがった!!」
呼びかけから病院側の人間なのかと推察する。
見覚えはない。後から来ると言われていた『かせき』だろうか。駆け寄る青年に害意はなさそうだけど、人を呼ばれたら困るな。事を荒立てないように話だけでも聞いて、判断材料を増やそうか。
白菜くんによると、俺は世界復興仲間の彼をかばい事故にあったらしい。神妙な顔で謝られるけれど、自分のしたことだと思えず表情に困る。俺がかばったんだ? この子を? へー、すごいね。
俺が病室に居た時は、白菜くんも別室で検査を受けていて会えなかったらしい。礼を言うのが遅くなったと言われても、そこは仕方ないから気にしなくていいよ。というか、記憶がないからわからないけれど、俺は誰かをかばって身代わりに怪我するような人間だったんだろうか。しないな、という自信だけあるんだけど。
記憶のない俺のために白菜くんが語ってくれる人物は、まるで別人すぎて実感がわかない。お人好しで子ども好きで周りの事ばかり見て? 誰だそれ。少なくとも俺じゃないでしょ。
もしくはそういう『あさぎりゲン』を作り上げたのか。
そう、じゃないと存在できなかったのか。
病院に戻ろうと言う白菜くんに素直にうなずき、隙を見て逃げ出した。
だって白菜くんの語る『あさぎりゲン』は俺じゃない。俺かもしれないけど無理だよ、どう考えても。そういう人間を求める場所なんて息が詰まって生きていけない。
消去法でルートが決まってしまった。
まあどちらにするか迷っていたからいいや。
◆◆◆
記憶が戻らないまま恋人を名乗る青年と本当に恋人になり、半年が過ぎた。
怪しいとは思ってたけど、まさか恋人どころか病院が初対面とは予想しなかったよね。俺の記憶がない、と聞いたからって無謀すぎる。勇気じゃなくて無茶っていうんだよ、そういうの。そりゃ記憶がないって聞いても平気な顔してるよ。なんなら記憶、戻らない方がいいもんね。
俺が恋人という存在の言う事なら何でも信じる、と思われてたのは正直遺憾。そこまで恋愛脳のつもりないんだけど。
強気でぐいぐい押したのは、その方が恋人らしいと思ったからだそう。ますます納得いかない。恋人に夢は見ていないけど、一般的にあんまり俺様じゃない方がよくない? ついて行った俺が言うのもなんだけど、あんなえらそうに言われて一緒に行く人なかなかいないよ。
嘘を白状した恋人くんは、素直で大人しく気弱だ。
ますます、なんであんな強気俺様恋人ロールしちゃったの。テメーとか黙ってついて来いとか、まるで石神千空みたい。髪もちょっと立ててみたりしてるから、ひそかに憧れているのかも。好みじゃないのでこれ以上寄せないでほしいな、と思ってる。
恋人くんは、白菜みたいな青年から逃げて狭い部屋に戻ったあの日、大泣きしながら謝ってきた。曰く、ずっと憧れてたとかチャンスとか捨てないでほしいとか。捨てるもなにも勝手に連れ出しておいてよく言う。
ここに居てくれ逃げないで動かないで傍に、としがみつかれて絆されたわけじゃない。
でもまあ、記憶が戻らないなら行くあてもないしいいかな、と思ったのだ。謝られるほどひどいことをされたわけでもないし。成人男性が自分の意志で歩いて行ったわけだから、彼一人の責任にするのもちょっと。『あさぎりゲン』をするつもりはなかったから、そこは求められても困るよって一応断って。
部屋に閉じ込め誰にも会わせず何もさせず、を求めていた彼に、金銭と外出の自由プラス広い部屋への引っ越しまで決意させたのはなかなかよくやったと思う。身ひとつでがんばったよ、俺。その代わりに恋人という立ち位置になったわけだけど、正直そこまで頻繁に肉体関係を求められるわけでもないしいいかなって。恋人、ならそのうち別れる可能性もあるしね。
俺の尻に突っ込みたいと言われたら悩んだけど、あちらが入れてほしい方だったからどうにかこうにか。一緒に暮らして情もある、かつ恋人くんがそこまで嫌な人間ではない、からなんとかなったわけだけど。
この世界が一度石化し再構築の真っ最中だということも、病院で見た顔ぶれが石化復活初期メンバーだということも、白菜くんがかの有名な石神千空だということも知識としては得た。そりゃ石神千空なら庇う。人類の叡智だ。俺がいい人じゃなくても庇うよ。
未だに信じられないけれど、俺があさぎりゲンだってことも納得した。特徴的な髪型だけなら似せられるけど、そっくりなんだもん。さすがにまだ美容整形は石化前ほどじゃない。動画加工くらいならできるかもしれないけど、俺の顔と『あさぎりゲン』を似せていいことある? なんの得もないよ。
今くらい復興してたらともかくたき火で肉焼いてた時点で復活させられたら、そりゃ動く。死にたくないもん。誰から見てもいい人ロールするよ、恨みかわないように。だから病院での反応も、白菜くんが語る『あさぎりゲン』も本物なんだろう。
ただ現在の俺は『あさぎりゲン』をする気がないだけだ。
知らない人たちのために彼らの求める存在を演じるの、不毛でしょ。俺がそうしたいならともかく。石化の謎を解いていた頃は『あさぎりゲン』が必要だったかもしれないけど、今はもうなんの問題もない。メンタリストだっけ? おもしろそうだけど、これからの人生を捧げるほどじゃないんだよね。
だから恋人くんに、俺の過去を知る人間と関わらないでほしいと求められ了承した。
元からいないのか石化したままなのか知らないけれど、家族も恋人も現れない。世界は新しく生まれ直したばかりで、過去のしがらみもなにもない。だから俺の記憶もないまま、それなりに平和につつましく穏やかに暮らしていたのだ。俺たちは。
その平和な暮らしが今、脅かされている。
「働きたいって言ってるだけだ。なんの問題もねえよな?」
拝啓、記憶のある俺。キミの知り合いらしい人物が過去の関係をたてに無理やりこちらに関わろうとしてくるんですが、対処法を教えてください。記憶のない俺ができることだと助かります。
「いや~、残念だけど今とくに社員募集してないんだよね」
「未経験だからバイトからでかまわねえよ」
「バイトも募集してないんだ~」
白菜くんこと石神千空が、悠々とソファに座り目の前で履歴書をひらめかせている。
隣で恋人くんはガタガタ震えているし、追い返そうにものらりくらり。これくらい図太いなら確かに社員としてほしいな、とちらりと考えるけどさすがにそれは恋人くんが哀れだ。仕事中ずっと震えてそうだもん。
俺たちは、諍いを仲裁したりあれこれ仲介するふわっとした何でも屋を細々と営んでいる。ごまかしたりなだめたりは得意だし、復興途中の世界ではそれなりに重宝される、のんびり暮らすにはいい仕事だ。まだ規制がおいつかない現在、仕事は二人じゃ手に余るくらいにある。あるが、だからといって社員の募集はしていない。バイトも。そのうちもう少し規模を拡大して、と考えてはいたけれど、復興の立役者ヘッドハンティングする予定は未来永劫ない。
雇うならテメーのこれまでの罪状チャラにしてやる、と恋人くんに凄む顔は人類を救った救世主に全く見えない。ねえ、もし雇われたら同僚だから仲良くしてほしいんだけど。ギスギスした職場とかやだなぁ。
石神千空ってこんな人なの? 暇? なんか人類の役に立つ研究とかしてるんじゃないの。
少なくともニュースやなんかで知る顔とはまるで違う。記憶がないからどう対処するのが正解かさっぱりわからない。なんで雇われる方がこんな偉そうなのさ。というか、これは俺が原因なんだろうか。震えてばかりの恋人くんは、お断りどころか声も出せないくらい緊張しきっている。関わり合い、なかったよねえ。じゃあ俺か。やっぱり。
ただこれ、事故でかばった、を理由にするには執着されすぎでは? だって半年も経つのに。
「そんなに俺たちに関わりたがるの、もしかして俺のこと好きなの?」
冗談めかして口にすれば、真顔で肯定が返ってきた。マジか。違うわ、ってツッコミ求めてたんだけど。
好かれるようなことなにかあったっけ。関わってくれるなと恋人に求められたのもあるけれど、俺自身あんまり興味なかったから白菜くんたちに近寄らなかった。顔あわせたの、警察署の前以来だよね。
ああ、記憶を失う前の俺を、ってことか。
お人好しとかなんとか、俺に向けたと思えない評価を思い出す。記憶喪失前の俺、本当にがんばっていい人ムーブしてたんだな……えらい。一生懸命生きたね。ただまあ、もうそこそこ文明も復興して『石神千空』に頼らなくてもいいわけだから。『あさぎりゲン』に惚れていた白菜くんには悪いけど、諦めてもらわないと。
記憶も戻らないし過去の俺みたいな善人ムーブもできないから、と誠意をもって断ればとんでもなく柄悪く凄まれた。やぁ、こわ。なんで「あ゛ぁ゛!?」の一言ここまで地を這わせられるわけ。恋人くん、もう震えすぎてそういうおもちゃみたくなっちゃってんじゃん。かわいそ。
「この半年、表ヅラだけ取り繕って悪どくたんまり稼ぎやがったテメーのどこが善人だ? どうせ裏
かいくぐってあちこち弱み握って、うまいことやってんだろ」
人聞きの悪いこと言わないでほしい。取引先の事調べるのは普通でしょ。
親しみを持ってもらってまたお仕事頼んでくれたらいいな、の気持ちでお話してたらなぜか皆当初の予定より多めのお金を払ってくれるだけだ。けしてうまいこと、とかじゃない。まあ、俺の営業トークもなかなかいけてるよね。
「そういうツラ、ずっとしてろ。俺の前でな」
「どんな顔かわっかんないな~」
「人の裏読んで隠してること暴いてあれこれ企む、心底楽しそうな唆るツラ。テメーのそれが見たくてここにいんだよ」
人類の救世主の好み、ちょっとおかしいな。あと口説き文句も独特。
「熱烈な告白ありがと♡ でも残念ながら恋人がいるので」
にっこり笑顔で隣を指せば、震えながらも必死で頷く恋人の姿。白々しい、と呟かれても事実なもので。あれやこれや俺の自由に好き勝手する代わり、恋人になるって約束したんだからそうなんです。
記憶のある俺のこと好きだった白菜くんには申し訳ないけど、何もかも忘れちゃった俺に同じこと求められても無理ってもんだし。お互い不幸にしかならないからきっぱりすっぱり諦めてほしい。別にかばったからってお礼請求したわけでもないし、まず関わってないんだから。俺は新しくできた恋人と、白菜くんも誰か別の人と幸せな道を探そ!
というか、前の俺が好きだったと思ったんだけど違うのかな。いい人がんばってたならさっきの白菜くんの好みとはずれるよね。なら、庇われた恩にプラスされちゃったんだろうか。本格的に趣味が悪いな。
「まず俺を恋人にするメリットだが」
「お断りされてんのに強気に押してくるね」
「テメー好みに合わせた大人のオモチャをクラフトできる!」
堂々と胸張って昼間から言う事じゃないんだよね。まあメリットかもしれないけど。ありとあらゆることが足りない世界だから、以前ほどそういうオモチャ系の種類が豊富ではないし。
「自分一人でも十分満足できるように、テメーの好みに合わせてやれるぞ」
「わ~オーダーメイドとか贅沢~、いらな~い」
「んだよ、そいついなくても問題ねえぞ」
恋人くんのことオナホ呼ばわりしないでください。別にセックスしたいからつきあってるわけじゃないんで。
まあ、純粋に恋かな? って言われると困っちゃうけど。
「俺のだけで間に合ってます」
本当のところは知らないけど、一応お断りしておく。いや恋人くんは欲しいかもしれないけど、人類の救世主手ずから作ったバイブとか使いにくくない? プレミアはつきそうだけど。
「あ゛!? ……あ~、テメーがタチか」
「そうだけど、昼日中からそういうお話する人は好みじゃないかな~」
「そうか、これから好きになってくれ。あと俺もタチ希望だからポジション空いてるな」
「空いてないよ!?」
「テメーがちんこ突っ込んでる時空いてんだろ、尻」
「なんで三人でするつもりなの……あと勝手に俺のお尻に入れるつもりでいないでほしい」
「俺は気にしねえ」
「こっちは気にするの!」
「正直言うならテメーを独り占めしてえが、後から来た身として一応遠慮してんだわ」
「してないよね」
押しが強いとかそういう問題じゃない。
結局、つきあう代わりにバイトとして白菜くんを雇うことになってしまった。
恋人くんともだけど、俺、交換条件であれこれするの多すぎるな。別に嫌なこと無理強いされてるわけじゃないからいいんだけど。
◆◆◆
その恋人くんは、白菜くんが頭角を現し荒稼ぎしだした頃、自信がなくなったと去ってしまった。まあ白菜くんの仕事っぷり、バイトレベルじゃなかったもんね。あの子と比べちゃうと仕事できないのかなって不安になっちゃうのもわかる。
……俺の恋人として、自信をなくしたのはよくわからないけど。
あなたと石神さんのような関係になりたかった、と泣かれたけれど赤の他人だよ。何も知らない。関係があったのは記憶のある過去の俺で、『あさぎりゲン』で、俺じゃない。今は雇用主とバイト。
『あさぎりゲン』と『石神千空』の関係は知らない。世界復興のリーダーと参謀、それだけ。二人になにがあったのか、なにもなかったのか、白菜くんは俺に言わないし俺も聞かない。メンタリスト、って呼んでたんだって。マジックが得意で。コーラが好きで。知ってるよ、知識として。知らないよ、今更。
俺は知らないけど、恋人くんは知ってた。『あさぎりゲン』に憧れてた、って。
白衣を羽織って、髪を立てて、ぶっきらぼうにも聞こえる端的な言葉で。最初に俺の前に現れた恋人くんは、今思えば石神千空の真似をしていた。フリ、じゃない。周囲を騙すつもりなら髪の色くらい変えるだろう。そうではなく、ただ。
俺に憧れていたと言っていた彼は、傍に居てと泣いた彼は、俺の恋人になりたがった彼は。
『石神千空』になりたかったんだろうか。
記憶をなくした俺に近づいて、恋人になって、それは。彼は、俺ではなく石神千空を必要としていたんじゃないだろうか。『石神千空』になるために、傍らで参謀役をしていた『あさぎりゲン』を置いて。
別に記憶を失った時点であのまま病院に居てもどうしようもなかったし、今楽しいので俺としては気にしなくて構わないんだけど。
「白菜くんはさ、今の俺が好きなんだよね?」
悪い顔してるのがいいって言ってたものね。
質問してみたら当然の顔で頷かれる。俺が言うのもなんだけど、もう少し照れるとかした方がときめいたりするかもよ。しないけど。
「おう」
「じゃあもし俺の記憶が戻ったら、好きじゃなくなる?」
「なんでだ」
「だって性格とか全然違うでしょ」
白菜くんまで辞めてしまったらさすがに戦力不足になるから困るな。新しく業務パートナー探さないと、と考えていれば困惑した声。
「テメーよくそれ言うが、記憶のあるなしで大した違いねえぞ。せいぜい思い出話ができるかできないかくらいだ」
「え、でも記憶ある俺じゃなくて記憶ない俺がいいんでしょ」
「どっちもいいが」
「えっ」
「復興前からずっと惚れてて現在進行形で口説いてんだろ」
「えぇ……」
「他の奴らに構わない分、今のがラッキー、てくらいだな」
あっさり言い切られてつい口ごもってしまう。
いや、だって。
全然違うでしょ。別人だよ。ねえよく見な? 俺だよ。
世界救っちゃうレベルの善人ムーブしてたんでしょ、知らない俺は。復興のためといえろくに楽しみもないまま働きまくって。理解できない。
「コーラ、そんな飲まないし」
「年くったら好きな食いもん変わることもあるだろ」
「メンタリズムとか、できないし」
「仲裁だの仲介だのあれだけ手玉にとっといて言うじゃねぇか。人間相手ならテメーが最強だわ」
「別にマジック、しない」
「したくなったらすりゃいいだろ。しなくても死なねえよ」
俺の、世間の知る『あさぎりゲン』じゃないよ。どう見ても。
なのに白菜くんはどちらも変わらず惚れてるなんて。俺のことちゃんと見てない、と言えないくらいには現状口説かれまくっているのでヒロインぶって逃げることもできない。
「……キミたちが言うほど、いい人じゃないんだけど」
なれないんだけど。望まれる存在に。
それが苦しくて離れたんだ。認めたくなかったな。俺は自分のこと嫌いじゃないから、別人みたいな形を求められるのが悲しかったなんて。
キミたちのことたぶん好きになるから、好かれたかったなんて。
「どんだけ記憶のある自分に夢見てるのか知らねえが、別にそこまでいいヤツじゃないぞテメー」
わりと悪人ぶってたと言われ混乱する。
え、善人ムーブしてたでしょ。周りの反応的にそのはず。
「つーか良くても悪くてもどうでもいい。俺にとっちゃテメーが最高に唆るっつーことに変わりねえ」
「いやそこはこだわりなよ。大事なとこ」
記憶はどっちでもよかった。
あってもなくてもそれなりにやれる。記憶のある俺が築いた人間関係を引き継げないのは当然で、好きな自分を否定されるのが少し寂しかっただけ。
新しい関係を作るのは得意だし、仕事もあるし、恋人は去ったけど作ろうと思えばすぐ。
「白菜くんさぁ、出世する? 正社員に」
「なる!」
食い気味に勢いよく返事され、つい口元がゆるむ。
なんだか。なんだろう。たぶん、ラッキーと笑った白菜くんが妙にかわいくて。
「しばらく二人だから忙しくなるけど」
「任せろ! がっつり稼いで左団扇させてやるよ」
「頼りになる~」
勢い込んだせいか口調が常より幼い。興奮を隠さないキラキラした赤い目が俺を射るように見る。
変わんないんだって。
どっちもいいんだって。
「千空ちゃん」
「っ、名前」
「これからもよろしくね」
いつまでもバイトの白菜くんじゃしまらないでしょ。
「ゲン」
「うん」
出会ってから初めて口にした名前は、ひどく舌に馴染んだ。まるで何度も繰り返し呼んだみたいに。
全部忘れたけど。どこかに置いてきたけれど。でも、箸が使えるように自転車に乗れるように、肉体が記憶していることは今の俺にもあるんだろう。
別に何を選んでもかまわない。
コインに訊かなくても、俺がしたい方を選べばいいんだ。
「千空ちゃん、俺さぁ」
たぶんキミの作ったコーラは好きだよ。