趣味の悪い男 - 2/2

 これは恋の話ではない

 

 

 気がつけば江戸と呼びかけられていた。いつ誰にどこで、なんてわからない。いつからかで誰でもがでここ、そんなあいまいな存在が自分だった。周囲の誰をも信じてはならぬ、弱みを見せてはいけない、武士の都として誇り高く生きよ。生まれたばかりの存在さえあやふやな子に求めるには酷なことばかりの世界。
 だからだ。
 だから、ただひとつだけの例外がおかしいくらいに。

――江戸は京都と仲良くなりなさい

 山を削り川を埋め立て、ひたすら人工的に作り上げられる首都。幼い心に刻み込まれるただひとつの存在。特別な。

――江戸のみが京都と仲良くなりなさい

 やわらかな笑みと穏やかな言葉を操って、いつもにこやかに江戸を拒絶する特別な人。仲良くなりなさい、と選ばれたたった一人。信じるな、弱みを見せるな、この国をまとめるただ一人となれと育てられた江戸に許された、同等の存在。同じ位置にいてくれるのはあの人だけ。
 たった一人の、仲良くしなければいけない人。
 武士の都である江戸とは違う、自身すら守れないか弱い地。歴史と伝統と格式に縛られ身動きのひとつも取れない彼女は、江戸がつながりを求めるたび少し嫌みを言ってはそれでも結局受け入れる。勅命も、身分も、貴きかの血筋さえも。江戸が成長すればするほど、近しくなる彼女。時を重ねれば重ねるほど、仲良くなっていく自分たち。

 江戸のみと仲が良い京都。
 そんなことがあるはずもないのに。

 

◆◆◆

 

 むくりと身を起こせば身体にかけていたのであろう上着が滑り落ちた。

「起きたのか。コーヒー飲む?」
「東京さんは根詰めすぎなんですよ。仮眠っていうよりぶっ倒れてましたからね、さっきまで」
「しゃーねぇ。東京は仕事中毒だし」

 明るい声。差し出されたカップを受け取れば、寝ぼけていると笑い声。

「……ああ、平成でしたっけ」

 翻る錦旗。
 あんなものはもうない。

「東京……おまえもう今日帰れよ、な?」
「僕たち後はちゃんとやっときますから寝てください、マジで」
「え、いや元気ですよ。仮眠とったばっかじゃないですか、今」

 仲良く、なったと思っていた。
 いつだってのらりくらりと本音を話さない彼女だったけれど、たまにひどく無邪気に笑って。そうだ、あれはイギリスだったかフランスだったかと貿易することが決まった時。ちょっとした土産に外国の壺を持っていったあの時だって、目を丸くして江戸の話を聞いていたじゃないか。まるで童女のようにたわいない質問をして、また外国の話を聞かせてほしいとせがんで。
 江戸の名を呼んで。訪れてほしいと、彼女だけが。

「馬鹿だなぁ」
「ん? なんかミスってたか」
「いえ大丈夫です。ひとりごとで」

 懐かしい夢のせいだろう。ふわふわと浮かんでは消える江戸の記憶は、今となっては自分のことではないように感じる。映画かなにかを見たような、そんな。
 京都と江戸が仲良かった、なんてありえない記憶。
 江戸だけが信じていた、思いこんでいた、馬鹿馬鹿しい関係。
 少し考えればわかるはずだ。権力を取り上げ、力で脅しつけ、腹の足しにもならない権威なんてものだけ与えて飼い殺し。そんな相手と仲良くするわけがないのに。あの京都が簡単に屈辱を忘れるはずないのに。
 それでも。

――江戸のみが
――江戸のみが、京都と

 たった独り同士だからわかりあえると思っていた。
 彼女だけが自分の気持ちを理解してくれて、手を取り合っても怒られない位置にいる。

「大丈夫か? 仕方ねぇからもう少し寝てきてもいいぞ」

 書類に視線を落としたまま神奈川が口を開く。
 ほら、こんなにも違う。江戸ではありえなかった関係性を東京は築いているし、現状に不満だってない。

「どうしたんだよ。なんかぼんやりしてねぇ?」
「あー、ちょっと夢見が」
「女の子の夢でも見たんだろ! えっろ。東京エロいなー」
「確かに女性の夢でしたけど欠片もエロくないです」
「えー、おもしろくねぇ」

 肩を落とす千葉を神奈川が笑い、埼玉が心配そうに東京を窺って。

「大丈夫ですって。ちょっと黒歴史を思い出しちゃっただけで」

 本当は歴史ですらない。確かに東京は江戸であったけれど、自覚しているけれど、あまりに違う彼のことを己の過去であると認識することが東京には難しい。記憶も感情も、映画のように流し見ていくのみの。

 錦旗を見るまで信じていた。彼女の敵になることなんて想定もしていなかった。
 江戸を通さず他藩と馴れあう京都など、いるわけがない。江戸のみが京都と仲良くするのだ。そう、命じられたのだから。
 だってこの戦は彼女のためでもあったのに。

 溜め息をつきたかったけれど、らしくない東京を窺いながら仕事をしている彼らに気づかれてはいけないからコーヒーと共に飲みこむ。すでに冷めたコーヒーはのどを焼くこともなく、するすると全てを東京の中に連れて行った。ほんのわずかな苦みだけを口内に残して。
――京都
 今ではけして呼ばない名前。呼び捨てなんて自分たちの関係ではありえない。けれどいつから。江戸は、いつから彼女を呼び捨てていたんだろう。幼い頃は確かに京都さんと呼んでいたのに。
――京都

 命じられたから。
 仲良くするように。彼女が自分以外と関わりを持たないように。江戸だけを頼って、彼がいなければ立ち行かなくなるほどに。
 江戸自身が望んだわけではけしてなく。

 過去を思い返せばいつだって彼女がいる。命じられたから、同じ立ち位置でいられるから。かしましいほどに並べたてられる江戸の言い訳。自分は望んでいなかった、仲良くするように言われたから努力しただけ、そう信じ込んでいた馬鹿な彼。
 焼け野原となってもなお白い指先。頑是ない子供をたしなめるように響く声。江戸の名を呼ぶたび動く、桜の花びらのような口唇。東京の知らない、見たことなんてない、江戸の知る京都。
 江戸の。
 江戸だけの、記憶。
 こんな思いを抱えたままで消えてしまった。