ああまただ、と東京は溜め息をつこうとして、そんなことさえできない自分に気づく。いつもそうだ。肩をすくめたり、足を組みかえたり、気を紛らわせるための動作ひとつできないことに動こうとしてから気づく。この身体が自分のモノではない、と理解させるようだ。東京に。
目の前には御簾。ただよう香りは高価なものなんだろう、良さなんて少しもわからないけれど。
常より早く打つ心臓。乾く口内。かすれた声なんて聞かせるわけにいかないから、必死に唾を飲み込んで。
全て知らない。東京の経験したことがない行動。東京の視界に広がる景色、耳に入るささやかな音、汗ばむ手の平。この記憶は彼の。
名前を呼ばれて、びくりと震える膝を必死に押し隠す。お約束してましたっけ、と小首を傾げられれば嫌がられているのではないかと怯え、遠いところをおおきにと微笑まれれば疲れも何もかも飛んでいき。
馬鹿だな、と東京はぼんやりと考える。もう幾度となく繰り返された記憶の再生は、終わるまでどうすることもできないと東京に学習させていた。見だした当初こそ動こうとしたり目の前の人物に話しかけてみたりしたが、わかったことは自分に動かせるものなどないということ。これは全て江戸の記憶で、過去だ。彼の目を通してつづられる、これはそう、映画のようで。東京にできることは、考えることだけ。江戸の身体に間借りしているようなものなのだから、東京が身体を動かせるはずもないのだ。
それにしても馬鹿馬鹿しい。仕事に追われながらのつかの間の仮眠のはずが、これでは少しも気が休まらない。
――江戸は京都と仲良くなりなさい
手に取るようにわかる、けれど自分のものではない感情。江戸の。
幼い心に刻みつけられた命令を、愚直なまでに守るのはなぜだろう。そう命じた人間はもういないのに。すでに京都は、彼がいなければ存在すら危うい。それだけの力を、江戸はつけた。この国の全てを掌握するためのやり方も作り上げた。もう数十年すれば、京都の持つ力さえも手に入れられる。
それなのに手をこまねく。仲良くなりなさいと言われたから、と理由をつけて顔を出す。江戸本人はわかっていない――いや、見ないふりをしているだけのそれ。京都を京都として留めておく理由。
きっと京都は理解していると東京は思う。悟っていないわけがない。彼女は江戸の隠しているつもりの気持ちさえ操って、自らを守っているのだろうから。
「また、うちで戦になるんやろか」
押し隠した震えがほんの少しだけ残る声。意識的にやってのけるなんて本当に京都は恐ろしい。ころりと騙される江戸が我がことながら哀れでならない。
ああ、こんなに声を張って必死に鼓舞して、怯えているであろうか弱い京都を力づけるために。戦火にさらされ続けた彼女を守るために。
――江戸のみが京都と仲良くなりなさい
京都には江戸しかいない。頼れる相手は江戸しかいないのだから、助けてやらなければ。守ってやらなければ。幾度となく焼かれずくずくと痛む傷がようやっと癒えてきたのだ。これ以上彼女を怯えさせてはならない。諸藩からも、もちろん黒船からも。
胸で弾けては消えていく高揚感。花火のように美しくて華やかなそれは、ひたすらに東京の気を重くさせる。それはこの青い感情がたどり着く先を知っているからこそで。
ハッピーエンドの映画なら何度見ても構わない。けれどこれは。
翻る錦旗。
江戸と京都の歩む道が、けして一緒ではないとつきつけられたその刻。
◆◆◆
「えらいよぉ寝てはりましたえ」
身を起こすとかけられるやわらかな声。ぐるりと頭を回せばあでやかな着物が目の端にひっかかる。
「……お待たせしちゃいましたか」
「いいえ、さっき寄せてもうたとこやさかい」
こないなとこで寝るなんてお忙しおすな、なんて嫌みか労りかわからないことを口にする京都は夢の中とまるで変わらない。か弱くて守ってやらないといけないような、そんな存在ではない。ありえない。江戸だってわかっていたはずなのに。
「東京はん? なんやほんまに疲れたはりますのん?」
「いえ、ちょっと」
目覚める直前に生まれた江戸の感情が、関係のない東京の胸までひっかきまわす。あの夢を見た後はいつだってそうだ。
「疲れてるってわけじゃないんですよ」
いや、生まれたわけじゃない。気づいたんだ。
ずっと見ないふりをしてきた感情。仲良くするように命じられたから、と言い訳してきた想い。それに名前をつけてしまった。
翻る旗。
京都からの明確な拒絶。
いつだってやわらかな口調で穏やかに江戸に向かって微笑んでいた彼女の、敵意。
胸の奥からこんこんと湧き出る彼女への恋情。
京都が彼を憎んでいたのだと悟った瞬間に溢れ出た、この想い。関係のない東京の感情さえ揺さぶる、強い強い江戸の。
「夢で江戸さんを見てたんですけどね」
裏切られたと知って恋に気づくなんて特殊な性癖すぎる。そういった方向には理解がある東京だって正直どん引きだ。それが過去の己だなんて救われない。
「いやぁ、懐かしい名前やわぁ。どんな夢?」
「どんなって言うか……江戸さんは趣味が悪いなぁって」
「趣味が」
「ええ、とても悪いなって」
言い切る東京を面白そうに見る目の前の人。こんなに難しくて手がかかって大変で、そのくせ報われない相手を好きになるなんて。東京には真似できない。欠片も。
「確かに江戸はんは……ええ趣味しとるとは言えませんでしたけど」
ひらりと白いものが目の端を横切り、東京はびくりと震える。あたりまえのようにそれは指先ではなく、京都がこちらに来た用件の書類だ。驚いた東京の顔がよほどおもしろかったのか、くつくつと笑いながら京都はもう一度口を開いた。
「東京はんも、趣味、あんまりええ方ちゃいますやろ」
自分を見ない相手がいいなんて、あんまりだ。