「運命じゃなかったんだ」
鼻をすすりながらの小声は聞き取りづらい。
だろうね、とも言えず、シャッターを下ろした薄暗い店内で一松はそっとため息をこぼした。今日は早帰りの日だからそろそろ出なくちゃいけない。でないと迎えに来た母親とカラ松が顔をあわせてしまうだろう。これまでならなんだかんだと一松を引きとめ母親に引き渡していたが、今日ばかりは気まずいに違いない。
「そうだよな、一目見て電流が流れたり天使が舞ったり花が咲き乱れたりなんてしなかった。だから俺達は運命じゃないってわかってたのに」
「花はまだしも電流とか正直やばくない? 天使とかいきなり登場人物増やされても困るし」
「運命はそういうものだからな」
勢いよく鼻をかむカラ松は大まじめだが、いきなり羽根の生えた赤ん坊みたいな生き物がわらわら踊りだすのはどう考えてもギャグじゃないだろうか。運命だ宿命だと日ごろにぎやかなカラ松は、ギャグの世界の住人なんだろうか。一松と同じ世界の住人でいてくれないと困るんだけれど。
図書の時間に読んだ本を思い出す。主人公が少し違う世界に迷い込んで冒険し帰ってくる話はおもしろかったけれど、好きになった相手と別れなければいけなかったことが納得いかなかったのだ。一松ならきっと、一緒にいたい。好きな相手ともう会えないなんてそんなの。
「あ~、これからはただの店員と客になってしまうんだな……」
「これまでもそうだったじゃん」
「ぐっ……いや、息子がよく遊んでもらうクールでステキな花屋さん、の可能性が!」
そうだ。別に最初はただの店員と客で。
母の日にカーネーションを、とおずおずのぞきこんだ花屋の人の良さそうな店員。いかすアレンジをしてやるぜ、なんて頼んでもいないのに色とりどりのリボンを巻かれた花束はひどく気恥ずかしかったけれど、ウケは悪くなかった。だから一松はつい、翌日また店をのぞいてしまったのだ。顔なんてろくに覚えていなかったけどサングラスの、声が大きくていちいちポーズをきめるよくわからない大人の人。一松の顔を見たとたん顔を輝かせて、どうだったボーイなんて言うから。バカみたいに明るくてでかい、まっすぐな声。そんなに声はらなくてもだから聞こえるし、見えてるし、店の中でサングラスはちょっとどうかなとおもうけど。うん。だから、まあ、よろこんでくれたって言ってしまって。
顔を覚えられてしまったから、一松が店の前を通る度に店員は元気に挨拶をした。お店の人には積極的に挨拶するようにと学校で習ったから、返さないわけにいかない。あまりに店員の声が大きいから、両隣や向かいの店の人まで顔をのぞかせ一松を覚える。挨拶されてしまうから返す。いつのまにか、商店街を通る度あちこちから声をかけられるようになった一松に、母親が目を丸くしていたのはおもしろかった。あんたいつの間に、と呟く声が明るい。うん、まあね。まあねってなによいっちょまえに。別にいいでしょ。いいわよ、うん、いいわ。一人でいがちな息子を心配していたのは知っていたから、むずむずする口元をがんばってとがらせなんてことないって顔をしておいた。うん、ねえ、悪くないよねえ。
「せつない……だって運命じゃない。一子さんの運命は俺じゃないんだから」
「人の母親を名前で呼ばないでよ」
「い、いいじゃないか! 一子さんにはちゃんと松野さんって呼んでたんだから、ひたる時くらい……は~、ステキなお名前ですねあなたにぴったりだって言いたかった……」
一は一番ってことだし松も縁起がいいんだ。すごくかっこいい、いかす名前じゃないか。
にこにこと笑って伝えてくれたのは一松にだ。母親にじゃない。ありきたりのなにも考えてない、思いつきを適当に並べただけの。でも、最初に一松に。自分の名前があまり好きではないとむくれれば、オレ達似てるな、いい名前同士なんだと笑って。
「……一松、だってぴったりだしカラ松と似てるし……」
「んん? すまない、なんだって?」
目を真っ赤にして鼻をかむ姿は、情けなくて頼りない。いつもはぴんとはった背も丸まって、どうにも小さくてかわいそうな生き物だ。
「別に」
「そうか。……あ~、花の一つも贈れなかった……」
男たるもの花の一つや二つ贈るべきだぜ、と得意げに胸を張っていたのを知っている。客の背を叩きながら、いつの間に聞き出したのか好みぴったりの花束を作って。こけたりぶつかったりであちこちに痣をつくる鈍くさい男と、くるくる動いて器用に花を束ねる指先が一致しない。だからつい、そのたび見つめてしまった一松は悪くない。知的好奇心が旺盛なのだ。なんで、どうしては大切だって先生も言っていた。
なんでこの大人は自分に構うんだろう。
どうして自分は、毎日遠回りをしてこの店の前を通るんだろう。
立てた予想は認めたくないもので、だから実際に観察して違うということを確かめないといけなくて、つまり一松は見事な言い訳を与えてしまったのだ。自分に。
「まあ、カラ松がダメなんじゃなくて恋人がもういたわけだし」
いきなり花を贈られても困るだけだよ、と慰めればまたわあわあと涙を流す。花屋に言ってはいけない慰めだったかもしれない、と一松は少し反省した。実際花瓶もないからコップに活けなければいけないし、花言葉どころか好きな花も恋人が好むからバラという雑な母親だ。花束の贈り甲斐もないだろう。それなら一松の方がよっぽど詳しい。教えてやってもどうせ、そういう問題じゃないと一蹴されるんだろうけれど。
「い、一松は一子さんの恋人と会ったこと、あるのか」
「そりゃね」
「そうか……おまえが認めるならいい男なんだろうなぁ」
諦めるために必死なカラ松には、恋人は男ではなく女だと言わない方がいいのだろう。一子と似てるねと笑った大きな声や明るい笑顔がどことなくカラ松と似ているということも。一松は母親に幸せになってほしいし、彼女の恋人も気に入っているのだ。家族になってもいいと思う程度に。
「……あのさ」
運命じゃないけど。
理想とはほど遠いけど。
「あの、年下も悪くないって言ってたでしょ。前に」
母親へのアピールだ。ちょっと年齢が離れているけど気にしないでほしい、頼りがいがないならもっとがんばる、あなたとあなたの大切にしている息子さんの家族になりたい。もっと親しくなったらそう伝えたいのだと頬を赤く染めていたのは目の前の泣き虫。
一松相手に言ったんじゃないのなんて知ってる。母親にそう伝えたかったんだとわかってる。でも、口に出した。言葉にした。おまえと家族になれたらうれしいな、そう笑ったのはカラ松だ。あんたがそこに込めた意味なんて汲み取ってやらない。
「男の子は母親に似るっていうし、まあ顔がすごい好みってわけじゃないのは知ってるけどそれはそれとして。あんた一人くらい抱えられる仕事やれるようにこれから勉強がんばるし」
ほたほたとコンクリートの床に模様をつくる涙。
なんだっけ、電流が流れたり天使が踊ったり? そんな危険だったりおかしかったりな状況ではまったくないんだけど、カラ松の周りに花はある。今。一松の視界には。
なんせ花屋の店内なので。
「もうちょっと一人で待っててよ。……十年くらい」
ハンカチにくるんでおいたクローバーを差し出せば、ぽかんと口を開いた間抜け面で固まっている。実はさみしがりで泣き虫なカラ松には酷な願いだろう。でも、お願い。できたら、なるべく、前向きにゼンショってやつで。
差し出されたまま受け取り手のないハンカチがゆらゆら揺れる。花屋に花を贈るなんてバカみたいだし、少しへたれたクローバーは四つ葉ですらない。ハンカチにくるんだといえポケットに入れていたから、しなしなでよれてみすぼらしい。わかってるんだ、ちゃんと。こんなの受け取ってもらえない、本気にするはずがない。だってカラ松が好きなのは一松の母親で、待っててもらわなきゃ恋人候補にもなれない。今じゃなにもない。できない。
よれよれのちっぽけな雑草、まるで一松みたいじゃないか。
「……十年、って」
でも、贈りたかったんだ。
好きな人には花だって言ったから。言葉だけじゃ伝わりきらない好意を伝える手伝いをしてくれるって、そう教えてくれたから。
カラ松が持っていない、店先にはない花。
今の一松が、自分だけの力で手に入れられるもの。
「オレ、その頃三十六だぞ」
「そうだね。おれは二十歳だよ」
「待ってて、って……あの、そういうこと……なのか?」
薄い水の幕が張ってる目には戸惑いしかない。押しつけたクローバーは手にもとってもらえない。ほんの少し、ちょっとだけ、一子さんじゃなくておまえが好きだと言われる夢を見ていた胸が痛む。
知ってた、わかってた。でもそれでも、笑いかける顔が一松と呼ぶ声が手を振る彼が、あまりにも愛情に満ちあふれていたから。いつか息子になってくれという願いを曲げて受け取った。一松自身を求められているかもしれない、なんて。
「母さんの代わりじゃなくて、おれを待ってよ」
似てる顔も話し方も声も全部カラ松をつかまえるために使うけど、なんなら母親に会うために一松をダシにしてもいいけど。でも。
「十年かけていいからおれのこと好きになって」
ああかっこわるい。情けない。もっと頼りがいがあってクールで大人なところを見せてときめいてほしかったのに。運命じゃないけど、理想とは違うけど、男で子供でどれだけあがいても対象外だけど。
「運命じゃないけど好きになって」
じわりと視界がにじむ。
あまりにカラ松が泣くから一松にもうつってしまった。
「おれが一番好きだから、好き、になってよカラ松」
耳の上にパシンと軽い衝撃。
片手をあげ目をまんまるに見開いたカラ松が、静電気とつぶやいてもう一度一松に手を伸ばした。
なでやすいように首を伸ばしてしまうのはクセだから仕方ない。
「……まだ指先がびりびりしてるぜ」
「水分が足りてないんだよ、そんなに泣くから」
憎まれ口を叩けば一松もだろと頭を乱暴になでられる。子供扱いだなぁ。だけど嫌じゃないから困る。
「一松」
あやす声も、ゆるく髪をすく指先も、あたたかい手のひらも。
全部全部大人の男の人のもので、一松とは全然違って、ひどく遠い。同じだったらちゃんと見てもらえただろうか。でもまるで違う母親を好きなんだから、違っていてもいいはずだ。
「じゃあ一つ約束をしよう」
あんたの全部は誰か他の、こんな子供じゃなくてもっと別の人を大切にするために動きたいって知ってる。
だけど一松をなでる手はあやす声は優しい約束は、母親のおまけとして与えられたんじゃない。カラ松が、一松だけにくれたものだ。好きな人の子供だからじゃない、一松だから。
カラ松がそれを隠さないから、一松は子供らしく諦めることができない。
がんばらせてほしいとわがままを言ってしまう。待っていて、なんて無茶も。
「おまえに本当に好きな子ができたらすぐオレに言うこと」
「っ、ほんとに好きだって」
「オレはおまえが言わない限り十年待つこと」
つっかかる声がのどで消える。
待つって。待ってくれるの。約束してくれるの。
同じ世界にいてくれるの。
「十年待つ約束ができるくらい、ぐっとくる告白だったぜ」
晴れやかに笑うカラ松の指先は未だしびれているし、涙でうるむ一松の視界には花が咲き乱れている。
運命じゃないけれど。