恋人張込中

「張込の必需品なんだ」

手の中の缶コーヒーを振ってみせれば、彼はゆっくりと口角を上げた。

「へぇ。で、このおれを捕まえるって?」

とたん殺気立つ周囲にカラ松はごくりと唾を飲み込む。こんなに大勢ギャラリーがいるなんて聞いてない。ああ、でもおまえだっていつも大勢の前でオレにとんでもないことしてくれたもんな。あの頃。
一言で、過去を忘れていないのだと悟り勇気がわく。
十年以上も前に交わした会話だ。繰り返し思い出していたカラ松はまだしも、目の前の男がすぐさまわかってくれるなんて。
喜びで胸が熱くなる。なあ、いきなり目の前に立ちふさがった不審者を誰も止めないのはなんでだ。意味のわからない会話を切りあげないのは。そこまで暇じゃないだろう、マフィアのトップなんて職業は。

「いや、約束しただろう?」

 

◆◆◆

 

張込の必需品なんだ。
缶コーヒーを手に得意気に胸を張ったカラ松に、怪訝そうに相槌を打っていた表情を今でも思い出す。

「コーヒーを? 持ち歩くの??」
「そうさ。眠気覚ましにもぴったりだろ」
「適当なカフェで飲むんじゃダメなの」
「そんなのんきなことしてたら犯人が逃げるだろ」

じゃあ飲まなきゃいいんじゃ、と首をひねる彼にロマンがないと盛大に嘆き痛い目を見たのは一度や二度じゃない。
イタリア男にロマンがないなんてよくもまあ言えるね。意趣返しだと、彼は何度も盛大にロマンティックな行動をとった。カラ松相手に。
抱えるほどに巨大な花束をプレゼントされたこともあったし、噴水の前でぬいぐるみを渡されたこともある。太陽の輝きもキミの笑顔には負けるよと指先にキスを贈られ、怒らないでかわいい人とひざまずかれる。かわいらしいレディ相手にならそれはそれはよく似合うだろう。勘弁してくれ。カラ松は彼より年上の成人男性だ。来春から刑事として働くことだって決まっている、立派な大人なのだ。己の肩にも満たない少年にそんな行動をとられては、微笑ましいやら照れくさいやら。
ねえまだ言うの? おれがロマンティストじゃないなんて。
そうじゃない、すまない、悪かった。言い訳して謝って笑いあって、二人でバカな事をいくつもした。
自称ロマンティストな彼は、どれほど刑事のロマンを語っても首をひねる。

「甘いのが好きなら仕方ないけどあんぱんにこだわる意味がわからない」
「あんぱんと牛乳がセットなのがロマンなんだ」
「また出たよ、カラ松のロマン」

トレンチコートの襟立ててサングラスして煙草吸ってカツ丼をごちそうするんでしょ。
けらけら笑われても困る。だってカラ松が幼い頃憧れたテレビの中の刑事は、皆そうだったのだ。巨大な悪と闘い弱い者を守る、かっこよくてクールでいかす正義の味方。憧れない方が無理じゃないか。

「そうだね、確かに強者になりたい」
「一松?」
「強ければなにも奪われない、壊されない、守れる」

祖母が日本人だったから言葉を教わったのだ、と言っていた。彼女の祖国に一度来てみたかったから、と。
留学だからそのうち国に帰ってしまうのだと思っていた。それを寂しく思う程度に、彼が帰国するまでなるべく一緒に過ごしたいと願うくらいには情もわいていた。
いや、違う。
ふとした瞬間に淡く揺れる伏し目がちな瞳に、ただただ自分を映し続けてほしかった。本当は。

「オレが守ってやるよ」

なにかを、誰かを、守らねばならないと決意に満ちた彼の目に自分が入りこみたかった。この細い肩に乗っているものすべて肩代わりしてやりたかった。それは青臭い正義感などではなく。

「善良な市民の日常を守るのが刑事の職務だからな! オレが一松も、一松の守りたいものも全部守ってやる」

職務に忠実なフリをして胸を叩いたけれど、違うことはばれていただろう。
刑事は事件が起こってからでないと動けない。彼が国に帰ってしまってはなにもできない。ここでカラ松がしてやれることなどなにひとつ。
それでも。でも。たった一人で立とうとしている一松の目に映りたいと思ったのだ。隣に立ちたい、見てほしい、頼りになると笑って、カラ松がいてくれてよかった、これからも居てほしい。そう言ってくれ。
ロマンを知らないなんて思ったこと、本当はない。
いつだって一松のしでかすことはロマンティックでワンダフル、カラ松の心臓を打ちのめす。
缶コーヒーをどうするの、犯人にでもあげるわけ? きょとんと問いかけた顔はキュートであったし、吹きだしたカラ松をにらみつけた表情はワイルド。どちらも、いやどんな表情も、一松のすべてにどうしようもなく心浮き立たせられ落ち着かない。
理由はわかっていて、けれどカラ松はそれを認める勇気がなかった。
だって彼はいなくなる。日本にいるのは祖母の国に来てみたかったから、満足すれば国に帰る。そこにカラ松の入りこむ隙はない。
だからせめてここでだけ、今だけ。隣に立っている間くらい。

「……刑事は犯人を捕まえるのが仕事じゃなかった?」
「うっ、まあそうだな」
「市民を守るのはまた別だよね」
「か、間接的には守ってる!」

ふわふわとしたカラ松の自己満足は、ものの見事につぶされた。
年上の男として頼りになるところをみせたかったのに、どうにも格好がつかない。いつも上手くいかないと眉を下げたカラ松に、一松はじゃあと口を開いた。
待ってるからさ、ねえいつか。

「仕事じゃなくて会いに来てよ」

 

◆◆◆

 

「おまえとの約束を守りに来たんだ、一松」
「……は?」

言っただろう、張込の必需品は缶コーヒー。刑事の仕事は犯人を捕まえること。

「会いに来たんだ、仕事は関係なく」
「はぁ??」
「退職したから安心してくれ!」
「はぁ!?? 待て、早すぎだろおまえまだ三十五じゃねえか!!」
「ああ、刑事としてやりたいことは全部やったから」

かっこよくてクールないかす正義の味方に憧れていた。なりたかった。ヒーローに、なりたかったんだ。
皆の。誰かの。そしておまえの。おまえだけの。

「守ってやるよ、一松」

一人きりで背負わなくてもいいように、つらい方に歩かなくていいように。

「……おい、知らないとは言わせねえぞ。おれはマフィアだ」
「ああ」
「おまえが刑事として守ってきたすべての敵だぞ」

歯をむき出して威嚇する姿が変わらない。背だけ伸びて中身はたいして変わっていないじゃないか。かわいい愛しい、変わらぬ彼だ。一松。
バカだなぁおまえ。待ってる、なんて言うから。うかつに。

「いいよ、もう刑事はやめたからな」

カラ松はもう犯人は捕まえない。代わりにたった一人、将来有望な刑事の卵の心をさらった大泥棒に会いに来た。
捕まえやしないさ。なんせ待っているなんてかわいいことを言ったのはそっちだ。待ち人が来たんだからさっさと大喜びして花屋にでも駆けこめばいい、その今にも走りだしそうな足を解放して。
缶コーヒーを飲みながらここに張り込んでいてやるから。