爽やかな朝に似合ったフレッシュな挨拶への返事が地を這うようなデスボイスだったので、賢明なボクは本日の失敗を悟った。
あーあ、残念。整備の方に入った新人ちゃんで可愛い子がいるって噂だったから合コン組みたかったのに。もちろん目の前でうっとうしい顔してる罰あたりを頭数になんか入れてない。合コン主催してボクを誘えなんて無茶ブリだってしない。ただほら、職場の同僚の知り合いなんだな、って認知してもらったら声かけるのが楽になるよねって話だ。
「どうしたの松野さん、死にそうな顔してるよ」
「……別に松野さんに関係ないことなんで」
「まったまた~。あれでしょ、彼女さんと喧嘩とか」
跳ねあがる肩に笑うのを必死でこらえる。
表情筋がないだの怖いだの言われてるけれど、整備の鬼と呼ばれる松野さんは正直わかりやすくて単純だ。人見知りで初対面にめちゃくちゃ弱い。それなりに話してみたら合わないこともなかったのでたまに挨拶してたら、どうも懐かれちゃったみたいで、話したいことがあるとこうしてボクの通り道で待ち伏せする。そのくせこっちが水向けないと口開かないとか甘えてやがるなと思うんだけど、友達でもなしそこ矯正してやる義理もないんでまあいいや。
ちらりと確認した時計によると、時間に余裕はある。ここで恩を売っておけば新人ちゃんに顔つないでくれるかもしれないな、と自販機に足を向けたボクにさっと手渡される缶コーヒー。うわ、聞いてもらう気満々じゃん。まだ聞くよとか言ってないんだけどこっち。まあいいけどさ。
「でも意外だな~。彼女さんめっちゃ穏やかな感じだったでしょ、喧嘩とかないと思ってたし」
年上で甘やかしてくれるタイプだと思ってたけど、わりと喧嘩とかしちゃうんだ。いやこの憔悴っぷり、もしかして初めての仲違いってやつ? あ~、堪忍袋の緒が切れたんだ。もうあなたの気まぐれにはうんざりよ! ってやつかな~、松野さん結構ふらっとどっか行くし。それともなにもしなさすぎてしびれ切らされたとか? そうだよね相当甘やかされ貢がれしてたもんね、うらやましい。
なんで単なる知人の恋愛事情にそこまで詳しいんだって? そんなのこの人が事ある毎に彼女自慢トークしてくるからに決まってるじゃん。
まあわからなくもないよね。だってかわいいらしいんだもん。笑顔がかわいくて料理上手で優しくて実は怖がりでわりと泣き虫、出張が多いのが寂しいって毎晩電話かけてくるとかなにそれ。どこの童貞の夢を具現化した? そりゃ彼女の自慢もする、わかる。だからといってボクが聞く必要性は皆無なんだけど。
これで稼ぐらしいんだよね、また。おれやあんたよりよっぽどいいよ、ってうるせーんだよボクだってその辺のニートなんかよりしっかり暮らしてます~。つーかこっちの懐事情とかほっといてよ。
「喧嘩って決めつけないでくださいよ。……喧嘩、みたいなもんすけど」
ほら~~~!!!
彼女の惚気を愚痴というオブラートに包んでるような素振りで全然包めてないトークを繰り広げてた松野さんがしょぼしょぼのしょぼになってる理由なんてそれしかないっての。振られたとかだったらたぶん首吊ってるでしょこれ。なんで最初つっぱねるかなこの人、聞いてほしくてコーヒーまで買って待機してたくせにそういうとこな~。身内でもなけりゃ面倒すぎて絶対かかわってくれないんだからねマジで。あとボクみたいに超優しいいい子とか!
聞いて聞いてのちらちら寄こされる視線がうっとおしい。あれじゃない? 彼女もこういうとこうんざりしたんじゃないの。ズバッとさ、彼女と喧嘩したから愚痴聞いてくれって言ったらいいのに。もしくは仲直りしたいから相談のってくれとか。こういうとこがほんっとムリ~。
「え~、でも彼女さんって松野さんのこと超好きなんでしょ。なんだっけ、お金ない時デート代全部出してくれたりプレゼントすごいのくれたりしたんじゃなかったっけ」
空港勤務と言えどパイロットでもないボク達の給料は、平均的なサラリーマンと変わらない。一人暮らしして奨学金を返して、なんてしていればすぐになくなってしまう程度。デートだって願わくばお家デートあたりですましたいのは同じだろう。だからこそ、松野さんの彼女語り聞くのバカらしくなっちゃったんだよね。
だってさ、お外にも行きたいからってデート代全部出してくれてさ、似合うからって服も買ってくれてさ、電話代気にせずラブコールしようって携帯代払ってもらってさ、彼氏かよ! お金持ちのセレブな一軍彼氏じゃんか!! それこないだの飲み会で誰も聞いてないのにぺっらぺら話してたパイロットの彼氏ができたって子とほっとんど同じ~!!! 婚約指輪どーしよっかなって迷ってんだよねぇ彼ピは好きなのにしなって言ってくれてんだけどぉじゃねえよオーダーでもハリーなんちゃらでも好きにしろよとりあえず恋人探しの合コンに出てくんじゃねえよクソが。いや落ち着こう、そう松野さんはそこまで話進んでない進んでない。かなり貢がれてて彼女がお金持ちでかわいいだけ……待って落ち着く必要あるかな? これトッティ切れて帰っていいとこじゃないかな?
目の端で指先が動いてるのがちらちらひっかかる。機械油に汚れた黒い指先と割れた爪。硬い皮膚。あ~あ。彼女が養ってくれるんで! って適当してやめちゃうならほんとそれまでなのに、遠慮なく呪ってやるのに。なのにこうなんだもんな、この人。あ~あ、もう。
「……最近、一緒に暮らしてて」
「えっ、同棲!? 松野さん家に彼女さんきてんの??」
「あ、いや、おれがあっちに転がりこんで」
へ~風邪ひいて、ごはん作りにきてくれた彼女が心配だから一緒に暮らそうって言って、は~そっすか、っは~。身ひとつで転がりこんでこれまでより上等な暮らしすぎて戸惑う毎日と。なるほどなるほど。
「……え、松野さんてボクのこと嫌いだったっけ?」
「は」
「これ喧嘩売られてるよね? その幸せすぎる生活をくっらい顔して彼女募集中のボクに語るって言うのはなに、どう考えても攻撃以外の何物でもないよね??」
「ちっ、ちが、あの、すげえ自慢ぽいとは自覚してるんすけどそうじゃなくて!」
あまりの非道さにさじを投げようとすると、大慌てで引きとめられる。なんなの、そりゃボクは話しやすいし相談しやすい皆のアイドルトッティだけど、そんなに親しみ感じてくれてたっけ? 松野さんてわりとぶっきらぼうだし挨拶しても会釈程度でさっさとどっか行くタイプだったじゃん。
「こういうのあんまり言いたくないんすけど……一番知っててくれてるの松野さんだし、あの……おれの知り合いの中で一番慣れてる感じするから」
「っも~しょーがないな~、まあ恋人同士の行き違いとか? 慣れてるってわけじゃないけどまあ女友達それなりに多いし参考程度なら言えるけど~」
確かに彼女のことを松野さんが相談できそうな相手、ボクくらいしかいないんだよね。女の子関係の話は慣れてるし。うん、わかってるじゃん暗いけど。よしよし、なら話を聞くくらいのことしてあげるよ、わあトッティやっさし~さっすが~トッティほんといい子だよ~。
ぼそぼそと口ごもりながら告げる松野さんの悩みは、正直わからないでもなかった。
生活費もデート代も携帯代も出してくれ服はプレゼント日用品も事ある毎に似合うと思ってと買われる。せめてとなにか家のことをしようにも食事は彼女さんが得意だし掃除も「そんなことよりいちゃいちゃしよう」って止められる。給料でなにかプレゼントくらいはと考えても、欲しいものは全部自分で買うし松野さんが出せる金額よりよほど高級なものを持っている。
これは確かに、暗い顔もする。
愛されてるのはわかる。好意からなんでもしてくれて、それはうれしいから断るのもちょっと。でも受け入れているうちに、なにひとつできない自分が浮き出てきちゃうんだ。羨ましいって思うより先に、それやだなって感じちゃう程度にボクだって人生やってきてるんだよ。うんうん。特に松野さん、自己評価あんまり高くないからよけいだよね。
「愛してくれればいいって言うんすけど、別にそんななんでもしてくれなくても、あの」
「うんうん、愛を対価にしてるっぽくなっちゃうよねえ」
「っ! そう! 全部してくれるからせめてヤるのだけはがんばりたいんだけど、でもこっち疲れてんのにヤりたそうなの断るの悪くて必死に腰振ったりとか。なんかこう、おれ飼われてるだけじゃねって。ウリしてんのと一緒じゃんかって」
「はいそこもうちょっとオブラート包んで」
「金でおれとの関係維持できると思ってんじゃねえぞ金が切れても縁切る気ねえんだ一生離すかよチクショウ」
「それ穏やかに伝えてあげなよ」
プロポーズじゃん。
いやめちゃくちゃ不穏だしボクなら絶対言われたくないけど、でも松野さんとつきあってるような彼女ならこの口調にも慣れてるわけでしょ。これくらいはっきり言ってやればまあ伝わるし。きっと。
「え」
「色々払ってくれなくてもいい、そんなので愛測らないってちゃんと口に出して伝えないとさ。松野さん結構口下手なとこあるし」
以心伝心とかないしね。双子とかならまだしも。
ボクの鋭すぎる提案にしどろもどろになった松野さんは、うろうろと視線をさまよわせた後、こくりと一度肯いた。
トッティのお悩み相談室、本日も爆発してほしいクソリア充の悩みを見事解決してしまいました。あ~トッティほんといい子。ほっとけないなんて心優しい、えらい。腕時計もそろそろ歩きださなきゃいけない時間を示してる、缶コーヒーもきちんと飲み終えた。ありがと、なんて耳にやっと届く小声に手を振るなんて最高に粋。これはもう今日の運勢は最高だね。
◆◆◆
聞いてくれないか、と声をかけられたのは今週二度目。
缶コーヒーを手渡し勝手に口を開く相手に何事かと問いただせば、悩み相談にのってくれるんだろうなんて当たり前のように答えられる。
「は!? なんでボクが??!」
「松野くんに缶コーヒー奢ればものすごく的確で鋭い指摘をくれて悩みも解決、って話を聞いて」
いやいやいやまあね、それなりにいいことは言うかもしれないけどね。いやね。うん。まあ。
「別にそういうのやってないんですけど、でもまあコーヒーもらっちゃったし……話聞くくらいはしてもいいですけど。時間あるから、今」
「本当か! サンキュー、助かったぜ。あれはそう、ヴィーナスが己の美しさに酔いしれ」
「あっ、日本語でお願いしますね」
「んん~? 無意識にワールドワイドな……オレ!」
「飛行機操縦してる時の話し方でどうぞ」
比喩表現が独特すぎてまるで話の通じないパイロットの松野さんが、操縦中だけ普通に話すというのは有名な話だ。松野さんの機内アナウンスとか絶対大笑いする自信ある、って言ってたCAちゃん達皆、最初は信じなかったらしい。蓋を開けてみれば意外や意外、単なる声のいいアナウンスに常からこうならと怒りをあらわにした人もいたりいなかったり。ボクとしてはさ、パイロットなんて一軍ちょっとくらいダメなとこあった方がこっちの成功率上がるから大歓迎なんだけどね。相談されるなら別だけど。
「実はな、オレのキュートなラバーなんだが」
「えっ、松野さんつきあってる人いるの!?」
こないだ合コンに来てなかったっけ、と首をかしげればそれなんだと指先で打つ仕草を入れてくる。Bang☆じゃねえんだよな、いちいちイタい。これがなけりゃ……いや言動が痛々しい以外にも諸々わりと引くとこあるからちょっとくらいマシになっても意味ないや。っていや待ってこないだのは友達作ろうとかそんなんじゃなく、がっつり恋人募集中の子ばっかり集めたやつだよ? そこでできたってこと??
「この間な、重いって言われてしまって」
「イタいじゃなくて?」
「腹でもくだしたのか? トイレは早めに行っておけよ」
「うんボクじゃないし腹も大丈夫だから本題に入って早く」
あっちこっちに必要ない修飾語をつけまくる松野さんの話をまとめると、どうやら彼女さんへの愛情表現をしすぎて重いって言われたらしい。まあわからないでもない。口に出して言われないのも不安だけど、こうも四六時中好きだのマイハートだの愛してるだの言われちゃ胸やけするよね。しかもこのテンションでしょ。
でもちょっとかわいそうだよね。キュートなラバーとやらにめちゃくちゃ貢いでるっぽいのに重いとか言われてんの。パイロット様がざまぁだよね~、っていやいやかわいそうだなって思ってるよ。思ってる思ってる。プッ、いい気味~。同棲して生活費全部出して記念日お祝いして事ある毎にプレゼントして、それで言われるのが「重い」だよ。ボクならうっかり別れちゃいそう。どんだけ美人なんだよその彼女。
あっ、なんか段々腹たってきちゃったな。別に松野さんの味方になるとかじゃないんだけど、かなりうざいしイタいし面倒くさいけど、まあ悪い人じゃないじゃん。パイロットだしめっちゃ稼いでるだろうからいつもならいい気味で終わるんだけどさ、でも正直、松野さん全然一軍っぽくないし。そんなにもててないし。奢ってくれるし。こっち見下したりもしないし。あ、なんだよ悪くないじゃんいい人じゃん。まあ想像するだに愛情表現は重そうだしうっとうしいとは思うけどさ、一応彼女ならつきあってあげてもよくない? そんな色々してもらってさ、愛情にあぐらかくみたいなのはちょっと。ねえ。どれだけ美人でもないっていうか。
「それってさ~、舐められてない? 松野さん」
「えっ、いや、舐め……っ、なんで松野くんはオレとキティの秘め事を」
「てめぇのセックス事情はだから聞いてねえんだよな~。ちっがっくって! 松野さんならなんでも許してくれるだろって思われてるってこと!!」
「ふっ、確かにこの松野カラ松、心の広さには定評があるが」
「ないでしょ。つーか甘く見られてるの。松野さんは自分にべた惚れだからなにしても大丈夫ってなってんの。このままだとたぶんそのうち浮気だね」
「えっ」
「するでしょ。恋はスリルショックサスペンスだよ? 自分にべた惚れの彼氏とか安全安心すぎて刺激求めてそりゃ浮気のひとつやふたつするって」
「そんな、キティに限って」
「人間誰だって魔が差すってことあるからさ~。松野さんが悪いわけじゃないけど、まあもうちょっとできることはあったかもね~」
「なにを!? どうしたらキティは浮気なんて罪の果実を選ばないんだ!??」
「そんなの簡単でしょ。油断してたら他にいくぞって感じ出せばいいんだよ」
自分にべた惚れの相手だからなにをしてもいいと思うんだからさ、ちょっとよそ見してるフリ見せたら一発だと思うんだよね。好き好き言ってるのやめてみるとかちょっと連絡減らすとか、別に本当に浮気する必要はなくてぎりぎり仕事かなってあたりで。なんだかんだ松野さんだってパイロットだし黙ってりゃ見れないことないし、彼女絶対焦るって。
簡単簡単、と松野さんにドヤ顔してやれば、あからさまにわかりませんと顔に書いてある。感情読みとれすぎなんですけど。え、これ意外と難しい? 松野さんそもそも嘘つけないタイプとか今更言っちゃうの??
「あ~、だからさ、愛が重いって言われたんでしょ」
「そうなんだ。ずっと一緒じゃなくてちょっと離れたいって……キティといるのが楽しいと思ってたのはオレだけだったのかな……」
「そこ! ええと、ほら、あの~……重いっていうかさ、容量の問題っていうか。嫌なんじゃなくてもうちょっと小出しにしてほしいとかさ。あと一人が好きな子もいるでしょ! 愛がないわけじゃなくてさ、ほら、会えない時間が愛育てるのさとか歌でもあるし」
「……キティの一人の時間を増やした方がいいのか」
「そうそう、だから松野さんのこと嫌いとかじゃなくてさ、彼女さんがそういうタイプだったってだけで。ほら、あっちも好意からの行動だから言いにくくて溜めこんじゃって爆発したのかもしれないし」
素直にしょぼくれられると困っちゃう。男を慰める趣味なんてないのに勘弁してよ。
ちょっと彼女に危機感もたせてやればいいじゃんって思ってたのになんで弁護までしちゃってるんだよ、もうトッティいい子すぎない?
「そうか……そうだな、オレがどう思うかよりキティがどう感じるかだものな。このあふるる愛すべてを受け入れてもらいたいというのはわがままなのかもしれない、なんせマイラブはワールドワイドにビッグだものな!」
「はーそっすか」
「多い物は分ければいい。キティが受け入れやすい形にしなければいけない。さすがだ、ありがとう松野くん! おかげでなんとかなりそうだ」
ぱっと顔を上げた松野さんは晴れ晴れと笑って、ドリンクチケットもくれた。相談料の追加だ、なんて格好つけたこと言ってるけどこれ期限明日までなんだけど。絶対消費しきれないからこっちに寄こしただろ。
けっ、せいぜい彼女の尻に敷かれて貢いでろ。べーだ。
◆◆◆
どこからどう伝わったのか知らないけれど、トッティのお悩み相談室は不定期に何回か開催された。トッティと握手したら上手くいくって聞いてさ~、などと相談どころか恋愛成就の神様扱いに進化していたあたりでさすがに止めたけど。他人の愚痴とか悩みを聞く趣味もないんで清々するよね。つーかそもそも開催してないんだけど。相談室、まったく開くつもりなかったんだけど。
だけどまあ、絶対にどうしても嫌だってほどじゃないから。
「松野さん、顔すごいやばいよ」
だから仕方なく、仕方なくだよ? ボクはふらふら歩く目の前の背中に声をかけた。なんとかしてよって整備の方から泣きつかれたってのもある。まあね、こんな死神みたいな人と一緒に働くの怖いよね、地獄じゃあるまいし。
「……松野さん。ああ、その節はどうも」
「いえいえ、っつーかどしたの? 人としてどうかって顔だけど」
「ひひ、人ね……いっそ人やめてえ……猫になりたい……」
「お金持ちの家の飼い猫ならなりたいけどたぶん松野さん血統書つきには生まれなさそうだから諦めなよ……野良の世界は厳しいよ」
「飼い……飼われ……ペット」
足元にぼたぼたと水が落ちる。なに雨漏り? 今日は晴れて……じゃない松野さんだ。見開かれた目からひっきりなし、ぼろりぼろりと大粒の涙が。
「え、ちょ、松野さん待ってこれボクが泣かせたみたいじゃない!?」
励ましたのにいじめたって誤解されちゃたまったもんじゃない。大慌てでトイレに引っぱりこめば、大人しく後をついてくる。よろよろじゃん、めちゃくちゃ憔悴してんじゃん、もうなんなの! 彼女に愛されすぎてやばば~☆ってなってた腹立つ男どこ行ったの。
「……おれだけじゃなかった…っ、おれなんて遊びで、っ、全然」
「は? 遊び? なになんなの」
泣き声と呪いをつなぎあわせたところ、松野さんの彼女にはどうやら複数の彼氏がいたらしい。え、マジで。あんなに貢がれてたじゃん松野さん。もしかして他から貢がれた金で松野さんに貢いでたとか? え、それってド本命なんじゃん。あれでしょ、キャバの子がホストに入れこむみたいなあれ。
なんだよピラミッドの頂点かよって目で見れば、違うと首を振る。なんでさ、彼女に貢いでた男から見れば松野さん超勝ち組最高腹立つポジションでしょ。そりゃ浮気はやだけどここまで泣くことないんじゃないの。
「違って……おれのことばっかじゃなくておまえのこともしろって、なんでもかんでもしてくれなくていいって言って」
「ああ、なんでもやってくれちゃう彼女さんだっけ」
「金もいいって。おれのは払わないでいい、なにもすんな愛が重すぎんだよって」
「言ったんだ~、え、なんでそれでこうなってんのかわかんないんだけど。普通にカレピッピ頼もし~みたいな感じだよね。あ、言い方きついって切れられたとか」
「わかったってあいつ言って。……しばらくしたら金貢ぐ女他に作ってて」
「んんんんん~???」
なんか今ちょっと違う単語が聞こえた気がしたけど話が長くなりそうだからスルーしよ。別に松野さんの彼女がバイでもボクにはいっさい関係のない話だし。
つーかよくわかんなかったな。松野さんがお金を自分に使わなくていいって言った、ら他に貢ぎ相手を作った? なに、彼女はお金を使わないと死ぬとかなのかな? ボクに渡してくれたらそりゃもう好きに使わせてもらっちゃうけど??
ってかお金がいらないって言ったら他に相手作るとか。
「い、意味わかんな~い!」
「……おれも」
「それってお金使うことが目的だったってこと? 松野さんじゃなくても誰でもよかった? いや、それなら募金とか自分が贅沢な生活するとか色々あるよね。別に恋人をヒモにしなくてもいいわけじゃん。じゃあ貢ぎたいってこと? 誰かに奉仕してうっとりする、みたいな心境とか? 松野さんに拒まれたから他の貢がせてくれる相手作ったってこと?」
言葉にすればするほど疑問点が出てくる。なんなの、奉仕精神とかそういうの本気で意味わかんないしたぶんこれそういうのじゃないよね。じゃあなに、って聞かれたらわかんないけど。
自分の頭を整理するためにつらつらと並べた言葉は、ものの見事に松野さんにとどめを刺してしまったみたい。
「ひひ、ウケルよねマジで……おればっかに構うなつったら別の対象みつけるとか、なに、ペットかよ。単にかわいがりたかっただけかよ」
そんなことないでしょ、とか言えない状況すぎて困る。松野さんはかわいがるペットとしては不向きな外見だよ、とか適当な慰め口にしたら絶対こっちに噛みついてくるやつじゃん。つーか彼女の脳内がほんとわかんない。金使ってくれなくても愛してる、的なこと言われてなんで浮気するかな宇宙人かよ。
「あ~、わけわかんない! こういうのはさあ、同じくらい脳内がぶっとんでる人しか理解できないんだからさぁ。あっ、ほら、パイロットの松野さん、イタい方の。あの人にでも聞いてみたら!?」
誰かにまる投げしたくて出した名前だけれど、なかなかいい案に思えてきて固まっている松野さんに猛プッシュする。
わかるよ、確かにあの人声かけにくいよねなんか騒々しいし受け答えトンチンカンだし。でも別に悪い人じゃないっていうかわりとお人好しだし慣れたら会話も腹立つのマシになるから大丈夫大丈夫。間違えないでね、同じパイロットでも機長の松野さんはクソ。あっちはギャンブラーの血がどうこう言ってなんでも賭けごとにしちゃうから、松野さんが浮気されたってのもヨリ戻るかどうかでトトカルチョするから。その点イタい方の松野さんは会話と動きがクソうざいけどまだマシ。
「……なに、なんでパイロット、の」
「ああ、こないだ聞いたんだけどね、彼女に愛が重いって言われたから他にも興味あること増やしてみたんだって。そうしたらかわいいヤキモチ妬かれて今はラブラブハッピー! らしいよ」
「彼女……へえ」
「すごい貢ぐタイプみたいでさ、彼女それに調子乗ってなんか愛が重いとか? あんまり一緒に居たくないとか言ってたらしくて」
「ああ、わりとそうだよね……まあうるさいけど、でも二人きりだとそこまでじゃないし」
「あれ? 松野さんあっちの松野さんと知り合いだった? って有名だもんね、クズとクソのなんであれでパイロットになれたかツートップ」
同じ名字だからって言われるよねえと同情をこめて目配せすれば、まあとかはあとか煮え切らない返事。松野さんほんと整備でよかったよね仕事。接客とかなら初日から死んでるでしょこれ。そんなに珍しい名字でもないけど、同期に松野って多いんだよね。血縁扱いされないなら気にしないんだけど。
「あっちは貢いでた方だしさ、よくわからない思考回路だし一度参考に聞いてみたら? 彼女に貢ぐなって言ったら他に貢ぎ対象みつけちゃったんだけどこれ捨てられるってことですか、とか」
「うぐっ、す、捨て」
「あっ、いやまだわかんないよ。ほら、だって別れよとか言われてないんでしょ? じゃあ松野さんとはつきあってたいってことだろうし」
「そ、そうだよ別れてないし……いやでも他に女が……なんで浮気、え、愛が重いとかなんでそんな。おれにくれたら。おれならそんなこと絶対」
んも~ナイーブ! やたら言葉尻にひっかかるの勘弁してよ、もうちょっと強い心を持ってほしい成人男性として。これ大丈夫かな。浮気はまだしもあっち本命にするからもう別れちゃおとか言われたら松野さん死んじゃわない? いや死ぬならいいけど、よくないけど、彼女さんに殺意とか向かないよね? まさかね、うん。んんんんん、う~ん。
「……ねえ、愛が重いって『恋人』に言われたって? パイロットの松野さん」
妙に強調して言わなくてもいいじゃんかわいそうに。そりゃ彼女からしたら松野さんはアッシーメッシーミツグクンってやつだったとしてもだよ、重いって言われちゃうくらい愛情表現してた相手を恋人と言わずして誰をそう呼ぶって話じゃん。振られ仲間っていうか自分より惨めなヤツ見つけたいって気持ちはわかるけどさぁ。
「キュートなキティと今はラブラブらしいから参考にしたら?」
少々の義憤を込めて言い放つ。
他に目を向けろってアドバイスセンキュー! やってみたらキティが最近おれに興味を持ちだしてくれて、あれこれ聞いてくれたりするんだ。はしゃいだ声でせつない報告をしてくれた松野さんを思い出す。興味すら持たれてなかったの哀しすぎるんですけど。よくまあこれまで恋人だーって問題なくすごせたね。まあめでたしめでたしならいいんだけど。
金も愛情も捧げてまだ努力してる男がいるんだからさあ、貢がれ愛されしてた松野さんがちょっと浮気されちゃうピンチとかね、まあ憔悴しきってる顔見たらざまあまでは言わないし慰めたげよっかな~くらいは思うけど。でもね~。
「へえ、ラブラブ……おれはこんななのにラブラブ……それってつまりこっちが浮気相手ってこと? ぞっこんの恋人がいて重いって言われたから物珍しいのペットにでもしてみよっかな、本命とうまくいったからもうペットはいらないってやつだよねそうだよねなんだよそれざっけんなこちとらおまえがいなきゃ生きてる意味なんざねえんだよ好き放題飼い慣らしてポイかよそんなの」
「え、ちょ、松野さん……?」
「ありがとう」
ぐるん、とこちらを向いた松野さんの目がビカビカして怖い。いつももっと無気力無関心って感じの半目じゃん! 生気に満ち溢れてるというより内側のエネルギーが漏れ出ちゃうって雰囲気の、なんか蛍光イエローの光がギザギザ飛び出してる。こわ。やば。
どう見てもまずいな、とは思うんだけど一体なにがどうしてこうなったのかわかんない。ペットがどうこう聞こえたから愛玩されるだけの自分に憤ってたのかなって思ったんだけど、それ解決したはずだしなぁ。
わからない事だらけだったけれど、ボクは納得より平和をとった。別に松野さんがなんでこんな崇り神みたいになってるかとか知りたくないし。それより平和な日常が大事。うん。だから去っていく松野さんの背中に手を振って、それだけ。そこまでしか関わってないから。兄弟とかでもないしさあ、仕方ないよね。