バースディ

「ドンとママはいつけっこんするの?」
「しないよ、ずっと」

 

◆◆◆

 

カラ松の腹が膨れているのを初めてみたのは十五の頃だった。
しばしば体調の悪さを訴えていたこともあり、腹に水がたまったとかそういうまずい症状なんじゃないかと戦々恐々していたのだ。弟達と共に。なんとか医者に診てもらえないのかとおそ松に訴えもしたが、今更どうしようもないと吐き捨てられるばかりで。
ああ、この兄もとうとう父と同じ血も涙もない存在になってしまったのだ。ひどく嘆いたことを、チョロ松は昨日のことのように思い出せる。
まったく、なにが血も涙もないだ。半分しか血の繋がっていない自分達を、まるで己の四肢のようにかわいがっていたあの兄に対していったいなにを。当時の事を思い出すほど、自らの幼さばかり目についてやるせない。
きっと、もっといい道があった。こんな現実につながる道ではなく、兄弟が皆そろったままいられるような選択肢が。
あっただろうと思うのに、いくら考えてもチョロ松にはどうしても見つけられない。未だに。

 

 

人間には男女の他に、アルファ・ベータ・オメガの三種類の性がある。カリスマ性がありリーダー気質あふるるアルファ、最も人数の多いベータ、男性体であっても産む性であるオメガ。すでに一般常識になって久しい性差は、それでも自分達にとって近しいものではなかった。あの時までは。
身近に存在していないから実感していなかったわけではない。現に長男であるおそ松と四男の一松はアルファで、そのためか跡取とそのスペアとして遇されていたし、次男のカラ松も三男のチョロ松も四男の下として五男や六男と同待遇であった。別にマフィアのボスになどなりたくもないチョロ松には文句などないし、今時年功序列など馬鹿らしいとも思う。ただまあ、堅気の仕事よりよほど向いていそうな長男に比べ、マフィアのボスなどまるで柄ではない一松がかわいそうではあった。同じアルファといっても性格まで同じなわけがない。人見知りで大人しいすぐ下の弟が、アルファであるというだけで本人の望まぬ地位につけられる。せめてスペアでよかったよねと慰めた際、一生日陰にいたいからおそ松兄さんの無事を祈ってよと冗談めかして口にした弟の目は真剣だった。
それでもうまくいっていたのだ、なんだかんだ。半分しか血のつながらない腹違いの兄弟、マフィアの跡取とそのスペア、彼らの弾避けとしてだけ存在を許される自分達。世間からどう見られていたかは知らないし知りたくもない。少なくとも兄弟の仲はよかった、そうチョロ松は胸を張れる。そもそも、アルファの子を望む愚かな男が可能性の高い畑に種をばらまいた、なんてそんな話はありふれている。全員を引き取ったから美談扱いされているのにはうんざりだが、父に食べさせてもらっているのも事実だから仕方ない。
チョロ松はきっとこのまま、決められた道を行く。
いつかおそ松が父の跡を継ぎボスとなるだろう。他の五人は組織を盛りたてボスを守る糧となるだろう。その未来は見飽きていたしまるで輝かしくもなんともなかったけれど、拒絶し逃げるほど嫌ではなかった。そういうものだと思い込んでいたのだ、ベータの自分達に用意された生涯にしてはなかなか波乱万丈じゃないか、なんて。

まさか、カラ松がオメガだなんて想像もしなかった。
アルファよりもまだ人数の少ない希少種。発情期があり男性体であっても妊娠出産が可能な、まさに子を成すためだけに特化した肉体。チョロ松が知っていたのはそこまでだった。他の皆もそうだったろう。だってそんな、産むための身体であるがために堕胎が命に関わるなんて。
敵対組織に囚われ孕んだカラ松は、堕胎が許されなかった。
膨らむ腹に溜まっていたのは水ではない。子だ。どこの誰のものかも知れぬ、カラ松をただ痛めつけるためだけにその身を暴いたケダモノの。
知ったカラ松はいらないと泣き叫んだが、誰あろう父が、産むことをカラ松に強制した。愛した相手の子でさえなく、そもそも自らが産む性であることさえ知らなかったまだ十五の子供に。
産まれた子は父がどこかへやっていた。堕胎させればカラ松の命が危ないと知っていたらしい父や兄を恨むことはできない。チョロ松だって知っていればきっと同じ選択をした。産まねばカラ松が死ぬならば産んでくれ、どれほど憎い男の子であったとしてもその胎で育ててくれ。
無言の願いは正しくカラ松に伝わった。
ぺしゃんこにしなびてしまった腹を一撫でしたチョロ松のすぐ上の兄は、すべて終わった後ぽつりとこぼした。疲れた。
ここまでですめば、いつか思い出話にできたかもしれない。あれはつらかった、おまえらを憎みそうだったぜなんてカラ松が言ってくれる未来があったかもしれない。もしかしたら。

もしかしたら。
そんな未来はない。

カラ松の腹はその後三度膨れた。たまたま膨らまなかっただけで、そういう行為はきっともっと。
三度とも、父はきちりとカラ松に産ませた。どれほど泣き叫び懇願しても堕ろすことが許されないと知ったカラ松は、腹に水ではないものが入っている間はひどく静かになった。反対に、その度おそ松はひどく荒れた。
なぜそうも反抗し父を憎むのか、一度チョロ松は尋ねたことがある。カラ松の身体のことを考えれば産ませることは最善だ。父のやり方は褒められたものではないだろうが、それでも息子を失いたくない親として当然の行動ではないのか。

「本当にそう思うのか、チョロ松」

問う兄の声はいっそ穏やかでさえあったというのに、どんなひどい喧嘩をした時よりチョロ松の肝を冷やした。

「なあ、なんでカラ松ばかり孕まされる。つかまって、情報を得るための拷問ならまだしも男にヤられるばかりなのはなぜだ。あいつは諜報なんて向いてねえのになんでそんな仕事ばっかり振られる。ターゲットがアルファの確率がこんなに高いのはどういうことだ」

あの時からだ。底冷えのする声で語る目の前の男は本当におそ松か。いいかげんでだらしない、最年長のくせにひどく子供じみた底抜けの馬鹿であった兄なのか。
カラ松がオメガだとわかった時、あの時から変わった。

「……なに、なにが変わったって」
「色仕掛けの情報収集だよ。なあ、覚えてるだろチョロ松。あの時まで、あいつは前線で拳振りまわして大騒ぎしてたじゃねえか」
「だってそれは、カラ松の体調を心配して……っ」
「心配? ああ、簡単にアルファの種を手に入れられる道具がぶっ壊れないか?」

嘲る口調に怖気が走る。
言われてみればおかしいのだ、確かに。いくらオメガであっても発情期以外はベータと変わらぬ男、こうも頻繁にアルファに会い妊娠を繰り返すことなどめったにない。なんせオメガより多いといってもアルファとて希少な性、なんらかの意図が働いていると考える方がいっそ自然で。
そもそもアルファの子が欲しいというそれだけで種をばらまいた最低の男、アルファ以外の子を弾避けとして育てた人間に息子への愛情などあるはずがない。父がカラ松を死なせないのは使い道があるからだ。
マフィアであろうとなかろうと、企業のトップはアルファが多い。そして手の内にはオメガ。戦いに慣れ、組織のために生きいずれトップになる兄のため体を張るよう育てられた使い勝手のいい駒。
アルファとオメガの間からは、他よりもアルファの産まれる可能性が高い。それは都市伝説かもしれないが、オメガばかりに子を産ませ六人中二人という高確率でアルファの子を得た父にとってはまぎれもない真実だろう。

「……おまえはあいつの、あいつらの傍にいてやってくれな」

チョロ松が一度しか尋ねたことがないのは、機会がなかったからだ。
跡継の地位を捨てまだ幼い五男と末っ子を抱え逃げたおそ松に会うことは、もう二度とないだろう。それでいい。それがいい。どうかなにも知らないまま、たまに懐かしく思い出してくれ。おそ松のする大仰な思い出話をけらけら笑って聞いていてほしい。チョロ松はこれ以上心配したくない。そうキャパシティが少ない方ではないと思うが、それでも今で十分。すぐ上の兄と、下の弟。この二人だけで手いっぱいだから。

おそ松が末二人と共に消えたと聞いたカラ松は、ひどくうれしげによかったと笑った。もしかしたらオメガかもしれない二人、カラ松の次の犠牲者になるかもしれなかった弟達が救われた。こんなにうれしいことはない。
ここでチョロ松はようやく、この出奔は上二人の相談の結果だと悟った。ずるい。カラ松とチョロ松に年齢の差はほぼない。自分とて悪だくみの仲間に入れてくれればよかったのに。
ああでも。
ひっ、とひきつれのような呼吸音が隣から聞こえる。
そうか、そうだな。チョロ松までもこの計画を知っていれば、きっとこの弟はつぶれてしまっただろう。知らなかった仲間がいなければ、立っていることさえできないもろい弟。兄二人に望まぬ地位を押しつけられてしまった哀れな子供。けしてマフィアのボスになどなりたくなかっただろう彼は、今この時をもって逃げられぬ立場となった。
アルファというのも気の毒なものだな。チョロ松の同情など不要だろうが、それでも哀れに思わずにいられない。
聡い弟は理解している。弟達のためには仕方ないと、誰かが連れて逃げるなら長男が最善であったと。だからこそ泣きもわめきも切れもせず、真っ青に震えながら立っているのだ。目の前でよかったと喜んでいる兄を守れるのは己の地位だけだと悟っているからこそ。

 

 

元来大人しく人見知りで口下手な弟は、末二人ほど幼くなかったから甘えることも下手で、そのくせチョロ松より三歳も下であったから上の仲間にも入れず一人猫を構っている事が多かった。
まるでアルファらしさが見えなかったせいか、チョロ松をスペアだと誤解する者もいたくらいだ。本人もそれを気にし、余計に拗らせ引きこもってしまった。がっかりされることを恐れて卑屈なことばかり口にし、なんとか皆に紛れよう、兄弟と一緒でいようと必死に頭を回転させる。本当に、なぜアルファとして生を受けたのか。
チョロ松は一松に同情している。心底。
なんせすぐ下のこの弟は、すべてを見てきたのだ。
膨らんだ腹を殴ろうとし産みたくない捨ててくれいっそ殺せとわめき暴れるカラ松を。腹を切り開かれ、子山羊でも出すかのように気軽に取り出されどこかへ運ばれていった肉塊を。傷が治れば駆り出され、また腹を膨らませる兄を。
ひたすら見つめ続けてきたのだ。スペアであるからこそおそ松のいるこの場所から逃げることもできず。

あれは二度目にカラ松の腹が裂かれた後だった。うなじを自ら差し出しチョロ松にすがったことを、兄が忘れているといいと願っている。
噛んでくれ。ひたすら逃げ場を求める行く宛のないオメガ。なあ頼む、いっそおれをおまえのものにして。
アルファにうなじを噛まれ番契約を結べば他のアルファを誘うフェロモンが出ない。そんな、嘘か真かわからない噂を真に受け請うほどに、ベータのチョロ松をおそ松と見間違うほどにカラ松が追いつめられているなんて想像もしていなかった。腹違いといえ半分は血のつながった兄に番契約を求めるほどなんて、まさか。だっておまえ笑っていただろう。ようやくへこんだ腹を見て、もう切るのはこりごりだって笑っていたじゃないか。
「無理だ」そう、戸惑いなく出た断り文句はチョロ松の想像以上にカラ松を傷つけた。
違う。あれはおまえを拒んだんじゃない。オメガとしてのカラ松を受け入れられなかったわけじゃない。アルファがオメガを望まなかったわけじゃない。あの瞬間のチョロ松は単なる一己のベータであった。オメガにどれほど請われても、けして望みを叶えてやれぬ力のない有象無象。もしチョロ松がアルファならば噛んだだろう。兄をこれ以上望まぬ妊娠に引きずり込まぬため、そう大義名分をつけて目の前の人間を己の番にしただろう。それほどに、あの時のカラ松は男の庇護欲と性欲を引きずりだす、まさにオメガという生物であったから。
きっとおそ松とて噛んだ。あの瞬間のカラ松が望めば、血のつながりなどものともせず番契約を結んだはずだ。常はベータにしか見えないカラ松の、オメガとしての一世一代の大博打。それが兄弟の誘惑というのはどうかと思うけれど、カラ松が信じすがれる相手が自分達しかいなかったのだと思えばチョロ松はもう咎められない。だって同じだ。苦しむ兄を見ていたくないことなんて、チョロ松だって皆と一緒なのだ。
負けたと悟ったカラ松は、その後、一回たりとも契約を望まなかった。すとんときれいに諦めて、父の命じるままアルファの元へ向かっては情報と子種を持って帰った。底の抜けた明るい笑顔、色の抜けた瞳。すがった蜘蛛の糸が切れていたことを知ってしまったカラ松には、次に手を伸ばせる力など残っていない。
そうじゃないと幾度も告げようとした。あれはおそ松ではなくチョロ松で、断ったのは噛んでも意味がないからで。
口を開こうとする度あの時のカラ松の顔がよぎる。幕が下りるように消えていったかすかな希望。チョロ松の目の前で、するするとすべて諦めていくカラ松。なあ、おまえそんな顔。そんな表情をするヤツだったか。今のおまえにこの声は聞こえるか、伝えたい言葉は歪まずまっすぐ届くのか。
一松が歯を抜いたのもこの頃だ。
少し前からやけに怪我をして帰ってくるなとは思っていた。家でのストレスを発散するため外で喧嘩をしているのなら、下手に咎めない方がいいだろう。きっとカラ松のことでナーバスになっているのだろうから。そう気を遣っていた弟が、まさか歯を抜きやすくするため顔面に拳を入れられるよう励んでいたなんて。
これで怖くないから。
手の平にのせた白い欠片。頬を腫らし唇に血をにじませ、カラ松の部屋に顔だけのぞかせた一松は告げた。はにかんで。
ぼくは噛まない。兄さんの嫌がるようなこと絶対しない。ねえ、だからなんにも怖くないよ。
ぱかりと開いた口内に、不自然な空き。らしくない明るい声はどこか誇らしげに高らかと響く。
甘えることが下手で、すぐ悪態をつく生意気な弟だ。カラ松が弟達には甘いのをいいことに、すぐ乱暴な口調で当たり散らしていたのを知っている。チョロ松にはしないくせに、カラ松にだけは居丈高に振舞ってみたりして。それでも許されていたのは、一松が確かに兄弟を愛していると知っていたからだ。皆が。どれほどカラ松にきつく当たっても、なにをしても、心の奥底ではこんなにも。
己の歯を抜くほどに、それほどこの兄を愛している。家族を。兄弟を。

「っ、一松、おまえ……歯が」
「うん。大丈夫、大丈夫だから。ねえ、だから……カラ松兄さん、お願いだからぼくを怖がらないで」

びくりと跳ねあがる肩は自覚があったのだろうか。チョロ松にはわからなかった。なにかあればチョロ松に頼んでいたのは、アルファでないからか。おそ松や一松がなにもしないとわかっていても、それでもオメガであるカラ松の身体はアルファを恐れていたのか。
噛まれることを? 孕まされることを?

「……馬鹿だな一松、かわいい弟を怖がるわけがないだろ」

マイリルだのなんだの、仰々しい言葉を使わないカラ松の声は妙にあっさり聞こえた。きっと一松も同じように感じただろう。まるで実のない、表面ばかりつるつるした掴めない言葉達。なにひとつ本心ではない、とあからさまに伝えるそれに、けれどなにを言えただろう。
兄のために未来を捨ててしまった弟にかける言葉など、チョロ松とて持ってはいない。
ただ怯えることしかできぬ兄のついた優しい嘘を糾弾することも、また。

 

◆◆◆

 

なぜ逃げなかったのか、と問う者はいるだろうか。
おそ松のように逃げればよかった。おまえたちはまだ若い、他の世界でも生きていける、そんなにも現在の地位が惜しいのか。そんな馬鹿げたことを口にする愚か者など、ドンの手を煩わせるまでもない、チョロ松が始末してやろう。
幼い頃から兄の盾となるよう育てられた者が外の世界で生きていくことは、ひどく難しい。ましてや組織を抜けるなど、完全につぶさなくては追手に怯える毎日しか過ごせない。それでもアルファとベータだけであればどうにかなったかもしれない。だが、発情期を持ち定期的に薬を処方されるオメガが逃げ続けるなど不可能だ。どれほど気をつけても足はつく。ましてやカラ松は四度腹を切っている。これ以上の出産は厳しい身で、子を成せないオメガと番うアルファがどこにいるだろう。オメガは産む性、すなわち子を産むことこそを最も求められるのだ。六度までは切れると医者は豪語していたが、切る回数が増えるほど母体の危険も増すというのになにを言っているのだ。産ませたのだって、もとはといえばカラ松の命を助けるためだというのに。本末転倒ではないか。
カラ松はここ以外では生きていけない。
この、おそ松が残し、一松が整備した箱庭の中でしか生きられないのだ。
それを知っていたからこそ、おそ松は組織をつぶしたり父を暗殺したりせずひたすら逃げる道を選んだ。すべて壊してしまった方が簡単だろうに、兄弟の誰一人として欠けない選択をした。たとえそれがどれほど綱渡りで苦しい道であっても、とりあえず命はある。だからこそチョロ松はここに居る。やるせなくむなしい気持ちを持て余して後悔ばかりの日々を送っている。

「なんで! ねえ、おじさんならほんとのことしってるでしょ。おしえて」
「人のことおじさん呼ばわりする失礼なやつに言うことなんてなにもないね」
「チョロ松さん! ごめんなさいチョロ松さん、あやまるからおしえてください」

ふわふわした髪の毛も明るい目の色も、ちっともカラ松に似てやしない。

「だからしないよ、結婚なんて」

できるわけがない。
カラ松のために未来を捨てた弟は、他のものもすべて捨ててしまった。
大人しく人見知りでマフィアのボスなど望んだこともない少年は、数年でくるりと変わる。狡猾で残虐な白いスーツの悪魔、彼のカチカチと鳴り響くむき出しの歯が偽物だなんて誰が思うだろう。どこからどう見ても押しも押されぬ立派なアルファ。マフィアのボスを継いだ弟はドンと名乗り、両脇に兄二人を並べ堂々と胸を張っている。
猫背の不器用な弟はもういない。あの日歯と共に捨てられたものの中に、一松もまたいたのだろうか。ドンと呼ばれる弟が、これで兄に怖がられないとはにかんで笑った弟とまるで重ならず、チョロ松はため息をついた。

「どうして? だってドンはママのことすきでしょ?」
「……家族だからね」

事実として口にされたそれに、チョロ松は顔をしかめることしかできない。
一松の気持ちを断罪したいわけではない。あれを相手にか、としょっぱい気持ちになることはあるがだからといって止めるほどでもない。不器用な甘えと思春期の反発だと見逃していたものが、まさかこんなにも強い執着に変わるとは予想していなかったけれど。

「じゃあけっこんするんでしょ? ねえいつ?」
「別に好きだからって結婚しなきゃいけないことはないよ」

好きだから結婚する。素直に信じ込んでいる幼い子供にわざわざ否定する必要はないが、それでもチョロ松は口を閉ざさなかった。

「どれだけ好きでも結婚しないこともあるし、好きじゃなくても結婚することはあるからね」

アルファとオメガである、それだけであれば同性ということなど問題にならない。祝福され生涯の愛を誓う二人だ。
半分といえ血のつながった兄と弟、仲良く共に暮らすなんてすばらしい。笑顔を向けられる幸福な家族だ。
プラスとプラスの状況が重なり合っているのにどうしてより大きなプラスにならないのか。彼らの兄であり弟であるチョロ松は拒絶しない、祝福するつもりですらあるのに。

「……でも、ドンはドンだからこどもがいるんでしょ? ドンのこども」
「そうだね」
「わたしたちじゃダメなんでしょ」
「そりゃおまえたちはドンの血をひいてないからね」

正確には同じ血が流れてはいる。ただ、カラ松の子ではあるが一松の子ではないというだけの話だ。
組織のトップでありアルファである一松の子供、優秀なるアルファという夢を皆が見ている。まったく笑わせる、そもそもあれはできそこないのスペア扱いされていた臆病な少年であったのに。しかも今の弟は勃起不全だ。子を成すことなどできやしない。
まあチョロ松とてわからないではない。まだ少年の頃からずっと、あの弟はカラ松の道行きを見てきた。望まぬ出産を強いられ腹から出せばあっさりとりあげられ、また別のアルファに近づくことを望まれる。性行為と拷問をイコールで結んでしまった幼い子供の、いったいなにを責められるだろう。
生まれ持った性がアルファである。ただそれだけの、当人が望みもしない現実のため怯えられ、兄を傷つけるケダモノ共と同じ生き物だと己を否定するばかりの子供が健やかに育つわけがない。勃起不全程度ですんで恩の字だ。チョロ松ならきっと、もっと。

「おじさんもそうおもう?」
「だからおじさんって呼ぶなって」

おまえたちの叔父さんになるつもりは一切ない。彼らがカラ松の腹から出てきたことは事実だが、実の子であるなどとチョロ松は絶対に認めない。愛も情もなく、ひたすら痛めつけるためだけの暴力の結果だ。誰も望まなかった存在だ。哀れには思うし親切にもしてやるが、肉親としての愛情だけはけしてけして。
この子達に罪はない。頭では理解している。だからカラ松の血を引いていることを、彼の腹から出てきたことを否定はしない。
だがだからこそ許せない、受け入れられない。兄を苦しめるばかりの原因であったくせに、愛してほしいといわんばかりの顔をするこのずるい生き物達を。
チョロ松とて見てきたのだ。カラ松の嘆きを、家族が離れ離れになっていくのを。なにひとつできることはなく、ただこうして傍に居ることしかできない無力感に打ちのめされながら。見守るのは一松だけの専売特許ではない。

「……ドンとママのこどもができたら、わたしたちはいらない?」

聞きたかった事をようやく口にできたのだろう。口元に集中する視線を感じつつ、チョロ松はため息をついた。
ああ、なんでこうなった。チョロ松がなにをした。マフィアという職業柄清廉潔白に生きているとは言い難いが、こうも苦しめられる筋合いはないだろう。

「さぁねえ」

父の跡を継ぎドンと名乗るようになった一松は、いの一番に数人の子供をかき集めてきた。
十歳にもならないような子からようやくしゃべりだした程度の幼児まで、共通点は実の親がいないこと。引き継ぎだなんだと忙しなく走り回っていたチョロ松が知った時には、とっくに子供達はカラ松をママと呼ぶよう躾けられていた。
当然チョロ松は、悪趣味な事をするなと叱りつけた。カラ松の腹から出た生き物は父の命でどこかへ連れて行かれた。それらが生きているのか死んでいるのかチョロ松は知らない。知る必要もない。確かに一時兄の体内を借りてはいたが、あれらはカラ松の子でもなんでもない。それを。
一松は。確かに過去チョロ松の弟であった彼は、どう思う、と口にした。どう思うチョロ松兄さん、あの子たちおれのことパパだって認めてくれるかな。
脳が理解を拒んだ。
子を産んだことのあるオメガのカラ松を母親と呼ばせるのはまだいい。いや、けしてよくはないが、子供を愛することによって過去の傷が癒える可能性もあるのかもしれない。けれどまだ早いだろう。過去を清算するには時間が足りない。たとえカラ松の実の子でなくとも、思い出してしまう可能性を否定できない。
チョロ松は全力で反対した。誠心誠意、説得した。こんなことカラ松のためにならない。子供達とていきなり見知らぬ場所に連れてこられるなどかわいそうだろう。おまえにできることはもっと他にあるはずだ。
頬をひきつらせるように口角をあげ、にんまりと笑ったおまえの表情を忘れないよ一松。
いやだなぁ兄さん、あいつら全部カラ松の実子。あの強欲爺がアルファの可能性がある子供を逃すはずないじゃん。適当にごまかして善男善女に育てさせてんの、ウケルよね。
上がる口角、むき出しの犬歯は見かけ倒しの入歯。使い勝手があるだろうと笑った目は、怖がらないでとカラ松に告げた時と同じ色をしていた。
馬鹿だな。おまえは大馬鹿野郎だ一松。
もしあの時すがられたのがチョロ松でなければ。カラ松が噛んでくれとうなじを差し出したのが目の前の男であれば、もしかしたら。番契約は結べなくとも、それでもなにかが変わっていたかもしれないのに。

「おまえ達を連れてきたのはドンだから、いらないかどうかもドンに訊きなよ」

結局パパと呼ばれていない一松は、それでも健気に父親のように振舞っている。
これでいいのかと問われれば、よくはないとチョロ松は即答する。己の腹から出たといえ暴力の結果である存在を常に目にしなければならぬカラ松も、愛する者を傷つけられた証と共にままごとのような家庭を作ろうとする一松も、生まれたことこそが罪であると認識され続ける子供達も。
それでもここが巣であるから。一松が必死につくりあげた、カラ松が唯一生きていける場所ならば、チョロ松にできることは協力だけだ。

「チョロ松さんのいじわる」
「なにが」
「そういうの、すごくいじわるだよ」

二度、三度とカラ松に振られる『仕事』を止められるだけの力が当時の自分達にあったなら。この生温い檻から逃げ出し生きていくことができたなら。噛んでくれと請うたのが一松にであったなら。おそ松でなく。
カラ松がオメガでなければ。
なにもかもが手遅れだ。今更どうしようもない。沸き上がる怒りを必死にかみ殺すしかなかった兄の気持ちが嫌というほど理解できるし、せめてと父の手を引っ掻いて逃げだしたのは最善だった。
そして、アルファとしての尊厳も男としての機能も投げうち弟が必死につくりあげた箱庭で、カラ松はただただ困ったように笑っている。
チョロ松の兄は愚かではない。これ以上家族を失いたくない寂しがり屋の弟を傷つけないため、できることを精一杯やっている。食べて、寝て、笑いかけて。拳を振るうのと同程度の気軽さで子供達の頭も撫でる。カラ松が本当にそうしたいと思っているのかは、知らない。一松のおままごとにつきあってやるべきだと考えているのはわかる。
いずれ、一松は周囲からのプレッシャーに負け適当な女をあてがわれるだろう。アルファの子を望まれ、許される範囲の反抗を繰り返しながら、子を成すか適当な養子を迎えるだろう。アルファの。それが、皆がこれ以上傷つかず生きていく最善なのだから揺らぐことはない。
いっそ一松とカラ松が無理やりにでもできてしまえばハッピーエンド、なんて簡単な話なら良かった。そんなもの兄弟の禁忌以前の問題だ。相手がアルファであるというだけで怯えるオメガと、ひたすら傷つけられ苦しむ姿を目の前で見てきたからこそ勃たないアルファ。身体をつなげばどうなるというのだ。それで心までつながるなら、こうもカラ松が苦しんできたはずがないだろう。
もう限界なのだ。切られ縫い合わせる度に薄くなるカラ松の腹の皮のように、砂を掻きとられるたびぐらりと揺れる棒倒しの棒のように。次は、もう一度だけ、最後だから。言葉をどれほど飾っても結果は同じ。次の衝撃で崩れてしまう。もう一度カラ松が傷つけられることがあれば、もたないだろう。一松の精神が。これ以上なにをすればいいのかわからない、できることを必死で考え全力で行っているかわいそうな弟は、本当に壊れてしまう。
どうかこのまま、ゆるやかに。
なにも起こらぬまま、できれば時が二人の傷を癒してくれればいい。そんなことはどだい無理だろうと思っているのに、チョロ松はなにかに祈った。それくらいの融通はきかせてくれてもいいだろう、この救われないクソのような人生でも。

「……まあいいや。チョロ松さんがいじわるなのはしってるし」
「一番の赤ん坊のくせに一人前みたいな口きくね」
「だってもうすぐおねえちゃんになるから! ねえ、あたらしいあかちゃんのおなまえ、わたしたちでかんがえたい!」
「は?」
「ドンにおねがいしといてください! ね?」

だってママここにおけがしてた、とうなじを示す目の前の子供をくびり殺してしまいたい。違う、これは悪くない。それでも、大人の秘密を知っているとばかりに得意顔をする子供が憎い。なぜ教えた。どうしてチョロ松にそんな情報を与える。知らなければただただ後悔するだけで済んだのに。すべてが終わったその後で。
一松はうなじを噛めない。自前の歯がない彼には、カラ松を己のものにする選択肢は失われている。つまりそれは。

「あかちゃんおんなのこがいいな。わたし、いもうとがほしい!」

無邪気に笑う幼い声。トントンとドアをノックする音と、ベイビーお仕事の邪魔をしてはいけない、なんてまるで親のような台詞。

「ママだ!」

ドアを開こうと走りだす子供を止めたい。いっそこの部屋ごと切り離されどこかへ流されていってしまいたい。見たくない。開いたドアから顔を出したカラ松の首筋を、うなじを。もしそこに噛み跡があれば。

「子守りサンキューだぜチョロ松」

精一杯のやわらかな世界が崩れる音がする。