「いつまで拗ねてんの」
「……そういうんじゃない」
「は? 朝から晩まで隅っこで膝抱えてさ、うっとーしいったらないんだよね。喧嘩したんなら仲直りすりゃいいじゃん、そんな子供みたいにさー」
「一日中じゃない……仕事行ってる……」
「休みの日はずっとでしょ」
うっとうしいったらない、と足音高く去ってしまった弟の主張は一部をのぞいて正しい。最近のカラ松といえば、日がな一日部屋の隅でぼんやりとしている。仕事中はなんとか刑事魂を保ちきりりとしているが、いったん家に入ってしまうともうダメだ。なにをする気力もわかない。褒められたものじゃない。
せめてなにか考えているなら頭脳が働いているのだと主張もできようが、実際なにも考えていないので反論もない。気づけば時間が経ち、出勤の時間が来るので家を出るだけだ。
拗ねている、のではない。確かにカラ松は喧嘩をした。いやあれは喧嘩に入るのだろうか。カラ松の知っている喧嘩は殴り合いや言い合いで、一松とはどちらもしていない。口論すら。一方的にカラ松が憤っていた、だけで。
一松。
実際は違う名前なのだろうか。そんなこともカラ松は知らない。
イタリアで将来有望なマフィアといえば、と関係者に聞けば必ず名前のあがる男。数年前トップ争いに躍り出た若造。白いスーツに身を包むのはあのファミリーの頭しかいないよ。顔見知りのパン屋は露天の軽食屋は気のいいパフォーマーは、皆少しずつ忠告してくれていたのだ。自分に火の粉がかからない程度、カラ松に伝えられるギリギリのラインで。
聞いていなかったのはカラ松だ。耳には入っていた。ただまるで理解していなかった。
だって一松は同じだねと言っていたのだ。刑事のカラ松と。笑って、似たような仕事に就いたんだねと。
ぜんぶ嘘だった。なぜ気づかなかったのか、今にしてカラ松は過去の己を問い詰める。怪我をしたカラ松のためお抱えの医者を呼び、治るまで暇だろうと映画だなんだと運び込み、帰ると言えば日本まで送ってくる。実家が金持ち? いや一松は天涯孤独だと昔言っていたじゃないか。養子に入った? 自分で稼いだ? 刑事と同じような職でそんなにも稼げる職業とはなんだ。そもそもカラ松につきそっていた一松は、ろくに仕事になんて出ていなかった。
有給休暇がとれる、なんてごまかしに肯いていた己の首根っこをひっつかんで揺さぶりたい。日本での仕事って、要は密売だのなんだのの新規ルートを探しに来たんじゃないか。カラ松の家族にも会いたいし、なんてあんな優しく笑っていたくせに。実際は隠れ蓑だ。一松を紹介できると大喜びしていたカラ松がいい面の皮じゃないか。
知って、問い詰めて、おまえの顔なんて見たくないと捨て台詞をはいても一松はなにも言わなかった。
言い訳のひとつもない。
せめて一言、なにか。友情は嘘じゃない、とか。言えなかったんだ、とか。生きていくためにはこの道しかなかった、とか。なんでもいい。陳腐な台詞でいい。適当で。ごまかしで。口から出まかせでもいい。いいんだ。いつのまにか達者になっていた日本語でなくとも、彼の国の言葉でいいから。今度はカラ松が学ぶから。それなのに。
「Mi sono innamorato di te」
与えられたのは聞き慣れた挨拶だけ。感謝している、ありがとうまたね。なんだそれ。馬鹿か。カラ松との別れ際、いつも囁かれたそれ。こんな時までそんな。
またね、なんて。もう会う気もないくせに。
◆◆◆
仔猫に手をひっかかれた。構いすぎてしまったのだ。距離感を間違えた一松が悪い。だから仕方ない。
赤くもなんともない左手の甲を見る。おかしいな、こんなにもじくじく痛むのにひっかき傷のひとつもついてやしない。どうしてだろう。ぱしんと手を叩き落とした仔猫の方がよっぽど痛そうな顔をしていた。
「……顔も見たくない、か」
確かにそうだろう。一松とてこんな大嘘つきの顔など見たくもない。
積極的に間違った情報を伝えたことはない。だがそれがなんだというのか。彼の求める回答から少しずれたものを渡した。偽りを口にはしなかったが真実もまた伝えなかった。煙に巻いて誤魔化して宥めて、いくつもの道を一本道だと見せかけた。
マフィアだと、いつかはばれるとわかっていた。ただそれまでに懐かせればいい、問題ないと油断していたのだ。
かわいい仔猫は一松に懐ききっている。今は家族なんてものにまで愛情をかけているが、いざという時はきっとこちらをとるだろう。職業倫理? 家族愛? そんなもので腹は膨れない。苦労せずともかわいがられ遊んで暮らせる飼い猫の経験があるなら、なおさら野良に戻りたいなんて考えないはず。自由がほしいと言うならいくらでも外を走り回ってきたらいい。腹が減り疲れれば一松の元に戻ってくるだろう。そのための首輪だけつけておけば、一松の目の届くところならば、どれだけでも。
すばらしい飼い主のつもりだったのだ、一松は。
まさか仔猫が仔虎であったなんて。成長すれば一人で生きていく種族であったなど、予想外だ。
「で、見たくもないものをわざわざ見にこんなところまで来るなんて、暇なんだな日本人は」
勢いよく開いたドアに嫌味ったらしく視線を向ければ、おまえほどじゃないさと返される。
硬い声、鋭い視線、引き結ばれた口元。これまで向けられたことのない表情。これが仕事中の、つまり刑事としての態度なんだろう。マフィアに対する。
部下はなにをしているのだ、と顔をしかめそうになるのをぐっと堪える。目の前の男が刑事などと一松以外は知らない。トップが気まぐれで拾ってきた無害な男、屋敷内を自由にふらついているお気に入り。これまでも好き勝手にあちこちを歩き回っていたのだ。気にして止めろ、と言う方が無茶だ。
「日本からわざわざ来ておいて? 悪いけれど今日は時間がとれない、帰ってくれないか」
「へえ、毎日暇なんだと思っていたな。怪我人の元にべったりはりついていたから」
「不自由な友人の世話くらい焼くよ。日本人ほど薄情じゃないつもりだからね」
「友人? ペットの猫じゃなく?」
すでに懐かしい日本語と聞き慣れない声の響き。もう甘ったるい声で名は呼ばれない。
理解していても、鼻で笑われじくりと左手の甲が痛む。
猫であったならどれほどよかったか。せめて虎でいてくれたなら。一松が穏やかに飼ってやれるかわいいペットでいてくれなかった男が目の前で、皮肉気に口を開く。
「“お仕事のための服”は今日は着ていないんだな」
カッと腹の底が熱を持つ。ひどく純粋な怒り。いったいこの平和ボケした日本人になにがわかるというのか。一松の、これまでのトップのなにが。なにも。わからないくせに、知らないくせに、揶揄だけは一人前に。
白いスーツを汚すことが覚悟だ。汚されないことが誇りだ。着続け、目立ち、狙われることは意地だ。
「あいにく気を張る業務がなかったんでね」
おまえになどその価値はない、と伝えたつもりだった。
アポイントもとらずおしかけて来た非常識を咎め、本人の重要性のなさで傷つける。すでに一松にとってどうでもいい人間だ。仔猫でも仔虎でもなかったのだから飼いなどできない。
そう知らしめて、悔しげに歪む顔で心を慰めるつもりだった。そのはずだったのに。
「……つまり、白スーツの時は気をはってた……一張羅、か?」
「イッチョーラ?」
聞き慣れぬ響きに首をかしげる。日本語は日常会話しか学べていないから難しい単語が出ればお手上げだ。
ぐにゃ、と男の口が歪む。かわいい仔猫と同じ顔からこれ以上人間の言葉を聞きたくなくて一松が退出を促そうとした、その瞬間。
ピピピピピピピピピピピピ
響き渡る間抜けな電子音。
あっけにとられる一松の目の前、強張った顔をしていた男からため息と共に笑い声が聞こえた。
笑い声?
「一張羅……一張羅着て来てたのか、いつも。おまえ、オレに会うのにそんな気合い入れて」
いったいなんの呪文なのか。イッチョーライッチョーラと唱える男はひどくうれしげで、どうにも一松の仔猫を思い出させる。もしかしてまだ仔猫なんだろうか。やっぱり仔虎でいようと戻ってきたのだろうか。
「一松」
ほら、だってこの声は。響きは。
甘ったるくて優しいこの呼び方は、一松のかわいい仔猫だけがするのだ。
「今、オレの業務時間が終了したんだ」
電子音の種明かしなんて世界一どうでもいいことから話し始める仔猫はやっぱり馬鹿だ。
だけど馬鹿だから、きっとこうして戻ってきた。いいんだ。脳みそが小さいんだから難しく考えなくていいんだよ。今度こそ一松は間違えない。構いすぎない、距離感を間違えない、ちょっとひっかかれても手を離さない。
「なあ一松、オレはやっぱりこの道以外は選ばない。すごいがんばったんだぜ、刑事になるの。あんまり頭よくなかったからさ、勉強とかもう必死で」
だから首輪をつけて。
「途中でイヤになったりしたんだ、やっぱり。別に刑事にならなくても色々あるだろ、職業。それでいいだろって。なにになったってオレはオレだし」
お願いだから、首輪をつけて。
「だけどがんばったのはさ、約束があったからだ」
一松のものだと主張してほしい。おまえ自身に。
「なあ、おまえとの約束を絶対守りたかったんだ。一松」
キラキラと目を輝かせる目の前の男は一体何を口走っているのだ。
約束って。がんばったって。つまりなに。結論はどこに向かっている。
「なってみたら天職だしな。皆を守り犯罪を許さない…オレ! 今の自分をすごく気に入ってるんだ、オレは」
「……だからマフィアと繋がりがあったなんて過去を消したいとか? そりゃそうだよね、わかるよ、どこで足ひっかけられるかわからないしね、こんなのと知り合いとかばれたら」
「Mi sono innamorato di te」
「まず、い……?」
あなたに恋をした。
唐突な告白に息が詰まる。違う。え、呼吸ってどうやってしていた。吸って、はいて。吸う? どこに力をいれたらいい。はくってなにを。
自己を卑下して逃げ場を作ることさえ許してくれない男は、不満気にふくれっ面をした。
「おまえが言ったんだろ、一松。ありがとうまたね、って意味だって」
は、と体内の空気がすべて出ていく。息をつける。
「この間も、言った。またねって言ったんだ。なあ、おまえがだぞ一松」
そう。告げたのは一松だ。
初めて出会った時からずっと、仔猫だ仔虎だと誤魔化していた先日までも変わらず。
「刑事として、オレはたとえ国内でなくとも犯罪者は捕える。犯罪行為は阻止するし、目の前で行われていたらたとえオフでも止めるために尽力する」
「……へぇ」
だからお別れを言いに来たのか。なんて律儀で残酷なかわいい仔猫。せめて来訪の意図を伝えてくれていたら一松だって白いスーツに身を包みマフィアのドンらしい格好で出迎えてやったのに。勢いばかりよくて空回りの異国の刑事に、でも筋は悪くないよなんて戯言でも伝えながら。
ポケットから取り出した四角いものはなんだ。菓子折、という文化か。挨拶に持っていく手土産はそれなりに見場のいい箱に入ったものを、と一松は日本に行く際学んだのだ。仔猫だった男が小箱をひょいと差し出す。
「なに」
箱ではない。本だ。ポケットに入るサイズの、小さい、イタリア語講座?
「なあ一松、おまえ日本語うまかったからオレ全然こっちの言葉を覚えてないんだ。だけど何度も言ってくれたアレだけは覚えてる」
目の前の男が口にする名前はやはり格別に甘くて優しい。日本人特有ではない。一松の仔猫だからではない。この。カラ松だから。
「Mi sono innamorato di te」
あなたに恋をした。
何度も何度も繰り返した。挨拶みたいなものだと誤魔化して。口にするだけでよかった。
好きだと、愛していると伝えれば返事をされてしまう。そんなものはいらない。一松に囲い込まれ、大切に愛でられるだけの仔猫でいてほしかった。彼の意思など必要ない。聞いていない。だって拒まれるかもしれない。他に愛している相手がいるから、なんて答えられたら心臓が破れてしまう。
だから事実だけ。なにも求めないからそれだけ。溢れる感情に名などつけずひたすら繰り返し。
恋をした。今もしている。ずっと、どうしてだろう、自分でも呆れてしまう。なんでこんな、せめてかわいらしい仔猫や仔虎であれば救いもあったのに。
目の前の男は異国の刑事だ。正義感があり、職に対する情熱もある。希望に満ち溢れた目がぴかぴか眩しすぎて見ていられない。
松野カラ松。
わざわざ見ないふりをしていたおまえの顔を、名を、存在を直視させ去っていくなんてマフィアのドンも驚きの非情さだ。復讐としてこれほど効くものはないだろう。案外才能があるんじゃないか、この一時で一松の生涯をめちゃくちゃにしてしまうなんて。
「ありがとう、またね。次に会った時も最後にそう言ってくれよ」
ぽんと机に置かれた本。貼ってあるのは付箋だろうか。次に会った時……次?
「ああ違うな。今度はオレもちゃんと言うから」
じゃあ飛行機の時間があるから、と退室したのは誰だ。刑事か、仔猫か。さきほど業務時間が終わったと言っていなかったか。つまりプライベートで、でもオフでも犯罪行為は阻止すると、いやつまり見ていなければ。目の前で一松が仕事をしなければ。次に会う時。永遠の別れではない。次。
慌てて部屋を飛び出せば、いたずらっ子のような笑みを浮かべ待っている愛しい人。
「ひ、こうきは」
「暇な日本人だから、明日もオフなんだ」
「っ、奇遇だな、おれも明日は」
ずっと欲しかった、この腕からすり抜けていったかわいい仔猫。もう離さないと誓って、囲い込んで甘やかして一松にだけ懐くようにと願って。
「……いや、今から、オフだ」
マフィアのドンの愛玩動物ではいてくれなかった。じゃあただの一松なら。初めて出会った頃の、その身ひとつの一松であるならば。
「すごい偶然だな! 二人ともオフなんて」
目の前で弾けるように笑った彼もまた、今は刑事ではなくただのカラ松で。
「じゃあせっかくだから一緒に過ごさないか? おまえと過ごすオフはきっと楽しいに違いない」
「そうだね、オフは。……カラ松は、ずっと刑事を続けるの? また、戻る?」
「ああ、一松もそうだろう?」
マフィアなど一抜けたで簡単にやめられるものではない。あれほど職への愛をうたっていたカラ松もまた同様に。それでも。
だからさ、とカラ松は続けた。
「お別れの時は言ってくれよ、ありがとうまたね、って。そうすれば次のオフも会いに来れる。来てくれって言える。おまえがまたねって言ってくれたら、そうしたらオレは」
確かにこれは、二人の道を交差させるとびきりのアイデア。
腕の中に大人しく収まってくれた愛しい人は、お互いが身ひとつである限り首輪などなくとも逃げ出さない。好きも愛しているも、今ならば拒まれないだろう。
ああ、けれどやはり伝えるなら。今、伝えるのは。
「Mi sono innamorato di te」
「早いよ、まだオフは残ってるだろ……うん、オレもだ」
だからこれからの話をたくさんしよう。