十日前のことだ。
月見酒と洒落込もうと一人温泉に向かった千空は、全裸の女を目撃してしまった。
正確には後ろ姿だ。ちょうど髪を拭いていたのだろう、上半身が布におおわれていたから顔さえわからない。細い腰から続く白く光るような尻と、肉付きのいい太ももだけが月明りに映える。
どれほどデリカシーがないと言われている千空でもわかっている。今この場ですることは弁明ではなく、気づかれぬよう無言で去ることだと。俺は見ていない、そんなつもりなかったとどれほど訴えられても、見られた側には関係ない。それくらいなら、気づかれていない今、千空が最初からこの場にいなかった事にする方が万倍マシなのだ。
正直、あられもない姿の女とエンカウントする機会は石化前に比べ多い。そもそも各家に風呂などなく、汗を流すのはもっぱら川の時点で事故は避けられない。もちろん時間や場所を定めたりとアクシデントは起こらぬよう心掛けているが、何事にも例外はある。
そして回数をこなせば慣れる。石化前から女とおつきあいしたこともない、童貞の純情科学少年でも慣れてしまうのだ。女の裸に。
必死で謝るよりも、全くもって女体に興味ねえという態度を取る方が許されるとはどういうことだか。安心感ってのはなかなか得られるもんじゃないからねぇ、ともっともらしく述べていたゲンも女どもの間じゃ安心枠に入っているらしい。
実際、恋愛脳をオフにしている現状、下手に恋愛対象として見られない方が助かる。どこの誰が惚れた腫れたしていても問題ないが、千空はそれに混ざる時間が惜しい。使える時間は全て文明復興にあてたいので、知らぬ間に対象外にされていたのはありがたい。おそらく、なにかしらメンタリストが上手く立ち回ってくれたんだろう。頼んじゃいないが、なんせ役立つことには定評のある男だ。
だからつまり、なんの問題もなかった。
後ろ姿といえ全裸の女を至近距離で見たのは申し訳ないが、千空が居たことに気づかれてもいないし女が誰だったかもわからない。探る気もない。
千空さえ黙っていれば、よくあるアクシデントのひとつとして見過ごされ、これまで通り日々が廻る。いずれ記憶も薄れ、なかったことになる、はずの。
問題が起きたのは、女を見たその夜だった。いや、翌日目覚めた時と言った方が正確だろうか。
夢に全裸の女が出演し、振り返った顔がゲンだったのだ。
千空は仙人でもなんでもない、今は暇がないから恋愛脳スイッチを切っているだけの、性欲も恋愛欲もある一般的な青少年だ。だから夢に全裸の女が出てきたこと自体は納得した。さすがに顔見知りだと気まずいが、誰かわからなかったために御出演願ってしまったのだろう。己の性欲がはりきってしまったのだな、とそこまでは理解できる。
だが、そこでゲンの顔をしているのはいただけない。
顔見知りの女でさえも気まずいのに、男。しかもゲン。気まずいどころの騒ぎではない。
それでもその日は、しょせん夢なのだからと流せた。ゲンの顔をしていても、首から下が完全に女のものであったのも大きい。夢は記憶を整理するために見るのだから、脳内にある映像が妙な具合にひっついたのだろう。そもそも遠目から豆粒サイズでチラ見した女体らしきものと昨夜の全裸では、インパクトもけた違いであっただろうし。
それで終われば大した問題にはならなかった。そう、この一度きりならば。
まさか翌日も同じ夢を見るなんて。
いや、同じどころかエスカレートした。あの夜見た女が振り返るとゲンの顔をしている、までは前日と同じ。そのまま千空の手を自分の尻に誘導しようと引っ張ったのだからとんでもない。飛び起きたとたん、千空は己の手を確認した。力が抜け軽く指の曲がった手が、あの尻のカーブに沿っているような気がして慌てて拳を握りしめる。
違う! 自分はあの時、まったく、ちっとも! そういうつもりはなかった!!
誰に訴えているのかわからぬ弁明を、声にすることもできず床の上で唸り転がる。
あの夜の女は千空が居たことを知らない。ゲンも千空の夢に出演してるつもりはないだろう。百パーセント己の脳内だけで完結する問題の、解決方法がわからない。どれだけ忘れろ消えろと念じてもどうにもならない。
それから毎晩、女の体を持つゲンが夢に出てくる。いかにも青少年のものらしい、現実にはありえないだろう行動を嬉々としてとるゲンが。
勘弁してくれ。毎朝、すこぶる元気に存在を主張している股間を見るたび千空は死にそうだ。
これまでこんなに毎日元気だったかおまえは? 朝勃ちといっても限度があるだろう。見た夢をはっきり覚えているだけに、萎えるどころがお元気いっぱいのちんこを信じられない。テメーとは意思疎通ができねえと思っていいのか? ゲンだぞ??
事前に抜いておけばと常は一回で十分なところ二回がんばっても、気にせずの御出演。夢の中のゲンは「千空ちゃんの疲れた顔ってエッチだよね」と笑いやがった。ふざけんなそれはテメーだろ。
顔を合わさず少しでも脳内のゲン成分を減らしておこうと一日中採取に出かければ、寝る前にゲン本体が訪れたので出かけた意味がなくなった。しかも帰り際「今日は一度も千空ちゃんの顔見なかったの落ち着かなくて来ちゃった♡」と笑顔つき。語尾に♡もついていた。あの言い方はそう、絶対だ。あ゛? ざっけんな、テメーは俺をどうしたいんだコラ。当然のようにその夜の夢にも出演したゲンは、がんばりやさんだねぇと千空の股間をヨシヨシした。全裸で。そこは採取において何ひとつ活躍してねえとこだわ。
このままじゃまずいことになる、とさすがに危機感を募らせたのが昨日。
十日連続で全裸のゲンの夢を見ている時点でまずいが、これまでは体が女だからという言い訳があった。
だが、最近ゲンの胸が――正確にはゲンの胸ではなく名も知らぬ女の肉体だが、こう、日を追うごとに縮んでいるのだ。気のせいではなく。
思い返せば四日目あたりから変化していた気もする。ただ、千空は別に巨乳派ではないというか、そこまで胸の大きさにこだわらないので、ゲンの胸が前日より小さく見えてもスルーしていた。いくら夢といえゲンの胸の大きさに敏感な己はいかなるものか、という気持ちもあったことは否定できない。
ただ、一昨日あたりから女の胸というには小さい……というか率直に言うと平すぎるのでは、というサイズに見えていたわけで。昨夜に至っては、これはもう男の胸板では? と以前ゲンの治療をした際の記憶を引っ張り出したレベルで。
下半身はあの夜の見知らぬ女のものだが、上半身がゲン本人のものでエロい夢に出てきやがったのだ。あの男は。
それなのに、千空の股間はここ数日と同様に元気いっぱいだった。半分ゲンであったことなどまるで気にしないおおらかぶりである。しかし、ちんこは気にしなくても千空は気にする。顔だけならスルーできていたが、顔から上半身までゲンならそれはもう五割方ゲンだろう。半分。二分の一。乳房があったからこそちんこが大興奮しても見逃していたのに、平たい胸板に乳首だけはいけない。あばらの浮いた、あれはゲンの上半身。ゲンだ。ゲン、なんだ。
だから早急にちんこは元気をなくしてくれ。頼むから。
おそらく、あの夜の女を特定するのは難しくない。
十日前に温泉に来れる場所におり、夜に一人で出歩くことを恐れない。この時点で候補は絞れるし、あの夜を思い出せばそれなりの精度で尻のサイズも判別できる。なんだかんだ皆薄着なので、服を着ていても尻の形や大きさはわかるものだ。
だがそれには不特定多数の女の尻を見つめねばいけない。千空が。理由もなく。いや理由はあるのだが、明らかにしたくないから言えない。言えるか? 毎晩ゲンのエロい夢を見るのを何とかしたいからです、おい言えるか!?
そして一番の問題は、誰の尻かわかってもそれからどうする? ということだ。
女の尻が夢に出てくる、顔がわからないから知りたい、ならあの日見たのは誰だったのか特定するのも意味はあるだろう。少なくとも毎晩夢に見るほどにすこぶる好みの尻だった、のだ。つきあうつきあわないは置いておいても、ああいうスタイルの女が自分は好きなのか、と千空自身が納得できる。
だが夢に出てくるのはゲンなのだ。あの日の女の尻をしているだけで、顔はゲン。上半身もゲン。
なら、誰だったのかわかって、意味はあるのだろうか。
おそらく、好みの尻を目撃しテンションが上がったところに、現在のところわりと好感度の高いゲンがひょいと混ざりこんでしまったのだ。脳内でうっかり。別にゲンに性的興奮を抱いているわけじゃない。ただ文字通り好感度が高かった、気に入っていた、そこに性的な好感度が高い尻が混ざっただけ。そうに違いない。きっとそうだ。そうだと言ってくれ。
だからつまり、ゲンにあの尻がついていないとわかれば、今後夢への出演をご遠慮いただけるのではないか。
後から考えればただの屁理屈でしかない。それでも千空にとっては、ただ一つの蜘蛛の糸だった。
わりと気に入っている仲間の男が、毎晩毎晩えげつないほどすけべな様で夢に出てくるのだ。自分にこんな趣味嗜好があったのかと毎朝反省会をするのは、もう勘弁願いたい。
童貞の夢を詰め込みすぎだと笑うには、千空の脳はゲンを記憶しすぎている。身体は女のもの、という逃げ道さえとうとう消えそうな今、下半身まであの尻でなくゲンのものになったらどうすればいい。あの夢で夢精だけは絶対したくない、と寝る前に処理してしまおうとした際、自然とゲンの事を考えた日には本気で頭をぶつけて記憶を失おうと思った。夢だけでなく現実まで浸食されかかっている。このままでは日常生活にまで影響がある。
これはもう、ゲンの全裸を見るしかない。
ゲンにはあの尻はついていない、魅力的に千空を誘う肉体はない。あれはあくまで夢で、現実には同じパーツを持つ男しか存在しないのだとしっかり認識できれば大丈夫。
そう考えて、わざわざゲンが水浴びしているところに足を運んだのだ。
夢ではなく現実を見る、つもりで。本当に。信じてくれ。
「千空ちゃんも水浴び? エアコンに慣らされた俺らにはこの暑さキッツいよねぇ、ジーマーで」
水を浴びながらのん気にこちらに笑いかけるゲンを前に、千空は必死で目を逸らそうとした。
何もかもから。
「この辺は男専用なんだって。女の子にニアミスしたらバイヤーだもんね、千空ちゃんも安心して脱いじゃいなよ」
しっとり水分を含んだ髪がはりつくうなじ、骨ばっているくせに滑らかな肩から肩甲骨、背骨をつたって流れ落ちる水滴。細い腰から続く白く光るような尻と、肉付きのいい太もも。あの日の月光ではなく、今日は木漏れ日を反射して。
下半身が女のものでも上半身がゲンであれば、それはかなり『ゲン』だと認識していた。
ではあの夜の下半身もゲンのものであったなら。
毎晩毎晩夢に見るほど好み、の尻の持ち主がもとから好感度の高い相手であったのなら。
それはつまり。
「夢と現実が無断で一緒になってんじゃねえよ!!」
「なに、急にどうしたの」
つまりあれか。千空の脳は正しい知識のもと夢を現実に近づけようと修正していたのか。じゃあちんこはなんだ。おまえの誤作動はどういうつもりだ。
「夢と現実が一緒、ってあれ? 行ったことないけど夢で見た光景、みたいな」
「……夢レベルでありえねえ話が現実だったっつーわけだ」
「え~、全人類が石化しちゃう以上?」
ケラケラ笑うゲンがかわいいなとちらりと考えてしまい、千空はもう逃げられないのだと諦めた。だからつまり、そういうことだ。
現実が夢に追いついてしまった。