Fly me to the moon

聞き覚えのある歌に耳をすませたゲンに気づいたのか、タクシーの運転手は得意気に助手席の機械を叩いた。

「ラジオ?」
「レコードですよ。この一曲しか入ってませんけどね」

曲のタイトルを思い出し、なるほどこの地にぴったりだと頷けば少々からかい気味の問いが投げられる。

「お客さんも『月の指輪』に? 今日は残念ながら曇るそうですよ」
「あらら、ざ~んねん。せっかくここまで来たんだから見てみたかったんだけど」

まあ相手はいないんだけどね、と肩をすくめれば下見も大切だと笑い飛ばされる。
気のいい運転手に見送られたゲンの目の前には、丸くアーチを描いた石の橋。
水面に月が映りこみ、光が上手く反射すると巨大な指輪のように見えるから『月の指輪』。
べたな名前だが、口コミが主な今の世界ならそれくらいわかりやすい方がいいんだろう。ロマンチックな光景をバックにプロポーズが流行っている、という方向でこの地の新たな観光名所として売り出し中。
この橋に来るタクシーは皆同じ曲を流すのだと胸を張っていた運転手を思い出し、その商魂たくましさにゲンは思わず微笑んだ。石化し、すべての文明が失われても。それでもなお繋いでいく力強さ、諦めない意志こそ彼が守りたかったものなのだろう。

こんな辺鄙な場所で待ち合わせなんてと疑問だったが、もしかしたらただ見せたかったのかもしれない。復興のため世界を飛び回っているくせにあまり実感がわいていないゲンに、どれほど世界がたくましいのかを。

先ほどまで耳にしていた曲を口ずさんでいれば、背後から待ち人の声。

「『In Other Words』か。人類が初めて月面で聞いた曲じゃねぇか」
「え、『Fly me to the moon』でしょ」
「元のタイトルはこっちだろ」

振り返れば、いつ着いたのか千空が立っていた。
ヒビのないつるりとした額も、コートのようにはおられた白衣も、未だ見慣れない。もう皮製の服を身につけなくなってそれなりに経つというのに、共に過ごす時間が減ったせいだろうか、見るたび違和感に笑ってしまう。今日のゲンは以前の服を着ているから余計に。

「そうなの? でも曲名っぽいのはこっちじゃない、『私を月に連れて行って』」

他意はなかったのに、どこかねだるような響きになった気がしてゲンは密かに声を作り替えた。

「ロマンチックだよねぇ」

 

◆◆◆

 

過去一度だけ、ゲンは願ったことがある。
千空が月へ行くからと皆に欲しい物を聞いていた時、問われてつい言葉にした。

「一緒に連れて行ってよ、月」

ゲンが行っても何の役にも立たないことはわかっていた。気球だって船だって、自分が役立たない場所はいつも怖い。行きたくない。それなのに。
断られると確信していたから、ゲンは口にした。
ただ自分のためだけに。
バカな事言うなと笑い飛ばしてほしい。明日から筋トレに参加するならいいぞと意地悪く笑ってくれてもいい。次のロケットな、と全て解決した後の未来を約束するのもアリだ。

悔しかったのかもしれない。月ばかり見て地上の事はゲンに任せきりの千空に、ほんの少しだけこちらを気にしてほしかったのだろう。
同じところに居るよ、同じものを見ているよと伝えたかった。
連れて行ってなんて本気じゃない。行きたくない。ただ千空の背をつつきちょっかいをかける、その程度の気持ちで。

「っ、あ゛~」

千空は断らなかった。無理だとも。バカな事言うなとも。
何かを言いかけ、結局形にしないまま言葉を封じた唇。ぎゅうと歪んだ眉。ほんの少し細められた目に宿る熱。
ああ失敗した。失敗した。こんなつもりじゃなかった。キミは今、何を飲みこんだ。

「なーんて♪ そんな歌あったよね~石化前。皆憧れちゃう月! いいねぇ千空ちゃん、どんなとこだったか教えてよね」

軽口にゆるむ空気。よかった、ペラペラの口先だけの男で。こうして彼を笑顔にできる。

「遊びに行くんじゃねえんだぞ」
「いいじゃんいいじゃん、かぐや姫とかウサギとかいるかも~三千七百年経つんだし。ま、今回はお願いされてもジーマーで勘弁だけど。色々全部解決したら行きたいよね、世界中に月からマジックショー生中継!」
「そんときゃ独占配信にして龍水からがっぽり稼いどけ」
「お任せあれ~」

船の石油代のためだったのだから、もう稼ぐ必要はない。龍水からドラゴをふんだくるため協力していたのはとっくに昔の話だ。それなのに今更。

ごめんね、メンタリスト失格だ。
今の一瞬で気づいてしまった。千空が隠していた、見せるつもりもなかったその感情。いや一応申し開きをしたい。ゲンとて想定外だったのだ。

まさか千空がゲンに恋心を抱いているなんて、そんなこと。
だからうかつに揺さぶった。軽口に紛らわせて自分の感情を放り投げた。こんな大切な時に千空を動揺させるつもりなんてなかったのに。

「……帰ってくるの、楽しみにしてるね」
「どこらへんがショーしやすいか下見しておいてやるよ」

率直に言おう、期待した。当然。
今はダメだ、わかる。恋だ愛だに現を抜かしている場合じゃない。
だけど石化の謎が解けすべてが終わったその時は。世界が復興へと歩み出し、千空一人で背負わなくともよくなれば。彼が時間に追われず、己の感情を振り返る心の余裕ができれば。
好きだ、と。
千空は飲みこんだ気持ちを伝えてくれるのではないか。ゲンの思いを伝えてもいいのではないか。

叶えるつもりもない恋だった。千空の重荷にだけはなりたくなくて、彼が望まないなら形にもしないでおこうと。
けれど許されるなら。彼が同じ気持ちを抱いてくれているなら。
月から帰ってきた、その後には。

 

◆◆◆

 

ゲンから伝えようとすればさらりと躱される。千空から伝えたいのだろうかと待ってみても何も起こらない。タイミングがわからないのかと何度も会いに行き、さりげなく二人きりになり、そういう雰囲気をつくりあげ。
どれほどお膳立てしても告白イベントは起こらない。

「なにがロマンチックだよ。行きたい場所の希望だろ?」
「この曲そういう風に言うの千空ちゃんくらいだと思う~」

こっちだと石橋の上を指され、ああまたかと落ち込む気持ちをなんとかなだめすかすのも慣れたものだ。
何回も期待して、そのたび落胆する。
どれだけ繰り返しても期待するのをやめられないあたり、本当に自分は往生際が悪い。

月へ行く前、確かに千空の中にゲンへの好意はあった。
ただそれを育むつもりも、伝える気もないのだ。彼には。

ゲンが知ってしまったのはあくまで事故で、千空は黙って一人抱えておくつもりなのだろう。こちらが気づいていることさえ千空は知らない。
伝えてくれると期待しているのはゲンの勝手。共に生きたいと願っているのも。それでも。
わかっていても、期待してしまう。千空が他の誰も傍に置かないから、ゲンの入り込む隙があるんじゃないかと。

今日の待ち合わせ場所だって、告白やプロポーズに最適と推されている観光名所だからまた期待してしまった。
そんなんじゃないとタクシー運転手には笑ったのに、自分に言い聞かせたのに。それなのに、雲が切れて月が見えてきた時にはひどく心を浮き立たせて。
せっかく水面に月が映っても、石橋の上に立ってしまえば指輪は見えない。

「わかってる、んだけどなぁ」
「あ゛? さっきから何だ」
「なーんにも。ところで今回はどうしたの? こんなとこに呼び出して」

この国にめぼしい資源はなかったはずだが、新たに発見されたのだろうか。それともタイムマシンの協力者を確保? きな臭い噂は耳にしていないが、ゲンが把握していないなにかが起こったのかもしれない。
眉間にしわを寄せている千空をうかがうも、顔の前で指を二本たてて考え込んでいる。
そこまで説明しづらい事態が起こっているんだろうか。考えの邪魔をしないよう口を閉じ、ゆっくり周囲を見回せば未だ人の手が入っていない自然がゲンの目に飛び込んでくる。
いくら復興が進んだといえ人里離れた場所に照明は少なく、夜はまだまだ暗い。石化前には見たことないほどの数の星と煌々と輝く月。これならきっと、きれいなリングが足元には浮かんでいることだろう。

「ゲン」

ようやく向けられたまなざしも声も、ひどくまっすぐだった。

「テメーあの時言ったよな、月に連れて行ってくれって。俺が月に行く前、ほしい物を聞いた時だ」
「い、ったけど……あっ、もしかしてジーマーで月でマジックできる準備整っちゃった!?」

はしゃいでみせても千空の雰囲気は硬いまま。
ないだろう無理だろう、でももしかしたら今回は。何回も言い聞かせ、それでも心の片隅にあった希望。
そのゲンの儚い希望さえも消え失せるような、求めているものとは違う告白なのではないだろうか。もしかして。

わざわざあの日の事を口にして、けれど甘い雰囲気はまるでない。どこか悔いるような、低い声。今更気づいてしまったのか、ゲンの気持ちに。そして応えられないと告げるつもりなのだろうか。
ねえ、後悔してるの。俺の時間を無駄にさせたと。もっと早くつきあうつもりはないと伝えておけばよかったと。
そんなこと気にしなくていい。どれだけゲンが伝えても、千空は気に病むのだろう。勝手にゲンが期待した。同じ気持ちを抱くならば関係も同じものを求めるだろうと決めつけた。千空がどういうつもりかを探りもせずただ浮かれたんだから、責任はゲンにある。

手足がずんと重くなる。一歩が出ない。
月光に照らされた千空は真面目くさった顔をしてゲンを待っている。行きたくない。

確かにあの時千空の中にあった好意は、いったいどこにいったのだろう。心の奥底にしまい込んだのか、それとも捨ててしまったのか。
もし月に置いてきてしまったのなら、今すぐシルクハットから取り出したい。あなたの胸に在ったものはこれですね、なんて気取って渡せば千空の中によみがえるのだ。ゲンへの恋情が。

「って言ってもまずタイムマシンだもんね! 人類憧れの月旅行はまだ先かな~」
「目途がついた」

ああ、とうとう幕が引かれる。ショータイムはお終い、マジックは間に合わない。舞台上で煌々とスポットライトを浴び光輝いていた魔法の道具は、とたんただのガラクタに。

「あ゛~、正確には目途がつく予定になった」

しんみり己の恋を埋葬しようとしていたゲンは、千空のあやふやな言葉に引っかかった。目途がつく予定ってなんだ。いったい何の話をしている。

「さすがに今すぐっつーのはまだ難しい。木星や火星も、見るだけじゃなくショーもってなると正直俺らが生きてる間にできるかどうか」

木星? 火星??

「行くだけならどうにかできるかもしれねぇが、テメーがやりたいのは全世界に中継するマジックショーだろ。機材とスタッフ、場所も考える必要がある」
「ああ、うん。……うん?」

覚悟を決めていたから戸惑ってしまったが、千空は大真面目に月でマジックショーの話を続けていたらしい。できたらいいな、程度で口に出したので真剣にとらえてもらって申し訳ないくらいだ。
しかし木星や火星も、まで欲張ったことはないはずだけれど。

「せっかくテメーがしたがったことだ、叶えてから次に進みたかったんだが……さすがに時間がかかりすぎるのもな」

流れが読めない。

「ここなら、まあ星に囲まれてると言えなくもねえだろ」

どうだ、と千空の腕がすいと天を指す。指先を追うゲンの視界には降るような星空と巨大な月。
らしくないロマンチックな発言に千空の顔をうかがえば、相変わらずの真顔でどうにもちぐはぐだ。印象があちこちに散っていて上手く飲みこめない。真摯な表情と後悔しているような低い声、そのくせ雰囲気はどこか居心地が悪そう。でも少し、ほんの少しだけど浮かれた空気が漂う。

読み間違えて、いた?

「月にはまだ連れてけねえが、そのうちなんとかなりそうってことで手を打ってくれ」

 

 

ゲンは別に月に行きたくなんてない。千空が行くからねだっただけ。ごまかすためにマジックショーだなんだと言っただけ。ほしい物なんて、本当の事はひとつも教えたことがない。
それなのに。

「『俺を月に連れて行って』くれるの? 千空ちゃんが?」
「あぁ」

向けられる視線は変わらずまっすぐで、真摯だ。出会った頃から変わらない、ゲンを導くただ一つの光。

「……俺、歌わないよ」
「マジックショーするだろ」
「でも、手は、握ってほしいかも」
「他には」

言い終わる前に、手どころか腕ごと引かれ抱きしめられる。
ロマンチックだと言ったゲンを笑ったのは誰だ。行きたい場所の希望だって? 歌なんてくだらないみたいな顔をして、数年前の戯言をしっかり心に留め置いたくせに。

告白のチャンスをわざとスルーしていたのではなく、告白するためにゲンの願いをかなえようとしていたなんて気が長すぎる。皆、千空のように三千七百年を待てる人間ではないのだ。

「なんで橋の上なの?」

愛を告げるなら『月の指輪』を見ながらでもよかったはずだ。歌をなぞるなら尚更。

「あ゛~、俺としてはそう見えねえっつーかそもそも動力源はなんだって話でだからこう、その……船、だ。月へ行く」

そういうのテメー好きだろ。ささやきはひどく小さかったのに、とんでもない勢いでゲンの身体を揺さぶり駆けぬける。
違うよ千空ちゃん。世間ではリングで、月を宝石に見立てて。ねえ。それなのに船を。ロケットに乗らないゲンのために船を。バカ。船だって怖いよ、知ってるでしょ。俺なんて役立たないから船には乗らないってあの時も。

あの時も、千空はゲンが必要だと言ったのだ。

「千空ちゃん」

ゲンが喜ぶだろうとわざわざ探したのだろう、この場所を。本人さえろくに覚えていなかった「そんな歌あったよね」を可能な限り再現しようと努力して。
大真面目に受けとる箇所が違う。そこじゃない。ああ、本当になんて。

「わかんないわかんない。何言ってるのかジーマーでさっぱり! だから言って」

こんなにかわいい人の傍にはゲンが居なきゃ、心配で生きていけない。

「『In other words』?」

千空が答を返す前に口をふさいでしまったから、また改めて教えてもらおう。
ねぇ、月の船を降りたら『I love you』って伝えて。