我らに永久を - 2/3

熱っぽいな、と帰り道には自覚していた。
ただ、あまりの衝撃的な出来事に頭がついてきていないのかもしれないと、思って。
力の限り漕いでも小さくなるばかりで追いつきさえしない背中。倒れこむようにゴールした石垣を見下ろしていた、表情のない白い顔。汗のひとつもかいていない。

あれが、アルファ。
生まれつき能力が優れている選ばれた性、と習ってはいた。アルファとベータ、オメガについては小学生だって今時知っている。優秀なアルファと一般的なベータ、そして子を産むオメガ。石垣とて教科書レベルの知識ならあった。あった、けれども実際身近にアルファなど存在しなかったから。
勝ってあたりまえ、の顔をしていた。うれしいとか、よかったとか、そんな感情欠片もなく。あの一年生の中で勝つことは確定事項で、負けた石垣のことなどその辺の石ころと同じように見て。
いや、見てさえもいなかった。
あんなものが、アルファ。
人を人とも思わぬ、冷たい目をした男が。すべてボクに従えばええ。甘ったるい声音で考えることさえ放棄させた、石垣を、皆をザクと呼んだあれが。

石垣はオメガだ。
世間的に子を産む性と称されてはいるが、まだそこまで性を意識したことはなかった。おそらく発情期が未だ来ていないせいもあっただろうし、抑制剤が体質に合ったのも大きかったのかもしれない。知識はあっても、己がどうなるのかはまるでわかっていなかった。

それでも、たったひとつだけ。教科書にも載ってる、誰でも知ってるおとぎ話のような運命の話。
アルファとオメガには、唯一の運命の番がいる。

出会えばわかるたった一人。世界に唯一の自分の番。教わった時はそれはもう、女子はうっとりしていたし他人事でない石垣もそれなりにドキドキした。
自分だけを見て好きになって特別にしてくれる、たった一人だけの石垣のアルファ。
成長するに従って、数の少ないアルファにまず会えないということを知り。そもそもエリートはもっとええとこに通うのだと理解し。普通に生きていくだけではめったにアルファなど会わない、と納得する頃には運命の番なんてほとんど忘れてしまっていたけれど。
それでも、幼い頃に抱いたぼんやりとした憧れはあったのだ。いつか出会うかもしれないアルファ。どんな人だろう、優しいだろうか頭がいいんだろうか運動選手かもしれない、なんせアルファは選ばれた性なんだから。
その、運命かもしれないアルファが。あんな。

石垣に向けたまなざしに熱などなかった。意思も、なにも。風で木の葉が飛んだからつい目を向けた、その程度の。
誰のことも見ず興味を持たず、ただただ己の駒になれと求めるアルファ。優勝をやる、なんてささやきだけはめっぽう甘い、棘だらけの言葉。
だけどアルファだ。あれが、アルファ。石垣が生まれて初めて出会った、運命かもしれない相手。

あまりの衝撃に石垣はその夜から臥せり、熱を出して一週間寝込んだ。
発情期、だった。
初めての発情期は肉体的に成熟していたためか、軽くで済んだのが不幸中の幸いだと自分に言い聞かせた。

 

◆◆◆

 

二回目の発情期はひどかった。
夏のインハイを終えたばかりの身体は疲労が溜まり、緩んだ精神は石垣の自覚していない感情まで暴きたてた。身勝手に。

目の前に乱暴に翻る白。
いつも石垣の目を焼くそれは彼の手の平で、気に入らないことを口にしたと言っては頬をひっつかんだ。
深爪気味の指先。硬い皮膚。青緑の血管が浮き出た手の甲から続く骨ばった手首、筋の目立つ腕、こつりととがった肘。ジャージに包まれる二の腕は長さのせいか筋肉がついているわりにひどく細く見える。
部内の誰より多く、石垣が彼に顔をわしづかみされていた。だから、一番近くで見て。触れて。

頬以外に触れられたことなどない。インハイで落車を救われたことがイレギュラーで、それ以外に彼が石垣に触れたことなど。考えたこともないだろうし、必要性も認めない。彼は。恐ろしいくらい純粋でまっすぐな彼は。
石垣の脳内で、ひどくみだらに彼の手は動いた。ボクでこんなにしてんの、といやらしく笑い、もっと見せてぇよ、とまるで愛しいものに触れるように手を伸ばして。

違う。
彼はこんなことしない。大切そうに自転車に触れる手だ。グリップを握り締めるための、勝利を掴むための、そのための。あの美しい手は、それなのに石垣に触れ、弄り、暴きたてる。脳内で。脳内の。

あんなにきれいな彼を、石垣は。

 

 

 

キミィらはかわいそうやけども。
人を馬鹿にしきった口調で言い放ったのはいつだったろう。汗をぬぐった彼のうなじが白く光っているように見えたから、まだ襟足が短かった時期だ。そう、アルファなのに運動がことのほか苦手な彼を知り、不審に思っていた頃。

「知っとるやろ? ボクはアルファや。生まれつきカミサマに贔屓されて、やればやっただけ結果が出る」

石垣の知識とは少しだけずれる言葉。
やればやっただけ? 生まれつき、なんでもできるのではなかったのか。

「キミィらはかわいそうやけども。がんばった分だけ結果でるわけやないのはベータやさかいしゃあないな。せいぜいザクとして気張り」

彼がなにを言いたいのか石垣はわからなかったけれど、理解することを求められているわけじゃないのはわかったので問い返しはしなかった。
やればやっただけ。
それはつまり、しなければできない、ということだろうか。だからアルファなのに自転車以外の運動は平均以下だと。

なんでも軽々できるんだと思いこんでいた。アルファなんだから。だから自転車も速くてあたりまえ、石垣に大差をつけて勝ってもあたりまえ。誰より早く部室を開け、最後に帰る彼を知っていたくせに。速いことだけを求める彼が、己にもっとも厳しいことに気づいていたくせに。
石垣はこの時初めて気づいたのだ。

おそらく彼はそんなことを伝えたかったわけではない。自分の努力を喧伝することをことさら厭うような性質だったから、アルファも努力するんだなんて言いたいわけじゃないだろう。いっそ、なんでも簡単にできてしまうと強気に出る方が似合っている。
それでも、気づいた。気づいて、しまった。

彼は滑稽なくらい長い首と腕を持っていた。高校一年生の平均身長をはるかに超える身体をゆらりゆらりと揺らしながら歩く様は奇妙で、ぐるりと人を見透かすように見やる大きな目や長い舌も相まってどこか化物染みていた。夕暮れ時に小学生が彼を見かけて怪談話にしたてあげたと聞いた時には、大笑いする井原たちを諌めながらも正直納得した。

どこまでも自分たちと違う、特別なアルファ。
それなのに、彼はロードを回せば汗をかき練習を終えれば息を荒げ体育と美術と音楽の前に見かければ憂鬱そうに眼を伏せていた。石垣の頬をひねる指先は硬く締めつける力は強い。こちらの理解が悪ければ苛立った声を隠さないし、タイムが縮まれば語尾が楽しそうに弾んだ。
石垣達と同じ、変わらない、人間らしい反応。アルファなのに。違うのに。同じ。いや違う。でも。だって。

自転車を整備する時、たっぷりと時間をとる。道具の扱いは神経質で丁寧。クラスでは物静かでほとんどしゃべらない。音楽の授業でリコーダーだけマシなのは、練習したのかもしれない。身体に似合った大きな手の平はけれど薄く、指は節が目立つほど細い。猫背ぎみの背中にぽこりぽこりと並ぶ背骨、その横、肩甲骨の下にぽつりとある黒子はきっと本人の知らないもの。
知らなくていい情報を拾い集めて重ねて抱きしめて、石垣は彼を知ったような気分に浸る。純粋でまっすぐでいとけない、せつないほどきれいな前しかみない彼。きっと、彼のようなアルファこそが幼い石垣の憧れの。

だから違う。それなのに。石垣の、オメガの欲が。
彼を。

「み、どうすじ」

二回目の発情期、石垣はただ一人の自分の美しいエースを犯した。脳内で。
長い腕は助けを求めるように空をかき、白い手は石垣を愛しむようにやわらかく触れ、背骨の目立つなめらかな背中はのたうった。石垣の腕の中で。

「御堂筋」

あのまっすぐさに憧れた。清冽な純粋さを、守りたいと願った。彼を引いてその手に勝利を掴む、ほんの欠片でも手伝えたらと。そう、考えていたことを否定はしない。自転車以外に不器用な彼を、ほほえましく見守っていたのだって誰に問われても胸を張っていられる。不純なことなどなにも。なにもない。彼に似合う、彼にふさわしい想い。
彼が自転車に向けるような愛情を、石垣は彼に。

「御堂筋……ゆるして、くれ」

彼に抱いてほしいなどと思わなかった。期間中ずっと、石垣はただひたすら脳内の御堂筋をむさぼった。こんなものはオメガの欲ではない。産む性の、ものでは。
石垣の欲が彼を汚す。あのきれいな存在を。自転車のためだけにつくられた肉体を。
次の発情期を恐れ薬の量を増やしたせいか、石垣の体調は狂いやすくなった。

 

◆◆◆

 

三回目の発情期は開き直った。
脳内の御堂筋は、心底楽しそうに石垣に触れいやらしく腰を揺らし淫らに足を絡める。見た事もないのに馴染みがあるのは、二回目以降欲を解放する際にいつも想像しているから。抑制剤を常用しているため通常より性欲が落ちるはずなのに、それでも彼を想うとどうしようもない。
せめてオメガらしく彼に抱かれる妄想でもすればいいと考えてから、あまりの無謀さにおかしくなる。

確かに御堂筋はアルファで、オメガ性であればたとえ男性でも抱ける。けれどアルファやベータの女性、オメガの女性をも振り払ってなぜ男性をわざわざ抱こうと思うのか。オメガ性であったとしても。あまりの現実味のなさに想像すらできない。これで御堂筋がほんの少しでも石垣の匂いに気づいてくれていれば、まだ夢を見られたのに。実際は発情期のたび風邪だと偽り、まったく疑われずこれまできている。
まるで興味がないから。御堂筋は、石垣のことなど気にも留めていないから。

「もう、風邪、ええんか」
「全快や。すまんな、心配かけて。受験生やし周りにも移したらえらいことや、てずーっと家に閉じ込められとったんよ」
「心配とかしとらんし。キモ」

引退したっちゅーのに毎日顔見てる気ぃするわぁ。受験生さんはえっらいお暇なんやね。ああ余裕なんかなぁ。
つらつらと並べたてられる嫌味さえ愛しくて笑えば、御堂筋は心底嫌そうに顔をゆがめた。きっと話が通じないと思われている。一言目につい出た心配と、それをごまかすかのような嫌味がかわいかっただけだが、そう告げてはいけない。
部の先輩にそんなことを言われても、困るだろう。石垣なら困る。からかわれているのだと笑い飛ばすだろうけれど、はたして御堂筋にそこまで求めていいものだろうか。まるで普通の先輩後輩のような。

ぶるりと震える肩は制服の中で泳いでいる。身長に体格が追い付いていないのだろう。あたりまえだ。彼はまだ十五で。たった十五歳の、少年で。

「で?」
「んん?」
「部活終わりにわっざわざ顔出して帰りついてきとるの、なんや言いたいことでもあるんちゃうの」

御堂筋の口が開くたび、ふわふわと目の前に雲がかかる。違う。これは息が白くて。寒いから、冬だからで、そんなメルヘンな話ではない。目の前にいるのは自分より背の高い、どこもかしこも硬い身体の男だ。
だけど。

「好きや」

口をついて出てきた言葉に一番驚いたのは石垣だ。

告げるつもりなどなかった。男同士で、石垣はオメガだからといっても御堂筋のオメガ嫌いは有名で、そもそも目の前の彼はそんな感情を持ってなど。
目を、丸く見開いているのがひどく稚い。
ゆるりと目の前にかざされた手に目が釘付けになる。なんとかごまかせないかと開いた口をふさぐようにひっつかまれる頬。黒い手袋越しの指先は、夏と変わらず力強い。

「い、いだだだだっ、みど、すじぃぃいぃ」
「……キッモ」

吐き捨てられた感想と一切の躊躇ない指先に、正しく受けとめられた恋心はきれいに振られたのだと理解した。
した、のに。

「で?」

心を煩わせたいわけじゃなかった。断ったことを負担に思ってなどほしくない。だからこれまでと同じように接したし、だから御堂筋と二人きりになったりしないように慎重に動いた。石垣への態度を変えない御堂筋への、それが誠意だと信じて。

「……ボク最後までちゃんと聞かんとイライラする方なんや」

それなのにおまえが拾い上げてくれたから。

「キミ、なんや言いたいこと途中なんちごたん」

ケーキまでわざわざ買ってあほやろ、なんて。わざわざ、は御堂筋こそが。誕生日を祝いたかったのは石垣のわがままで、ケーキを置いたのだってなにかしら贈りたかっただけだ。御堂筋になにか。石垣から。なんでもいいからなにか。この、自転車での勝利以外を求めない欲のない男に、むりやり押しつけたかったのだ。それだけの、見て見ぬふりをしてくれてよかった好意に反応してしまうなんて。石垣を探して、声までかけて。
いいのか。

「言うてまうよ」
「そうしろ、ゆーとんねん」
「……言うて、ええんか」

好き、の続きを。御堂筋に望むことを、言葉に、声に、形に。してしまっても。
拒絶にだって労力がいるだろうに。

「言え」

獲物を弄る猫のような目をしていた。ぴかぴかと光る夜の底のような瞳。わかりきっている言葉をそれでも聞きたがる耳は薄く、小さい。夏は髪がかかっていたからあまり目につかなかった。促す声は逆らうことを許さない、命令しなれたアルファの。
まさか望みがかなうなんて、夢にも思わない。

 

◆◆◆

 

四回目はこれまでで最もひどく発情した。
欲望の対象が確定していたうえに、彼の見た事もない表情や傍にいなければわからない熱を知ってしまっていたから。

妄想でだけ石垣を許し誘う御堂筋は、どうしようもなくリアルになった。だって知っている。照れて視線をそらす表情を。そんな自分が悔しいのか、ほんの少しとがる唇を。その、熱を。
これまであんなにいやらしく石垣を惑わせてきた御堂筋は一転し、自分の痴態を恥じながらも求めてくる。
石垣くん、と何度も耳元でささやかれる。少しかすれて甘い声。キミがほしいよ、なんて焦れて与えられる承認。石垣がほしいと。そう、告げる御堂筋など。
いるだろうか。そんなアルファが。

石垣の脳内に居る御堂筋は求めてくれる。けれど現実の彼は、アルファの彼は、オメガの石垣を組み敷く立場だ。自分が受け入れるかもしれないなんて、可能性としても考えていないに違いない。石垣とておかしいと自覚している。どうして自分はオメガらしく彼を受け入れることを求めないのか、と。

初めて御堂筋を抱く夢を見てからずっと考えていた。自分はおかしいのか否か。オメガの男性は通常はともかく、発情中は受け身になるのが当たり前だ。産む性なのだから。石垣とてそう習ったし、理屈でも正しいと思う。思う、のに。頭では理解しているというのに、どうしても。

発情して、絶望する。そして歓喜。

だって受け入れてもらえるはずがない。いくら男性同士だと御堂筋がわかっていてつきあってくれていても、アルファの彼が受け入れる立場になるなんて考えたこともないだろう。性行為すらできないと思っているかもしれない。
だけどできる。石垣はオメガだから。御堂筋の嫌うオメガだから、アルファの彼を受け入れられる。そしてしばることも。

口にしなければ。この異常な妄想を告げなければ。あのきれいなアルファを抱きたいのだと、悟られてはいけない。けして。
彼を受け入れて、受けとめて、すべて孕もう。使える手ならばなんでも使って、石垣のもとに縛りつけてしまおう。
仕方ない。仕方ないのだ。御堂筋の目がだって石垣を捉えたから。居る、と。距離を詰めることを許し、アシストだと立ち位置に名前をつけ、あの手でつかんだ。自転車以外に触れない手で、勝利しか掴まないと告げた手で、石垣を。
つかんだから。おまえが掴んだから。

あの夏の日、御堂筋は石垣を手に入れた。彼が望んでいたかどうかなんて知らない。関係ない。ただ石垣はそう理解したし、御堂筋は受け入れた。だから。
だから。
御堂筋が手に入るならなんでもいい。なんでもする。だって彼が石垣のアルファだ。運命の。