自室、なにそれおいしいの? な松野家ではあるが、プライベートスペースが皆無というわけではない。
押入れの上段、こじんまりとした小箪笥の引出が各自に割り当てられた“自室”だ。ここだけは干渉しない、勝手に開かない、盗らない、が松野兄弟の暗黙のルール。エロ本も財布も入れない引出は、誰かがいる時はけして開かれない。一人密やかに過ごすそのルールを、カラ松は今日、破るのだ。
家に己一人であることを再度確認し、息をつめて上から四番目をそっと引く。まさかなと思いつつ恐ろしいので指紋が残らないよう軍手をはめている。すまないブラザー、おまえのメモリーを茶化したいわけでもなにかを盗みたいわけでもない。秘密は……暴くかもしれない。
なるべく他の物を見ないように目を細めながら確認すれば、丸いプラスチックケースが転がる音が聞こえた。そっと開けば見覚えのある猫の缶バッチ。
「……ああ、そうか」
胸にすとんと落ちたのは納得か悲哀か。
ゆっくりすべてを元の状態に戻し、軍手を洗濯かごに入れ、卓袱台の前で鏡を覗き込む。元通り。なにがだ。なにもかも戻っていない。たった三十分前、知らない頃には戻れない。
壱は一松だ。
「なるほど、うん……そうだな。うん」
似ているなと思ったことはあったのだ。確かに。背格好が、声が、頬の線が。だけどまるで違ったから。カラ松への態度が違ったから同一人物だなんて考えもしなくて。
嘘つき、と鏡の中のカラ松が目をぴかりと光らせる。
考えもしなかったなんて嘘だ。なんせどうとりつくろっても自分達はむつご。壱くんと架羅くんは似ているね、としょっちゅう声をかけられていたのだ。その度首をひねりつつ、そうかと笑って。どこが似ているんだろう。壱はバンドでベースを弾いていて、愛想がなくて目つきが悪くて口を開けば皮肉かひねくれたことばかりの、ああなるほど似ているのかもしれない。慣れない相手だととたん顔がこわばり愛想が悪くなる弟が精一杯がんばって交流すれば、あの状態になるのか。
――架羅さん
でも、壱はカラ松を好いてくれた。セックスとかしたい意味で好きだ、なんてガールズには禁止せねばいけない告白。だけどとんでもなく愚直でかわいい告白。
カラ松に向ける不器用な優しさ。好きだ好きだとひたすら伝えてくるまなざし。あんなに愛おしそうに名を呼ばれたことなどあっただろうか。
彼が一松だなんて誰が想像するだろう。
どれほど造りが似ていても、だからこそ違いが浮き立った。カラ松のことが好きだ、というただ一点。それだけが。それこそが。
向けられる好意がこそばゆくて、うれしくて、いつからかひどく不安になった。こちらからは好意を返していないのに、返事さえもらわぬまま告げられたことがうれしいと笑う健気な彼は、未だカラ松のことを好きでいてくれるだろうか。今日は大丈夫だった。でも明日は? 明後日は? 次に壱に会えるのはいつだ?
もう壱からの愛情を知らなかった頃には戻れない、と覚悟を決めたのはカラ松自身だ。
大丈夫。壱のことが好きだ。彼のいない日々なんて考えたくもない。ずっと好きでいてほしいなんて、隣で笑いかけてほしいなんて、それはつまり恋だろう。カラ松は壱に恋をしたのだ。
叶わぬ恋に身をやつしていたのは事実だ。実の弟、同じ顔をした同性に惹かれ打ちのめされてきた過去を否定するわけじゃない。一松のことは好きだった。壱からの告白を、一松からのものであればよかったのにと願ってしまうほどの身勝手さで。好きだ。ずっと、好きだった。それを否定するんじゃない。ただ新たに、壱を好きになったのだ。一松の代わりじゃない。弟への恋は今もまだくすぶった焚火のように胸の内にある。そして隣には燃え盛る壱への恋心。このままきっと消えてしまう。いつかそのうち、ゆるやかに、熱を持った木は焼け落ち形を失い冷えていく。一松への恋情は消えやわらかな兄弟愛のみ残るだろう。
そのはずではなかったか。
壱がいてくれるから。壱が与えてくれる感情を手放したくないから、必要だから。もう今更カラ松は、壱を手放せない。だって好きだ。こんなにも好きだ。一松ではなく、壱が。壱のことが。
「似てる、どころか……そっくりもいいところだ」
一松と壱が同一人物だなんて。
もしこれが脚本なら、客を馬鹿にするなと安易な展開に怒っているところだ。気づかないわけないだろう、たかがウィッグと化粧やメガネ程度で。
だけど気づかなかった。カラ松も、きっと一松も気づいていまい。架羅がカラ松であると知っていてあんな対応できるなら、弟は稀代の詐欺師になれる。
むつごは自分達の区別に慣れ切っていた。誰が誰でもおんなじザンス。そう称される六人を瞬時に判別できる観察眼は家族以外にも発揮される。
あの子とこの子のどこが似ている。服が? 髪型が? 背の高さが? 馬鹿な、あの子は右目が少し小さいし鼻筋が通っているけれどこの子は左のこめかみに黒子があるうえ前歯が大きい。全然違う。まるで違う。同じ顔なんてどこにもない。似たような顔なんてめったにない。こんなにも違う個性あふれた兄弟をなぜ見分けられない。同じ考え方をしていた幼い頃ならともかく、すでに別々の人間に別れはててしまったカラ松達をどうして。
だから気づかなかった。見過ごした。
壱と一松はとても良く似ている。なんせまったく同じ顔だ。カラ松がきちんと見れば、同一人物だと気づけたほどに。
そして同じくらいに別人だった。
一松はけしてあんな表情でカラ松を見ない。心の底からの愛情、感謝、好意ばかりの優しい顔。愛おしいとばかり伝えてくる声で名を呼んで、うれしげに隣で笑う恋人がまさかあの弟だなんて。カラ松を遠ざけ、疎み、避けている一松だなんて。
そうだそもそも、一松があんな顔をするなんて。いつか一松ガールと結ばれるだろうと考えはしても、こんな、溶けたアイスみたいな甘ったるい声を出すなんて。普段の弟と違いすぎる。だからカラ松が気づかなかった、のも仕方ないだろう。あれはもしかして対外的な顔なのだろうか。それとも壱としての仮面を被っていたから。
壱として。
ぶるりと鏡が震える。知らず握りしめていた手の力をゆっくり抜きながら、思いついてしまった仮説をカラ松はもう一度組み立てる。
一松と壱は同一人物だ。そして壱とカラ松は恋人同士。カラ松は壱が一松であることにまるで気づかなかった。
では一松は?
カラ松と架羅が同じ人間だと理解して告白なんてするわけがない。ドッキリにしては期間が長すぎるしそもそも一松にそこまでの演技力はない。おそらく確実に気づいていない。
では、気づいてしまえば。
「……おしまいだ」
この茶番が。
けして失いたくない、そう願った恋人は消え共通の悪夢を抱えた弟だけが残る。好きだと告げあった幸せだと顔を見あわせ笑った触れた手に驚いてどちらからともなくおずおずつないだ。あのまばゆい夢のような思い出が捨て去るべきおぞましいものに変わる。一松の中でだけ。
優しい思い出としてとっておけるなら、勘違いだったと認め歩めるなら。カラ松はそうしたい。壱との時間を、熱を、言葉をなかったことにしたくない。真実を知り別れてしまうことになったとしても、壱をいなかったことにはしたくない。
けれど一松は違うだろう。潔癖なところのある弟だ。たとえ知らなかったといえ兄弟でつきあったなんて過去、残しておきたいわけがない。なかったことにしろ、忘れろ、秘密は墓の中まで持って行け。胸ぐらをつかんで叫ぶ一松が容易に想像できる。
そうだろうな。おまえはきっとそう言う。オレがそうすると無邪気に信じ切って当たり前の顔をして、オレの恋人をいなかったことにする。殺してしまうんだ。
壱を。
あんなにもカラ松を愛してくれた彼を、どうして消してしまわねばならない。
わかっている。理解している。一松の主張は当然で、壱は一松の別の顔で、そもそも彼が好きになったのはカラ松ではなく架羅で。
だけど壱はどう考えても一松で、つまりはカラ松だって架羅だ。人によって態度を変えるのはあたりまえ。兄弟に対する顔と角のコンビニのカラ松ガールにする顔は違う。だから壱も架羅も、自分達の兄弟には向けない、バンド用の顔であっただけだ。そうだろう。じゃあ。
ならば壱はいる。架羅の恋人の壱は存在する。それなのになぜ忘れなければいけない。いなかったものにしろ、なんて。こんなにもカラ松は壱を必要としているのに、求めているのに、取り上げるなんてひどいじゃないか一松。
鏡の中のカラ松と見つめあう。いつだってこうして相談してきたなオレよ。壱と一松が同一人物か確かめる時も。もう今は販売中止の古いバッチの裏に印をつけて、似たものとけして間違わないようにして。嘘をついたのは申し訳なかったが、あんなに喜ぶなんて思わなくてうれしかった。あの時の顔かわいかったな。なあオレよ。ほら、だから今回もきっと思いつくさ名案が。カラ松の、架羅の壱を失わないで済む方法を。
◆◆◆
己がとんでもなく卑怯だということを、誰よりカラ松が理解している。だから許せと請うつもりはないが、恋する男など弱く情けないものだ。犬にかまれたと思って諦めてほしい。
壱と一松が同一人物であると知った日からずっと考えていた。どうすれば恋人を失わないでいられるかを。
打ち明け、恋人関係を継続させる。理想的ではあるが難しいだろう。意識してみればなるほど一松と壱にさほど違いはないが、カラ松と架羅はまるで違う人間だ。どちらもイカしたギルトガイではあるがタイプが違うので、架羅を好む壱にとってカラ松は魅力的でない可能性が高い。また、一松は相手が兄弟だと知った時点で恋人関係を拒むだろう。
次にいいのは現状維持だろうか。一松さえ気づかなければカラ松は気にしない。同一人物だと黙ったまま、恋人関係を続ければいい。ただこのルートは最悪の状況に陥る可能性が高い。
そう、最悪なのはカラ松の知らぬ場でばれることだ。その場に居ればごまかすなり口説くなり説明するなりなんなりと対応がとれるだろう。しかしいなければ。一松は一人、後悔して別れを決めすぐさま行動に移す。架羅に説明しようなんて、混乱した弟は思いつきもしない。ひとまず逃げて、安全な場にこもってから周囲を警戒して原因と今後の対策をたてる。小さい頃からそうだった。そして逃げられてしまえばカラ松にとれる手段はない。一松は即座に壱を捨ててしまうだろうから、カラ松の、架羅の愛した人間は消滅してしまう。もう会えない。二度と。
壱を失うのはイヤだ。
一松を苦しめたくはない。だから彼が望むなら悲しいけれど別れることは受け入れる。
だけど壱をいなかったことにするのは。壱とのすべてがなかったことになるのは。耐えられない。
ずっと苦しかった。仕方ない、どうしようもない、そう言い聞かせていたけれど弟から拒まれるのはつらかった。きっと自分が悪い。こんな気持ちをもっているから。一松は悪くない。人間どうしたって相性はあるし兄弟だからといって仲良くしなければいけないわけじゃない。頭は理解しているのに、覚えの悪い心は避けられるたびきりきり痛んだ。疎まれてはぽこりと穴が開く。
そこに入り込んだのは壱だ。そうだ、壱じゃないか。カラ松がどうかこの穴を埋めてくれと頼んだわけじゃない。壱が勝手に、いつのまにかゆっくり入り込んで埋めて同化して、もう離れられなくなってしまった。これはもう責任をとってくれ。
「……行きたくない、なあ」
靴に足をねじ込みながら泣き言を口に出してみる。パーフェクトファッションならもっと強気になれただろうに、架羅としての服装はカラ松としてはパワーに欠ける。
つらい。怖い。イヤだ。ぜんぶだ、ぜんぶ。これから行うすべてがイヤでイヤでたまらない。せっかくのデートなのに。
それでも決めたのだから、弱気はここで吐き出して終わりにしよう。
今日のデートは決戦なのだ。壱を失わないための、絶対に負けることのできない闘い。
同一人物だと打ち明けては忘れようと言われる。黙っていても気づかれれば忘れろと強要される。別れるのは仕方ない。本当はずっとつきあいたいけれど、一松が嫌がることをしたいわけじゃないのだ。ただなかったことにしたくない。壱の思い出を持ったままでいたい。だから。
カラ松は卑怯でいやしい。わかっている。恋人を騙すなんてほめられたものじゃない。最低だ。
だけど、これ以外考えつかない。
ずっとずっとずっと考えている。もっといい案はないか。どうにかならないか。悩んで、悩んで、悩んで、これしかないと決めたのだ。やりきるしかない。
一松に黙ったまま壱とセックスをする。架羅として。
恥ずかしいと電気は消せばいい。なるべく薄暗い部屋で、架羅として精一杯恋人といちゃつこう。そして明りがついたら魔法はおしまい。さすがに一松も気づいてしまうだろう。そうすれば終わり。架羅の、カラ松の恋人はいなくなってしまう。
仕方ない。これしかない。消せない思い出なんて、物理的な傷をつけるしかない。本来出口であるはずの尻になにがしかを入れるなんて、きっと痛いしつらいし切れてしまう。しっかりほぐしてゆっくりすれば大丈夫、とネットで見た。つまり簡単にほぐしてすばやくいれれば傷になるのだ。
さすがに自分のせいでそんなところが傷ついている兄にきつくは当たらないだろう、一松とて。ラブホテルでつっこんでおいて忘れろ、なかったことにしろと言うのは非道すぎる。そこまでのクズじゃないと兄は信じたい。
尻が痛む間は恋人が存在したことを信じられる。ああ、言葉にしてみればなんて馬鹿らしい。これが舞台であったなら、胸の痛みでどれほどでもドラマティックに演出されたであろうに。現実、カラ松はこんなものだ。
架羅なら違ったのかもしれない。
壱が。一松が好きになった、架羅なら。
だけど今はカラ松で、架羅もやっぱりカラ松の一部で、じゃあ仕方ない。一松は受け付けないカラ松。壱は知らないカラ松。架羅のままでずっとはいられないのだから、恋人でなくなるのは諦める。カラ松は思いきりがいいのだ。バンドも気まずいならやめる。サポートだったんだからさほど大きな問題じゃない。ぜんぶちゃんと手を離して、つかず離れずの兄弟のままでいるから。だから。
そんな姑息な事を考えていたから壱は現れないんだろうか。
強い雨に打たれながらカラ松はそっとため息をついた。
一人こっそりラブホテルに入って後ろをほぐして。貸しロッカーの化粧道具とエクステで架羅になって。馬鹿みたいだ。
いつも待ちあわせより少し早くくる壱が姿を現さなかった時に、諦めたらよかったのか。十分すぎて、三十分待って、一時間が経つ頃には意地になっていた。雨が降り出したあたりで腰を上げなかったのだから、この結末は見えていたんだ。
でも、もしかしたら。傘をさした壱が走ってくるかもしれないじゃないか、あと三分したら。時間を勘違いしていたとか、腹を壊したとか。だって家を出る時、一松はいつもと変わりなかった。架羅がカラ松だなんて気づいていなかった。だからすっぽかすなんてないはずなんだ。なんで雨宿りしてないわけ、って口調はきつくても手を引く力は優しくて。そういう壱が、あとちょっと待ったら。ほら、すぐそこまで来てるかもしれないから。だから。
あと十分だけ待って。そうしたら。五分でもいい。待てば。きっと待っていたら来てくれるから。
一目散に走ってきてくれるんだ、架羅さんって呼びながら。水たまりなんて気にしないから足元はびしょぬれで。泥なんかもはねてるかもしれない。それはぜんぶ、架羅しか見えていないからで。
カラ松ではなくて。
デートは行われず、恋人には会えなかった。あの日以来、ずっと会えない。会っていない。
雨は降り続いている。
恋は泥水色