恋人にはなれない - 3/3

パチパチと電流が走った。身体中に。
満足そうな村の皆の顔、顔、顔。喜べ、褒めろと言わんばかりの。

誕生日プレゼントだと告げられ差し出された天文台で、千空は珍しくも言葉に詰まった。
今自分は、彼らに裏切られたのだと思い言葉にもした。お前たちを信じていないと口にした。聞こえただろうに、この善意の塊を受け取っていいのだろうか。礼の言葉など、あまりにも上っ面すぎないか。
流すことにしたらしいメンタリストが、重くなりかけた空気を変えるためかつらつらと口を動かす。ありがたい。こんな時、ゲンが居て本当によかったと実感する。

ああやっぱりほしい。居てほしい。
見たことのない表情を見たい、知りたいのは本当で。だけどもうそれだけじゃない。ほかの誰かに向ける顔を千空にも見せてくれる、では嫌だ。自分にだけ。千空だけ特別扱いして向けてくれる顔が、感情が、声が。全てが。
ゲンの全てを知りたいし、見ていたい。自分のものにしたい。欲しい。

記憶喪失中の、もういやしない男が憎い。千空と同じ顔、同じ身体で自分には与えられない特別をもらったから。
もうあげたから、あの子だけって約束したから。早い者勝ちだなんて聞いていない。最初に出会った方が有利だなんて、そんなのずるい。
だって過去は変えられない。千空がゲンと出会ったのは石神村でだ。それ以前の記憶しかもたないからゲンに優先されるだなんて、千空には努力することもできない。トライできない。

「覚えてない? 書いてたじゃない、石化が解けた日付なら」

誕生日を知った種明かしは、同時にひどく強引なひらめきを連れてきた。
ゲンは、日付を書いた俺と出会っていた。
石神村でラーメンを食べた時じゃない、大樹たちと別れた直後でもない。石世界で目覚めたばかりの俺に、誰より先に出会っているのだ。
日付を認識する事によって、ゲンの中に石神千空が生まれた。
千空がゲンを認識する前に、顔を合わせる前に、存在を。

「会う前から、わりと好きだったのよ、千空ちゃんが」

過去が。変えられないと思いこんでいた過去が変わる。
関係性が、変わる。

「っ、……」

ぐるり。水と油のように交わらなかった千空同士が、ゲンの言葉で混ざっていく。記憶の戻った千空も、記憶喪失中の千空も、どちらもすでにゲンが出会っていた、認識していた千空。
一気に頭の中に知らない記憶が流れ込み、息を飲む。

好きだ。

勝手に頭の中に甦った記憶はやっぱり他人のものみたいで、けれどわかることもある。
記憶喪失中の千空も、隣で星を見上げている男のことが好きだった。
自分に寄り添い、恋人になろうと言われて心底嬉しかった。恋心を向けられていないことくらいわかっていて、それでも。
なにも持たなくていいと言った千空を悲しんで、自分に渡せる精一杯をくれたことが。
別人扱いしてくれたことが、なによりも。
記憶が早く戻るといい、治るといい。ゲンは一回も口にしなかった。記憶のある千空を求める言葉を。失った記憶を惜しむ言葉を。
記憶のない間のことは何一つ話さず、石化する前の話や一人目覚めてなにをしていたかの話ばかりした。これからなにを作るか、どんなことができるか楽しみだと笑った。

「あ゛ぁ゛、気持ち悪ぃ」

途中までは同じといえ、道を違え別人として抱いたゲンへの気持ちが千空の中を巡り飛び出しそうだ。自分一人の感情を抱えるのにも精一杯だというのに、似た感情が濁流のように流し込まれ溺れてしまう。

好きだ。額のヒビを撫でる指先はいつも少し冷たくて、驚き身じろぎする千空にメンゴと笑った。指先をぎゅっと握りしめて、暖かくなったよともう一度指を伸ばしてくれた。隣に寝ころんでたくさん話した。日中より低い穏やかな声で、ゆっくり相づちをうつ。とろりと目蓋が落ち、ぎゅうと目を閉じてまた開いて。眠くなるまでお話しようね、なんて言いながら今にも寝てしまいそうにやわい声をだすから。まだ眠くなくても千空はあくびをした。明日はなにをしようね、ドイヒー作業は勘弁ね。ふにゃふにゃ笑うゲンはいつだって先の話をする。記憶は戻らないまま、今のまま。横に寝ころんでいる千空が居ていいのだと繰り返すように。

好きだ。そんなの好きになるに決まっている。
たとえ自分に恋心を持っていないとわかりきっていても、それでも。あんな風に思いやってしまっては、千空などイチコロだ。ろくに恋愛経験もない高校生になんてことをした。オーバーキル甚だしい。
戻ってきた記憶喪失中の記憶が、あまりにもゲンへの感情とセットで脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。気持ち悪い。
あふれる。

ちくしょう知らない。ゲンの指先が冷たいことも、眠い時の声も、ヒビを撫でる時の顔だって。
思い出した。記憶にある。残っている。だけどこんなもの自分で経験したものじゃない。赤の他人の記憶をそのまま移植されたようなものだ。
違う。理解している。望遠鏡をさわっている指はこの身体に、額に触れたのだろうし、ラボで一緒に隣同士眠っていたのだ。実感はまったくないけれど、千空の肉体は経験しているはずなのだ。

「……おい、ゲン。しょっぱなからキスとかテメー手早すぎだろ」
「いきなりなに……って思い出したの?」
「おう。さっきいきなりぶわっときた」
「こういうのってじわじわ思い出すもんだとばかり。気分とか平気?」

すいと伸ばされかけた指先は、千空の額に届く前に握り込まれ紫色の袖にしまわれる。
先ほど思い出した記憶の中では何度も触れていたのに。
まるで遠慮でもしているような動きに、腹の底がじわりと炙られるような心地がする。

「……んだ、そりゃ」

一歩近づけばどうしたのと首を傾げながら一歩下がる。なんだ。なぜ距離が違う。そうだ、あれは恋人の距離。手を伸ばせばいつでも届く、理由なくゲンに触れ隣で眠り額を撫でられる、それを許されている距離。

「足りねえ」

知ってしまえば離せない。

「うん?」
「ガンガン触られてえしいつでも手に取りてえ。遠すぎる。恋人、いいじゃねえか。思い出したんだから俺だろ、恋人のままでいろよ」
「えー、それってアリなわけ? 俺、約束してんだよ記憶ない千空ちゃんと。恋人はキミだけって」
「同一人物だぞ。問題ねえだろ」

大ありだ。ゲンの恋人の立ち位置を他のヤローにくれてやるなんぞ絶対にごめんだ。
千空なら許さない。記憶喪失中の千空とてそうだろう。なんせ同一人物だ、わかる。ゲンの恋人は自分だけだと、お前などにやるものかと怒り狂うに決まっている。

「……そっかな~……いやでも、記憶のない千空ちゃんと思い出した千空ちゃんは別だし」
「思い出したんだから記憶喪失中の俺も俺だろ。よこせよ。……恋人になってくれ」

思ったより弱々しい声がでて、情けなさに舌打ちしそうになる。
たぶんもう一押しなのに。なぜ声が震える。のどが詰まる。まるで緊張しているみたいじゃないか。
千空の態度が違うことに気づいたんだろう。望遠鏡を子供たちに譲り見守っていたゲンは、半歩千空に身を寄せた。
手を伸ばしてもまだ届かない。けれど、袖なら捕まえられる距離。

「ね、なんでそんなに恋人になりたいの?」

隣に立つ相手にしか聞こえないようなひそひそ声。

「恋人以外はダメなの?」
「どうしても無理なのか」
「そこはね、約束したからさぁ。俺の恋人って立ち位置は未来永劫あの子にあげたの」

千空ちゃんに。星空を見上げてつぶやかれた名前は自分の物なのにまるで呼ばれた気がしなかった。ああ、ここにいるのに。隣にいるのに。ゲンが言う千空が自分のことだと記憶を思い出した今はわかるのに、それでも違うと反発してしまう。身体は一つ、ここにある千空だけで記憶もなにもかも持っているのに。

「……ずっと、俺の傍にいてくれ」

全部ほしい。
個人の全てを手にしたいだなんて不可能だとわかっている。ゲンをいくら縛っても彼が千空の物になるわけじゃない。

「恋人にならなくていい。それは記憶喪失中の俺にやったんだろ、むかつくけど仕方ねえ。テメーに約束破らせたいわけじゃないんだ」

理解している。意味のないことを言っていると。
こんなことどれほど願っても、どうしようもない。

「ゲン、なあ、テメーが笑ってりゃ嬉しいしへこたれてたら背中たたいてやりてえ、泣いてたらひっつかまえて隠しちまいたいんだ。わけわかんねえ。どんな顔でも俺が一番に見たいし、俺がさせたい」

無理だ。
ほら、ゲンも信じられないとばかりに目を見開いている。千空を凝視する目を舐めてどんな味なのか確認したい。コーラの味がしたらどうしよう。バカか、ありえない。ああもう脳が煮えている。バグなんてもんじゃない。自分を信じられなくなるなんて考えたことなかった。ああ表情だけじゃ、声だけじゃ、態度だけじゃない。味もにおいも感触も、ゲンのすべてを独占したい。
どん引きだ。

「俺の知らないテメーがいるのが我慢ならねえ。記憶喪失中の俺としていたこともしてえし、してないことも俺としてほしい。他のヤツをテメーが見てるのに耐えられねえ」

なるべくソフトに伝えたつもりだが、執着が隠しきれなかったのだろう。ゲンは千空から視線をはずすと、考え込んだ。
うまい断り文句を探しているならこちらも対抗しなくてはいけない。恋人になれないとしても、もう離してはやれないのだ。生涯を縛ってしまいたい。気づかれないよう、拒まれないよう、ゲンが自ら差し出してくれるよう。

「確認なんだけど、その傍にいてって言うのは物理的な? これからも別行動とかあると思うんだけど」
「行動縛りたいんじゃねえよ。いや、他のヤツと旅行するとかは勘弁してほしいが、ずっとひっついて回れってのは無理あるだろ」
「だよね。ええと、じゃあ俺が他の人を見るのが嫌ってのも物理的な話じゃないんだね?」

わかりきった確認を何度もする。
こんなにもわかりやすい内容にすぐ答えを返さないのはメンタリストとしてなにがしかあるんだろうか。どれだけ逃げようとしても囲い込む事は決めているので、なるべくこちらを探らずに了解してほしい。
千空一人だけの感情なら、なんとか折り合いをつけられたかもしれない。ゲンが科学王国のメンタリストとして千空の傍らで過ごすなら、一人占めは我慢できたかもしれない。
けれど他のなにもかも手にせず、なにも持たない千空がたった一つ手に入れることを許されたのがゲンだから。記憶もなにもかもこちらに寄越すつもりだった、もう一人の千空が手を離さない。恋人を。ゲンを諦めることを知らないのだ。

同一人物で、記憶も戻って。
ゲンの手を離すことができない、存在になってしまった。

「全部くれ。頼む。俺の傍で生きてほしい」

逃がしてやれない。

「……たぶんこのまま過ごしたらそうなるよ。俺は科学王国のメンタリストで、千空ちゃんはリーダーだ。この戦争が終わって、人類を復活させて文明を復興する。その目標に向かって一緒に走るよ」

半歩、にじりよった。ゲンは逃げなかった。

「ずっと傍にいるよ。だから俺のいろんな顔も見られる。それじゃダメなの?」
「ダメだ」

もう半歩。肩がぶつかり、ゲンの目が光るのが見える距離。
知ってしまったのだ。恋人の距離を。ゲンが恋人に向ける態度を。
全部がいい。ゲンがいい。またヒビを撫でてほしい、頬をよせて眠りたい、冷たい足をふくらはぎに挟んで暖めてやりたい。

「恋人じゃなくていい。なんでもいい。ゲン、テメーの全部を俺のにして俺のことも抱える、そういう関係がいい」
「俺を自分のにしたいだけじゃなくて、千空ちゃんを俺のにしちゃうんだ? ジーマーで言ってる?」
「ダメか。名目はなんでもいいんだ。なあ、記憶なかった時みたいに一緒に寝たいんだ」
「っ、ちょっと誤解を生みそうだから言い方気をつけよ千空ちゃん」
「おう。ヒビも他んとこも撫でてやりたいな、ゲンにしてもらったのと同じように」
「わざととか趣味悪い」

村の誰に聞かれても証人にしてやるだけだから構わない。少し声を張れば肘で腹をつかれた。
このまま押し負けてくれないなら、周囲を巻き込んでゲンに圧力をかける方向で攻めよう。

「ん~……ねえ、わかってんでしょ千空ちゃん。そういうの、なんていうか」
「許してくれるならいくらでも誓う」

科学の世界に神はいないが、人前式でもゲン本人にでもいくらでも。望むところだ。

「別にそれは求めてないんだけど」

触れていた肩が押し返され、ゲンのヒビがはしる頬が近づく。

「対抗意識じゃないって、その、言ってほしいなとか」
「好きだ」
「ひぇっ」
「テメーの寝顔だのなんだののかわいい顔俺より先に見やがったナシ野郎には対抗意識ありまくるが、これから俺がそれ以上におかわいいとこ見たら勝ちだろ。なあ。今晩からまた一緒に寝るぞ」
「いやいやいやちょっと待って、え、距離縮めるの早くない!?」
「んだよ、正直になりゃいいんだろ。そんだけで生涯縛れるんなら照れてる暇なんかねえだろ」
「あっ、そういう感じで受け取っちゃったのね。いや待って落ち着いて」
「押し切りたいんだよこっちは。落ち着いて考えさせたら終わりだ」
「ばれてるばれてる」
「勢いに負けて押されて流されて、俺の傍にずっといてくれ」
「千空ちゃん、たまにゴイスーバカになるね。俺ちゃんと言ったでしょ。好きって」
「は!? いつだよ!!」
「さっき! まさにここで! 会う前から!」

びしりと望遠鏡を指さされ、聞いてないのと拗ねられる。
顔色はいつも通り、うなじは赤いかもしれない。見えないからわからないけれど、知っている。耳の温度を確かめたくて手を伸ばせば、ゲンは、触れやすいよう顔を傾けた。
頬に触れ、ヒビを撫で、ゆっくり耳朶に指を添わす。
引力に引かれるよう顔を近づければ、ゲンはほんの少しだけ前に出た。逃げない。
いける。

「村長、次はゲンと結婚すんの!?」
「うぇっ!??」

無邪気な声が響いた途端、目の前に紫色の羽織が翻った。
気づけばコハクが子供たちを誘導し、天文台の外に出そうとしてくれていたらしい。それならもう少し早くしてほしかった。見られていたと気づいたゲンはしゃがみこんだまま顔を見せてくれない。

「キミはもう少し周囲の状況を見てから迫るといい。見ろ、ゲンが恥ずかしさのあまり動かないではないか」
「一面の星空、天文台、ロマンティックの塊だろうがよ」
「二人っきりならそうだろうがな」

結婚結婚と騒ぐ子供たちを引き連れ天文台から降りかけたコハクは、ああそうだとゲンに向かって笑いかけた。

「村では結婚前に婚約期間をとるのだ。恋人から結婚する者もいるが見合いの者もいる。先走って結婚してしまっては何かあって別れるとき大変だからな、本当にこの相手でいいかお互いに見定め心を決める時間だ」

なんせ結婚しても秒で別れる男もいる。千空に向けて顔をしかめて見せ、コハクはひらりと身軽に降りていった。
外のざわめきが聞こえる。マグマの自慢話とクロムの合いの手、石がどれほど大量にあったか。

「……俺、流されないよ」
「流されろよ」
「やだよ。ちゃんと見て、考えて、俺が決めるよ」

だから婚約者から始めようか。困ったように眉を下げ情けない顔をしたゲンは、千空が初めて聞く甘ったるい声でそろりと手を伸ばした。