訳が分からない。記憶喪失中の千空も記憶が戻った千空も、同一人物だ。性格だってそう変わりはしていないだろう。なんせ数ヶ月前、コハクに会う以前の千空と今の千空にたいした違いはない。
それなのにゲンは違うという。かたくなに。
重大なこと以外は譲りがちなこの男が意固地になるなんて、よっぽどだ。
「おう、そろそろ恋人やる気になったか」
「毎日よく飽きないね……暇なの、千空ちゃん」
暇どころか時間は足りないし猫の手でも借りたい。けれどこの確認は必要なことで、手でも足でも動かしながらできるから効率的だ。問題ない。
「テメーがさっさと落ちりゃいいんだよ」
「無茶言わないでって。俺はナシちゃんと恋人なんだからアリちゃんとはおつきあいしません」
「アリちゃん言うな」
ゲンが手元から視線を動かさず返事するのは、この問答が毎日繰り返されているからだ。聞いては断られるのだが、これ以外にどうしていいかわからないので千空は同じ事を繰り返している。
これはトライアンドエラーではない。エラーの原因を究明し次のトライに生かさなければ意味がない。わかっていても、エラーの原因に見当がつかないため繰り返して観察することしかできない。
「……千空ちゃんもさ、わかってんでしょ? 俺は記憶喪失中のナシ空ちゃんと記憶戻ったアリ空ちゃんを別人認定してるって」
つーか千空ちゃん自身が別人だと思ってるくせに。あきれた顔を向けられるのは受け入れる。確かに千空は、記憶喪失中のことを全く思い出せないし、その間の行動を聞いても自分のことだと実感できない。
物心ついて以来、思い出そうとして思い出せなかったことがない。興味を持っていなかった事に関して忘れていても、七日間もの長い間、完全に思い出せないなんてそれはもうなかったことと同義ではないか。
「まあ実際、こうもきれいに七日間だけ記憶が抜けてかけらも思い出せねえなんざ、俺と入れ替わった別人が過ごしてた、なんて与太話にでもしたいくらいだがな」
「事実は小説より奇なり、ってね~。ね? 千空ちゃんも別人だと思ってんだし、いい加減流れでそのまま俺のこと恋人にしとくの諦めようよ」
確かに、覚えていないうえにゲンとなぜつきあったのかもわからない。この男と恋人になるなんて想像もしたことがなかった。きっとなにかよっぽどのことがあったのだ。ゲンと恋人になろうと思うくらい唆るなにか。見当もつかないからこそ余計に、記憶喪失中の自分が別人のように思える。
「他人の女に手出すのとか、嫌いでしょ」
告げられた内容に、腹の底が冷える。ゲンの言葉に抱いたこれは、嫌悪。
「オンナ、だったのか」
「え?」
「ナシの野郎のオンナ扱いでいいのかテメーは」
顔を上げたゲンはぱちぱちと忙しく瞬きをし、ようやく千空を見た。ぞろりと品定めされるような無遠慮な視線に背筋がそわりとする。
テメーはそういう不穏な目する立派な野郎だろ。なに勝手に自分を誰かの付属物みたいな言い方してやがる。ぶっ殺されそうになった相手にも胸張って、笑って騙して唆して、最後にちゃっかり勝ち馬に乗る男が。
「へぇ?」
千空の不満が伝わったのか違うとらえ方をしたのか。ゲンの頬が歪んでヒビが笑ったように見えた。
「んふふ、いーよ、俺今結構機嫌よくなっちゃった。だから分類のお手伝いしてあげよう」
何度も繰り返したエラーから、初めて違う反応が出た。これまでのトライとは何が違ったのだ。
「分類だぁ?」
「そ。まず、千空ちゃんが俺のこと気になるのはどうしてか。再三言ってるけど、記憶喪失になる前に俺のこと、そういう目でみたことなかったでしょ」
「ないな」
そして今も疑問に思っている。
先ほどゲンが口にした誰ぞのオンナ発言でさえ、嫌悪感がひどい。この男をよくもそういった欲の対象にできるな。こいつ相手に好きだなんだと脳のバグを展開してどうする。
「で、記憶が戻ってからもスイカちゃんに言われるまで恋人なんて想像もしてなかった」
「ああ」
コーラ一本で組んだ同盟者。それ以外の顔を知らない。こいつは誰にでもへらへら笑顔を振りまく自称コウモリ男で。そう見せたくて、そう振る舞って、いつでも裏切るよと笑いながら千空の周りをひらひら飛んでいる。他の顔を見せるつもりなどないのだと考えていた。それが矜持なのだろうと。
それなのに違うと言うから。
千空の知らない間に、恋人なんて。千空も見たことがない、知らない関係を結んでそいつだけに見せるから。
「独占欲だよ」
ひゅっと、飲み込んだ空気がのどに引っかかる。
「自分の方がよく知ってると思ってた相手、つまり俺だね。その俺を、知らない誰かにとられた気分なんだ」
「……テメーを俺のだと思ったことは、ねえが」
「うん。千空ちゃんのになった覚えは俺もないよ」
ないのかよ。軽く告げられる事実に少し気分が落ちる。それがなぜかは、わかりかけているけれどわかりたくない。
「この場合重要なのは相手の方。記憶喪失中の千空ちゃんをさ、あまりにきれいに切り離しちゃってるんだよ千空ちゃんが。他人も他人、見も知らない相手。村の誰かとか昔の知り合いなんかよりもっと知らない相手」
「見たこともないから知らない相手、つーことでもいいが……それでなんで独占欲だよ」
そんなもの知ってる相手でもいくらでも出るだろう。千空以外の人間に触れられていたら嫌だ、そういう感情のはずだ。
「千空ちゃんの認識が広い、っていうか俺のことを科学王国のメンタリストって想定してんのね。だから、俺を自分の持ち物だと思ってるって言うか」
「あ゛ぁ!?」
「俺に恋愛感情を持ってはいない、恋人になりたいと思ったこともない、それなのに知らない相手の恋人なのは許せない。自分にも同じ態度をとれ」
並べられてみれば千空の主張はひどいものだ。
そりゃゲンとてうんざりするだろう。
「これさ、自分の持ち物の性能は全部把握しておきたいってのと同じじゃない?」
「……あ゛ー…」
「知り合いが試した性能は聞けるし見せてもらえる、だけど知らない相手が勝手にさわって思いもよらない反応をしていたらしい。これは千空ちゃんには見えないしなんなら知らないまま」
「いや……いや、待て。ちぃっとばかし待て」
ゲンの性能、つまり能力を把握しておきたいか。答えはノーだ。こいつは道具じゃない。自分の頭で考え好きに動く方が千空が指示するよりずっとうまくやるだろうし、現にこれまでそうだった。マグマを牽制してクロムの勝利に手を貸したり、氷月たちを追い返すため一芝居打ったり、勝手にさっさと動く先があまりにこちらに都合がいいのが恐ろしいくらいだ。
ではゲンが千空の知らぬところで様々な反応をしていてもよいか。能力ではなく彼自身、ゲンのことを把握しておきたいか。
なぜ見たい。知りたい。ゲンは千空の持ち物ではない。自分の考えで行動するし、下手もうたない。誰にどんな表情を向けようが態度をとろうが、千空に口だしする権利などひとつもない。
わかっている。けれど、千空に。記憶のない、千空ではないけれどこの肉体に向けて見せたのならそれは。
それなら今の自分にも見せてくれたらいいじゃないか。
恋人になってくれたらいいじゃないか。
「……予想外の結果が出たぞ」
「ジーマーで? この流れで『恋人って言葉に引きずられてたけど恋愛感情じゃなかったわ、わりいなメンタリスト』以外の結果って出る!?」
「声帯模写やめろよ」
恋愛感情の自覚など、予想外すぎて泣けてくる。
俺の身体相手に恋人やれるなら可能性があるんじゃねえかと浮かれたんだ。
だからあっさりなかったことにされて絡んだ。俺だろ。同じだろと言い募った。
「なあ、記憶喪失中の俺はどんなだったんだよ」
「今更聞いちゃう?」
「見たことも聞いたこともない、絶対会わない相手だ。いいじゃねえか、どこがよくて恋人なんて関係になっちまうのか参考に聞かせてくれよ」
「これ参考にするのバイヤーだと思うんだけど……そうだね、俺の恋人の千空ちゃんはすごくかわいかったよ」
からかわれているのかと思えば、ゲンは真顔だった。
「人が好きで、優しくて。ああでも俺としてはもう少し身勝手になってもよかったと思うな。わがままだって言ってほしかった」
身勝手ではなくわがままも言わない。
これまでの千空の人生において言われたことが一度もない言葉ばかり出てくる。
「なあ、記憶喪失中の俺だよな、それ」
「うん。俺の恋人だよ」
「コハクに会う直前だろ。……適当言ってねえだろうな」
石神村の記憶がないだけで、大樹たちと別れるまでの記憶はあったと聞いていた。当時の千空がゲンの言うような男であったかと問われれば、絶対に違うとしか言えない。
「そりゃ基本は千空ちゃんだろうけど……ああ、たぶん出会った時期が違うんだ」
「あ゛?」
「俺の恋人の千空ちゃんはね、村の皆と同時に俺にも会った。司ちゃんのスパイとしての俺じゃなく、科学王国のメンタリストの俺と。いつまた裏切るかわからないコウモリ男じゃなく、安全圏である村の中で唯一の旧世界を知る俺に」
「だからテメーに対する態度も違うってか」
「最初から味方だと思ってるからね、頼りにしてくれたよ」
眉尻を下げ、気の抜けた間抜けな顔をするゲンは千空を見ていない。
記憶の中にしかいない、もういない、存在していない『千空』を思い出してへにゃへにゃと情けない顔をしている。
頼りにしてくれた、だなんて千空だって頼りにしている。目の前の男がいなければ危なかったことが山ほどある。なんだかんだお人好しのこいつが今更科学王国を裏切るとも思っていない。
わがままは、言った記憶はないが今後も気をつければいいだろう。身勝手はわからない。勝手をしていると思えば指摘してもらうしかない。人が好き、は少なくとも嫌いではない。かわいい、は。
年頃の男つかまえてかわいいとはどういうことだ。かわいいなんてものはスイカのような子供に与えられる言葉だ。だが子供扱いする相手を恋人にするわけがない。じゃあなんだ。こいつの言うかわいいはいったいどういうことだ。
「……顔か?」
「なにが?」
「顔も身体も声も全部俺だろ。今テメーの前にいる俺と同じ、なのにかわいいだのなんだの出てくるのはどういうこった」
千空の外側は好ましく思っているのだろう。生理的嫌悪感があればさすがにつきあえまい。
けれど中身だって、ほんの数ヶ月前の自分が今と大きく変わっている気はしない。科学が好きで、人類を目覚めさせるためにマンパワーを求めていた。何も変わらない、同じだ。
なぜゲンの目には違うように映っているのだろう。
「ん~……関係性が違うから、かな」
「科学王国のリーダーとメンタリストだろ」
「仲間と協力して村を掌握した科学王国のリーダーと、元スパイのうさんくさい裏切り者、だよ。今は。で、あの時は、いきなり協力者が大量に現れて戸惑ってる一人の男の子と、協力者の中で唯一同じ時代を生きてた同世代の人間」
千空がゲンと初めて会ったのは、科学王国に人を引き込もうとラーメン屋台を引いていた時だ。コハクやクロム、カセキといった科学王国民とすでに出会いサルファ剤を作るため必死になっていた頃。
だが、ゲンの恋人とやらは。自分が把握していない千空は、記憶を失ったがために、大樹たちと別れてすぐの頃にゲンと出会ったことになる。
コハクに会った時と同じ、人を探し求めていた時。全てが石化したこの世界で生きる、自分と同じ時代の。
「関係性は変わる、ああ、理解した」
あの時ゲンと会っていたら、どれほど心強かっただろう。司からの使者ではなく、自分の味方として現れたら。
間違いなく頼った。認めたくはないが、今よりずっといろいろゆだねてしまったかもしれない。
ああ、だからかわいい。
「理解したが……いや、無理だろ」
「だよねー。だから言ってるの、別人だって」
ゲンが好意を抱いたのは、彼に今よりずっと頼り負担をかけ甘える関係性の千空。そんなものに今更なれない。なりたくない。今とてたかがコーラ一本で許される働きではないのだ、この男は。それなのにこれ以上など、なぜ負担をかけなければならない。
なれない、のに。
他に打つ手が見あたらない。頼りのはずのメンタリストは無理だと最初から投げている。いやだ。無理じゃない。他になにか。
「つーかテメー趣味悪いな」
「ドイヒー。少なくとも今の千空ちゃんよりずっとかわいいんだからね」
好きになってもらうにはどうしたらいいんだ。
◆◆◆
ちらつく雪の中、木を彩るように灯る光。
「クリスマスか……!」
つい口をついてでた言葉に偶然だなんて返してきたけれど、満足そうな表情は隠せていない。
クリスマスもイルミネーションも、この世界で生きてきた者にとってはなんの意味もない。これはただの電球点灯テストで、わざわざ木につける必要も今日この日を選ぶ意味もない。
ゲンと千空にだけわかる、特別。
いつの間にか隣に立っていた千空の顔は、得意満面。頬はぴかぴかと輝き唇はにやつきたいのを押さえているのだろう、ときおりぐにゃりと曲がって。ちらちらゲンを伺うまなざしに含まれる期待の色に、気づかないでいられたらいいのに。
こんなにわかりやすいドヤ顔、メンタリストじゃなくても察せてしまう。
失っていた記憶が戻って以来、ゲンに対する行動が変わった、いやあえて変えている千空。
大量のマンガン電池と引き替えに押しつけられるコーラ。毎朝顔を合わせ挨拶を交わし、休憩時間だと隣に来ては新しく作った物を説明し、次はアレを作るこれを作ると楽しげに笑う。夜はなにか言いたげに口ごもるも、毎晩おやすみと別れてそれぞれの寝床に向かう。
スイカがテメーのよく使う花の咲いてる場所知ってるらしいぞ、とか。
わたあめ美味そうに食ってたけど甘いもん好きなのか、ほーん、とか。
一応マジシャン名乗ってたんなら派手なこと嫌いじゃねえよな、とか。
勘弁してほしい。
なにこれ。俺を困らせて楽しいの?? こうもあからさまに好き好きされてはスルーするにも限度がある。千空がかわいすぎて最近はもう反応に困る。いっそ真顔だ。
これ記憶ない俺はしたか? こんなのは? これはできなかっただろ!?
手を変え品を変え、ゲンへの好意をアピールする千空に気づかないフリをするのもそろそろ限界なのだ。
だってかわいい。
ゲンの恋人だった記憶喪失中の千空ではできなかっただろうと、自分ならできるのだと。あれもこれもと目の前に積み重ねてしっぽを振っている幻覚が見える。
コーラをただ渡すことができなくて、ひどい作業をがんばったからと理由をつける。プレゼントしたいだけのくせに。
花が咲いてるだとか、甘いもの好きならと何か作ってみようと考えるとか、イルミネーションを見たら喜ぶだろうかとか。ゲンのことを考え、想像し、ゲンのために行動する。
好きになってほしいから、で動く千空。そんなのかわいいに決まってる。破壊力がとんでもない。
想像以上の健気さに、俺も好きだよと口走りそうなのを必死でとどめているのだ。
いやだってかわいい。毎晩言いたいのは、今日は一緒に寝ないか? だ。恋人だった時のように、今の千空とも。誘われたらついて行きそうでゲンは自分が怖い。隣で寝たリなんかしたらうっかり手を出してしまう。ダメ犯罪ゼッタイ。
千空がこんなに必死になっているのは、対抗心からだというのに。
記憶がないにしろ自分が手に入れていた恋人という立ち位置、見たはずなのに覚えていないゲンの恋人としての顔。ただ知りたいという欲求のまま、恋人という名前を得られれば未知を手に入れられるから努力しているだけ。
わかっているから、けして本気にしてはいけないし手を出すなんてもってのほか。
たぶん、今の千空とならそれなりに恋人としてやれるだろう。名ばかりだった先日までの記憶のない千空よりもっと。なんせ彼はすがる対象としてゲンを求めたけれど、今はもう少し前向きだろうから。メンタリストとしての手腕などなくとも、ちょっと動けば簡単な話だ。
けれどゲンとて矜持がある。恋すら知らぬ未成年に手を出すなんて、騙しているも同然。千空が求めているものが恋うる相手でないからこそ余計に。
ああ、それなのに。
きらきらと輝く光に照らされた千空の横顔を盗み見る。
全部託して、自分の物などなにひとつ持とうとしなかった子供を思い出す。
あの子の恋人でいたいのだ、ゲンは。たった一つの重石に。なにも持っていないと信じ込んでいた子供の唯一になる。
「……千空ちゃんほんと残念」
「あ゛!? なんでいきなり悪口言われなきゃなんねえんだよ」
「こんなにロマンチックなのに頭の中はもう次のクラフトのこと考えてるから」
「っ、いやそれは時間が足りねえから」
恋人になりたい、なら振っちゃうと約束したのだ。
恋人、じゃないなら。他の立ち位置なら。ゲンが持っているもの、なんでもすべてあげられるのに。
「しゃーねえだろ、こちとら毎日必死なんだよ」
「うん、残念だなぁ」
それ以外なら欲しいものなんでも全部、明け渡せるのに。