恋は水色 - 1/2

あんたがいりゃ世界は輝いていてサイコー。
つまり恋はみずいろ、なんだ。浮かれた歌だとしか思ってなかったけど、とんでもなく同意できるね。
だからあんたと別れたとたんに世界は灰色。雨の日もかくや。

 

◆◆◆

 

自身の鼻歌に気づいてしまい、一松は羞恥で燃えそうになった。
そりゃ機嫌は良かったけれどここは外で。路地裏でもない、人通りの多い駅前の大通りで。せめて顔の半分を覆うマスクをしていればマシだったのに、今はそれさえも外してしまっている。防御力が低い。
でもほら、マスクをしていたらチャンスを逃してしまうかもしれない。なんのチャンスって? もちろんキスの。恋人との。
ふと目があって顔をお互い近づけて、とか。なにか言った架羅の声が聞こえないと顔を近づけたとたんちゅっと軽い音がしていたずらっ子のように笑いかけられたりとか。とかとかとか。そういうあれやこれやがマスクをつけたままだと起こらないので、仕方ないのだ。
恋人。そう、恋人だ。恋人とデート。
自覚するたびじわじわと胸の内から喜びが溢れ出てくる。
一松を地獄から救い上げてくれた天使とつきあえるなんて思いもしなかったから、交際を開始して三ヵ月、未だに夢ではないかと頬をつねる毎日だ。
ただし最近は頬をつねらずともよい方法がある。現実かどうか迷った時は、松野家唯一の個人スペースである自身の引出を開けばいい。
丸いプラスチックのケースに入った、学ランにベースを抱えた猫の缶バッチ。安っぽくて古臭いそれを、いったい何世紀前の遺物だ、なんて一松は絶対言わない。言わせない。だって架羅がくれたのだ。恋人の。一松の恋人の架羅が、少し視線をそらしてそわそわしながら。道で見かけて壱くんぽいなって思って、とか。子供っぽいだろうか、なんてそんな不安げに問われては首を振るしかない。
たかがガチャガチャだ。安い缶バッチだ。一松は猫が好きだけれど、別に猫のグッズを集めているわけじゃない。それでも。
そういうことじゃないのだ。一松のことを思い出して、考えて、選んでくれた。誕生日でも記念日でもない、なんてことない日にプレゼントを選ぶつもりもなく。ただ一松らしかったから、と。その事実こそが圧倒的な力で一松の幸福メーターを押し上げる。
うれしい。架羅の脳内に一松の場所がある。会っている時だけじゃなく、傍に居ない時も一松のことを考えてくれている。
しかも次のデートは大人の階段を登るのだ。あちらからの誘いで。

「……っ、は~無理」

赤い頬をさりげなく手の平で隠しながら誘ってきた架羅を思い出し、一松は思わずその場にしゃがみこんだ。もう裏手に入ったからいいだろう。ここはさほど人通りのない道だ。身悶えすることを許してほしい。見てるのなんて猫くらいだから。
だってあの格好いい人が。職人のようにギターを弾き口数は少なくすっと伸びた背中が男らしいあの人が。
もごもご口ごもって、常よりずっと小さな声で何度か一松の名を呼んで、でもきりりと決意を秘めた顔で一松をホテルに誘った時、まさか赤い顔を気にしていたなんて。

「かわいいかよぉ~……卑怯がすぎるんだけどマジで」

オレ達の関係性を進めてみないか。つまり、その、大人の階段を一緒に登ろう。
妙に大仰な言葉づかいも緊張のあまりだろうか。きっとそうだ。常の架羅とは少し違うけれどあれもとてもかわいかった。好きだ。堂々と誘ってきたのも格好いい。いい雰囲気になったらキスを、つーかいい雰囲気ってなんだどうやってつくるんだマスクは一応外してるけど、なんておたついている自分とはまるで違う。恥ずかしい。
でもきっと架羅も、同じくらい恥ずかしかったのだ。去り際の茹だったような顔色を思い出し一松はようやく息をついた。

「……へたれと思われてるよな~」

思われてるもなにもへたれである。なんせ一松は、交際開始から三ヵ月、未だまったく手を出せていない。
もちろんじゃんじゃんばりばり出したい。手もつなぎたいしキスしたいしあわよくば童貞ももらっていただいて、と夢はふくらむばかりだ。毎回、今日こそはと意気込んでは健全な関係を保ったまま帰路についているが。
しかしこれは仕方ないのだ。なんせ一松は好きな人とつきあった経験などない。二つ上の兄への恋心を十年以上も後生大事に抱え込んで、身動きとれなくなっていたのだ。おつきあいだデートだなんて別世界の文化、まさかこの身に降りかかってくるなんて予想もしていなかったから。
告白をして、避けられずに一緒に遊びに行けることがうれしくて。まさかオッケーがもらえるなんて思ってもみなかった。
つきあえるなんてまさかそんな。ただただ兄以外を好きになれたことがうれしくて、自分自身に宣言したかったのかもしれない。目の前のこの人が好きだ。カラ松じゃない。まるで違う。架羅が好きなんだと誰より一松自身に言いたくて。

 

この恋こそが真実だ。
兄に対するものは違う。あれは情。家族愛。
この人に抱く感情こそが恋なのだ。

 

そんな自分勝手な一松の告白を真摯に受け止め応えてくれた架羅は、いっそ神だ。時間さえ経てば物だって神様になるのだから、架羅が神でもおかしくない。少なくとも一松にとっては救いの手で。誰より愛おしい恋人、で。
あまりに神々しくまばゆいのでキスどころか手をつなぐことさえできなかった身としては、架羅からのお誘いなどうれしいやら恐れ多いやらでどうしていいかわからない。ひたすら肯いた一松を、どう思ったのだろう。童貞とばれるのは仕方がないとして、おつきあい経験すらないのは正直引かれたりしないだろうか。架羅は経験者なんだろうか。三ヵ月も経つのになにもしないなんて、と業を煮やして声をかけてくれたのか。
ああでも。
ついさっき、一松を誘った時の架羅はひどく緊張していたし照れていた。同じくらいに。
一松と同じくらい。もしかしたら一松を好きでいてくれているのだろうか。前よりもっと。ひとつ関係性を深めてもいいと思う程度に。
離れていても一松を思い出すくらいに。
ポケットをさぐってもマスクが見つからなかったので仕方なく一松は歩きだす。ああ、浮かれてる。勝手に足音がステップでも踏んでいるようだ。恥ずかしい。うれしい。好きだ。好き。あの人が好きだ。
世界はまごうことなく美しい。なんせ架羅がいる。一松の恋人の、架羅が存在しているのだから。
今なら一松は、カラ松の恋人までも祝福できるかもしれない。

 

◆◆◆

 

カラ松に恋人ができたと知ったのは、一松が架羅とつきあいだしてすぐだった。

「なるほど、とうとう一松もたった一つの愛を手に入れ大いなるラブウェイを歩む決心を固めたということだな」

不定期に開催される兄弟家飲み会にて、自慢と惚気のため口を開いた一松は次の瞬間崖から突き落とされることになる。

「奇遇だな! 実はオレもこの間ラバーができたんだ」

ひゅ、と半開きの口から声にならない息が漏れる。先程までなんやかやと一松をからかっていた兄弟の矛先がぐるりと向けを変え、質問攻めされるカラ松が遠い。水中のように、声が聞こえない。なんだ。なに。いつ。なんで。
恋人、が。
騙されてるんじゃないかだのどこでそんな物好き見つけただの目一杯驚いてケチをつけてからかって、最終的に奇跡的に心の広い恋人達への乾杯で飲み会は終了した。皆わかっているのだ。オレのことを好きだと言ってくれて、心が追いつくまで待ってくれて。ふにゃふにゃの声で心のやわらかい場所ぜんぶ明け渡したみたいな表情で、カラ松にそんなことを言わせる女の子を認めないわけにはいかないと。どれほど悔しくとも不幸を願っているわけじゃない。自分が一番をとりたかっただけで兄弟にだって幸せはきてほしい。この場合はそれはかわいい彼女だ。
一松だって理解している。そもそも先に恋人ができたと自慢したのは、これでカラ松に不穏な目を向けなくていいと喜んで宣言したのは自分だ。
恋をしているのは架羅に。
カラ松への感情は、誤動作。間違い。単に思春期にありがちな勘違いで、うっかり性的欲求を持て余して隣に寝ている人間を巻き込んだだけ。
一松が好きなのは、惚れているのは、恋愛感情を抱いているのは。唯一、架羅にだけだ。
だからこんなにショックを受けるのはおかしい。まさかこんなクソ兄に、という一点で驚いているだけ。なんて心の広い女の子が世間には居るんだ。まあ十四松の時だってとんでもなく心が広い女の子だったし、これまで遭遇しなかっただけで案外世の中にはいるのかもしれない。
そう。それだけで。

二度目のショックはカラ松の恋人が男だと判明した時だ。
あまりにしょぼくれているので珍しく愚痴でも聞いてやろうと仏心を出したのは、悪いことじゃないだろう。これまでの反省もこめ、架羅という恋人ができた一松はカラ松に優しく接しようと努力していたのだ。これまでひどく当たっていたのは家族への好意を飛び越えた感情ではないかと怯えていたせいもある。すでに天使が登場した現在、カラ松に当たりを強くする必要性などないのだから。
まさかそれで背中から撃たれるなんて予想もしまい。
なんかあるなら聞いてやるけど。隣に座った一松をまじまじと見つめたカラ松の目の大きさを、忘れないと思う。

「まだおれらだけじゃん、こ、こいび……つきあってる相手、いるの。そういう系の愚痴とかなら、まあ、同じ立場だし。他のヤツらは惚気かよってなるけどさ、その、おれは全然ないけど……そのうち、なんかあるかもだし。い、ったら、まあ楽になることもある、かもだし」

柄じゃない。なんであんなこと言ったんだ。だから今こんな風に思ってしまって。馬鹿だ。大馬鹿だ。
なんて本気なわけないじゃん嘘だよ、捨て台詞と共に腰を上げる前にカラ松の表情がパッと明るくなったからのどが干上がった。太陽かよ。おまえがうれしそうに笑ったらこっちの水分が足りないっていつから砂漠が引っ越してきたんだよ。家賃払えよクソ。

「いいのか! 頼りになるな一松」

なんて破壊力だ。
サンキュー、なんて格好をつけてサングラスをかける仕草。室内だ馬鹿。向けられる交じりっ気なしの好意。頼りになる、なんて。
これまでの一松がずっとずっとずっと欲しかったものだ。
恋愛感情じゃないと否定することに忙しくて構っていなかった、弟としての一松が。むつごとしての一松が。ただカラ松を好きな一松が欲しかった、けれど拒むしかなかった愛情。
もう今は受け取ってよいのだ。架羅を愛している自分なら。カラ松に恋などしていない一松なら、いいのだ。
きっとこれから築いていける。少し遠回りをしてしまったけれど遅いなんてことはないだろう。お互い思いあいやる兄弟としての関係を育てていけばいいのだ。

「実はマイラバーの件で……あの、相手は男なんだけどな、オレがエスコートしてもいいものか悩んでいるんだ」
「だっからなんでおまえはそう爆弾ぶっこんでくるわけ!!!??」

実際のところ男だ女だは大した問題じゃない。一松の恋人だって男だ。カラ松の恋人が男でも、兄弟がどうこう言う筋合いはない。
だから。
だけど。
ああもう、それなのに。
頼むよ幸せでいてくれよ、大馬鹿野郎。

 

 

浮かない顔をしていた。笑顔が減った。なにか考え込んではため息をついて。
あからさまなSOS。
気づいていたのに見て見ぬふりをしたのは一松だ。
いい大人だから、なにかあれば相談するだろう、誰か一人くらい事情を把握してるだろう。自分が気にかけなくとも大丈夫。これまでそうだったんだから、今回だって。
なにかあったら聞く、と勇気を振り絞ったあの日だって結局たいした話はしなかった。
愚痴くらいは、と言ったけれど浮かれていた一松は水をさされたくなかった。
だって幸せだから。一松は架羅とのバラ色の未来のことだけ考えて、恋人のいる今をかみしめたかっただけだ。それを誰に責められよう。皆そうだろう。そういうものだ。なあ、間違ってない。そうだろ。
なんでいい年した成人男性をそこまで気にかけてやる必要がある。本人が助けを求めたならいざ知らず、黙っているのだ。口を出されたくないことだってあるだろう。そうだ。おかしくなんてない。
一松は間違っていない。

「……行きたくない、なあ」

間違っていないから、重いため息と共に泣き言を吐きだして出かけていった兄の背中を黙って見送った。声などかけない。
カラ松は今日、デートと言っていた。マミー夕食は不要だぜ、と告げていたのを一松は知っている。なんせその後自分もいらないと続けたのだから。
今日は約束の日で。架羅と大人の階段を登る日で。最高に幸せで陰りなんて欠片もない、世界がおれを祝福してるぜ、なんて頭カラッポのハッピー大馬鹿野郎なら言うだろう、そんな。そういう一日になるのだ。
待ちあわせて、ちょっとCDなんて見ながらぶらついて、疲れたらお茶したりして。話題は案外困らない。バンドメンバーのこと、曲のこと、今度のライブのこと。口数の多くない架羅と心の中だけうるさい一松はきっと相性がいいのだ。そうしてこれまでなら次の約束をする時間、今日は。今日から。
真っ赤に染まった耳。おちつかなげに揺れる視線。今度は一松が口火を切ろう。架羅にばかり頼っていては情けない。一松が、自分の口できちんと。彼に。
カラ松ではない、架羅に。

「っ、あーもう!」

一松は幸せなのだ。
自分にはもう架羅がいる。兄に恋愛感情を抱いているかもしれないなんて恐怖はない。架羅がぬぐいさってくれた。あの人が好きだ。大好きだ。こうして思い出すだけで心が浮き立ち胸が温かくなる。
そしてこの幸運を余すところなく味わうには、後ろめたい気持ちが不要なのだ。
馬鹿で考えなしのクソ兄が、カラッポの頭のままお気楽に生きていてくれないと困る。そのために一松はこの感情を。いや、違うそうじゃない。これは違う。兄弟の愛情で。それだけ。それ以外なくて。だから。
待ちあわせにはまだ時間がある。別に恋人同士のなんやかやに巻き込まれたいわけじゃない。馬に蹴られて、なことわざ通り一松だって口をはさむ気はないのだ。ただまあ、ほら、弟として家族として? どんな恋人なのかなーって顔くらいは見ておきたいし。あのセラビー野郎が暗い顔してため息なんて似合わないことするとかどういうことかな、って。ちょっと。顔見て、なんなら釘さすくらいはほら、よくあるよくある。家族思いというやつだ。そう。兄が妹に、とか父親が娘に、みたいな。弟だけど同い年だし、兄弟の中で恋人がいるのは今のところ一松とカラ松だけなんだから。経験者として。うん。
少し見るだけ。
ちらっと行って、すぐ。架羅との待ちあわせに間にあうようにすれば。いや時間はまだまだあるのだ。間に合うように、なんて考えなくとも余裕。
それだけのつもりだったのに。

こっそり後をつけたカラ松が消えたのはラブホテルだった。あんな暗い顔をして。
立ち居ることなどできずじりじりと待つ一松の前に次に現れたのは、一時間は経過した後。泣きはらしたのか、腫れた目元で。
行きたくない、とため息をついていた。恋人ができたとへらへらしていたはずの馬鹿が、どうして。なぜあんな顔で声で泣きぬれて。おい。おかしい。どういうことだ。
待ちあわせすらしていなかった。少し戸惑って、けれど覚悟を決めたように一人でホテルに入りまたたった一人で出てきた。デート、と言っていただろう。一松の知っているデートはもっと、うれしくて幸せで顔が勝手ににやける、そういう。そういう、のじゃないか。少なくともあんな顔をするものではない。カラ松は馬鹿で頭カラッポの考えなしだけれど、クソむかつくどうしようもないクズだけど、それでもあんな。なあ、もっと、違うだろう。あれは。おい。
一体何のために一松はアレを諦めた。
あんな顔をしてほしくないから、なにもかもを手放すような覚悟を決めた顔をしてほしくないから、だから。
好き勝手にセラビーセラビー笑ってろよ腹立つほどに。一松の知らないところで楽しく暮らしてくれ、どうか。
だっておまえあの時あんなに幸せそうに。とろけそうな顔で笑ってたじゃないか。
おれには絶対させられない表情で。

足は意思に反して勝手に動いていた。
違う。カラ松に声なんてかけない。立ち入らない。
ただちょっと確認するだけだ。一松の兄にあんな顔をさせる男を。カラ松にあれほど愛されていた男がどの面下げてこんなことをさせるのか、興味本位。
大丈夫、架羅との待ちあわせにはまだ時間がある。少しだけ。ふらりと消えていった兄の背を追いかけて、無事を見届けるだけ。ほら、あんなにふらついた男、気をつけないとうっかり線路にでも落ちてしまいそうだから。トラックに小指を引かれた程度ならどうにでもなるが、電車に引かれたはシャレにならない。信号とか、高いビルとか。
己の上げた可能性に一松は背筋を震わせる。赤塚には古びた雑居ビルが多い。関係者です、てな顔で堂々と入れば簡単に屋上まで一直線。昔から思いきりだけはいいんだ、考えなしだから絶対後悔するくせに。
だから少し追って、大丈夫そうなことを確認するだけ。そうしたらすぐ行く。行くから。だからちょっとだけ待ってて。
架羅さん。