カラ松は個人的にイタリアが好きだ。
血縁が居るとか幼い頃に住んでいたとかじゃないが、日本の次に親近感を覚えている。まあ、まとまった休みにこうして訪れ、ついもめている少年たちの輪に首をつっこみ、流れで違法だろう薬物のやりとりを見てしまいこうしてリンチにあってしまったりしているが。
「っ、ぐ」
腹に硬い物が埋まる。靴だろうか。スニーカーならまだマシなのにこの硬さは革靴だ。しかも作りのしっかりした。
薄暗い視界は腫れたまぶたのせいで常の半分も見えないし、口の中は鉄臭い。じゃり、と舌がなにか小さくて丸いものを見つけた。小石か。吐き出すと白い欠片も一緒に飛び出る。あ、歯は大事なのに。欠けたら肉が食べにくくなってしまう。
なにやら罵られている気がするが、スラングはさっぱりわからない。一応この旅行のため勉強はしてみたが、仕事に追われてせっかく申し込んだ駅前のイタリア語教室は初回しか行けなかった。録画しておいたイタリア語講座はDVDレコーダーの中で忘れ去られる運命だろう。
「…っう、あ゛」
ぬるくて酸っぱい液体が逆流してきて耐えきれずえづく。声が大きくなったからきっとどいつかの靴にかかったんだろう。ざまあみやがれ。大人を寄ってたかって殴る蹴るするからだ。
昼に食べたピザはとっくに吐いた。ああ、ピッツァ? 観光客丸出しの発言してたらカラ松兄さんなんかすぐ囲まれて有り金盗られるんだからね、気をつけてよ。弟からもらった助言は確かに正しい。こちらから首をつっこんだから始まりは少し違うけれど。
ぐらりと揺れる視界に詰まる呼吸で、やっと、誰かが襟元をつかんでカラ松をひっぱりあげたのだとわかった。
冷たい、これは指だろうか。血と吐瀉物と涎のトリプルコンボだからあまり触らない方がいいと、カラ松は頬に添えられた手をそっとはらった。誰か知らないけれど助けてくれた親切な人、あなたが汚れるからできたら手は放してください。あと警察を呼んでもらえると助かります。ああ、イタリア語ではどう言うんだったか。
必死で脳内の辞書を探っていると、ぽつりと声が響いた。
ああ、いつの間に少年たちは逃げてしまったんだろう。狭い路地裏、古い石畳に一人転がっている異国の男。なるほど、酔っ払いだと思われているのかもしれない。それなら確かに警察は呼ばないし気軽に声をかけるだろう。カラ松もそうする。
目の前の人影から、問いかけのような声音がする。うん、ごめんなさい鼓膜が破れたのか詰め込んできたイタリア語が殴られた拍子に脳内からこぼれ落ちたのか、さっぱりわからない。大丈夫です、って伝えないと。ありがとうも。
動かない表情筋に必死に命じてなんとか笑顔を作る。作、れた? まあ気持ちは伝わっただろう。
「……ミ、ソノイニャ……? つづき、ごめ、……わかんな、くて……」
唯一知っている別れのあいさつを告げてみようとして失敗する。
感謝してるありがとうまたね、みたいな意味だよ。大切な思い出の中、赤い顔を隠すためにそっぽを向いてぶっきらぼうに告げてきた彼を思い出す。照れ屋で気分屋で感情豊かな、猫みたいな彼。似ていると笑えばまあ好きだからいいけどと珍しく大人しかったから、きっと本当にうれしかったんだ。
彼がいる国だからイタリアが好きだ。
幼い笑顔でここが好きだと言った、彼が生まれ育ち、そしてきっと今も暮らす国だから。
別れる時した約束を守るため、カラ松は刑事になった。ここが好きだ、と自分の国を愛する彼の前で胸を張るため、自分も日本が好きだと、そのために努力するんだと。会えるなんて欠片も思わない。だけど学生時代訪れ自分の将来を決めたこの地に来て、彼を思って再度約束を誓うくらいはしてもいいだろう。
「……ありが、と、……いちまつ」
優しい思い出と共にくたりと意識を失ったカラ松は知らない。
うめき声さえもあげられない状態で転がされた元少年たちが周囲に転がっていたことも。自分の襟首をひっぱり上げた男がカラ松の言葉を耳に入れたとたん目を見開いたことも。
男のまとう真っ白いスーツはここでどういった意味を持っているか。すべて。
◆◆◆
一松はたったひとつ、後悔していることがある。
どこで誰から生まれたかはこの世界において重要なことじゃない。どうやって生き抜いてきたかもどうでもいい。これからどうするか、なにを目指すか。それだけが大切だと身を持って知っているから、幼い頃から一松は相手にそれを問うことも自ら告げることもなかった。
そんな風に生きてきてしまったから、たった一匹、けれどこれは自分だけが大事にしようと決めていたかわいい仔猫を逃がしたのだ。
日本の学生だと言っていた。長期休みにあちこち旅行している、ここはいいところだからしばらく滞在する。知っているバックグラウンドなんてそれだけで、あとは、馬鹿みたいにお人好しでそこそこ喧嘩はできるくせに争い事はさほど好まず、甘党で、イタリア語はほとんど話せないくせに旅行にくるのんきさばかり目立った。そして。
「……いちまつ」
目の前に転がっている男から零れた名前。自分の。
低くて男らしいくせに、一松の名を呼ぶ時はどうしてか少し甘ったるくて優しい響きを宿すのは日本人特有かと思っていたけれどそうじゃなかった。記憶の中のかわいい仔猫だけがする発音で、さほど知られていない名前を。どうして。
理由はとっくに理解できていながら、もう一度一松は胸中で繰り返した。なんで。
だって、これが夢じゃ立ち直れない。でも。殴られ汚れた顔は見覚えあるものだろうか。髪は。身体は。匂いは。
「カラ松」
あんたの傍がいいと、ここが好きだと。まるで初心な学生のように胸を高鳴らせて告げた言葉に笑った彼だろうか、この男は。
受け入れられたと、俺のものになったと確信したとたんに逃げてしまったひどい男だ。こいつは。
「Mi sono innamorato di te」
おまえに恋をしたと告げただろう。あいさつみたいなものだと誤魔化して、幾度も告げた。今となれば鼻で笑ってしまうような幼いそれ。さっき、おまえの口が動いたのは、告げようとしたのは。俺の教えた、あの。
「はじめまして、ぼくはいちまつ。……だったか」
なにひとつ生み出さない生産性のない過去、優しいばかりのひどい男が教えてくれた日本語を思い出す。一松はちょっと初対面で顔がこわばるから優しい感じでな、そうした方が友達になりやすいだろ皆と。そんなこと一度も望んでいないのに勝手に気を回していた愚かな仔猫。
後悔は、一度だけで充分だ。
「はじめまして、ね。はじめまして。うん、おまえが去ってから俺も結構がんばったよカラ松」
あの頃は逃げられても探せなかった。ただのチンピラではできることなどなにひとつ。
「……もう一度ちゃんとあいさつするから、今度は逃げるなよ」
逃げてももう逃がさないけれど。
今ならイタリア中をすぐさま探索しつくせる力をつけた一松は、祈りのようにするりと男の頬に手を滑らせた。さきほど拒まれた手の分も、これまで触れられなかった分も。