双頭の蛇

会って話したいから時間をつくってほしい、という求めに男は口を歪ませた。
伝言を預かってきた部下は腹の立つほど女ウケのいい顔をピクリとも動かさず、よろしいですかと問いかけてくる。なるほど、相当の自信があるらしい。女を落としてこいと命令した時には困惑した顔をしていたが、あちらを裏切る程度に篭絡したなら一度会ってみてもいいかもしれない。
なんせ相手は、あの石神千空が殊の外入れ込んでいると噂の愛人だ。興味がないと言えば嘘になる。所詮愛人、たいした情報は持っていないだろうがゼロではないだろう。そうだ、どうせなら自分の愛人にするのも手だ。寵愛するつもりはないが、奴の目の前で連れて歩いてやればどれほど悔しがるだろう。
想像でにんまり口角を上げた男は、機嫌よく部下に了承を与えた。

「日時は後日、こちらから指定しよう。ああそうだ、お前にもなにか褒美をやろうか」

顔がいいだけのひょろい若造がまとめているファミリーなど笑わせる。どうせボスの地位とて尻で獲ったに違いない。吹けば飛ぶようなあんなガキと取引する者などいないだろう。そう馬鹿にしていた相手に大口の契約先を奪われ、面子を潰されたのだ。全面抗争はボスに止められた手前、正面切って叩き潰すわけにはいかない。愛人を寝取る程度ですますこちらの心の広さに感謝してほしいくらいだ。
命令通り、石神千空の愛人を寝取った部下を労われば珍しく何か言いよどむ。珍しい。女にモテるのを鼻にかけた、態度の大きい小悪党であったはずだ。こんな思いつめた目をしていただろうか。

「遠慮するな。金か、それともバカンスか?」

出入りの香水屋に紛れ込み潜入していた身を思いやって、男はあえて明るく提案してやった。女に尾を振って懐に入り込むなどという、情けないうえに面倒な仕事をこなしたのだ。少々の小遣いくらい当然のこと。懐の大きい上司として部下を気に掛けるのも仕事のうちだ。
しかし香水屋とは! マフィアの贔屓の業者が香水屋!!
宝石なら売れば金になるから理解もできるが、消えてなくなる匂いなどに金を使うなど男には意味が分からない。愛人のためといえ、馬鹿馬鹿しいにも程がある。これは相当入れ込んでいるのだろう。ああ、あの無駄に整った顔が嫉妬で歪む表情を早く見たい。

「いや、バカンスの前に紹介してもらわないとな。あの石神よりお前を選んだ賢明な女性を」

所詮金に釣られた商売女だったのだろう。そんな女に入れ込んでいたなど、こうなってみればあの若造も哀れなものだ。

「何を暗い顔をしている。別に責められる謂れはないだろう、彼女とて顔だけの男より頼りがいのある男がいいさ。あんなひょろひょろした吹けば飛ぶような若造が偉そうにふんぞり返っているのが間違っているんだ」
「そうだね。確かに顔だけの男は勘弁かなぁ」

機嫌よく部下を励ましてやっていれば、歌うような声が割り込んできた。
銃を手に思わず立ち上がれば、お出迎えありがと、などとまるで場に沿わぬ軽い声音。

「ゲンさん! 俺が迎えに行くまで待っててくださいってお願いしてたのに」
「メンゴね。早く会いたくなっちゃって」
「そ、んなの俺もです! 早くあなたを助けたくて俺は!!」

音もなく部屋に滑り込んできた人影は、部下を盾にするように立ちこちらに微笑んだ。銃など持っていない、とばかりに両手をひらひら顔の横で振っている。
細い体躯を強調するような、身体にピタリと沿ったチャイナ服。豪奢な刺繍も宝石で飾られているわけでもない、襟元や袖に金糸があるだけ。男の好みからは外れた貧相な様だというのに、その男が着ているというだけでひどく素晴らしいものに見えた。馬鹿馬鹿しい。
知っている。スーツであろうとドレスであろうと、何を身にまとっても舞台の真ん中で主役のような顔をする男。よく回る口と奸計で相手を嵌める、静かに忍び寄る蛇のようだと称された。
石神千空の隣でのみ輝きを抑えスポットライトを譲るこの男こそが。

「……石神千空の愛人、をこちらに招く予定だったんだがね。どうしてキミが? あさぎりゲン」
「ジーマーで? 俺に招待状が届いたんだけど」

腹が煮えくり返る。契約をかっさらった時もこんな顔をして笑ったに違いない。にんまりと口角を上げる人相の悪い顔を、部下がうっとり眺めているのが気に障る。ふざけるな、なんだその顔は。気合を入れろ。こいつは敵の幹部だ、叩きのめせ。
招待状呼ばわりされた役立たずの部下を指し、こちらの彼がさぁと男は無邪気に笑った。

「俺のお気に入りの香水屋さん脅してまで会いに来てくれちゃうから、あまりの熱烈さにびっくりしちゃった。しかも何回も。そんなにラブコールされたらこちらとしてもファンサービスしないとね」
「なるほど、香水はキミの趣味か。確かに下水の臭いは我慢ならない、無駄に金をかけたくもなるだろうね」
「わかる? ジーマーで厄介だよねぇ、プライドだけバカ高くて過去の栄光に囚われてる老害ってほんと臭いんだもん」

ね、と同意を求められた部下が頷いている。
あれはダメだ。切り捨てるしかない。あの蛇のような男を正しく評価した時こちらに怒りを向けていた。すでに取り込まれているのだ。いつから。いや、そんなことを今考えても仕方ない。愚かにも奴らは手ぶらだ。抗争は禁じられているが蛇の一匹や二匹駆除するのは責められないだろう。

「一応ね、敬老精神はあるんだよ俺も。うちのボスを舐めない程度の知性がある相手には」

銃を持った手を動かした途端、どこから取り出したのか腕にナイフが刺さった。
おもちゃのようなナイフだ。小さく、チャチな。振りかざしてもまるで恐ろしくないそれは、飛来することによってひどく強力な武器となる。
いったいどこから、と考えてから意味がないことに舌打ちした。どこにでも隠せる大きさだ。おそらく、まだ持っているのだろう。
男の盾になるはずだった部下は動きもせず、血の流れる腕に羨望のまなざしを向けている。

「あなたの手を煩わせなくとも、俺に命じてくれたら……」
「だって怒ってたんだよ、俺。でもありがとうね」
「いえ! あなたのためならなんだって! ……ゲンさん、あなたにこんなことさせる男なんかより俺の方がずっと」

場違いな部下の言葉は、再度開いた扉によってさえぎられた。

「そこまでだ」

潜む気もない足音は先ほどから響いていた。ただ部下が気づかなかっただけ。ああ、あの間抜けはマフィアであることさえも忘れて目の前の蛇に魅入られてしまっている。
自宅のような気軽さで扉を開いたのは、石神千空、その男でしかなかった。

「急な来客が多すぎるな。アポイントメントを取ることを知らないのか、最近の若造は」
「悪いな、こちとら囚われの恋人様を迎えに来ただけだ。すぐ帰るから大目に見てくれ」
「千空ちゃん! 俺、お出かけしてくるねって伝言しといたけど?」
「こないだ契約かっさらって沽券ぶっ潰したマフィア幹部の別宅に潜入してきた手下と、までご丁寧にな。迎えに来てくれ、っつーことだろ」
「さっすが、大正解百億万てーん!」

現れた瞬間からその場の中心になる、腹立たしいほど存在感だけはある男だ。目を白黒させている部下は何もわかっていないのだろう、己を目の端にも入れない恋しい相手に戸惑っている。哀れな、と思ってやる程度の余裕はまだあった。ああ、若すぎた、愚かすぎた。この馬鹿はもうだめだ。今この状況でまだわかっていないなど。

「ゲンさん」

せめて引導を渡してやろうと温情をかけたが、男のものより先に石神の銃が火を吹いていた。

「気軽に呼ぶな。許してねえぞ」
「いいじゃん名前くらい。他にも呼ぶ子いっぱい居るのに」
「テメーに惚れてる奴はダメだ」

手を撃ち抜かれ痛みに呻く人間を横にする会話ではない。
コツコツと軽い音をたてながら、石神がこちらに歩み寄る。血や泥で汚れるわけがないと自身の実力を過信しているのだろう、白いスーツまでもが腹立たしい。

「なあ、あんた」

蛇に似た、血のように赤い目がまっすぐ男を射抜いた。

「これはどこからどう見ても痴情のもつれってやつだよな。恋人に手を出された俺が嫉妬のあまりこいつを撃った」
「ふざけるな! 部下を撃たれたんだ、これはそちらからの宣戦布告と取る!!」
「へぇ、そりゃ困った」
「このナイフを見ろ! 貴様の部下がしたことだ、なかったことにするなら相応のものを用意するんだな」

だって千空ちゃんの悪口言うんだもん、メンゴ! まるで悪いと思っていない口調に男の憤りが増す。そんなことで。たったそれだけのことでなぜ刺されなければならない。

「おーおー、結構血ぃ出てんじゃねえか。おら、安静に横になってな」

机を支えになんとか立っていた足を蹴り飛ばされ、転がった体をナイフで床に縫い留められる。

「ゲン、手ぇ出すなって」
「出してない出してない、振っただけ」
「ったく……テメー、案外このオッサン気に入ってんな?」

ふざけた事を抜かしながら石神は、先程まで男が座っていた椅子に腰掛けた。まるで最初から部屋の主であるかのように自然に。
惨めに床に這いつくばっている男を悠々と見つめ、繰り返す。

「これはただの痴情のもつれだ。オッサン、痴話喧嘩に巻き込まれたのか他人の恋人に手ぇ出して反撃されたのか、どっちが好みだ?」
「こんな男に手を出すわけがないだろう!」

あまりの侮辱に声を荒げれば、最初は皆そう言うんだよと呆れ声が返る。銃で鷹揚に示された、未だ縋るようにあさぎりを見つめる部下。石神が現れてから視線のひとつも与えられていないというのに、撃たれた痛みをおしてまでの執着。まるで魔性に魅入られたかのような。

「痴話喧嘩なんてしてないし、こんなのに手も出されてないんですけど~。ゴイスー不満」
「こんなの、をテメーが珍しく気にしてるから妬いてんだよ」
「え~。だって千空ちゃんの悪口いっぱい言ってたんだもん。腹も立つでしょ。でも抗争とか好きじゃないし、戦争より花だし? ちょっと契約先横取りするくらいで我慢してたのにさぁ」
「悪口!? 事実だろう! そもそもたったそれくらいのことで」

頬をかすめるナイフに男がぐっと口をつぐめば、そうだなと石神が賛同する。
男が口を開けばすぐさま投げるつもりなのだろう、ナイフを指先に挟んだままのあさぎりの腰を引きよせ膝の上に座らせた。いつでも殺せるという余裕か、甘くみられたものだ。

「顔だけの男でも吹けば飛ぶようなひょろひょろの情けない男でもなんでもいいぜ、俺は。体力自慢じゃねえことは事実だ」
「千空ちゃんは頭だけの男じゃん! 吹かれても飛んでかないように俺がずっと膝に乗って重しになっちゃうし~」
「頭だけかよ」
「うそうそ、身体もゴイスー俺好みだよ♡ 大愛してる♡」

目の前で繰り広げられる会話に、男は目を瞬かせた。ボスとその片腕というには近すぎる距離、親しすぎる会話。
石神千空が入れ込んでいる愛人。気に入りの香水屋を頻繁に呼び、奪われることを恐れて人前には連れず、屋敷に囲い込んでいる掌中の珠。
なんということだ。常に隣に控えているこの男がまさか。

「全面抗争がご希望なら、今この場から開始するが?」
「仮にも幹部がさ、部下に裏切られたと誤解して仲間を殺したなんてことになったら……ファミリーの信頼関係、崩れちゃいそうだよねぇ」

一つの椅子に腰かけながらひどく楽し気に嗤うその姿は、双頭の蛇にどこか似ていた。